阿頼耶識エクスチェンジ

青空顎門

一 阿頼耶⑦

 阿頼耶の想定した通り、外には生身の人間の姿は一つもなかった。
 メイド服という特異な上に非常に目立つ格好にもかかわらず、アミクスも全く気にしていない。この姿で騒ぎになる心配はなさそうだ。
 そんな周囲の反応に逆に少しばかり落胆しつつも、視界に浮かぶウインドウが示す道の通りに人間の脚力とは別次元の速度で正に飛ぶが如く駆けていく。

『ご主人様、体に違和感はありませんか?』
「身体能力が異常に向上していて、感覚も何だか鋭敏になっているみたいだけど、大きな違和感は今のところないな」

 あくまでも人間の延長線上にあり、認識の機械的な特異さのようなものもない。
 人間の限界を上回っている部分はサポートが絶妙に働いているようだし、問題はないようだ。むしろ、そのスムーズさにこそ戸惑いを覚えるが、そこは慣れだろう。

『そうですか。よかったです。一応、人間の認知能力でも対応できる程度にはリミッターが設けられているので大丈夫だとは思っていましたけど、それを聞いて安心しました』
「それは……つまり、これでも制限がかけられた状態なのか?」
『はい、そうです』
「へえ」

 試しに一度、意識的に地面を強く蹴ってみる。
 瞬間、走り幅跳びの世界記録を軽々と上回るような距離を跳躍し、そのまま姿勢がぶれることなく着地した。

「っと、あ、危なかったな。今のは」

 地面に降り立ちながらも、速度を減じることなく疾走を維持しつつ呟く。
 周囲にいるのがアミクスだけだったからよかったものの、着地地点に人間がいたら大惨事になっていただろう。
 この体を使う上では、この程度の身体能力があることを理解していなければ、その優れた身体能力が逆に脅威になりかねない。
 正直、リミッターがかけられていて尚、人間の手には過度とも言える力のような気がする。しかし、それはつまり――。

「この程度の性能が必要な相手、ってことか?」
『あ、いえ、大丈夫ですよ? スペック的に大分余裕を持っていますから。通常のアミクスが相手なら油断しない限り、負けることは万に一つもありませんから』

 阿頼耶は自信たっぷりに言った。
 その様子に若干安心するが、一点だけ気になる部分があって口を開く。

「制限を外すことはできるのか?」

 制限されているというこの状態でさえ普段の自分と比べれば、まるで自転車からレース用のバイクにでも乗り換えたような心地なのだ。
 もしその制限を取り払ったら、この体は一体どれ程の性能になるというのか。尋ねながら若干恐れの感情を抱く。

『できることはできるんですが……すみません、ご主人様。その方法はパートナーには話してはいけない決まりなんです。絶大な力を発揮できる代わりに、元の体との感覚の差が余りにも大き過ぎて非常に危険なので。ご主人様自身を守るためにも』
「……そうか。ごめんな。言えないことを聞いたりして」

 阿頼耶が心底申し訳なさそうな口調で話すので、逆に連示もすまなく思い、それ以上は聞かないことにした。
 使用者の体を守るためならば、無理に聞き出すべきではないだろう。
 確かに余りにも自分本来の体と身体能力に差があり過ぎると、人格交換を解除した際に大きく混乱してしまいそうだ。
 下手をすれば真っ当な体の動かし方すら分からなくなりかねない。

『いえ、ご主人様が謝ることでは――』

 恐縮したように言う途中で、阿頼耶ははっとしたように言葉を切った。

『間もなく現場に到着します。注意して下さい』

 視界に浮かぶウインドウを意識すると、最初の位置より目標は多少移動していたが、確かにファントムの印のすぐ傍に至っていた。
 緩やかに動くその目標を追ってビルとビルの間の道を抜け、そのまま路地裏へと入る。
 ただでさえ人気のない街中にあって、高層建築物に囲まれたそこは道幅が狭いために微妙に暗い。そのため、異世界にでも迷い込んでしまったかのような錯覚を受ける。
 対象に一定の距離まで近づいたためか、そこで視界からウインドウが消え去った。それが戦闘の始まりの合図のように感じられ、僅かながら緊張感が胸中に渦巻く。
 連示は自身の感情を抑え込むように、そこにいた彼等を厳しく睨みつけた。

