夜をまとう魔術師

牛乳紅茶

11 つかの間のまどろみ

深夜、トゥリカは物音を立てぬよう慎重に寝台から出た。
枕の下に隠しておいた手紙を取り出し、上掛けの上に置く。
手紙の内容は自分の決意と謝罪。そして、リタを責めないで欲しいというものだ。

トゥリカは次に、窓掛けの隙間から差し込む青白い光の筋だけを頼りに、寝室から衣装小部屋へと続く扉の前まで進んだ。
リタは居室の斜向かいにある控えの間で眠っている。
廊下を挟んだ向こう側だから微々たる物音では気づかれないとは思うが、後ろめたさから過剰に緊張してしまう。
汗ばんだ手を扉の取っ手にかけ、ゆっくりと下げる。
扉を開ける瞬間息を止めてしまったのは、自分の呼吸音すらやかましく感じたためだ。
ギ、と軋む音が聞こえ思わず手が止まった。
耳を澄まし、束の間様子を伺ってみるが誰一人やってくる気配はなかった。

(大丈夫、大丈夫)

そう心の中で呟きながら再び扉を引き、素早く小部屋の中に入ると最初と同じように慎重に扉を閉める。

「はあ……」

ほとんど止めていた息をようやく吐き出した。
しかし、ゆっくり休んでいる暇はない。
トゥリカは整然と並ぶドレスを見て、その中から適当に一着手に取った。
首元まで襟の詰まった、装飾も最低限の黒いドレスだ。

着替える時間も惜しみ寝衣の上からすっぽり被ると腰の飾り帯をきつく結ぶ。いつもはリタにやってもらうため綺麗には結べなかったのだが仕方ないと諦める。
外套を羽織り、そのあとドレスと一緒にかけてあった祭礼用の黒い紗のベールで顔を隠し、金貨や装飾品など詰められるだけ詰めた小袋をぎゅっと両手で握った。

(お父様、お母様。リタ。――オルフ。ごめんなさい。でも必ずティルダを助けてみせるから)

手が震える。
喉もいやに乾いている気がする。
それでも諦めるという選択をする気にはならなかった。

(私には責任があるのよ)

ぐっと奥歯を噛みしめ小部屋の奥へと進む。
この衣装小部屋はもともとは別の用途で使われていた。そのためか他の衣装部屋に比べて窓が大きい。日光を避けるために設けられた木戸は常に閉ざされてはいるものの、試みればはずせる造りであった。
トゥリカは自分の胸の高さほどにある木戸の両脇についている取っ手を掴んだ。力を入れて、引っ張るとガコンと音を立てて外れた。思っていた以上に重い木戸をそっと下に置き、次いで窓を押し開けた。

「こんな力仕事は初めてだわ」

早まる鼓動を誤魔化すためあえて小さく口に出してみたが、気が紛れることはなかった。
窓から顔だけ出して辺りに誰もいないのを確認したあと、あらかじめ庭師の道具小屋から拝借してきた指二本分ほど太さの麻縄の一端を衣装棚の柱の裏側を通してもう一端とそろえる。二股になった縄をトゥリカは両手でしっかりと握った。
柱に縛り付けなければ下に降りてからでも紐の回収が出来る。
そうトゥリカなりに考えたのだ。しかし、この方法では力が緩んで片方を放してしまった場合、地上まで真っ逆さまという危険が伴った。

トゥリカは一度大きく深呼吸し窓枠を乗り越えた。
足をなんとかかけられる程度のささやかな足場しかない。
ここから地面までは自分の身長の何倍もある高さだ。落ちたら確実に打ち身だけではすまないだろう。
トゥリカはなるべく下を見ないようにして縄を握りしめた。
試しに一度ぐいと引っ張ってみる。
確かな手応えがあり、柱が折れてしまうということはなさそうだ。

緊張で乾いた唇を舌で湿らせると、積み上げられた石と石の隙間に足を引っかけながら慎重に降り始めた。
しんと静まりかえった夜の世界に、ズ、ズ、と壁と靴が擦れる音が響き渡る。

