悪役令嬢を目指します!
第三十八話 『救助なのだから許してくれるだろう』
私たちが出かけている間にヒロインが来ていたらしいが、また来ることもなく、休みは終わった。
いつも通り授業を聞きながら、どうやって王子様に話しかけるかを考える。
王子様の嫌がることをすればいい――言うだけなら簡単だが、やるのは難しい。私は今絶賛避けられ中だ。話しかけられなければ、嫌がることもできない。
魔法学の休憩時間で王子様は、逃げるのに失敗したヒロインと嬉しそうに話している。
クラリスがその様子を少し不快そうに見ているが、とくにこれといって何かを言うことはない。
「あの方から殿下に話しかけているのなら咎めることもできますわ。でも、殿下から話しかけているから、私には何も言えませんわ」
ヒロインに厳しいクラリスが何も言わないのが不思議で、どうしてなのかと聞いたときにそう言われた。
焼き菓子ちゃんは不安そうに私と王子様を見るだけなので、王子様とヒロインについて口出しできるのは私しかいない。
だけどさすがに教師がいる前で口汚く罵ることははばかられる。どう考えても注意されることがわかっていて、何か言うことはできない――と、以前までの私なら考えていたことだろう。実際、そう考えていたから授業中にヒロインに話しかけることはしていなかった。
だけど今は違う。教師は授業のための機材を取りに席を外している。
そしてヒロインを守るためにも私を避けることはできない。
「そのような方とお話されていては、殿下の神経が疑われてしまいますわ。およしになった方がよろしいのではないかしら」
しまった。王子様の嫌がることをと考えていたのに、いつもの癖で嫌味から入ってしまった。
染みついた癖というものは恐ろしいものだ。
「あ、あの! 私は――」
「あなたには何も聞いてないわ」
ヒロインが何か言おうとするのを止めて、王子様に向き合う。
「……私が誰と話そうと私の勝手だろう」
「あら、殿下の交友関係は私にも関係あることですもの。口出しする権利があるはずですわ」
「だから、私の交友関係は君には――」
言いかけた王子様の顔が固まる。
「あの、離してくださらないかしら」
そして不俱戴天の仇を見るように、私の腰に手を回した隣国の王子を睨みつけた。
「どうして? レティシア嬢がルシアン殿下の交友関係に口を出すのが駄目なら、レティシア嬢が誰と話そうとルシアン殿下は気にしないよね」
「いえ、私が嫌だから離してと言ってるんです」
はっきりと言い切ると「手厳しいなぁ」と笑いながら離れてくれた。
「これからは遠慮なく君に話しかけていいってことだよね?」
「遠慮してくださらないかしら」
私には隣国の王子と話すことはない。色々忙しいから、隣国の王子にかまけているような暇もない。
「自分は好きに誰にでも話しかけるけど、レティシア嬢には許さないとか――そんな勝手なことは言わないだろう?」
私の意見は無視して、隣国の王子は王子様に挑戦的な視線を投げつけた。
「それは――」
「だから、お前ら! 喧嘩するなって言ってるだろ! なんでそんなに仲悪いんだよ!」
王子様が何か言う前に、教師が機材を持って戻って来た。
険悪な雰囲気が崩れ、見守っていた者たちから安堵のため息が漏れる。このクラスには私たちだけしかいないわけではない。
たくさんいる侯爵家の人は、自分たちではどうしようもない人たちの諍いに肩身の狭い思いをしていたことだろう。
「次喧嘩したら罰則だからな。残りの休憩時間は仲良く過ごせよ」
機材の入っているだろう箱を地面に置き、その上にどっかりと座り込んで教師は一同を睨みつけた。
さすがに罰則は嫌だ。何をするのか知らないけど、罰則という響きが嫌だ。
「だってさ。レティシア嬢は俺と仲良く話そうか」
「結構ですわ」
最後にヒロインと王子様を一瞥して、私はクラリスたちのところに戻った。
胸の前で手を組んでいる焼き菓子ちゃんは心配そうに、クラリスは眉をひそめて私を迎えた。
「どういうおつもりですの」
クラリスが口を開いたのは、魔法学の授業が終わり次の授業のために移動している最中だった。ずっとだんまりを決め込んでいたからそういう遊びなのかと思った。
「どういうと言われても、なんのことかしら」
「先ほどのことでしてよ」
「レティシア様らしくありませんでしたわ!」
「私らしくないとは、どういうことかしら」
「だって、レティシア様はお優しい方ですもの! いざというとき以外は何も言わずに見守ってくださっていたではないですか」
