花街から逃げた花魁ですが幸せになりたい。
椿太夫の初めて
相変わらずそっけない態度の男に、しびれをきらした彼女が口を開いた。
「旦那様、お名前はなんて仰りますの?先程からお酒ばっかり相手して、こちらを見てはくれませぬの?」
困ったように眉を下げてそれでも笑っていますという風に、寂しげな表情を作ってみせる。
男を下から覗き込むように上目遣いで優しく見つめてこちらへ視線を移させる。
計算された方法で、相手をこちらへ引き込んでゆく。
蝋燭の火でちらちらと光る着物の袖から細い指を少しだけ出して、鳳仙花色で彩った爪先をもじもじと動かしてみせた。
「…そうだな名乗りもしないのは些か失礼だな。」
そこでようやっと彼女と目を合わせて言葉を発した。
男の顔立ちは一言で言うならば容姿端麗、眉目秀麗。
細すぎず太すぎない左右対称の整った輪郭に、程よく山を描いた眉、
栗色の瞳は蝋燭の灯りを受けてちらりと光り、長いまつ毛が目元に優しい影を落とし、
形の良い唇が言葉は発するために柔らかく開く。
「伊織と言う。」
「伊織様…ですね。覚えました。」
苗字を教えないのは秘密主義か、何かやましい理由があるのか。
そんなことをおくびにも出さずに、言葉に合わせて軽く首を傾けてみせた。
しゃらりとかんざしの飾りが揺れる。ほっとした風に目元を和らげ、きゅっと口角を上げて喜んでいるように演出して。
かんざしの飾りが揺れるのも、自分が愛らしく見える角度も何度も鏡を見て研究してきたのだ。
そうするとそれまで伏し目がちに真っ直ぐにこちらを見ようとしなかった男が目をしっかりと開けて、数回瞬かせると目尻を下げて細めると、ほんの少し口角を静かに上げていた。
「忘れるなよ、椿。」
無表情と言っていいような顔をしていた男が彼女の方を見て少しだけ、しかし確かに笑っていた。
その様子に彼女は驚きが隠せなかった。
堅苦しそうな男だと思っていたのだ。
この花街独特の空気感に馴染み、女たちを差し押さえて美しい見目をした男が早くに彼女に笑いかけたことに。
それと同時に、胸の奥がじんわりと暖かくなった。熱い茶をごくりとゆっくり飲み干した時のような、
よく晴れた日の昼に思い切り深呼吸をして温い空気を吸い込んだ時のような。
「え、えぇ決して。」
どこか戸惑った様子の彼女はそう平静を保った振りをして、短い返事をすることしかできなかった。
あやつり人形のようにかたかたと首を上下に動かして、頷いた。
そんな彼女に追い討ちをかけるようにに男は強烈な言葉を投げかけていく。
「美しい女の前でする態度ではなかったな。悪かったな、椿。」
先程の微笑みをさらに深く柔らかくして、男はゆっくりと話した。
彼女の本当の名前ではない、源氏名の椿という言葉を一等丁寧に噛み締めるようにして。
「伊織様ったら…随分と慣れていらっしゃるのね。」
先程感じた胸の暖かさは温度を上げ、範囲を広げ、彼女を襲っていた。
これならば冬に湯たんぽを抱えずに眠りにつけるだろうと言う程に、じんわりと広がる熱は、確かに彼女は感じていた。
そんな、出会い。
コメント