夜をまとう魔術師
12 近づく危険
その日の朝、テオは目覚めてすぐ身支度を済ませると水がいっぱいに張られた銀製の水盤の前に立った。
これは彼の朝の日課なのだ。
テオは水盤を覗き込み、その水面に円を描くように指を滑らせた。
波紋の広がりに合わせて、水に徐々に色がつき始める。
「っ!」
水面に映し出されたものを見た途端、テオは短く息を呑んだ。
水盤を通して、色取り取りの布の巻物が大量に置かれた狭い場所で身体を縮めて眠っているトゥリカの姿を見たからだ。
「まったく……。随分とじゃじゃ馬なお姫様だね」
テオはため息とともにそう吐き出し、微苦笑を浮かべた。
どういった目的があってトゥリカが王宮以外の場所にいるのかは大体想像がついた。
彼女の目指している先は自分の居るこの塔なのだろう。
予想外な行動に出てきたトゥリカの寝顔を水面越しに束の間眺めたあと、テオはもう一度水面を撫でた。
浮かび上がっていた映像が消え、水が本来の透明さを取り戻す。
「さて、どうしようか……」
テオは水盤から離れ室内を見回した。
寝台と書棚と机以外これといった調度品のない部屋。最低限、寝るに困らなければいいという程度のものだ。一番高価な物は? と訊ねられたら、先ほどの水盤と答えるだろう。
ここはテオが暮らす屋敷で、塔のすぐ下に建てられている。
塔の魔術師と名乗ってはいるが実際は普通の人間と変わらぬ生活環境だ。塔に入るのは規模が大きい魔術を施すときだけである。失敗した場合、屋敷の中でやるよりも被害が少ないためだ。
「とてもじゃないけどお姫様を迎えられるところじゃないね、これは」
テオはそう独りごちながらパチンと指を鳴らした。
窓という窓の、閉じられていた窓掛けが一斉に開き部屋の中に朝日が注がれる。
テオは眩しさに顔をしかめつつも、今度は空中で軽く手を振った。
直後、ばさりと書棚から本が一冊床に落ちたため、短く舌を打った。
本当は書棚のそばの椅子にかけてある漆黒のローブを取るつもりだったのだ。
しぶしぶ本を元の場所にしまい、手を伸ばしてローブを取った。
「やれやれ。僕も老いたかな」
呟きながらローブの袖に腕を通し、テオは上機嫌で部屋を出て行った。
* * *
ガタン、という音とともにトゥリカは額をどこかにぶつけ、その衝撃で目を覚ました。
「ったあ……」
額を撫でながら、まぶたを上げると途端視界が眩しい光に襲われた。
(朝……?)
トゥリカはまだ眠気の残る目元をこすって周囲を見回した。
馬車は止まっている。
明るい光が幌を透かして見えることから考えて、どうやら夜は明けているようだ。
しかし、これだけでは宮殿を出たのか出ていないのか判断に困った。
トゥリカが状況を把握しようとしているところに、男の野太い声が聞こえてくる。
「おかえりなさいませ。旦那様」
「先に腹ごしらえだ。お前らそっちの荷はあとでかまわないぞ」
「はい」
「こちらに乗せてあるのは倉庫に持っていくんですよね?」
「おう」
どうやら生地屋の者たちの声らしい。
(まだ出発してないのかしら? それとも都に着いた?)
トゥリカは小さく身体を丸めて耳を澄ました。
男たちの声は馬車から離れていったのかだんだんと小さくなっていき、それからしばらくして完全に聞こえなくなった。
(もう大丈夫かしら?)