それは間違いなく私ではない。
焼き菓子ちゃんの目には私はどう見えているのだろう。一度彼女の視点で世界を見てみたいものだ。
「マドレーヌの言い分はともかくとしても、あなたらしくはありませんでしたわ」
「あら、クラリスまでそう言うの?」
「わたくしが言わなくては誰も言えないでしょう? 殿下の周囲を気にされるなんて、悪いものでも食べたのか、頭でも打ったとしか思えませんもの」
クラリスの中の私も焼き菓子ちゃんとは別方向にひどい。
友達とは思えない言い分に思わず口を噤む。
「レティシア様が殿下に興味がないことはわかっておりましたわ。殿下の話を振っても気のない返事しかしてなかったのだから、気付かないのは頭がお花畑な方ぐらいですわ」
焼き菓子ちゃんが丸い目を見開いて「そんな!」と悲鳴をあげている。
可哀相だからそれ以上はやめてあげてほしい。
「まあ……興味がない、というのは少々言いすぎだったかもしれませんけれど、少なくとも恋愛感情は抱いていらっしゃらなかったでしょう?」
「それは……」
そんなことはない、とは言えなかった。
恋愛感情があるのとないのと、どちらの方が悪役らしいのかわからなかったから。
「それとも恋愛感情を自覚したとでもおっしゃるのかしら。それでしたら何も言いませんわ」
「え、ええ……そうね。彼女に殿下を取られそうで、慌ててるだけよ」
「それでしたら方法を間違えているとしか言えませんわ」
何も言わないのではなかったのか。
クラリスは目を細めて、じっと私を見ている。怖い。
「冗談ですわ。レティシア様が面白いことをおっしゃるから、私もそれに返しただけでしてよ」
「面白いことって……」
「相手に恋しているかどうか、そのぐらいのことわたくしにだってわかりますもの。ええ、レティシア様はこれまでも、今も、殿下に恋をしていらっしゃいません。それでも殿下との婚約を続けていましたから、何かしらの利があってのことだと思っていましたわ」
そこで一区切りし、クラリスは探るような目で私を見た。
「何もしなければ、予定通り殿下との婚姻は成されます。あのような真似をしたところで、レティシア様にとってなんの利益もない。それどころか評判を落とすだけのこと……殿下のことがお嫌いになったから、自らを貶めて婚約を解消したいのかしら」
それは違う。
婚約はなくしたいが、嫌いにはなっていない。
だけど、嫌いではないと否定することはできなかった。
「殿下……!」
騎士様の声が聞こえたからだ。そして、走り去る王子様の背中が見えた。
噂をすればとか、どうしてここにとかは思わなかった。
ここは多少道から外れているとはいえ、学舎まで向かっている道中だ。同じように中庭から直で学舎に向かうのなら、近くを通るのは当たり前のことだった。
「レティシア様。殿下に愛想が尽きたのでしたら、このままでもよろしいのですよ。お嫌いでないとおっしゃるのでしたら、追いかけることですわね」
どうしたいか――それを考える前に、クラリスの言葉に押されるようにして走り出していた。
だって、誰かに嫌われていると思うのは悲しいことだ。
私は王子様を悲しませたいわけではない。ただ清々しい気持ちで私との婚約をなくして、愛する人と結ばれて欲しいだけだ。
「殿下!」
だけど距離は縮まらないどころか、遠ざかっている。鍛えていない女子と鍛えている男子の違いが如実に現れている。
「殿下! お待ちください!」
足が速すぎる。精一杯声を張り上げているが、聞こえているかどうかも怪しい。無理だ。これは追いつけない。
「殿下、殿下! ――ルシアン様!」
ぴたりと王子様が止まった。普段とは違うことが起これば何事かと足を止めてくれるかもしれないと名前を呼んだのだが、本当に止まってくれるとは思わなかった。
声が届かない可能性だってあった。そもそも気にも留めない可能性もあった。
分の悪い賭けだったが、体力が底を尽きかけた私にはこの手しか残されていなかった。
「る、ルシ、アン様……」
もう無理だ。走れない。ゆっくりと歩きながら、背を向けたまま微動だにしない王子様に近寄る。
「先ほど、は……」
息も絶え絶えで、上手く言葉にできない。
大きく息をするのは悪役らしくないから、浅く息をしながら体内に酸素を取り込む。気分は白鳥だ。白鳥になりきれと自分に言い聞かせる。
「……君は……」
「は、はい……」
とりあえず落ち着くまで待ってほしい。倒れそうなぐらいにふらふらだ。
