のほのほ
三姉兄妹①
「おい、兄よ」
日曜日の朝、とあるマンションの一角。
ダイニングで、少女は唐突に言った。
「うちの名字はどうして野保なんだ?」
「……え」
それは単純明快かつ永久不滅に答えの見えない問いだった。
ただの中学二年生である碧輝は、口をあんぐりと開けて呆然と突っ立っていた。おそらく、碧輝は己の名字の由来どころか名字に付いてすら真剣に考えたこともなかったのだろう。
「さ、さあ……なんでだろうね……」
朝御飯用の目玉焼きを三つばかり焼きつつ、碧輝はお茶を濁す。
「答えられないのか?」
碧輝が解答不能の合図を出しかけた時、碧輝の妹――黄乃は眼球から鋭い眼光を放ち、碧輝をねめつけた。あまりに強烈な眼光に、碧輝の額には冷や汗が滴る。
俄然答えなければならなくなった碧輝は、苦し紛れに一つの答えを導き出した。
「のほほんとしている……から?」
碧輝の必死の答案だったが、黄乃は口を真一文字に結んだままだった。
沈黙が閑静な3LDKを支配する。聞こえてくるのは目玉焼きがじゅうじゅうと焼ける音のみ。黄乃は相も変わらず表情を崩さぬまま、碧輝の自信なさげな顔を掴んで離さない。
兄である碧輝は、妹である黄乃の真剣な面持ちに、目を離せずにいた。頭は焦げそうな目玉焼きのことで一杯なのだが、どうしてか身体が動こうとしない。催眠術でもかけられているのだろうか。
碧輝は焦った。
しかし、その焦りとは裏腹に、リビングの方から、また別の声が聞こえてきた。
「それは違うな、弟よ」
次女、黄乃ではない、もう一人がお目覚めになったようだ。それも、実にめんどくさい相手である。
「貴様は妹に恐れをなしているのだ」
達観したような口振りで、碧輝の姉――長女、茜は言った。パジャマがくだけすぎて胸元がはだけているのは言うべきか、否か。ところで、茜が碧輝の心を読んだ気がするのは、気のせいか。
しかし、出てきていきなり全否定とは姉も酷いものだ。茜が出てきた隙にとっさに目玉焼きをプレートへ移し替えた碧輝は口を尖らせた。
「いや、だって質問の内容が……」
碧輝なりの精一杯の反論をしたつもりだったが、悟りの境地に達したかのようにほくそ笑んでいる姉には、何一つ効果がないようだった。
「ふ、甘いぞ我が弟」
起きたばかりの茜は鼻で大きく息を吸い込み、口から勢いよく吐いた。呼気が碧輝の顔面にかかる。その瞬間、碧輝は苦虫をつぶしたような顔を浮かべた。
「げ、茜昨日にんにく生かじりしたでしょ、すんごく口臭――」
「駆逐艦? ……そうだな、いい閃きだが、残念ながら我が家には野保家をアルマダせしめたる事物は存在しないのだよ、碧輝」
どうして˝くちくさ˝と˝駆逐艦˝を間違えるんだよ。っていうか口臭が酷すぎる。
茜は食欲が並大抵でない。その食欲を存分に活かし、冷蔵庫から食べ物という食べ物を悉く奪っていく。昨日はにんにくに白羽の矢が立ったようだ。今日アルミホイル焼きにしようと思ってたのに。
そう思ってる間にも茜の吐息が碧輝を責め立てる。碧輝は早くもその悪臭に限界を感じた。
「いや聞き間違いだし……っていうか頼むからこっち来ないで……」
後ずさりながら、碧輝は茜を近づけまいと必死に手でバッテンを作る。
しかし、悟りの境地に達したかのようにほくそ笑んでいる姉には、何一つ効果がないようだった。
「残念ながら私には˝とてもすごい人˝の某光線など効かないぞ、碧輝」
なんで和訳するんだ。というか、
「ち、ちがっ、スペシウム光線じゃ、なく……て…………」
碧輝の嘆願も叶わず、茜はズイと碧輝の前へと躍り出た。意識が朦朧とする。ダメだ。
死にかけの碧輝には目もくれず、茜は天井に向かって鷹揚に人差し指を突き上げ、これでもかというくらい声たかだかに言い放った。
「人間の人間たらしめるものが高度な知能であると同時に、野保家を野保家せしめたる存在は高度な家族であるのだ!」
……つまり、うちの家族は高次元だと言いたいのか? このにんにく臭さで。
「なんか嬉しいけど……悲……しい…………や」
碧輝は天井を仰ぎ見、そのまま後ろ向きに倒れた。
どうやら茜のあまりの馬鹿さ加減、否、口臭さ加減に失神してしまったようだった。茜は碧輝の卒倒した理由に「私の高次な理論を理解できなかったのか、それとも陶酔してしまったのか……」などと未だに自己陶酔をしていた。実際、茜は寝ぼけていた。
黄乃は余りに憐れな碧輝の下へ行き、肩を揺らしてみた。反応はない。顔を見てみると、よほど臭かったのか、白目を剥いていた。家族の息で倒れるなんて前代未聞、前人未踏の超常現象である。恐らくうちの中でしかあり得ない。悲しい話だ。
「言うは易く、行うは難し……高度どころか、実に低俗なファミリーだな」
自嘲気味にそう軽く笑った後、黄乃はいつも持ち歩いている、表紙に『キノメモ』と書かれたメモ帳にひっそりとそれを綴って、自己満足に耽っていた。
日曜日の朝、とあるマンションの一角。
