悪役令嬢を目指します!
第四十二話 【さすがに、少しだけ同情するよ】
王子様とヒロインが話しているのを見つけては乱入して、たまに図書室で焼き菓子ちゃんと宰相子息と過ごして、気付けば三週間が過ぎていた。水の月ももう終わろうというのに、王太子関連の進展はない。
そもそもヒロインと話せていないから、進展しているのかどうかすらわからない。たまに王太子と話をしに行ったりはしたが、相談ではなく雑談で、すぐに切り上げられてしまっている。
これは色々とまずいのではと思いつつも、王子様とヒロインの間に割り込み続けている。
ヒロインは何か言いたそうに私を見て、でも結局何も言わずに逃げていく。王子様はじっと私を見てから、何も言わずに去る。そして嫌味をほとんど言えないまま、私だけが取り残されるというのをもう何度も繰り返している。
暖簾に腕押しとしか言えない状況だけど、他に方法が思いつかない。
「本当に、こりないこと」
だから今日も二人の間に割り込んで、それで終わりだ。
ヒロインは私の声を合図とばかりに逃げた。もはや演技すらしていない。少しだけ眉をひそめるだけだ。
そして王子様も私を見下ろして去る――のだと思っていたが、動かない。今日はいつもよりも長く見られている。居心地が悪いので、喋るか去るかしてほしい。
「……あの?」
作業になっていたからおざなりな態度にでもなっていたのだろうか。どこか変だったのかもしれない。いつも通りすぐどこかに行くと思って油断していた。
正直、笑うことなく私を見ている王子様は怖い。今にも怒られるのではないかと不安になる。怒られることしかしていない自覚があるからなおさらだ。
「……最近」
「え、はい、なんでしょう」
「図書室によく行ってるらしいね」
怒られているわけではなさそうだが、意図が掴めない。まさかの世間話なのだろうか。
「誘われましたので、前期よりは行ってますわ」
「そう……」
これで終わりかと思ったのに、王子様は動かない。どうしよう、嫌味の内容とか考えていなかったから何を言えばいいのかわからない。いつもすぐどこかに行くから、前口上だけでいいと思っていた。
ここから繋げられる嫌味は何かないか。思い出したものや、必死に考えたものを書き留めた悪役語録が手元にないのが口惜しい。いや、手元にあったとしてもぱらぱらめくるわけにはいかないけど。
私は小心者なんだ。無言の圧力とかやめてほしい。これが圧迫面接というものか。多分絶対違うけど、心情的にはそんな感じだ。そんなときにバイブルが欲しいという心細さを誰かがわかってくれるはず。誰かって誰だ。この場には私と王子様しかいない。
そうだ、留まっていてくれるなら婚約について聞くよい機会なのかもしれない。王子様の意思をはっきり聞いて、婚約を解消して、それで終わり。その後は――どうしよう。
悪役らしく悪評を広め続けるか、引きこもるために傷心を装うか、どちらがいいのだろう。
「……私が誘っても来てくれる?」
「は、はい!」
考えこんでいたからか思いのほか大きな声がでた。
いや、私の声量はどうでもいい。今王子様はなんと言った。私を誘ったように聞こえたが、気のせいかもしれない。ここ最近はろくに話してないし、誘うことも誘われることもなかった。
「本当に?」
口元が弧を描くのに、目が笑っていない。怖い。
今日の王子様は一体どうした。悪いものでも食べたのだろうか。あるいはヒロインとの仲を邪魔されることに嫌気か差したのだろうか。
だからって私を誘うことになんの意味がある。これはあれか、君のこともかまってあげるから、ヒロインについて口出ししないでよということか。いや、それならきっぱりと婚約を終わらせて、私を口出しできない立場に追いやればいい。
王子様の考えがわからない。とりあえず怖い。
「レティシア」
第三者の声に張り詰めていた空気がはじける。
「マドレーヌが――っと、殿下も一緒でしたか。失礼いたしました」
「別にいいよ。もう行くところだったから」
視線を下げて、簡易的な礼をとる宰相子息を一瞥すると王子様は立ち去った。
どうしよう。王子様の様子が本格的におかしい。私に怒るのはわかる。だけど、宰相子息にまで冷ややかな視線を向けていた。穏やかな王子様らしくない。
「……大丈夫ですか?」
「え、ええ。それで、どうかしたの?」
宰相子息が語るには、焼き菓子ちゃんが私を呼び捨てにする許可を得たとクラリスとアドリーヌに自慢したらしい。
それで残る二人がずるいずるい――と騒ぐことなく「レティシア様に対して失礼なのではなくて?」と注意されてしまったそうだ。