「……もう、私に誰かを映す必要がなくなったの?」
「……はい?」
どうしよう。言っている意味がわからない。脳に酸素が足りない。
「だから、あんなことを……」
色々待ってほしい。とりあえず息を整えて、脳に酸素を送りたい。
王子様が何を言っているのか、しっかり考えるために、ちょっと待ってほしい。
「私のことが嫌いなら嫌いと、そう言ってくれればいいのに」
ぶんぶんと勢いよく頭を振る。そのせいでよりくらくらしてきた。
「なら、どうして……!」
だから、ちょっと待って。息をするだけで精一杯で、話す余裕がない。
「……君が望むのなら、婚約を白紙に戻してもいい」
絞り出すようなか細い声を最後に、王子様は行ってしまった。
答えることも追いかけることも私にはできなかった。もう走りたくない、歩きたくない。息が苦しい。
その場に座り込んで、石になってしまいたかった。
石になっていた私は気付いたら全然違う場所にいた。どうやら石ではなく気を失っていたらしい。
「おや、起きたかい?」
絵画の並ぶ部屋に芸術の教師が一人。
「まだ休んでいるといい。どうせ次の授業はここだろう?」
ゆっくりと起き上がると、自分が簡易ベッドの上に寝転がっていたことに気付く。なんでこんなものが。
「そのベッドについては秘密にしてくれるかい? 他の先生にばれたら大目玉を食らってしまう」
「え、ええ。それは構いませんけど……あの、どうして私、こちらに?」
「何、簡単なことだ。次の授業のためにと色々用意したり散歩していたら、倒れている君が見えたから運んできたのだよ」
倒れている人を見たら普通は医者とかに見せるものではないだろうか。
「その顔はどうして運んできたのかと思っているのだろうな。俺も最初はどうしたものかと悩みもしたが、どうにも疲れて寝ているだけにも見えた。あまり騒ぎになってしまっては心苦しかろうと、そう思ったのだよ。昼休憩が終わるまで起きなければ、まあそのときには誰かに連絡していたかもしれないがね」
「それは、お心遣いありがとうございます」
「気にすることはない。ああ、そういえばお腹は空いているかな? 簡単なものでよければあるが、食べるかい」
そう言って差し出されたのは、簡単なというよりも簡素なものだった。というかただのパンだった。
「あ、はい。いただきます」
「その上で食べてくれて構わない。パン屑の一つや二つ落ちたところで気にする者は誰もいないのだからな。ああ、そういえばどうしてあんなところに倒れていたのかを聞いてもいいだろうか。ただの疲労だとは思うのだが、もしも万が一暴漢の類であれば他の先生に報告しなくてはいけないのだよ」
「あ、いえ……ただ走って、疲れただけです」
「なるほど、走ってか。倒れるほどの距離を走るとは中々頑張るものだ。だが運動というものは無理のない範囲でするべきであって、限界を超えてまでするものではないということを肝に銘じておいたほうがいいだろう」
頷いてパンを頬張る。こちらが一言喋るとたくさんの言葉で返してくる。たしか女神様もこんな感じだった。
でも女神様よりはやり取りができる分マシかもしれない。
「授業までの暇つぶしとでも思って俺の話を聞いてくれるだろうか。そう難しい話ではない。ただ、そう、愛とは何かという話だよ。俺は愛というものはただ一人のために捧げ、その者を永遠に愛しぬくものだと思っているのだが、どうにも友人と意見がわかれてしまってね」
私は何も答えていないのに話が始まった。女神様と同類だった。
「ええ、と……」
「ただ一人を愛し続けられるというのは素晴らしいことだというのに、理解してくれない。これは悲しいことだとは思わないか」
「意見が合わないのは、そうですね。悲しいですね」
「ああ、そうだとも! そこで君に聞きたいのは、君にとっての愛は何かということだ」
私にとっての愛。
そんなもの考えたこともなかった。
「ただ一人を愛し、未来永劫その者だけを愛する。それは素晴らしいことだろう」
たしかに、それは素晴らしいことなのかもしれない。
「――おっと、失礼。どうにも俺は自制がきかない性分のようでね。ああ、時間が押してきたから、そろそろベッドを片付けることにしよう。手伝ってくれるだろうか」
「あ、はい」
ベッドを片付け、何故か授業の準備まで手伝わされた。
時間ぎりぎりになってやって来たクラリスと焼き菓子ちゃんは私を見つけると慌てて駆け寄ってきた。見つからないから心配していたらしい。
