花街から逃げた花魁ですが幸せになりたい。

如月 累

椿太夫と伊織様


夜は更けた。

頼れる灯りは蝋燭だけ、月明かりでは心許ない程の薄暗さ。
しかし、一寸先は闇という訳ではなく、そばに居る男の姿ははっきりと見え、指先の細かな動きもしっかりと見えた。

そんな男の指が浮き、ゆっくりとこちらへと向かってくる。彼女の白い肌の上へ滑り、壊れ物のように、しっとりと肌へと吸い付いた。

そんな男の動きを受けて、彼女は驚いていたものの直ぐに冷静に男へと目線を戻し、何事もないように問いかけた。




「伊織様?どうされました?」




すっと体を斜めに乗り出し、彼女の肩口へ顔を寄せ、吐息が聞こえそうな距離で、男は数秒躊躇うように揺れた。

目線を彼女と床へ行ったり来たりと迷わせて、何度かふっと息を漏らすと、ようやく言葉を発した。




「椿…そろそろいいか。」




その言葉が意味することなどただ一つ、ただ酒を飲みに男は花街へ来ている訳では無い。

今夜、いずれ来るだろうと分かっていたことではあったが道への恐怖に彼女は僅かに震えた。だがそれは、男が気づく程のものではなく、彼女自身も曖昧に気づいた程度。心の奥底でどうしてもその未知への恐怖は拭えはしないものだった。

それでも彼女は笑ってみせた。




「えぇもちろん。伊織様の思うがままに。」




頬に添えられた手を自分のものと重ね、ゆっくりと撫でた。

それに加えて、床につかれていた男の手の甲へ手を伸ばし、ひとつひとつ丁寧に、指を絡めた。

いつか来ることだと分かっていても、相手の男が悪くない、むしろいい男だとしても、どうしても心がざわついた。

きっと相手の運が悪ければ、こんな風に考える時間もなければ、直ぐに事へ及んでいたのだろう。

男のおかげで心が暖かいからこそこれからのことへの恐怖との差が、恐ろしくてたまらなかった。誰かに助けてくれと喚き、助けを乞いたくなった。


そうして心が黒く塗りつぶされそうになったとき、自分の中の幽霊のような何かが歪な笑顔で言った。そして今の彼女とは正反対の醜い顔で、黒で塗りつぶされたような顔で囁いた。


さあさ、長い夜が始まるよ。



のっそりと重たい体を何とか動かして、重たい瞼を何度かうっすら開け閉じ開け閉じを繰り返し、じわじわと外の明るさに慣れさせていった。

やっと瞼を完全に開けられるようになってから、周りの状況を確認する。夜だからこそ賑わう花街もこの時間はそこまで騒がしくないようで、月明かりが静かに彼女を照らしていた。
月の周りを踊る雲たちの流れる音すら聞こえてきそうな夜闇の中、首だけを動かして状況を確認する彼女を誰かの腕が引いた。




「…っ伊織様。」




息を殺して男の名前を読んでも、男は眠りから覚めることは無く、少々身動ぎをするだけ。
布団の中でなんとも言えない温かさを感じていたのはこのせいかと納得して、男の腕の中の温かさを甘受した。

男が自分の何に惹かれて指名したのか分からないまま、夜が深くなりこうやってひとつの布団に二人並んでいる。妙な感覚だった。




「伊織様はどんな夢を見ていられるの?」




からかうように、幼子を揶揄すように、闇に紛れる低い声でふざけるように問いかけた。もちろん答えが帰ってくる訳でもなく、男の胸元が呼吸と共にゆっくりと上下するだけ。
その僅かな振動で艶やかな髪が頬から目元へと滑り落ちてきた。

傍から見れば冷静で冷たく見える男が穏やかな寝顔を見せ、ゆっくりと呼吸をしている。起きていた時は大人びて見えた綺麗な顔がまつ毛に彩られた寝顔では少しだけ幼く見えた。


男の腕は細身の体から思うよりも力強く彼女を抱きしめていた。時間制限のある幸せを掴むように抱きしめていた腕をなぜか振り払うという考えを消し去り、まぁいいかと彼女の思考回路をやわやわと鈍らせていった。


今が何時かも分からないまま月夜の中、彼女を抱きしめる男の体温とは別に温かさを秘めた何かが彼女の中を侵食してきていた。男の腕に包まれるのは温かい。

しかしなんとも言えない妙な温かさが彼女の胸の中にあった。

この妙な温かさを持ったまま、客商売をしているのかと他の女たちを変に尊敬してしまったが、それ以上にこの感覚をどう対応すればいいのか分からない彼女は面倒くさいという言葉で無理やりに片付けて、夜が明けるのを待った。

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