「レティシアがいいって言ってくれたから私は悪くないです!」
というのが焼き菓子ちゃんの主張だ。
たしかに、呼び捨てにする許可は出した。つい先日、図書室で聖女の講義を聞いていたときのことだった。
レティシア様、レティシア様、レティシア様と焼き菓子ちゃんに呼ばれ続けていた。たまにならともかく頻繁に呼ばれると、どうしてもむず痒くなる。なにしろ敬称をつけられることに慣れていない。家族はもちろん、家族以外で一番話すことの多かった王子様が呼び捨てだった。
会っていない期間があったとはいえ王子様は頻繁に遊びに来ていた。それと比べると友人とのお茶会は週に一回あるかないかで、しかも短時間。その程度で慣れろというほうが無理だ。
「……レティシアでいいわよ」
様様様様と呼ばれることに居心地の悪さを感じた私は、ついうっかり言ってしまった。だけど焼き菓子ちゃんは最初遠慮していたのだ。宰相子息が呼び捨てじゃないのに、自分が呼び捨てにはできないと。
じゃあもういっそ宰相子息も私を呼び捨てにしなさいよと、売り言葉に買い言葉のごとくぽんぽん許可を出しまくった。
宰相子息も最初は固辞していたのだが、潤んだ瞳で「呼びたいな、呼びたいな」と無言で訴えてくる焼き菓子ちゃんに負けた。そのときに宰相子息も自分のことは呼び捨てで、と提案してきたが「あらやだ、ご冗談を」と聞き流した。
王子様に家名で呼ぶことを教えてもらった私に抜かりはない。
そして今日、感極まった状態でクラリスとアドリーヌに話してしまったということらしい。
おかしい、友達の集いに私が呼ばれていない。
「……三人はどこにいるのかしら」
「案内しますよ」
案内された先には、泣きそうな焼き菓子ちゃんと不機嫌を露わにしたクラリス、それに頭を抱えているアドリーヌがいた。
「これはどういう状況かしら」
クラリスと焼き菓子ちゃんはわかる。どうしてアドリーヌは頭を抱えているんだ。
「レティシア様……どうかお二人を止めてください」
神に祈るように懇願してくるアドリーヌに詳しい話を聞くと、失礼だ、悪くない、という応酬を長いこと続けていたらしい
「そもそも最初に失礼だったのはクラリス様じゃないですか! 誕生祝でのこと私覚えてるんですからね!」
だが、限界に達した焼き菓子ちゃんがそう言い放ってしまった。
そこからは、泥沼で言葉の刃で互いを傷つけるだけの展開になってしまい、今に至る。
「……それで、今はどんなことで言い合っているの?」
「クラリス様がマドレーヌ様のダンスの腕前を馬鹿にして、マドレーヌ様が試験の成績は自分のほうが上だったと言い張っています」
争う土俵が違いすぎる。
それにどうして自分のほうが上だとわかるのだろうか。試験の成績は自分のもの以外は公表されていない。
不思議がる私の疑問に答えてくえたのは宰相子息だった。
「ああ、マドレーヌは女子一位でしたからね」
嘘でしょ、というアドリーヌと私の視線が宰相子息に突き刺さる。
宰相子息は苦笑を浮かべながら肩をすくめ――
「私が教えましたから」
――自慢しはじめた。
宰相子息の家庭教師の腕前はともかくとして、クラリスと焼き菓子ちゃんの言い争いは平行線にしかならない。互いに互いの弱みを突いているだけだ。
「お二人とも、醜い言い争いはやめなさい」
ぴたりとクラリスと焼き菓子ちゃんが止まった。私が来ていたことにも気づかなかったらしい。白熱しすぎだ。
「クラリスはダンスが上手で、マドレーヌは家庭教師がよかった。それだけの話よ」
「はい! シモン様は素晴らしい方ですわ!」
満面の笑顔を浮かべているが、焼き菓子ちゃんはそれでいいのか。私が言うのもなんだけど、今の私の言葉はだいぶ失礼だと思う。
焼き菓子ちゃんは宰相子息が大好きだから、宰相子息が褒められるだけで嬉しいのかもしれない。
「え、ええ。パルテレミー様の勉学の才はわたくしも認めておりますわ」
クラリスは矛の収め先に気付いたようで、宰相子息を褒めそやしはじめた。焼き菓子ちゃんの機嫌がどんどんよくなっていく。
そして最終的には焼き菓子ちゃんののろけ――宰相子息のどこが素晴らしいのかという話がはじまった。当の本人がいるというのに、鋼の心臓すぎる。私には絶対真似できない。
宰相子息も慣れているのか、苦笑いを浮かべながらも焼き菓子ちゃんを止める気配はない。
あとついでに発端だった私の呼び捨て問題は、クラリスとアドリーヌにも許可を出したことで終結した。渋い顔をしていたが、私の言うことが聞けないのと押しつけたら頷いてくれた。めでたしめでたし。