いつも通り授業を聞きながら、どうやって王子様に話しかけるかを考える。
王子様の嫌がることをすればいい――言うだけなら簡単だが、やるのは難しい。私は今絶賛避けられ中だ。話しかけられなければ、嫌がることもできない。
魔法学の休憩時間で王子様は、逃げるのに失敗したヒロインと嬉しそうに話している。
クラリスがその様子を少し不快そうに見ているが、とくにこれといって何かを言うことはない。
「あの方から殿下に話しかけているのなら咎めることもできますわ。でも、殿下から話しかけているから、私には何も言えませんわ」
ヒロインに厳しいクラリスが何も言わないのが不思議で、どうしてなのかと聞いたときにそう言われた。
焼き菓子ちゃんは不安そうに私と王子様を見るだけなので、王子様とヒロインについて口出しできるのは私しかいない。
だけどさすがに教師がいる前で口汚く罵ることははばかられる。どう考えても注意されることがわかっていて、何か言うことはできない――と、以前までの私なら考えていたことだろう。実際、そう考えていたから授業中にヒロインに話しかけることはしていなかった。
だけど今は違う。教師は授業のための機材を取りに席を外している。
そしてヒロインを守るためにも私を避けることはできない。
「そのような方とお話されていては、殿下の神経が疑われてしまいますわ。およしになった方がよろしいのではないかしら」
しまった。王子様の嫌がることをと考えていたのに、いつもの癖で嫌味から入ってしまった。
染みついた癖というものは恐ろしいものだ。
「あ、あの! 私は――」
「あなたには何も聞いてないわ」
ヒロインが何か言おうとするのを止めて、王子様に向き合う。
「……私が誰と話そうと私の勝手だろう」
「あら、殿下の交友関係は私にも関係あることですもの。口出しする権利があるはずですわ」
「だから、私の交友関係は君には――」
言いかけた王子様の顔が固まる。
「あの、離してくださらないかしら」
そして不俱戴天の仇を見るように、私の腰に手を回した隣国の王子を睨みつけた。
「どうして? レティシア嬢がルシアン殿下の交友関係に口を出すのが駄目なら、レティシア嬢が誰と話そうとルシアン殿下は気にしないよね」
「いえ、私が嫌だから離してと言ってるんです」
はっきりと言い切ると「手厳しいなぁ」と笑いながら離れてくれた。
「これからは遠慮なく君に話しかけていいってことだよね?」
「遠慮してくださらないかしら」
私には隣国の王子と話すことはない。色々忙しいから、隣国の王子にかまけているような暇もない。
「自分は好きに誰にでも話しかけるけど、レティシア嬢には許さないとか――そんな勝手なことは言わないだろう?」
私の意見は無視して、隣国の王子は王子様に挑戦的な視線を投げつけた。
「それは――」
「だから、お前ら! 喧嘩するなって言ってるだろ! なんでそんなに仲悪いんだよ!」
王子様が何か言う前に、教師が機材を持って戻って来た。
険悪な雰囲気が崩れ、見守っていた者たちから安堵のため息が漏れる。このクラスには私たちだけしかいないわけではない。
たくさんいる侯爵家の人は、自分たちではどうしようもない人たちの諍いに肩身の狭い思いをしていたことだろう。
「次喧嘩したら罰則だからな。残りの休憩時間は仲良く過ごせよ」
機材の入っているだろう箱を地面に置き、その上にどっかりと座り込んで教師は一同を睨みつけた。
さすがに罰則は嫌だ。何をするのか知らないけど、罰則という響きが嫌だ。
「だってさ。レティシア嬢は俺と仲良く話そうか」
「結構ですわ」
最後にヒロインと王子様を一瞥して、私はクラリスたちのところに戻った。
胸の前で手を組んでいる焼き菓子ちゃんは心配そうに、クラリスは眉をひそめて私を迎えた。
「どういうおつもりですの」
クラリスが口を開いたのは、魔法学の授業が終わり次の授業のために移動している最中だった。ずっとだんまりを決め込んでいたからそういう遊びなのかと思った。
「どういうと言われても、なんのことかしら」
「先ほどのことでしてよ」
「レティシア様らしくありませんでしたわ!」
「私らしくないとは、どういうことかしら」
「だって、レティシア様はお優しい方ですもの! いざというとき以外は何も言わずに見守ってくださっていたではないですか」
それは間違いなく私ではない。
焼き菓子ちゃんの目には私はどう見えているのだろう。一度彼女の視点で世界を見てみたいものだ。
