ストロボガール -落ちこぼれの僕が、時を止める理由-

藤 夏燦

22. 雨粒の中を

 目覚めると11時を過ぎていた。枕元に置いた砂時計はやはり床に落ちている。黒天板が上に向いたままだったので誤作動させてしまったのは事実だろう。しかし昨晩の出来事は夢だ。僕は心が限界を迎えると必ず綾野先輩の夢を見るのだ。
 夢現な中で僕は布団に包まって、昨日の出来事を振り返った。水族館。ヨスガの告白。ひまわり畑、ファッションショー。小林との和解。沙綾との喧嘩。泣き顔の妹。初めての兄妹喧嘩。いろんなことがありすぎた。ここ数年で一番濃密な一日だったかもしれない。沙綾にどんな顔をして会えばいいのだろうか。
 雨音が鳴っていたので僕はカーテンを開けて窓の外を見た。しとしとと長い雨が降っている。昨日の快晴からは想像もできない。街が灰色の毛布に被せられているようだ。空の色が僕の心を代弁していた。
 僕はベッドから起き上がると、砂時計を拾い上げ白天板を上にして砂をチャージした。砂時計をポケットに入れ、部屋着のままリビングに降りる。相変わらず閑散としたリビングに一人分の朝食がラップに包まれておかれていた。両親はいつも通り仕事へ向かったようだったが、沙綾の分もなくなっている。沙綾は以前に今日も部活があると言っていた。妹はあんなことがあった翌日でも健気に部活に向かったようだ。喧嘩したショックで、夢の中の綾野先輩に慰められているダサい僕とは大違いだった。


 パンをかじりながらスマホを眺める。昨日の写真たちに反応したユーザーからコメントが多数寄せられていた。あまりにも多すぎて返信をする気にはなれない。僕のアカウントはSNSで有名になり始めていた。
 あと二週間とちょっとで夏休みも終わる。心は晴れなかったが、僕がやるべきことは明白だった。砂時計はヨスガのために使う。ついでに時間を止めてしか撮れない写真たちを記録として残しておく。そして時間が動いている間は勉強する。秀才キャラを確立し、カンニングを疑われないために。


☆☆☆


 僕は朝食を片付け部屋に戻ると、埃のかぶった教科書を開いた。まずは一番苦手な日本史からだ。時間に余裕があったので1ページ目から読み進めてみることにした。テスト前の暗記は嫌いだったが、教科書を一から読んでみると意外と面白かった。まるで歴史という一冊も物語を読んでいる気がして、そう思うと人物名や事件名もすらすらと頭に入ってくるようになった。もともと小説を読むのが好きだった僕にはこの勉強方法のほうが合っているのかもしれない。
 もちろん高2まで真面目に勉強してこなかった僕が、いきなり何時間も集中して勉強することは難しかった。それでもまずできることから始めようと、砂時計の砂が溜まるまでの時間を勉強に使うと決めた。これが終わればヨスガに会えるのかと思うと、僕は自然と集中することができた。


☆☆☆


 あっという間に砂が溜まった。僕は砂時計を握りしめると、財布とPASMOそして日本史の教科書をリュックへ入れて外に出た。いわゆる「夏の雨」で、じめじめとした湿気と、時より吹く強い風が台風の接近を予言していた。ただ先ほど見た天気予報によると、台風は深夜に最も接近し、明日朝には熱帯低気圧に変わるようだった。それでも用心して出かけない人は多いだろう。こんな雨の日に出かけてもできることは少ない。
 だが見慣れた雨の風景も時間が止まると情緒が違ってくる。僕は二人分の傘を持って玄関のドアを開け、砂時計をひっくり返す。鈍色の世界が一瞬だけ茜色になる。


「生憎の雨ですね」


 ヨスガは白いフリルのワンピースを着て現れた。昨晩と同じ格好をしていることから、やはり昨日時間が止まったのは夢ではないだろう。


「恵みの雨だよ」


 僕は真横に立つヨスガを見ていった。雨音も風音もなりを潜め、雨粒が一滴も漏れることなく空中に静止している。雨の日に外で時間を止めたのは初めてのことだったが、言葉にならない美しさだった。これならいい写真が撮れるかもしれない。
 僕とヨスガは静謐な雨の街で、ビニール傘を正面に向けて進んだ。空から雨が降ってくることはないので、目の前の雨粒たちを切り裂くだけで良いのだ。傘に当たると雨粒たちは時間を取り戻し、水の体をおびて傘に降りかかる。びちゃびちゃと擬音を立てて。これが今までに経験したことがない感覚で面白い。僕らが歩いた後にはトンネルのように雨粒がない空間が出来上がる。


「なんか新鮮だな」


 僕は立ち止まって、後ろを振り返って言う。


「そうですね。私もこうして雨の中を歩いたのは生まれて初めてです」


「雨の日も意外と悪くない」


 僕はヨスガと二人で切り開いた雨粒のない空間に向けてスマホを構える。八の字型に雨粒の消えた、時空の歪んでいるような写真が撮れた。


「いい写真撮れましたか?」


 ヨスガが僕のスマホを覗き込むようにして見てきた。肩が寄せ合う。ヨスガの髪が僕の腕にかかる。


「うん、一番お気に入りかもしれない」


 僕は相合傘をするような距離にいるヨスガに向けて言った。躍動感がある動物の写真よりも、稀有な気象現象の写真よりも、今までに撮ったどんな写真よりもこの写真が気に入った。それは時間に置いて行かれた「僕ら」にしか撮れない一枚だったからだ。特別な場所ではなく、雨の日の近所というのもまた僕ららしい。


「この写真すごいですね。砂時計のことを忘れたら、どうやって撮ったんだろうって絶対思うと思いますよ」


 ヨスガが笑いながら言った。忘れる。砂時計のことを忘れれば、ヨスガの記憶も消えてしまう。夏休みが明ければ、僕は写真だけを残して普通の人間になる。いずれ必ず訪れるその時が急に怖くなった。このまま雨の日の東京をヨスガと二人で彷徨いたい。時間は戻らなくてもいい。沙綾も小林も、両親も永遠に動かないままでいい。ただ彼女と二人で永遠に居られたら僕はどれだけ幸せだろうか。僕はヨスガに悟られまいと胸の奥底で叶わない夢を願った。頭では分かっていた。ヨスガは時間停止実験の観察者で、僕に懐いてくれるのはこれまでに誰にも優しくされたことがなかったからだと。そして綾野先輩の姿でいるのも僕の幻なのだと。わかってはいたが僕は焦燥感に駆られていた。





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