めでたくなかった。王子様のことが残っていた。
完全に王子様のことを忘れていた私が朝食を食べながら自己反省していると、リューゲが小さく首をかしげた。
「どうしたの?」
「……殿下の様子がおかしいのだけど、ついさっきまでそのことを忘れてたのよ」
「それって忘れてたんじゃなくて考えたくなかっただけじゃないの」
なるほど、そういう解釈もあるか。
リューゲの言うことにも一理ある。あのときの王子様は怖かった。無意識に思考の外に追いやっていても不思議ではない。
「それで、様子がおかしいってどんな風に?」
「パルテレミー様を冷えた目で見てたのよ。いつも穏やかな殿下らしくないわ」
「虫の居所が悪かっただけじゃないの。誰だってそういうときがあるもんでしょ」
そう言われてしまっては、返す言葉もない。
「それに……穏やかってキミは言うけど、あの王子ってそんな奴だった?」
「何言ってるのよ。学園に入る前に何度も王子様と会ってるじゃない。いつだって穏やかで優しかったわよ」
ティエンで再会した後、王子様は数日おきに我が家に遊びに来ていた。子どもの頃はマリーを追いやっていた王子様だったが、再会してからはリューゲを部屋に置くことを認めてくれた。
従者に徹していたリューゲが王子様と話すことはほとんどなかったが、私と王子様が話しているのは聞いていたはずだ。
「そうだけど……日記を交換していたときは、意地悪だとか唯我独尊とか言ってたよね。お土産も嫌がらせだって騒いでたでしょ」
「子どもの頃の話よ」
子どもの頃の王子様はやんちゃな子どもだった。今でも多少そのときの片鱗はあるが、だいぶ落ち着いている。再会してからの王子様は優しくて穏やかだった。
「性根はそう簡単に変わらないと思うけどね」
「……リューゲは何が言いたいの」
「穏やかに見せてただけなんじゃないの? 立場に合わせた物言いができる年になっただけって考えるほうが妥当だと思うよ」
「それなら、やっぱりおかしいわよ。殿下が自分の立場を忘れるわけないもの」
「体裁を整えるだけの余裕がないんでしょ」
ヒロインとの仲が進展しないことに焦れているのだろうか。
いや、私が現れるまで嬉しそうに話していたことを考えると、原因はヒロインではなく私にあるのかもしれない。
「つまり――怒りが臨界点を突破したということ?」
「うん、なんかもうそれでいいんじゃないかな」
あのときの王子様は本当に怖かった。もう説教とか小言のレベルを超えているのかもしれない。
今日はダンスがあるのに、なんということだ。
星の日にはダンスの授業が行われる。基本的に婚約者同士で組み、婚約者のいない者は教師が采配する。他の人と踊りたいと申し出ることはできない。
これまではとくに気にしていなかったが、王子様が怒髪天を衝いていることを考えると休みたい。今でもたまに足を踏んでしまうので、この状況で足を踏んだらどうなるのか――考えるだけで恐ろしい。
こうなったらダンスの前に機嫌を取らないといけない。失態を犯す前に怒られて、発散させよう。
問題は完全に避けられているということだ。話しかける隙がないまま、ダンスの授業が始まった。私の作戦には穴しかなかった。
最初は教師が見本として踊り、休憩後に実践となっている。休憩時間中も話しかけることはできなかった。少しでも話そうという素振りをすると王子様は教室から出て行ってしまった。休憩時間終了間際に戻って来られては、話しかけられない。
教師の指示によって、ゆっくりとした曲に合わせてステップを踏む。王子様の足を踏まないように注意しよう。もうそれしか残されていない。
「ペルシェ様! これは動き回るような曲ではありませんよ!」
教師の叱責が聞こえてきた。
ペルシェというのは女騎士様の家名だ。彼女は十歳の頃から変わらない。見る者を圧倒するようなダンスを毎回披露するので、毎回教師に怒られている。その度に騎士様がうんざりしているのだが、もはや諦めているのか何も言わず女騎士様に合わせている。
ダンス一つとってもだいぶ個性が出ている。
たとえばクラリスは、マドレーヌを馬鹿にするだけあって優雅に踊る。婚約者がいないため相手は教師の采配次第で変わるのだが、誰が相手だろうと変わらず完璧だ。
焼き菓子ちゃんは女騎士様のような破天荒なダンスでもなければ、クラリスのような完璧なダンスでもない。たまに失敗はするが無難にこなしている。焼き菓子ちゃんのダンスを見ていると、普通が一番だというのがよくわかる。
女騎士様とクラリスのダンスは少し憧れるが、私には無理だ。焼き菓子ちゃんぐらいが丁度よい。