「マドレーヌの言い分はともかくとしても、あなたらしくはありませんでしたわ」
「あら、クラリスまでそう言うの?」
「わたくしが言わなくては誰も言えないでしょう? 殿下の周囲を気にされるなんて、悪いものでも食べたのか、頭でも打ったとしか思えませんもの」
クラリスの中の私も焼き菓子ちゃんとは別方向にひどい。
友達とは思えない言い分に思わず口を噤む。
「レティシア様が殿下に興味がないことはわかっておりましたわ。殿下の話を振っても気のない返事しかしてなかったのだから、気付かないのは頭がお花畑な方ぐらいですわ」
焼き菓子ちゃんが丸い目を見開いて「そんな!」と悲鳴をあげている。
可哀相だからそれ以上はやめてあげてほしい。
「まあ……興味がない、というのは少々言いすぎだったかもしれませんけれど、少なくとも恋愛感情は抱いていらっしゃらなかったでしょう?」
「それは……」
そんなことはない、とは言えなかった。
恋愛感情があるのとないのと、どちらの方が悪役らしいのかわからなかったから。
「それとも恋愛感情を自覚したとでもおっしゃるのかしら。それでしたら何も言いませんわ」
「え、ええ……そうね。彼女に殿下を取られそうで、慌ててるだけよ」
「それでしたら方法を間違えているとしか言えませんわ」
何も言わないのではなかったのか。
クラリスは目を細めて、じっと私を見ている。怖い。
「冗談ですわ。レティシア様が面白いことをおっしゃるから、私もそれに返しただけでしてよ」
「面白いことって……」
「相手に恋しているかどうか、そのぐらいのことわたくしにだってわかりますもの。ええ、レティシア様はこれまでも、今も、殿下に恋をしていらっしゃいません。それでも殿下との婚約を続けていましたから、何かしらの利があってのことだと思っていましたわ」
そこで一区切りし、クラリスは探るような目で私を見た。
「何もしなければ、予定通り殿下との婚姻は成されます。あのような真似をしたところで、レティシア様にとってなんの利益もない。それどころか評判を落とすだけのこと……殿下のことがお嫌いになったから、自らを貶めて婚約を解消したいのかしら」
それは違う。
婚約はなくしたいが、嫌いにはなっていない。
だけど、嫌いではないと否定することはできなかった。
「殿下……!」
騎士様の声が聞こえたからだ。そして、走り去る王子様の背中が見えた。
噂をすればとか、どうしてここにとかは思わなかった。
ここは多少道から外れているとはいえ、学舎まで向かっている道中だ。同じように中庭から直で学舎に向かうのなら、近くを通るのは当たり前のことだった。
「レティシア様。殿下に愛想が尽きたのでしたら、このままでもよろしいのですよ。お嫌いでないとおっしゃるのでしたら、追いかけることですわね」
どうしたいか――それを考える前に、クラリスの言葉に押されるようにして走り出していた。
だって、誰かに嫌われていると思うのは悲しいことだ。
私は王子様を悲しませたいわけではない。ただ清々しい気持ちで私との婚約をなくして、愛する人と結ばれて欲しいだけだ。
「殿下!」
だけど距離は縮まらないどころか、遠ざかっている。鍛えていない女子と鍛えている男子の違いが如実に現れている。
「殿下! お待ちください!」
足が速すぎる。精一杯声を張り上げているが、聞こえているかどうかも怪しい。無理だ。これは追いつけない。
「殿下、殿下! ――ルシアン様!」
ぴたりと王子様が止まった。普段とは違うことが起これば何事かと足を止めてくれるかもしれないと名前を呼んだのだが、本当に止まってくれるとは思わなかった。
声が届かない可能性だってあった。そもそも気にも留めない可能性もあった。
分の悪い賭けだったが、体力が底を尽きかけた私にはこの手しか残されていなかった。
「る、ルシ、アン様……」
もう無理だ。走れない。ゆっくりと歩きながら、背を向けたまま微動だにしない王子様に近寄る。
「先ほど、は……」
息も絶え絶えで、上手く言葉にできない。
大きく息をするのは悪役らしくないから、浅く息をしながら体内に酸素を取り込む。気分は白鳥だ。白鳥になりきれと自分に言い聞かせる。
「……君は……」
「は、はい……」
とりあえず落ち着くまで待ってほしい。倒れそうなぐらいにふらふらだ。
「……もう、私に誰かを映す必要がなくなったの?」
「……はい?」
どうしよう。言っている意味がわからない。脳に酸素が足りない。