のそのそと生地の山から這い出て、ほんの少しだけ幌を開いて外を覗いてみる。
「っ!」
トゥリカは短く息を呑み、素早く辺りを観察し人影がないのを見てから馬車から飛び降りた。
目の前に広がった景色は見慣れた宮殿内のものではなかった。
広い石畳の道が長く延び、その両脇には煉瓦造りの建物が建ち並んでいる。店らしき建物はなく、どの家の木戸も固く閉ざされているところからこの辺りは移住区にあたるのだろう。
辺りには焼きたてのパンだろうか芳ばしい薫りが漂っており、微かにざわめきらしきものが聞こえてきて人々が生活しているということが伝わってきた。
宮殿の雰囲気とは全く違う都の空気に思わず頬の筋肉が緩んだ。
「よかった。ちゃんと都に来たのね、私……」
誰にともなく呟き、自分が進むべき方向を見定めようと首を伸ばした。すると、ずっと先に人々が往来する大通りらしきものが見える。
とりあえず誰かに道を尋ねようと大通りの方へ向かって歩き出した。
と、丁度そこへ前方から男が三人やってくるのが見えた。
「あの、すみません」
トゥリカは大きく声をかけ男たちに駆け寄った。
「東の街道に出たいのですが、道を教えてはいただけませんか?」
トゥリカがそう訊ねると、三人の内二人が驚いたように少しだけ目を丸くした。
一人は狐のように目尻がつり上がった男で、もう一人は魚に似た口の小さな男だ。微動だにしなかった男は、トゥリカの数倍はあろうかという大男である。
「お嬢さん、東の街道を一人で行くつもりか?」
狐目の男が渋い顔をして言った。そのあとに続けて魚顔の男が口を開く。
「あそこは途中で森の横を通るだろう。一人で行くならやめておいた方がいい。恐ろしい魔術師が出るらしいからよ。どこに行くのか知らないが、東方面に行くなら北の街道から大きく迂回して行った方がいいぞ。なんなら途中まで一緒に行ってやってもいいぜ」
トゥリカは男たちの言わんとしていることを理解したが、首を横に振った。
「だ、大丈夫です。連れとはぐれてしまって……。東門で落ち合う約束なんです」
適当な偽りを告げたあと、トゥリカは腰に下げていた小袋の中から金貨を三枚取り出した。
「お礼はさせていただきます。東門まで連れて行ってはもらえないでしょうか? お願いします。急いでいるんです」
狐目の男の手に金貨を握らせ、トゥリカは深く頭を下げた。
途端、男たちが沈黙する。
なにか間違った態度を取ってしまっただろうか? とトゥリカは不安になり、そっと顔を上げて男たちを見た。
男たちは一様に呆然とした様子で、狐目の男の手の平を見つめていた。
「あの……。駄目ですか?」
「お、おう。東門だな。急いでるんなら裏道を案内してやるよ」
狐目の男は我に返る様子で頷くと、手にしていた金貨の内一枚を懐にしまい、残りの二枚をそれぞれ他の男たちに手渡した。
「ありがとうございますっ」
トゥリカは案内してもらえることに喜び、再び頭を下げる。
「さ、こっちだ。大通りに出るよりも早く着けるはずだ」
狐目の男と魚顔の男が建物と建物の間に細く伸びる路地を示した。
トゥリカは言われるまま、男たちのあとについていった。
これは彼の朝の日課なのだ。
テオは水盤を覗き込み、その水面に円を描くように指を滑らせた。
波紋の広がりに合わせて、水に徐々に色がつき始める。
「っ!」
水面に映し出されたものを見た途端、テオは短く息を呑んだ。
水盤を通して、色取り取りの布の巻物が大量に置かれた狭い場所で身体を縮めて眠っているトゥリカの姿を見たからだ。
「まったく……。随分とじゃじゃ馬なお姫様だね」
テオはため息とともにそう吐き出し、微苦笑を浮かべた。
どういった目的があってトゥリカが王宮以外の場所にいるのかは大体想像がついた。
彼女の目指している先は自分の居るこの塔なのだろう。
予想外な行動に出てきたトゥリカの寝顔を水面越しに束の間眺めたあと、テオはもう一度水面を撫でた。
浮かび上がっていた映像が消え、水が本来の透明さを取り戻す。
「さて、どうしようか……」
テオは水盤から離れ室内を見回した。
寝台と書棚と机以外これといった調度品のない部屋。最低限、寝るに困らなければいいという程度のものだ。一番高価な物は? と訊ねられたら、先ほどの水盤と答えるだろう。
ここはテオが暮らす屋敷で、塔のすぐ下に建てられている。
塔の魔術師と名乗ってはいるが実際は普通の人間と変わらぬ生活環境だ。塔に入るのは規模が大きい魔術を施すときだけである。失敗した場合、屋敷の中でやるよりも被害が少ないためだ。
「とてもじゃないけどお姫様を迎えられるところじゃないね、これは」
テオはそう独りごちながらパチンと指を鳴らした。
窓という窓の、閉じられていた窓掛けが一斉に開き部屋の中に朝日が注がれる。
テオは眩しさに顔をしかめつつも、今度は空中で軽く手を振った。
直後、ばさりと書棚から本が一冊床に落ちたため、短く舌を打った。
本当は書棚のそばの椅子にかけてある漆黒のローブを取るつもりだったのだ。
しぶしぶ本を元の場所にしまい、手を伸ばしてローブを取った。
「やれやれ。僕も老いたかな」
呟きながらローブの袖に腕を通し、テオは上機嫌で部屋を出て行った。
* * *
ガタン、という音とともにトゥリカは額をどこかにぶつけ、その衝撃で目を覚ました。
「ったあ……」
額を撫でながら、まぶたを上げると途端視界が眩しい光に襲われた。
(朝……?)