「レティシア」
呼ばれて顔を上げると、冷たい色を湛えた紫の瞳に見下ろされていた。まだ足は踏んでいない。
「ちゃんと相手を見て踊らないと駄目だよ」
「え、ええ……そうね」
足を踏む踏まない以前に、そもそも王子様の怒りが限界を超えていた。完全に無駄な足掻きだった。
これ以上怒りを蓄積させないようにしようとは思うのだが、王子様の目が見れない。その目だけは、駄目だ。
「……あ、あの……殿下」
「何?」
教師に怒られないように、精一杯声を小さくして話しかける。
私は悪役だから王子様が冷たい態度をとるのは当然だ。王子様が冷たい目で私を見るのは仕方ないことで、どうしようもないことだ。
だけど、そんな当たり前のことを私は正確にわかっていなかった。心構えが足りてないままでいたから丁度よい塩梅を見極められず、ここまで王子様を怒らせた。
もう少し早く怒りを発散させていれば、私以外に冷たい態度をとることはなかったかもしれない。
立場に合った物言いができるようになったとリューゲは言っていた。なら、今の王子様は立場上あまりよくない状態だということになる。
本気で話そうと思えば、今みたいにいつでも話すことができた。それなのに避けられているから話せないと自分に言い訳して逃げて、王子様を追い込んだ。私に怒られる度胸がなかったせいで、王子様に悪評が立つ――それだけは避けないといけない。
「……後で、お話がしたいです」
謝って、婚約についても話して、ちゃんと終わらせよう。
そもそもヒロインと話せていないから、進展しているのかどうかすらわからない。たまに王太子と話をしに行ったりはしたが、相談ではなく雑談で、すぐに切り上げられてしまっている。
これは色々とまずいのではと思いつつも、王子様とヒロインの間に割り込み続けている。
ヒロインは何か言いたそうに私を見て、でも結局何も言わずに逃げていく。王子様はじっと私を見てから、何も言わずに去る。そして嫌味をほとんど言えないまま、私だけが取り残されるというのをもう何度も繰り返している。
暖簾に腕押しとしか言えない状況だけど、他に方法が思いつかない。
「本当に、こりないこと」
だから今日も二人の間に割り込んで、それで終わりだ。
ヒロインは私の声を合図とばかりに逃げた。もはや演技すらしていない。少しだけ眉をひそめるだけだ。
そして王子様も私を見下ろして去る――のだと思っていたが、動かない。今日はいつもよりも長く見られている。居心地が悪いので、喋るか去るかしてほしい。
「……あの?」
作業になっていたからおざなりな態度にでもなっていたのだろうか。どこか変だったのかもしれない。いつも通りすぐどこかに行くと思って油断していた。
正直、笑うことなく私を見ている王子様は怖い。今にも怒られるのではないかと不安になる。怒られることしかしていない自覚があるからなおさらだ。
「……最近」
「え、はい、なんでしょう」
「図書室によく行ってるらしいね」
怒られているわけではなさそうだが、意図が掴めない。まさかの世間話なのだろうか。
「誘われましたので、前期よりは行ってますわ」
「そう……」
これで終わりかと思ったのに、王子様は動かない。どうしよう、嫌味の内容とか考えていなかったから何を言えばいいのかわからない。いつもすぐどこかに行くから、前口上だけでいいと思っていた。
ここから繋げられる嫌味は何かないか。思い出したものや、必死に考えたものを書き留めた悪役語録が手元にないのが口惜しい。いや、手元にあったとしてもぱらぱらめくるわけにはいかないけど。
私は小心者なんだ。無言の圧力とかやめてほしい。これが圧迫面接というものか。多分絶対違うけど、心情的にはそんな感じだ。そんなときにバイブルが欲しいという心細さを誰かがわかってくれるはず。誰かって誰だ。この場には私と王子様しかいない。
そうだ、留まっていてくれるなら婚約について聞くよい機会なのかもしれない。王子様の意思をはっきり聞いて、婚約を解消して、それで終わり。その後は――どうしよう。
悪役らしく悪評を広め続けるか、引きこもるために傷心を装うか、どちらがいいのだろう。
「……私が誘っても来てくれる?」
「は、はい!」
考えこんでいたからか思いのほか大きな声がでた。
いや、私の声量はどうでもいい。今王子様はなんと言った。私を誘ったように聞こえたが、気のせいかもしれない。ここ最近はろくに話してないし、誘うことも誘われることもなかった。
「本当に?」
口元が弧を描くのに、目が笑っていない。怖い。
