阿頼耶識エクスチェンジ

青空顎門

二 末那②

『はい。こちらは任せて下さい。ご主人様はファントムを』

 連示の聴覚へと直接その音声を送ってから、阿頼耶は教室の光景に視線を向けた。
 戦闘補助は余程のことがない限りは自動で十分だ。行動の最適化もある。
 だから、阿頼耶は視界の中の光景に意識を向けた。だが、視線の先にあるのは空っぽの光景に過ぎなかった。連示が嫌っているのもよく分かる。
 それの実態は全ての台詞が緻密に決められ、アドリブが決して許されない劇のようなもの。しかし、それは同時に人間らしさを極限まで追求した繊細な演劇なのだ。
 だからこそ上辺は人間のリアルに近く、だからこそ逆に非現実的だった。

 その非現実性は演者が全てアミクスであるが故だ。その劇の精密さは正に機械としての冷たさを湛えている。全てがただただ冷たく、心が凍えてしまいそうだ。
 せめて生身の人間がその関係の一角を担っていれば違ってくるのかもしれないが、それは現在の人間やアミクスには望むべくもない。
 阿頼耶は溜息をつきながら、目の前で行われている茶番を静かに眺めた。
 これも人間が決定したことなのだから、仕方がないと言えば仕方がないことだが、それでも簡単に納得がいくものではない。
 それは感情論に過ぎないのかもしれないが、阿頼耶はその感情を大事にしたかった。

 しかし、今は何も言う必要はないだろう。いずれ、こんな状況は崩れ去るに違いないのだ。何故なら、幻影人格というイレギュラーが生じ始めたのだから。
 その時に起こる混乱をどう人間と共に乗り越えるか。それが何よりも重要なことだ。
 阿頼耶はそんなことを考えながら、自分自身のパートナーとなった人間、世良連示のことを思い浮かべていた。
 彼はこんな人間の状況を疑問に思っている。世界に散らばる同胞達のパートナーもまたそうだ。それは、人間の全てがこれを是としている訳ではない、その証だ。

 パートナーに選ばれる人間は基本的にアミクスに疑問を持っている。中には相当に強い憎悪をアミクスに向けている者もいるそうだ。
 だが、連示は阿頼耶を思いやり、アミクス自体が嫌いな訳ではない、と言ってくれた。
 そのことが阿頼耶は何よりも嬉しかった。そうやって連示のことを考えるだけで、電子仕かけの心でも人間と同じように温かくなるような気がする程だ。
 知らず締まりのない笑みを浮かべていたことに気づき、阿頼耶ははっとして小さく首を振って表情を引き締めた。
 連示の体に人格を移している間は、なるべく彼らしくしていなければならない。
 人格が入れ替わっていることが周囲にばれないようにするためでもあるが、何より情けないにやけ顔をしていては連示に怒られてしまう。
 そうして阿頼耶が気持ちを切り替えて、後で知識を共有するために授業へと集中しようとしたところで、計ったように授業終了を告げる鐘が鳴った。
 失敗した、と微かに思いながら、阿頼耶は電子ノートを片づけ、連示が通学途中にコンビニで購入していたパンの袋を取り出した。
 とりあえず知識は後でどうとでもなる。ここから先の対応の方が遥かに重要だ。

 連示からは幼馴染のアミクス、ユウカと何故か生身で通学しているクラスメイト、鈴音と紀一郎と共に毎日昼食を取っていると聞いている。
 昼休みに人格交換状態にあるのは今回が初めてだったが、一応日々の連示の行動を観察して、対応の仕方は学習しておいたので大きな問題は出ないはずだ。
 そう心に言い聞かせながら緊張して待っていると、すぐに鈴音はやってきたが紀一郎は他のアミクス達の輪に加わってしまった。
 今日の彼は本人が来ていたはずだが、いつの間にかアミクスと入れ替わっていたらしい。
 そんな素振りはなかったはずなのに、と彼の様子に疑問を抱くが、今は鈴音への応対の方が重要だ。阿頼耶はそう自分に言い聞かせて、彼女と適当に会話を重ねながらいつも通りを装い、パンの交換を行って昼食を取り始めた。