ダイニングで、少女は唐突に言った。
「うちの名字はどうして野保なんだ?」
「……え」
それは単純明快かつ永久不滅に答えの見えない問いだった。
ただの中学二年生である碧輝は、口をあんぐりと開けて呆然と突っ立っていた。おそらく、碧輝は己の名字の由来どころか名字に付いてすら真剣に考えたこともなかったのだろう。
「さ、さあ……なんでだろうね……」
朝御飯用の目玉焼きを三つばかり焼きつつ、碧輝はお茶を濁す。
「答えられないのか?」
碧輝が解答不能の合図を出しかけた時、碧輝の妹――黄乃は眼球から鋭い眼光を放ち、碧輝をねめつけた。あまりに強烈な眼光に、碧輝の額には冷や汗が滴る。
俄然答えなければならなくなった碧輝は、苦し紛れに一つの答えを導き出した。
「のほほんとしている……から?」
碧輝の必死の答案だったが、黄乃は口を真一文字に結んだままだった。
沈黙が閑静な3LDKを支配する。聞こえてくるのは目玉焼きがじゅうじゅうと焼ける音のみ。黄乃は相も変わらず表情を崩さぬまま、碧輝の自信なさげな顔を掴んで離さない。
兄である碧輝は、妹である黄乃の真剣な面持ちに、目を離せずにいた。頭は焦げそうな目玉焼きのことで一杯なのだが、どうしてか身体が動こうとしない。催眠術でもかけられているのだろうか。
碧輝は焦った。
しかし、その焦りとは裏腹に、リビングの方から、また別の声が聞こえてきた。
「それは違うな、弟よ」
次女、黄乃ではない、もう一人がお目覚めになったようだ。それも、実にめんどくさい相手である。
「貴様は妹に恐れをなしているのだ」
達観したような口振りで、碧輝の姉――長女、茜は言った。パジャマがくだけすぎて胸元がはだけているのは言うべきか、否か。ところで、茜が碧輝の心を読んだ気がするのは、気のせいか。
しかし、出てきていきなり全否定とは姉も酷いものだ。茜が出てきた隙にとっさに目玉焼きをプレートへ移し替えた碧輝は口を尖らせた。
「いや、だって質問の内容が……」
碧輝なりの精一杯の反論をしたつもりだったが、悟りの境地に達したかのようにほくそ笑んでいる姉には、何一つ効果がないようだった。
「ふ、甘いぞ我が弟」
起きたばかりの茜は鼻で大きく息を吸い込み、口から勢いよく吐いた。呼気が碧輝の顔面にかかる。その瞬間、碧輝は苦虫をつぶしたような顔を浮かべた。
「げ、茜昨日にんにく生かじりしたでしょ、すんごく口臭――」
「駆逐艦? ……そうだな、いい閃きだが、残念ながら我が家には野保家をアルマダせしめたる事物は存在しないのだよ、碧輝」
どうして˝くちくさ˝と˝駆逐艦˝を間違えるんだよ。っていうか口臭が酷すぎる。
茜は食欲が並大抵でない。その食欲を存分に活かし、冷蔵庫から食べ物という食べ物を悉く奪っていく。昨日はにんにくに白羽の矢が立ったようだ。今日アルミホイル焼きにしようと思ってたのに。
そう思ってる間にも茜の吐息が碧輝を責め立てる。碧輝は早くもその悪臭に限界を感じた。
「いや聞き間違いだし……っていうか頼むからこっち来ないで……」
後ずさりながら、碧輝は茜を近づけまいと必死に手でバッテンを作る。
しかし、悟りの境地に達したかのようにほくそ笑んでいる姉には、何一つ効果がないようだった。
「残念ながら私には˝とてもすごい人˝の某光線など効かないぞ、碧輝」
なんで和訳するんだ。というか、
「ち、ちがっ、スペシウム光線じゃ、なく……て…………」
碧輝の嘆願も叶わず、茜はズイと碧輝の前へと躍り出た。意識が朦朧とする。ダメだ。
死にかけの碧輝には目もくれず、茜は天井に向かって鷹揚に人差し指を突き上げ、これでもかというくらい声たかだかに言い放った。
「人間の人間たらしめるものが高度な知能であると同時に、野保家を野保家せしめたる存在は高度な家族であるのだ!」
……つまり、うちの家族は高次元だと言いたいのか? このにんにく臭さで。
「なんか嬉しいけど……悲……しい…………や」
碧輝は天井を仰ぎ見、そのまま後ろ向きに倒れた。
どうやら茜のあまりの馬鹿さ加減、否、口臭さ加減に失神してしまったようだった。茜は碧輝の卒倒した理由に「私の高次な理論を理解できなかったのか、それとも陶酔してしまったのか……」などと未だに自己陶酔をしていた。実際、茜は寝ぼけていた。
黄乃は余りに憐れな碧輝の下へ行き、肩を揺らしてみた。反応はない。顔を見てみると、よほど臭かったのか、白目を剥いていた。家族の息で倒れるなんて前代未聞、前人未踏の超常現象である。恐らくうちの中でしかあり得ない。悲しい話だ。
「言うは易く、行うは難し……高度どころか、実に低俗なファミリーだな」
自嘲気味にそう軽く笑った後、黄乃はいつも持ち歩いている、表紙に『キノメモ』と書かれたメモ帳にひっそりとそれを綴って、自己満足に耽っていた。
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