ゼロからはじめる島津大河誘致

郭隗の馬の骨

第52話 伊東家と祭り之介

伊東家をご存じでしょうか。ここでいう伊東氏は食卓の伊東家ではなく、日向の国(宮崎)を長く治めた名門のことです。
その始まりは鎌倉幕府ができた直後地頭職を与えらたこととされます。
実際に本家が直接支配し始めたのは室町時代の足利尊氏の時代とされています。
戦国時代になる前までは島津氏に対して優勢でした。
一時は宮崎の島津家を圧倒しその位は従三位まで上がりました。
ところが油断したのでしょうか、その後島津氏に木崎原の戦いで大敗しました。
その時の大将は島津義弘です。
その後当主は東へ逃げ最後は堺で亡くなったとされます。
しかし、ここから伊東家の復活劇が始まります。
伊東祐兵という人物があの豊臣秀吉の家臣となりやがて因縁の島津と戦う秀吉軍の先導役となり、かつての本拠地飫肥を取り戻し大名に復帰しました。
その後関ケ原では東軍につき、所領を安堵されることになりました。
ちなみに天正遣欧少年使節で有名なキリシタンとしてローマに赴いた、伊東祐益こと伊東マンショや初代連合艦隊司令長官を務めた元帥海軍大将・伊東祐亨もこの一族から来ています。
さて、今説明したのは祭りの介がネットで伊東家を調べた時に出てきた資料です。
彼が、資料を調べたのには訳があります。
それは、ツイッターをしていた時この伊東家のファンがフォローしてくれたからです。
先ほど説明があった通り島津と伊東家は宿敵と言っていい間柄でした。
その点では立花宗茂も同じように見えますが、立花の場合途中から味方となり共に生死を預けた間柄です。
しかし伊東家の場合表に出ている資料ではそういう記述がない。
なので祭り之介としては自分からはフォローはかけづらかったのです。
しかし転機が訪れました。
伊東家の大河ドラマ出演を願うツイートに祭り之介がいいねを押したのです。
彼としては日向とか宮崎と文字が出るだけで応援したくなります。
なので彼は自然にいいねを押しました。
その後、祭り之介のいいねをみた多くの人たちがいいねを押したのです。
そのうちの幾人かは島津と伊東家の因縁をご存じの上でいいねを押したのでしょう。
さて、その後相互フォローをきっかけに幾人かの人とやり取りをしました。
それは島津が主役の大河ドラマであっても伊東家は悪役としてではなく一所懸命戦ったライバルとして描いてほしいという祭り之介の願いとその声に賛同する意見でした。
祭り之介の目標はあくまでにぎやかな祭りを大河ドラマを起爆剤にして起こし宮崎をはじめ地方が活性化することでした。
伊東家のファンの方のツイートには次のようなフレーズが書かれていました。
「宮崎が活性化する」
伊東家のファンの方に感謝しつつ祭り之介は充実した1日を過ごしたのでした。

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