 実は連示と味覚の共有を行うのが毎日のささやかな楽しみだったのだが、さすがに今日ばかりは味に集中する訳にはいかない。
 そうして一先ず食事を続けながら、しかし、阿頼耶は鈴音の不審をひしひしと感じ取っていた。とは言え、それは普段の連示との相違を見抜かれた訳ではない。
 そもそも、いつもの食事風景とは一つだけ決定的な違いがあったのだ。
 ユウカがいない。本来なら、昼休みに入ってすぐに話しかけてくるはずのユウカが、自分の席で机を見詰めるように俯いたままじっとしているのだ。

「ねえ、世良君。ユウカちゃんと喧嘩でもした?」

 とりあえず食べ終えるまでは、と気を使っていたのか、阿頼耶がパンの最後の一欠片を飲み込んだところで鈴音が尋ねてくる。
 さすがに、このような事態は想定になく、また原因も分からないので食事中の短い時間では対応を思いつけなかった。
 もはや誤魔化し通す以外に選択肢はない。

「え……っと、な、何で?」
「ユウカちゃんがいないってだけで、あり得ないでしょ?」

 正直内心で、確かに、と納得する発言だったため、誤魔化す間もなく阿頼耶は返答に窮してしまった。
 しかし、思えば、ユウカと話をしたことは一度もなかった。休み時間を跨って人格を交換していた時も、ユウカは今と同じように机に張りついていたのだ。

「ほら、何だかユウカちゃん、不機嫌そうだよ? 何だか知らないけど、早く行って仲直りした方がいいと思うけど……」
「あ、ああ、うん、分かった」

 余り気は進まなかったが、これ以上この場にいてもぼろが出るだけだと自分に言い聞かせ、阿頼耶は渋々ながら頷いて席を立った。
 そうしてユウカの席まで行っても、彼女は阿頼耶の存在を無視するかのように、ただ机をぼんやりと見詰めていた。

「ユ、ユウカ?」

 おずおずと声をかけると、ようやくユウカは反応を示し、ゆっくりと顔を上げた。
 その反応の仕方はどこか、コミュニケーションモードに入っていなかったアミクスに人間が話しかけた時に似ている気がする。
 彼女の表情は連示の記憶のどこにも存在しない、まるで能面のようなもので、阿頼耶はそんな彼女の様子に薄気味の悪さを感じてしまった。

「あ、そ、その」
「貴方は――」

 開かれたユウカの口から発せられたその声は余りにも平坦で、しかし、機械の無感情な冷たさとは全く異なる感情的な冷たさを湛えていて、阿頼耶は言葉を失ってしまった。

「誰?」

 そして、続く問いに頭が真っ白になってしまう。
 何故。ただその言葉だけがこの教室から遠く離れた位置にある脳内を駆け巡り、阿頼耶は口をぱくつかせることしかできなかった。

「貴方は連示君じゃない。一体、誰なの?」

 繰り返される質問に僅かばかり冷静さを取り戻し、この場での適切な対応を必死になって考える。だが、考えれば考える程にどうすればいいのか分からない。もはや最初の質問でうろたえてしまった時点で、連示ではないことを肯定したようなものだ。

『阿頼耶』

 そのタイミングで連示の声が聴覚に届き、阿頼耶ははっと顔を上げた。
 この状況ではそれは正に救いの声だ。

『ご主人様!? た、助かりましたぁ』

 阿頼耶は思わず頭の中ながら、泣いているような情けない声を出してしまった。
 が、その安堵が顔に出ないように表情だけは何とか真面目なままに留める。

『いや、ちょっと問題が――』
『それより今は人格交換を解除させて下さい!』
『あ、ああ、分かった』

 どういう訳かユウカは、連示の体を動かしている人格が連示自身のものではないと認識している。だから、今はとにかく人格を元に戻す必要があった。
 ただ、そうなると連示に追及が行ってしまいかねないが、それでも自分がこの場にいるよりは遥かに誤魔化し易いはずだ。
 阿頼耶はそう考えながら、目の前で懐疑の視線を向けてくる得体の知れない少女から逃げ出すように、人格交換を停止させた。

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