今日の王子様は一体どうした。悪いものでも食べたのだろうか。あるいはヒロインとの仲を邪魔されることに嫌気か差したのだろうか。
だからって私を誘うことになんの意味がある。これはあれか、君のこともかまってあげるから、ヒロインについて口出ししないでよということか。いや、それならきっぱりと婚約を終わらせて、私を口出しできない立場に追いやればいい。
王子様の考えがわからない。とりあえず怖い。
「レティシア」
第三者の声に張り詰めていた空気がはじける。
「マドレーヌが――っと、殿下も一緒でしたか。失礼いたしました」
「別にいいよ。もう行くところだったから」
視線を下げて、簡易的な礼をとる宰相子息を一瞥すると王子様は立ち去った。
どうしよう。王子様の様子が本格的におかしい。私に怒るのはわかる。だけど、宰相子息にまで冷ややかな視線を向けていた。穏やかな王子様らしくない。
「……大丈夫ですか?」
「え、ええ。それで、どうかしたの?」
宰相子息が語るには、焼き菓子ちゃんが私を呼び捨てにする許可を得たとクラリスとアドリーヌに自慢したらしい。
それで残る二人がずるいずるい――と騒ぐことなく「レティシア様に対して失礼なのではなくて?」と注意されてしまったそうだ。
「レティシアがいいって言ってくれたから私は悪くないです!」
というのが焼き菓子ちゃんの主張だ。
たしかに、呼び捨てにする許可は出した。つい先日、図書室で聖女の講義を聞いていたときのことだった。
レティシア様、レティシア様、レティシア様と焼き菓子ちゃんに呼ばれ続けていた。たまにならともかく頻繁に呼ばれると、どうしてもむず痒くなる。なにしろ敬称をつけられることに慣れていない。家族はもちろん、家族以外で一番話すことの多かった王子様が呼び捨てだった。
会っていない期間があったとはいえ王子様は頻繁に遊びに来ていた。それと比べると友人とのお茶会は週に一回あるかないかで、しかも短時間。その程度で慣れろというほうが無理だ。
「……レティシアでいいわよ」
様様様様と呼ばれることに居心地の悪さを感じた私は、ついうっかり言ってしまった。だけど焼き菓子ちゃんは最初遠慮していたのだ。宰相子息が呼び捨てじゃないのに、自分が呼び捨てにはできないと。
じゃあもういっそ宰相子息も私を呼び捨てにしなさいよと、売り言葉に買い言葉のごとくぽんぽん許可を出しまくった。
宰相子息も最初は固辞していたのだが、潤んだ瞳で「呼びたいな、呼びたいな」と無言で訴えてくる焼き菓子ちゃんに負けた。そのときに宰相子息も自分のことは呼び捨てで、と提案してきたが「あらやだ、ご冗談を」と聞き流した。
王子様に家名で呼ぶことを教えてもらった私に抜かりはない。
そして今日、感極まった状態でクラリスとアドリーヌに話してしまったということらしい。
おかしい、友達の集いに私が呼ばれていない。
「……三人はどこにいるのかしら」
「案内しますよ」
案内された先には、泣きそうな焼き菓子ちゃんと不機嫌を露わにしたクラリス、それに頭を抱えているアドリーヌがいた。
「これはどういう状況かしら」
クラリスと焼き菓子ちゃんはわかる。どうしてアドリーヌは頭を抱えているんだ。
「レティシア様……どうかお二人を止めてください」
神に祈るように懇願してくるアドリーヌに詳しい話を聞くと、失礼だ、悪くない、という応酬を長いこと続けていたらしい
「そもそも最初に失礼だったのはクラリス様じゃないですか! 誕生祝でのこと私覚えてるんですからね!」
だが、限界に達した焼き菓子ちゃんがそう言い放ってしまった。
そこからは、泥沼で言葉の刃で互いを傷つけるだけの展開になってしまい、今に至る。
「……それで、今はどんなことで言い合っているの?」
「クラリス様がマドレーヌ様のダンスの腕前を馬鹿にして、マドレーヌ様が試験の成績は自分のほうが上だったと言い張っています」
争う土俵が違いすぎる。
それにどうして自分のほうが上だとわかるのだろうか。試験の成績は自分のもの以外は公表されていない。
不思議がる私の疑問に答えてくえたのは宰相子息だった。
「ああ、マドレーヌは女子一位でしたからね」
嘘でしょ、というアドリーヌと私の視線が宰相子息に突き刺さる。
宰相子息は苦笑を浮かべながら肩をすくめ――
「私が教えましたから」
――自慢しはじめた。
宰相子息の家庭教師の腕前はともかくとして、クラリスと焼き菓子ちゃんの言い争いは平行線にしかならない。互いに互いの弱みを突いているだけだ。
「お二人とも、醜い言い争いはやめなさい」
ぴたりとクラリスと焼き菓子ちゃんが止まった。私が来ていたことにも気づかなかったらしい。白熱しすぎだ。
