夜をまとう魔術師

牛乳紅茶

4 暗示

「姫様っ!」

悲鳴に近い声が遠くから聞こえ、トゥリカは目を覚ました。

「誰かっ! 早く来て! 姫様が!」

騒々しい足音に続いて軽く肩を揺すられる。
トゥリカはゆっくりとまぶたを上げ、細い視界の中で侍女のリタをとらえた。

「姫様、気づかれましたか? 大丈夫ですか?」
「リタ?」

トゥリカは上体を起こすと辺りの様子を窺った。
子供の頃から知っている薔薇園の風景だ。

(私……どうして? ええと……。そうだわ! テオ。塔の魔術師!)

記憶を手繰りよせはっとする。
自分は魔術師に妙な術をかけられて眠ってしまったのだ。

「リタ。ティルダはどこ?」

トゥリカは、隣で今にも泣き出しそうな顔をしているリタに問いかけた。

「え? ティルダ様でしたらお部屋にいらっしゃると思いますが」
「私がここに来てからどのくらい経ったのかしら?」
「ええ、と。一刻も経ってはおりません」

リタの言葉を聞いて、トゥリカはすっくと立ち上がった。
途端、リタが小さく悲鳴を上げる。

「いけません姫様。倒れた拍子にどこか打っているかもしれません。お医者様に診ていただかないと」
「倒れたわけではないから大丈夫よ」

トゥリカは、心配するリタを安心させるため微笑んでみせた。
意識を失う前のことはちゃんと覚えている。倒れたわけではなかったし、身体のどこにも痛みはない。
まだ少し視界がぼやついたけれど不快ではない。寝起きのぼんやりとした感じによく似ている状態であった。
とにかく今は、ティルダの無事を確かめなければならない。
トゥリカは急ごうとしたのだが、リタに再び押しとどめられてしまう。

「姫様! じっとなさってください! 一度、お医者様に診ていただきますよ」

リタの厳しい声音にトゥリカはびくりと肩を震わせた。
こういう時のリタは強いのだ。
下手な反論はしない方が良いだろう。

「驚かせてしまって悪かったわ。本当に大丈夫なの。外の空気が気持ちよくて、ついウトウトしてしまっただけなのよ」

魔術師のことは話す気にはなれず、トゥリカはそう告げた。
しかし、リタの眉間に刻まれた皺は消えない。

「いいえ。大丈夫ではありません。眠ってしまわれたということは、それだけ疲れているということですよ? お医者様がどうしてもお嫌でしたら、お部屋に戻ってお休みいたしましょう?」

リタはそうまくし立てながら、トゥリカのドレスについていた草をいそいそと払い落とした。
トゥリカにとって、リタの気遣いはありがたかったが今はそれどころではないというのが本音である。

「わかったわ。あなたの言うとおり部屋に戻る。おとなしく寝台にも入るわ」

トゥリカはわざとらしく笑顔を浮かべ、一歩後ろに足を下げる。

「はい。そう言っていただけると安心いたします。では、ご一緒に戻りま――姫様っ!」

リタの話を最後まで聞かずに、トゥリカは勢いよくきびすを返した。

「ごめんなさい。ティルダの顔を見たあとに必ず約束は守るから!」

トゥリカは一度後ろを顧みてリタに告げると、ティルダの部屋に向かった。

「どうか無事でいて……」

トゥリカは薔薇園のある庭から宮殿内に入り、真っ直ぐティルダの居室を目指した。
走って、走って、脇腹に鈍い痛みを感じる。息が上がり、のどの奥が苦しくなる。それでも、トゥリカは長い回廊を走り続けた。

* * *

ロワナ宮殿の物見の塔の天辺。天に向かって鋭利にとがった屋根の斜面にテオは腰を下ろしていた。
その視線の先には、回廊を走るトゥリカの姿がある。

「不完全だったか……」

テオは小さくそう呟き、トゥリカの姿に目を細めた。
強く吹く風がテオの柔らかな髪を煽り、乱す。けれど、テオはそんなことを少しも気にせずに立ち上がった。
急斜面の屋根の上。立つというよりも浮くと言った方が正しい。
漆黒のローブの裾がバタバタと音を立ててはためく。

「まあ、暗示がまったくかかっていないわけじゃないし、とりあえずは良しとするかな」

窓硝子越しに見えるトゥリカの姿に向かってテオは上機嫌でそう口にした。
そのあと、片手をかざし、ゆったりとした動作で中空に魔法陣を描く。
描き終えると、テオは束の間自分の描いた魔法陣を眺め、出来映えに満足してから呪文を詠唱した。
直後、カッと魔法陣がまばゆい光を放ち、ひときわ強い風が吹き荒れた。

数瞬後、その場からテオの姿は消えていた。

「夜をまとう魔術師」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「ファンタジー」の人気作品

コメント

コメントを書く