夜をまとう魔術師

牛乳紅茶

17 魔術師の住処

薄暗い路地裏の風景ががらりと変わった。
そこは背の高い木々が生い茂る森の中。
暖かい風に木葉がそよぐ。枝の隙間からは金色の陽光が射し、辺りを明るく照らしていた。

「気持ち悪い……」

トゥリカは口元を両手で覆って、緑の地面に膝をついた。
頭はくらくらするし、絶えず吐き気に襲われる。
身体の中を棒かなにかで直接かき回されたような、そんな感覚だった。
出来る限りゆっくりと呼吸して気持ちを落ち着けようとしたのだが、すっと息を吸い込んだ瞬間に意志に反して嘔吐いてしまった。
反射的に視界が涙で滲む。

「大丈夫? 初めてだったからちょっと酔っちゃったみたいだね。一応、初心者向けの移動魔法にしたんだけどなあ」
(ちょっとじゃないわ!)

申し訳なさそうに言い背中をさすってくるテオを、トゥリカは涙目のままきつく睨み、心の中で毒づいた。

「吐いちゃった方が少しは楽になるよ」

トゥリカはテオの言葉に対して、小さくかぶりを振った。
吐こうにも、昨日の夕食のあとからなにも口にしていない。出てきそうなものはなかった。

「んー。これじゃ立って歩くのも無理か」

うん、とテオが一つ頷き、トゥリカの傍らに片膝を折った。

「え? なっ!」

ぐらりと視界が回ったかと思うと、トゥリカはテオに横抱きにされていた。
背中と膝裏に触れる意外と逞しい腕の感触にトゥリカはうろたえる。
どうにか下ろしてもらおうと手足をばたつかせるが、テオはびくともしなかった。

「お姫様っていうのはおとなしく抱っこされるものだよ」
「ふ、ふざけないで! 歩けるわ!」
「そんな血の気の引いた顔で言われても説得力はないな」

テオはそう言い、半ば無理矢理にトゥリカの頭にぐっと胸を押しつけてきた。
密着した不本意な状態に、トゥリカは抗議の声を上げようとしたのだが、テオのローブから、なぜか懐かしい匂いを感じて口を閉ざした。

(もっとカビ臭いのを想像してたのに……)

ほんのりと火照った頬を隠すため、トゥリカは首をすくめてうつむいた。
テオの顔を見ることがどうしても出来なくて、かわりに辺りの様子に視線を泳がせる。
木々が整然と立ち並ぶ場所から十歩ほど先はひらけた場所になっていた。
そこに天高くそびえ建つ塔と大きな屋敷が一軒建っている。
ぐるりと視線を巡らせれば、塔と屋敷を中心に丁度円形の空き地になっているようだ。

「ここがあなたの暮らしている場所なの?」
「そうだよ」

頭上からテオの肯定の声が聞こえ、トゥリカは目の前の塔と屋敷の方に視線を戻した。
高い塔の天辺を見上げようとすると、鮮やかな青空が目に痛いくらいだ。
太陽が随分と高く昇っているのを見て、時間の経過を感じた。
自分の部屋の窓から見た塔の雰囲気とは全く違う。
他の場所のことまではわからないが、塔や屋敷の周りはとても手入れが行き届いており、燦々と降り注ぐ陽光に照らされてとても明るい。
魔術師の住処というのは、もっと陰鬱でじめじめとしているものだと思っていたトゥリカにとって、とても意外な発見であった。

「フランツ。開けてもらえるかな?」

テオはトゥリカを抱えたまま、屋敷の玄関扉をどんどんと二回叩いた――正確には両手がふさがっているため、足で蹴ったようだ。

「おかえり――うわっ、女連れだ」

扉が開き、亜麻色の髪を肩の辺りで散らした青年が顔を出した。
まさかテオの他に誰かがいるとは思ってもいなかったトゥリカは、驚きにただ目を見張る。
歳は二十歳前後だろうか。なかなかの美丈夫だ。
青年はテオを見たあと、トゥリカを見て目を丸くし、そのままじっとトゥリカを物珍しいものでも見たかのように凝視する。

「もう気分は治ったから下ろして」

青年の視線に耐えられなくなり、トゥリカはテオを見上げた。
目が合ったテオはわずかに片眉を上げたあと、仕方ないと言いたげにトゥリカを床に下ろした。

「フランツ。もう少し言い方ってものがあるんじゃないかな? 君のおかげで彼女が機嫌を損ねただろ」
「私は別に……」
「だって、あんたが誰かを連れてくるなんて今までなかったからびっくりしてさ。しかも女の子だし。あんたも一応フツーの男だったんだな。なんか安心した」

フランツと呼ばれた青年はそう言って、うんうんと一人で頷いた。

(なんなのかしら? この人)

トゥリカはフランツをいぶかしく見たあと、答えを求めてテオへと視線を投げた。
しかし、テオは悠長に玄関扉を閉めていた。振り返ってトゥリカの視線に気づいたあとも、軽く肩をすくめるだけだ。
あまりにも無関心な態度を示され、トゥリカはなんだか腹が立ってくる。
自分は、魔術師の屋敷になごみに来たわけではない。

(自力で来たわけではないけれど……)

結果的にテオに助けられてしまった事実を思い出して、トゥリカはしゅんと肩を落とした。
こんなことでティルダを救うことなど本当に出来るのだろうか、と不安になる。
と、そのときだ。
ふわり、と顔を隠していたベールがめくられた。
明るくなったトゥリカの視界に、フランツの顔が近づく。
水面の輝きを思わせる碧い瞳と視線がかち合い、トゥリカはぎょっとした。

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