「クラリスはダンスが上手で、マドレーヌは家庭教師がよかった。それだけの話よ」
「はい! シモン様は素晴らしい方ですわ!」
満面の笑顔を浮かべているが、焼き菓子ちゃんはそれでいいのか。私が言うのもなんだけど、今の私の言葉はだいぶ失礼だと思う。
焼き菓子ちゃんは宰相子息が大好きだから、宰相子息が褒められるだけで嬉しいのかもしれない。
「え、ええ。パルテレミー様の勉学の才はわたくしも認めておりますわ」
クラリスは矛の収め先に気付いたようで、宰相子息を褒めそやしはじめた。焼き菓子ちゃんの機嫌がどんどんよくなっていく。
そして最終的には焼き菓子ちゃんののろけ――宰相子息のどこが素晴らしいのかという話がはじまった。当の本人がいるというのに、鋼の心臓すぎる。私には絶対真似できない。
宰相子息も慣れているのか、苦笑いを浮かべながらも焼き菓子ちゃんを止める気配はない。
あとついでに発端だった私の呼び捨て問題は、クラリスとアドリーヌにも許可を出したことで終結した。渋い顔をしていたが、私の言うことが聞けないのと押しつけたら頷いてくれた。めでたしめでたし。
めでたくなかった。王子様のことが残っていた。
完全に王子様のことを忘れていた私が朝食を食べながら自己反省していると、リューゲが小さく首をかしげた。
「どうしたの?」
「……殿下の様子がおかしいのだけど、ついさっきまでそのことを忘れてたのよ」
「それって忘れてたんじゃなくて考えたくなかっただけじゃないの」
なるほど、そういう解釈もあるか。
リューゲの言うことにも一理ある。あのときの王子様は怖かった。無意識に思考の外に追いやっていても不思議ではない。
「それで、様子がおかしいってどんな風に?」
「パルテレミー様を冷えた目で見てたのよ。いつも穏やかな殿下らしくないわ」
「虫の居所が悪かっただけじゃないの。誰だってそういうときがあるもんでしょ」
そう言われてしまっては、返す言葉もない。
「それに……穏やかってキミは言うけど、あの王子ってそんな奴だった?」
「何言ってるのよ。学園に入る前に何度も王子様と会ってるじゃない。いつだって穏やかで優しかったわよ」
ティエンで再会した後、王子様は数日おきに我が家に遊びに来ていた。子どもの頃はマリーを追いやっていた王子様だったが、再会してからはリューゲを部屋に置くことを認めてくれた。
従者に徹していたリューゲが王子様と話すことはほとんどなかったが、私と王子様が話しているのは聞いていたはずだ。
「そうだけど……日記を交換していたときは、意地悪だとか唯我独尊とか言ってたよね。お土産も嫌がらせだって騒いでたでしょ」
「子どもの頃の話よ」
子どもの頃の王子様はやんちゃな子どもだった。今でも多少そのときの片鱗はあるが、だいぶ落ち着いている。再会してからの王子様は優しくて穏やかだった。
「性根はそう簡単に変わらないと思うけどね」
「……リューゲは何が言いたいの」
「穏やかに見せてただけなんじゃないの? 立場に合わせた物言いができる年になっただけって考えるほうが妥当だと思うよ」
「それなら、やっぱりおかしいわよ。殿下が自分の立場を忘れるわけないもの」
「体裁を整えるだけの余裕がないんでしょ」
ヒロインとの仲が進展しないことに焦れているのだろうか。
いや、私が現れるまで嬉しそうに話していたことを考えると、原因はヒロインではなく私にあるのかもしれない。
「つまり――怒りが臨界点を突破したということ?」
「うん、なんかもうそれでいいんじゃないかな」
あのときの王子様は本当に怖かった。もう説教とか小言のレベルを超えているのかもしれない。
今日はダンスがあるのに、なんということだ。
星の日にはダンスの授業が行われる。基本的に婚約者同士で組み、婚約者のいない者は教師が采配する。他の人と踊りたいと申し出ることはできない。
これまではとくに気にしていなかったが、王子様が怒髪天を衝いていることを考えると休みたい。今でもたまに足を踏んでしまうので、この状況で足を踏んだらどうなるのか――考えるだけで恐ろしい。
こうなったらダンスの前に機嫌を取らないといけない。失態を犯す前に怒られて、発散させよう。
問題は完全に避けられているということだ。話しかける隙がないまま、ダンスの授業が始まった。私の作戦には穴しかなかった。
最初は教師が見本として踊り、休憩後に実践となっている。休憩時間中も話しかけることはできなかった。少しでも話そうという素振りをすると王子様は教室から出て行ってしまった。休憩時間終了間際に戻って来られては、話しかけられない。