トゥリカはまだ眠気の残る目元をこすって周囲を見回した。
馬車は止まっている。
明るい光が幌を透かして見えることから考えて、どうやら夜は明けているようだ。
しかし、これだけでは宮殿を出たのか出ていないのか判断に困った。
トゥリカが状況を把握しようとしているところに、男の野太い声が聞こえてくる。
「おかえりなさいませ。旦那様」
「先に腹ごしらえだ。お前らそっちの荷はあとでかまわないぞ」
「はい」
「こちらに乗せてあるのは倉庫に持っていくんですよね?」
「おう」
どうやら生地屋の者たちの声らしい。
(まだ出発してないのかしら? それとも都に着いた?)
トゥリカは小さく身体を丸めて耳を澄ました。
男たちの声は馬車から離れていったのかだんだんと小さくなっていき、それからしばらくして完全に聞こえなくなった。
(もう大丈夫かしら?)
のそのそと生地の山から這い出て、ほんの少しだけ幌を開いて外を覗いてみる。
「っ!」
トゥリカは短く息を呑み、素早く辺りを観察し人影がないのを見てから馬車から飛び降りた。
目の前に広がった景色は見慣れた宮殿内のものではなかった。
広い石畳の道が長く延び、その両脇には煉瓦造りの建物が建ち並んでいる。店らしき建物はなく、どの家の木戸も固く閉ざされているところからこの辺りは移住区にあたるのだろう。
辺りには焼きたてのパンだろうか芳ばしい薫りが漂っており、微かにざわめきらしきものが聞こえてきて人々が生活しているということが伝わってきた。
宮殿の雰囲気とは全く違う都の空気に思わず頬の筋肉が緩んだ。
「よかった。ちゃんと都に来たのね、私……」
誰にともなく呟き、自分が進むべき方向を見定めようと首を伸ばした。すると、ずっと先に人々が往来する大通りらしきものが見える。
とりあえず誰かに道を尋ねようと大通りの方へ向かって歩き出した。
と、丁度そこへ前方から男が三人やってくるのが見えた。
「あの、すみません」
トゥリカは大きく声をかけ男たちに駆け寄った。
「東の街道に出たいのですが、道を教えてはいただけませんか?」
トゥリカがそう訊ねると、三人の内二人が驚いたように少しだけ目を丸くした。
一人は狐のように目尻がつり上がった男で、もう一人は魚に似た口の小さな男だ。微動だにしなかった男は、トゥリカの数倍はあろうかという大男である。
「お嬢さん、東の街道を一人で行くつもりか?」
狐目の男が渋い顔をして言った。そのあとに続けて魚顔の男が口を開く。
「あそこは途中で森の横を通るだろう。一人で行くならやめておいた方がいい。恐ろしい魔術師が出るらしいからよ。どこに行くのか知らないが、東方面に行くなら北の街道から大きく迂回して行った方がいいぞ。なんなら途中まで一緒に行ってやってもいいぜ」
トゥリカは男たちの言わんとしていることを理解したが、首を横に振った。
「だ、大丈夫です。連れとはぐれてしまって……。東門で落ち合う約束なんです」
適当な偽りを告げたあと、トゥリカは腰に下げていた小袋の中から金貨を三枚取り出した。
「お礼はさせていただきます。東門まで連れて行ってはもらえないでしょうか? お願いします。急いでいるんです」
狐目の男の手に金貨を握らせ、トゥリカは深く頭を下げた。
途端、男たちが沈黙する。
なにか間違った態度を取ってしまっただろうか? とトゥリカは不安になり、そっと顔を上げて男たちを見た。
男たちは一様に呆然とした様子で、狐目の男の手の平を見つめていた。
「あの……。駄目ですか?」
「お、おう。東門だな。急いでるんなら裏道を案内してやるよ」
狐目の男は我に返る様子で頷くと、手にしていた金貨の内一枚を懐にしまい、残りの二枚をそれぞれ他の男たちに手渡した。
「ありがとうございますっ」
トゥリカは案内してもらえることに喜び、再び頭を下げる。
「さ、こっちだ。大通りに出るよりも早く着けるはずだ」
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