「……って、複数、四体もいるぞ!?」

 アミクス達は突然現れた連示へと異様に虚ろな瞳を向けながら、昔の映画に出てくるゾンビのように呆然とゆらゆら佇んでいた。

『大丈夫です。落ち着いて下さい。ファントムは一体だけです。他のアミクスは操られているだけですから。ファントムを倒せば元に戻ります』
「け、けど、どれがファントムか――」
『避けて下さい!』

 阿頼耶の緊迫した声に、連示は無意識的に地面を蹴って後方に飛び退いた。
 そして、地面に着地して体勢を整えた後で、ようやく今起きたことを把握する。
 どうやら体を頼りなく揺らし、愚鈍そうな雰囲気を放っていたアミクス達の内の一体が突然俊敏な動きで距離を詰めて襲いかかってきたようだ。
 他の三体も追従するように、しかし、こちらは緩やかに近寄ってきている。

「操られていてもアミクスか。油断した」

 目の前に立つ四体のアミクスを視界に捉えながら呟く。アミクスは本来的に人間より遥かに優れた身体能力を有しているのだ。
 如何に阿頼耶の体が優れていようとも、油断するなど以ての外だ。
 どうやら彼等は連示を敵だと見定めたようで、今度はじりじりと間合いを詰めつつ、攻撃のタイミングを計っているようだった。

「阿頼耶、ファントムはどれだ?」

 今度こそ集中を保ちつつ、距離を取りながらなるべく冷静に尋ねる。

『アミクスの目をよく見て下さい。それで対象の疑似思考を読み取ることができます。それで分かるはずです。それと、もし操られているアミクスを傷つけなければならない場合は、完全に破壊してしまって下さい。中途半端に傷つけた場合、下手をすると同期の際に所有者にダメージが行く可能性がありますから』
「完全に破壊って、どうやって?」
『右手をかざして下さい』

 阿頼耶に言われるがまま、アミクス達から目を離さずに連示は右手を前に突き出した。
 瞬間、それまで生きた人間の如く温かみを有していた腕が機械的に変形し、手首から先に冷酷なまでに鋭い白刃が生み出された。
 薄暗い路地裏にあって、諸刃のそれは禍々しく輝いている。

『これで頭部の疑似人格ユニットを』
「……分かった」

 連示は一瞬の驚愕を緊張感で心の奥に押し込め、人格が入れ替わった証に紅に染まっている瞳で彼等の目を見据えた。
 一体目。OL風の女性型アミクス。しかし、疑似思考は読み取れず、ただ空虚なイメージを受けるだけだった。
 二体目。同職だろう男性型アミクス。これもまたその思考は虚無に支配されていた。

『この二体は操られていますね』

 連示の一連の行動を隙と感じたのか、その二体は人間を遥かに超えた速さで飛びかかってきた。しかし、さすがに同じ失敗を繰り返すつもりはない。連示は気を引き締め、今度はそれをしっかりと警戒していた。
 加えて、やはり阿頼耶が言った通り、身体性能に絶対的な差があってのことだろう。連示は敵の動きをスローモーションの映像を見るように認識しながら、それを見極め、容易く避けることができていた。
 二体のアミクスは攻撃を回避され、その勢いによってバランスを崩していた。彼等は何とか体勢を立て直そうとしてはいたが、しかし、それは決定的な隙となる。
 連示は一体の顔を腕の刃で斜めに切断し、もう一体の頭部を全力で蹴り飛ばした。前者はそのまま地面に倒れ込み、後者は蹴りに思った以上の威力があったらしく、頭部を砕かれ、そこから細かい部品を撒き散らしつつマンションの壁に叩きつけられていた。
 アミクスは疑似人格ユニットもそうだが、人間と同様に姿勢制御などの装置も頭部にあり、また人間の心臓のように動力部は胸部にある。そのため、そのどちらかを潰せば無力化することができる。だが、所有者へのダメージを危惧するなら、やはり頭部を完全に破壊するべきだろう。
 しかし、この程度の破壊で十分なのか。それだけが問題だ。