教師の指示によって、ゆっくりとした曲に合わせてステップを踏む。王子様の足を踏まないように注意しよう。もうそれしか残されていない。
「ペルシェ様! これは動き回るような曲ではありませんよ!」
教師の叱責が聞こえてきた。
ペルシェというのは女騎士様の家名だ。彼女は十歳の頃から変わらない。見る者を圧倒するようなダンスを毎回披露するので、毎回教師に怒られている。その度に騎士様がうんざりしているのだが、もはや諦めているのか何も言わず女騎士様に合わせている。
ダンス一つとってもだいぶ個性が出ている。
たとえばクラリスは、マドレーヌを馬鹿にするだけあって優雅に踊る。婚約者がいないため相手は教師の采配次第で変わるのだが、誰が相手だろうと変わらず完璧だ。
焼き菓子ちゃんは女騎士様のような破天荒なダンスでもなければ、クラリスのような完璧なダンスでもない。たまに失敗はするが無難にこなしている。焼き菓子ちゃんのダンスを見ていると、普通が一番だというのがよくわかる。
女騎士様とクラリスのダンスは少し憧れるが、私には無理だ。焼き菓子ちゃんぐらいが丁度よい。
「レティシア」
呼ばれて顔を上げると、冷たい色を湛えた紫の瞳に見下ろされていた。まだ足は踏んでいない。
「ちゃんと相手を見て踊らないと駄目だよ」
「え、ええ……そうね」
足を踏む踏まない以前に、そもそも王子様の怒りが限界を超えていた。完全に無駄な足掻きだった。
これ以上怒りを蓄積させないようにしようとは思うのだが、王子様の目が見れない。その目だけは、駄目だ。
「……あ、あの……殿下」
「何?」
教師に怒られないように、精一杯声を小さくして話しかける。
私は悪役だから王子様が冷たい態度をとるのは当然だ。王子様が冷たい目で私を見るのは仕方ないことで、どうしようもないことだ。
だけど、そんな当たり前のことを私は正確にわかっていなかった。心構えが足りてないままでいたから丁度よい塩梅を見極められず、ここまで王子様を怒らせた。
もう少し早く怒りを発散させていれば、私以外に冷たい態度をとることはなかったかもしれない。
立場に合った物言いができるようになったとリューゲは言っていた。なら、今の王子様は立場上あまりよくない状態だということになる。
本気で話そうと思えば、今みたいにいつでも話すことができた。それなのに避けられているから話せないと自分に言い訳して逃げて、王子様を追い込んだ。私に怒られる度胸がなかったせいで、王子様に悪評が立つ――それだけは避けないといけない。
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-
71
-
63
-
-
83
-
2,915
-
-
86
-
288
-
-
2,951
-
4,405
-
-
23
-
3
-
-
218
-
165
-
-
3,224
-
1.5万
-
-
2,629
-
7,284
-
-
4
-
1
-
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33
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48
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4
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4
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62
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89
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47
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515
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104
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158
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6
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45
-
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164
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253
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29
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52
-
-
1,658
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2,771
-
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1,301
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8,782
-
-
7,474
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1.5万
-
-
4,922
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1.7万
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408
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439
-
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2,799
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1万
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-
2,431
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9,370
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-
614
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221
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34
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83
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220
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516
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213
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937
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614
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1,144
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9,173
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2.3万
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42
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14
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88
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150
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