「いっ!」

ちょうど中程まで降りたところで、右手の指先に鋭い痛みが走った。
咄嗟に足が止まる。
まるで、心臓が指先に移動してしまったかのようだ。脈拍に合わせて指先がずきずきとしている。痛みに思わず顔が歪んだ。しかし、この手を放すわけにはいかない。
トゥリカは痛む指先に必死に力を込め再び足を進めた。

ようやく地面にたどり着いたときには、全身がぐっしょりと嫌な汗で湿っていた。
恐る恐る右手を見ると中指の爪がはがれかけていた。爪の縁に沿って流れた赤い鮮血が指先を汚している。また、麻縄をきつく握りしめていたためだろう、両の手の平全体がすり切れて真っ赤になっていた。
傷を自分の目で確認したためかますます痛みが増した気がする。

トゥリカは手布を取り出し、浮いた爪を押さえるようにして指先に巻いた。痛みは消えないが、これでどこかに引っかけてしまう心配はない。
ほっと息をつきトゥリカは辺りを軽く見回し、人がいないことを確認したあと壁に垂れた縄の一端を引いていった。すると、もう片方がするすると壁を昇っていき、わずかな抵抗のあと上からまとまって落ちてくる。

「あとは、これを……」

縄をまとめると、近くの茂みの中に隠す。こうしておけば誰かが見つけても庭師の忘れ物だと思うだろう。

「急がなくちゃ」

再び周囲に警戒しながら歩き出す。

生地屋の馬車は、都からの商人たちが滞在する別棟のほど近くに停められている。トゥリカの部屋がある居館からはそれなりの距離があるのだが、物見の塔にいる番人が周辺を監視しているため、その目を盗んでの行動となるとさらに遠回りしなければならなかった。
トゥリカは足早に暗闇の中を進んだ。
花の節とはいえ夜はまだ肌寒く、吐き出した白い息が闇の中に吸い込まれるように消えていく。
梢のさざめきと夜鳥の鳴き声以外の音はしない静けさが、余計に寒さを感じさせた。
黙々と歩き続けるトゥリカの目に、随分と下がってきた月の姿が映り込む。

赤く大きな満月。その輝きは恐怖すら感じさせるもので、トゥリカは小さく身震いした。
部屋を出たときはまだ空の中頃にあった月が、今は遠くに見える山の縁にさしかかろうとしている。
思っているよりもずっと早く時は経過しているようだ。
日が昇るまでに馬車にたどり着かなければ、と歩みを速めた。

それから程なくして、ようやく前方に別棟の壁が見えてくる。
慣れない夜道を歩いてきたせいで足が少し痛んだが、トゥリカは嬉しさのあまり駆けだした。
別棟の窓からはまだ明かりが漏れていた。
もしかしたら商人やその小間使いたちはまだ起きているのかもしれない。
トゥリカは窓の明かりを見上げたのち、馬車を探してきょろきょろと頭を動かした。

別棟の脇に二台の馬車が置かれている。
片方は扉や窓のついた箱馬車で、もう片方は簡素な枠にただ幌を被せただけの幌馬車だ。
トゥリカは若干身をかがめて、幌馬車の方に近づいた。
箱馬車の方は商人たちが乗るのだと予想できる。自分の目的はこちらの馬車なのだ。
トゥリカは馬車の後ろに回り幌を開いた。案の定、中には大量の生地が置かれていた。それでも自分が入り込む程度の隙間はある。

空いている上の部分から強引に中へと潜り、最奥だと思われる場所に腰を落ち着ける。
幌を支える枠を背もたれがわりにして息をつくと、身体が妙に重く感じられた。宮殿を抜け出す最初の段階を終えたことでどっと疲れが押し寄せたようだ。

(あとは都に着くのを待つだけだわ)

生地屋が出発する前に、天蓋の帳が引かれてしまったら自分が居なくなっていることに気づかれてしまう。そうなれば、捜索の手がここまで伸びるのも時間の問題だろう。

ゆっくり寝たいから昼頃起こして欲しいとリタに頼んでおいたから大丈夫だとは思うが――。

(どうか誰にも気づかれませんように……)

そう願いながらまぶたを閉じると、急激な睡魔に襲われた。
身体がふわふわと浮くような感覚を味わいながら、トゥリカは少しずつ微睡んでいった。

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