「阿頼耶」
『二体の機能停止を確認しました。追撃は必要ありません』
「分かった」

 確認して軽く安堵し、連示は三体目、高級そうなスーツで身を包んだ男性型アミクスの濁り切った目を見据えた。

「なっ!?」

 と、ほぼ同時に思わず目を見開き、驚愕の声を上げてしまう。
 その瞬間、脳裏に飛び込んできたイメージは、ひたすらに純粋な殺意だった。
 周囲に存在するありとあらゆるものを憎み、何よりも自分自身を最も嫌悪している。自分に対する破壊衝動のみで成り立っているかのような、全く矛盾した思考、人格。

『……ファントムらしいファントム、ですね。所有者への殺意がありありと分かります』
「これがファントム、なのか?」

 色で言うなれば赤黒い。これまで一度たりとも経験したことのないような、おぞましい負の感情そのものの奔流に連示は表情を歪めた。
 先のアミクスを倒した程度のことで安堵していた自分が酷く愚かしく思える。
 あんなものは前座にもなりはしない。これこそが倒すべき存在。これは真に人間に仇なすものだ。連示は阿頼耶の説明で漠然と感じた以上に、直感的にそう理解した。

『来ます! 注意を!』

 阿頼耶の言葉に赤黒く穢れたイメージを振り払い、ファントム自体へと意識を移す。
 その人形は今正に連示に掴みかかろうとしていた。その様子はまるで己の本性を見抜かれ、怒り狂っているかのようにも見える。
 連示は咄嗟にそれを防ぐように、伸ばされるファントムの左手に白刃を合わせた。そのまま刃を左から右に薙ぎつつ、それの右脇を駆け抜ける。
 隙を見せないように素早く振り返ると、一瞬遅れて切り裂かれたファントムの左腕の一部分が地面に落ち、その金属的な音が場に響いた。
 しかし、ファントムはそれを気にした様子もなく、親指と人差し指だけが残っている左手から肘の辺りまで広がる切断面を晒しながら、今度は右手を伸ばして迫ってくる。

『ご主人様、止めを刺して下さい!』

 阿頼耶の指示に応えるように、迫る右手を左手で思い切り撥ね除け、一気にファントムの懐へと入り込む。
 そのまま肩から体当たりを食らわし、マンションの壁まで突き飛ばした。
 そして、体当たりの勢いを加算して白刃をファントムの頭部に突き立てる。

『まだです! 徹底的に!』

 連示は阿頼耶の言葉に僅かに頷きつつ、右手の刃を壁にまで突き刺さった状態のまま無理矢理壁ごと切り裂くように振り上げて、そこから全力で振り下ろした。

「どう、だ?」
『はい。疑似人格ユニットは完全に破壊されました。お見事です。ご主人様』
「ああ……」

 ふと下を見ると、頭から一刀両断されたファントムは中心線で左右に分かたれた余りにも無残な姿を晒していた。
 いくらアミクスとは言え、内部の機械的なものが見えていなければ外見はほぼ人間。表面だけを意識すると吐いてしまいかねない程グロテスクな光景だ。
 それに対して少しばかり罪悪感を抱いてしまうのは、相手の形状が人間的であるが故の本能のようなものだろう。
 気を取り直して振り返ると、既に残る一体のアミクスはその姿を消していた。ファントムによる支配が解けたため、あの空虚な関係の中へと帰っていったのだ。
 連示は一つ息を吐き、緊張を解いた。
 一先ず初めての戦いを終えたことに安堵して右手の視線を移すと、いつの間にか元の状態に戻っていて阿頼耶らしい小さな手の木目細かい肌が瞳に映った。