「だから、あんなことを……」
色々待ってほしい。とりあえず息を整えて、脳に酸素を送りたい。
王子様が何を言っているのか、しっかり考えるために、ちょっと待ってほしい。
「私のことが嫌いなら嫌いと、そう言ってくれればいいのに」
ぶんぶんと勢いよく頭を振る。そのせいでよりくらくらしてきた。
「なら、どうして……!」
だから、ちょっと待って。息をするだけで精一杯で、話す余裕がない。
「……君が望むのなら、婚約を白紙に戻してもいい」
絞り出すようなか細い声を最後に、王子様は行ってしまった。
答えることも追いかけることも私にはできなかった。もう走りたくない、歩きたくない。息が苦しい。
その場に座り込んで、石になってしまいたかった。
石になっていた私は気付いたら全然違う場所にいた。どうやら石ではなく気を失っていたらしい。
「おや、起きたかい?」
絵画の並ぶ部屋に芸術の教師が一人。
「まだ休んでいるといい。どうせ次の授業はここだろう?」
ゆっくりと起き上がると、自分が簡易ベッドの上に寝転がっていたことに気付く。なんでこんなものが。
「そのベッドについては秘密にしてくれるかい? 他の先生にばれたら大目玉を食らってしまう」
「え、ええ。それは構いませんけど……あの、どうして私、こちらに?」
「何、簡単なことだ。次の授業のためにと色々用意したり散歩していたら、倒れている君が見えたから運んできたのだよ」
倒れている人を見たら普通は医者とかに見せるものではないだろうか。
「その顔はどうして運んできたのかと思っているのだろうな。俺も最初はどうしたものかと悩みもしたが、どうにも疲れて寝ているだけにも見えた。あまり騒ぎになってしまっては心苦しかろうと、そう思ったのだよ。昼休憩が終わるまで起きなければ、まあそのときには誰かに連絡していたかもしれないがね」
「それは、お心遣いありがとうございます」
「気にすることはない。ああ、そういえばお腹は空いているかな? 簡単なものでよければあるが、食べるかい」
そう言って差し出されたのは、簡単なというよりも簡素なものだった。というかただのパンだった。
「あ、はい。いただきます」
「その上で食べてくれて構わない。パン屑の一つや二つ落ちたところで気にする者は誰もいないのだからな。ああ、そういえばどうしてあんなところに倒れていたのかを聞いてもいいだろうか。ただの疲労だとは思うのだが、もしも万が一暴漢の類であれば他の先生に報告しなくてはいけないのだよ」
「あ、いえ……ただ走って、疲れただけです」
「なるほど、走ってか。倒れるほどの距離を走るとは中々頑張るものだ。だが運動というものは無理のない範囲でするべきであって、限界を超えてまでするものではないということを肝に銘じておいたほうがいいだろう」
頷いてパンを頬張る。こちらが一言喋るとたくさんの言葉で返してくる。たしか女神様もこんな感じだった。
でも女神様よりはやり取りができる分マシかもしれない。
「授業までの暇つぶしとでも思って俺の話を聞いてくれるだろうか。そう難しい話ではない。ただ、そう、愛とは何かという話だよ。俺は愛というものはただ一人のために捧げ、その者を永遠に愛しぬくものだと思っているのだが、どうにも友人と意見がわかれてしまってね」
私は何も答えていないのに話が始まった。女神様と同類だった。
「ええ、と……」
「ただ一人を愛し続けられるというのは素晴らしいことだというのに、理解してくれない。これは悲しいことだとは思わないか」
「意見が合わないのは、そうですね。悲しいですね」
「ああ、そうだとも! そこで君に聞きたいのは、君にとっての愛は何かということだ」
私にとっての愛。
そんなもの考えたこともなかった。
「ただ一人を愛し、未来永劫その者だけを愛する。それは素晴らしいことだろう」
たしかに、それは素晴らしいことなのかもしれない。
「――おっと、失礼。どうにも俺は自制がきかない性分のようでね。ああ、時間が押してきたから、そろそろベッドを片付けることにしよう。手伝ってくれるだろうか」
「あ、はい」
ベッドを片付け、何故か授業の準備まで手伝わされた。
時間ぎりぎりになってやって来たクラリスと焼き菓子ちゃんは私を見つけると慌てて駆け寄ってきた。見つからないから心配していたらしい。
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