夜をまとう魔術師

牛乳紅茶

14 王の後悔

ダグマルはすぐに顔を上げ声がした方を見る。すると、露台へと続く大窓の前に全身黒ずくめの男が一人立っていた。
塔の魔術師だ。
すぐさまアヒムが動く。腰に下げていた剣を引き抜き斬りかかろうとするが、魔術師は両手を高く掲げくつくつと喉の奥から笑い声を漏らした。

「あの騎士殿と同じ目にあいたいならどうぞ? 用が済んだらすぐに帰るから老いぼれは無理しない方がいいよ」

そう言った魔術師の両の手の前には複雑な紋様の魔法陣が光を放ちながら浮かび上がっており、アヒムは悔しげに剣を降ろした。
アヒムの態度に魔術師は満足げに微笑み、ダグマルへと視線を向ける。

「やあ、国王陛下。気持ちが変わったか確認しに来たんだけど、先ほどの様子じゃ契約を守る気にはなってないみたいだね?」
「トゥリカをどうするつもりなのか先に答えてもらう。契約の話しはそのあとだ」
「――彼女はきちんと保護するつもりだよ。そちらの返答次第ではね」

挑発的な言葉とは対照的な清廉な笑みを浮かべた魔術師に、ダグマルはきつく奥歯を噛みしめる。

「契約を守ればティルダを元に戻し、トゥリカも無事に返してくれるということだな?」
「もちろんだよ。悩むようなことじゃない。簡単なことだ」
「陛下っ! 魔術師の言いなりになってはいけません! そんなことをしたらティルダ様の魂はその者によって穢され、死後天にも昇れず永遠にさまようことになるんですよ!」
「部外者は黙ってろ。これは僕と彼の問題だ。――契約を破っただけでなく他の者にまで話していたとはね。まったく呆れるよ」

アヒムを睨みつけて黙らせた後、魔術師はふんと鼻を鳴らして顎をしゃくった。

「さあ、どうする?」
「……今からでも契約の内容を変えることは出来ないのか?」

ダグマルが質問を重ねると、魔術師は長いため息を吐き出し大げさに肩をすくめた。

「随分とくだらない質問だね。契約を交わしたあの日、僕は出来る限りの譲歩をしてあげたんだ。君たちはその条件に納得したはずだったよね? それを今更変えるだって? ふざけるのも大概にして欲しいな。僕は無償奉仕をしてるわけじゃない。これ以上、君の要望に応える気はないよ」

十七年前。ダグマルとその妻イルゼが塔の魔術師と交わした契約の内容は、病弱なトゥリカの身体を治す代わりに二人の間に次の子が生まれたらその子の魂を差し出すというものだった。

生まれたばかりの娘を救うためとはいえ、まだ見ぬ我が子の命を犠牲には出来ないとダグマルは一度は断った。しかし、魔術師は新たな条件を出して来た。

魂をもらうのははその子供が寿命をまっとうしたあとでいい。ただし、死を迎えた者の魂を抜くにはその者が純潔でなければならない。

魔術師はそう言葉を続けたのだ。

悩んだ末、ダグマルは魔術師の提示した条件を呑んだ。
そのときは、長いこと待ち望んでようやく生まれてきた娘の命を救うことで頭がいっぱいだった。青白い顔をして苦しげな呼吸を繰り返す毎日を終わらせてやれるのならば、難しいことではないと思ったのだ。
事実、魔術師の腕に偽りはなくトゥリカは見違えるように健康になった。
翌年ティルダが生まれたが魔術師の言っていたことなどほとんど忘れてしまっていた。

それからの十年余り、心から幸せだと言える年月であった。
このまま年老いていきいつかはトゥリカに王位を譲り、自分は美しい妻とともに穏やかに余生を過ごす。そう信じてやまなかった。
しかし、そんなある日、ティルダが愛おしそうに一人の青年を見ていることに気づいてしまった。

そのときになって初めて、ダグマルは自分の決断を後悔した。
愛しい者と添い遂げることも出来ない生涯が幸せと言えるだろうか?
慕う者が何人いようとも愛した者と結ばれることはない。独りで一生を終え、死したあともその魂は魔術師の手に落ちる。

大切な娘に背負わせたものはダグマルが最初に考えていたよりもずっと重いものだったのだ。

「二人とも大切な娘なんだ。金貨でも宝石でも他の物ならなんだって用意する。だから、どうかティルダの結婚のことは目をつぶってはくれないか? 頼む……」

一国の主としてではなくただの親としてダグマルは懇願した。
しかし、返ってきた魔術師の言葉はダグマルの希望を叶えるものではなかった。

「僕はあのお姫様に自分の命とも言えるものを与えたんだ。それを金貨や宝石なんかで代用できるとでも?」

鼓膜を震わせた魔術師の声音は穏やかなものであったが、顔を上げたダグマルが見た先の彼の瞳には静かな怒りがたたえられていた。

「五日間だ……」

そう言った魔術師には拒むことなど許さないという迫力があった。
ダグマルは背筋がぞくりとする感覚を味わいながら魔術師の次の言葉を待った。
ただ立っているだけだというのに、身体中からは嫌な汗が吹き出し衣服がじっとりと肌に張り付く。今、自分は目の前の男に恐怖しているのだ。
無害そうな若者に見えるのはその外見だけだ。相手は十七年前に初めて会ったときとほとんど変わらぬ姿を保つ人あらざる者なのだ。敵うわけがない。

「待てるのはあと五日。その間、第一王女はこちらで預かる。もちろん丁重にもてなすつもりだ。だけど、期限までに結婚を取りやめなかった場合は過去の契約をなかったことにする」
「…………どういうことだ?」
「そのままの意味だよ。第一王女に与えたものは返してもらう。生まれ持った本来の体質に戻た彼女が今までと同じ行動を取ったらどうなるか……。答えは、わかるよね?」

魔術師の言葉を聞いた瞬間、ダグマルは自分の足下がぐらりと揺れた気がした。
医者から一歳の誕生日を迎えることは出来ないと言われたトゥリカだ。結果は容易に想像できる。第一、そんな急激な変化に肉体が耐えられるわけがない。

「や、やめてくれっ! 魂が必要ならば、私のを今すぐ差し出す。だからっ――」
「悪いけど、術を施した者――つまり第一王女よりもあとに生まれた近親者の魂じゃなければ意味がない。僕が欲しいのは役に立たない魂じゃない」

ダグマルが駆け寄ろうとした瞬間、魔術師は身を翻した。

「少しのんびりし過ぎたな。もう行くよ。お姫様を迎えに行かなきゃいけないからね」

魔術師がにっこりと笑ってそう言った直後、室内が眩い光に包まれた。ティルダの居室で見た光景と同じだ。
案の定、光が消えたときには魔術師の姿もなくなっていた。
ダグマルがその場に膝をつくのと同時、

「陛下。私がティルダ様の結婚を勧めなければこんなことには……」

アヒムの悔しげな声が室内に響いた。

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