『武装はご主人様の意思に連動しますから。ちなみに右手の武装はナノ単位の鋭さと現時点最高の強度を誇る、私の自慢の剣です』

 右手の変化を不思議に思って確かめるように握ったり開いたりしていると、言外の疑問を汲み取ったように頭の中に阿頼耶の声が響いた。
 その口調はファントムを問題なく処理できたからか、どことなく満足そうだ。

「それにしても……思った以上に動けたけど、阿頼耶が何かしたのか?」

 戦闘中の連示の動きは、思い返すと自分自身でも驚いてしまう程に滑らかでほとんど無駄がなかった。しかし、スポーツを特段せずに過ごしてきた身としては、それは明らかに不可能な動きだった。

『私が、と言うよりは、システムが、と言った方が正しいかと思います。自身の状態と周囲の状況から最適な行動を教えてくれる機能がありますから』
「成程な」

 確かに、行動の直前に最も合理的な動きがイメージとして脳裏に浮かび上がり、瞬間的にそれを選び取っていたように思う。
 そうでなければ、あそこまで簡単に勝つことはできなかっただろう。
 それに、あの切れ味鋭い剣を操るのは素人では余りにも危険だ。
 下手をすれば、自分自身を切り裂いてしまいかねない。
 そういったことを防ぎ、また誰でもファントムに打ち勝てるようにするための、行動の最適化、とでも言うべき機能が阿頼耶達には備わっている訳だ。

『さて、ご主人様。特別処理班が来る前にここを去りましょう』
「分かった。……にしても、その組織、いくら何でも遅過ぎやしないか?」

 申し訳程度には周囲に気を配りながら、仄暗い路地裏から太陽の光が建築物に遮られていない表通りへと歩き出す。

『特別処理班は幻影人格が生じる際の揺らぎを感知できませんからね。彼等は単にアミクスのネットワーク接続の異常から察知しているだけなんです。なので、私達より行動がかなり遅れてしまうんです』
「ネットワーク接続の異常?」
『ファントムは基本的に自分自身をネットワークから遮断しますから。それに加え、先程見たようにファントムは他のアミクスに接触することで操ることができます。その際、そのアミクスはネットワークから弾かれてしまうんです。その後はアミクスに埋め込まれたGPSで居場所が特定されます。GPSはネットワークとは独立した部分にあるので、異常下にあっても機能しますからね』

 成程、と納得しながら、その阿頼耶の言葉を心の中で反芻していると、連示は一つの可能性に思い至った。

「つまり、もしファントムが接続を自ら切らなければ、特別処理班には気づけない、ってことなのか? ……なら、もしかしたらファントムになっても普通のアミクスの振りをして、そのまま社会に紛れ込んでいる奴がいる可能性もあるんじゃ――」

 連示は表通りで普段と変わらず所有者の行動を模し、しかし、コミュニケーションモードにないために虚ろな表情でいるアミクス達を、不自然ではないように横目で眺めた。

『その可能性は、あります。これから発生するファントムについては全て感知できると思いますが、これまでに特別処理班が見逃したファントムは私でも感知できませんから。そうなるとネットワークに異常が出ない限りは……』

 あの黒く穢れた赤のイメージ、ファントムの思考を覗き見た連示としては、阿頼耶の言葉に強烈な不安を感じていた。
 もしかしたら、あれに近い感情を内に宿したまま、何食わぬ顔で街に潜み、虎視眈々と所有者を殺そうとしているアミクスがすぐ傍にいるかもしれないのだから。
 やはり、このような危険性を十分に知っていながら尚、己の利益を優先させてアミクスを生産し続けているCEカンパニーは信用できない。
 同社の一組織である特別処理班に全て任せて放っておくという選択肢もあり得ない。

「……これから、忙しくなる、かな」

 この変化は自分で望んでいたものだった。しかし、その切っかけとなったものは想像以上に世界を一変させる力を秘めていて、僅かばかり恐れも同時に覚えてしまう。
 それでも昨日までよりは、心の奥底に溜まった淀みのようなものが幾分か少なくなっているように感じながら、連示は表情を引き締めてマンションへの道のりを急いだ。

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