動けない

増田朋美

動けない、でもいいじゃない

今日は疲れはててしまい、薬を飲んで動けないままでいます。
以前は、動けない自分と言うものが、許せませんでした。こんな人間はだめだ、最低だ、死んでしまえ、そんなことばかり考えておりました。働けないとか、将来のことだとか、そんなことばかり考えて、はやく死にたいと、嘆いていました。
そんなわけですから、当然のごとく、毎日は楽しくありません。でも、障害者には、楽しい毎日何て与えられなくて当たり前だ、だって、働いていないから、そんなものは与えられるはずがない。そんな風に自分を責めていました。
お正月といいますのは、どうしてもそうなりやすい時期です。親戚の人たちが来て、誰かの悪口を言って帰っていくからです。その人たちに悪気はないでしょうけど、どこの大学とかどこの会社とか、あるいは仕事をやめたとか、そういう話ばかりになるので、そのいずれもできないのが障害者なのですから、非常に辛い日々になるわけです。
特に、私がすんでいる地域は、そういう傾向が強いところですから、より、辛いのです。うまく言えば、若いひとはみんな、お年寄りたちにはお気に召さないのだとおもいます。
今年のお正月もそうでした。無事に、苦しまずに終われたのかなあと思っていましたが、やっぱり今日、1月4日に胸が苦しくなって倒れてしまいました。三賀日は、なんとか黙ったままいられたし、お琴の演奏ができたり、初詣にいったりもできましたが、やっぱり、それが明けると、疲れきってしまったのでしょう。いまは、布団の中で動けないままでいます。
でも、今回は、もう、周りの人とは比べないことにしました。比べないというか、苦しいために比べられる暇もないというのが正直なところです。いまは、こうして文章に表していくしかできることがありません。何て言うダメなやつだと思うかもしれませんが、それが現状なのです。
以前は、こうなると私はよくなきました。周りの人にてを出してもらわなければ、乗りきることができませんでした。お盆もお正月も、リストカットとオーバードーズの連発であり、周りの人たちも私に消えてほしいという思いも正直なところあったのではないでしょうか。事実、障害者を殺すという事件は、現在でも起きていますから。
この時点で動けなくなってよかったなと思えたのは、そういうところからだなあとおもいます。疲れたまま動いてしまうと、行き着くところは大概リストカットか、自殺未遂です。動けないからといって、周りが変わるわけでもなければ、何か不都合が起こるわけでもないのですから。この部分が、一番重要なのです。確かに食べるだけでなにもしないというのは悪なのかもしれませんが、動けないからといって、周りが変わるわけではないのです。
こんなことしかできない人間は、生きている価値がないのかもしれません。動けないで寝ているだけの人間は死んでしまえ、なんてよく、高校時代には云われましたからね。そういうことも確かにありました。
だから、働いていないということは、やっぱり苦しみです。働いていないことを価値がないとされてしまうことは、日本にいる以上、ぬぐえないでしょう。やっぱり日本では、他人の評価を気にしていきていかないと、いられないのは事実です。
そうであっても、いや、そうであるからこそ、こうして動けないでもいられるということが大切なのです。動けないからこそ、他人に迷惑をかけて悪い評価から、回避することもできるからです。近年、誰でも使えるようにという運動が高まっていますが、働いていないひとを排除する姿勢がある以上、実現はできないでしょう。だれでも、自由に生きていける社会は、それをなくさないと難しいようなきがします。みんながしあわせだから、自分も幸せだ、ではなく、幸せの基準値はひとりひとり違ってよい、に切り替えることが、日本が課せられている目下の急務でしょう。
まあ、ちょっと飛びすぎてしまいましたが、何はともあれ、こうして寝たままになってしまう自分も、誰とも比べずに穏やかに生きて行けられたら、とおもいます。今年の抱負らしきものは全くありません。オリンピックなんてどうでもよい話です。それよりも、毎日を穏やかに過ごしていきればよい。疲れたら休めばよい。ただ、それだけが全てです。

コメント

  • ノベルバユーザー603772

    主人公が可哀想すぎる。
    なのに前向きにいろいろな過去を背負いながらも自分の信じる道を突き進む感じで続きを楽しみにしてます。

    0
コメントを書く

「エッセイ」の人気作品

書籍化作品