お宿さん

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お宿さん

江戸と明治の狭間の時代。この時代は不安定であったこともあり、捕亡吏に逆らったものは誰でも平等に捕らえられ、死刑となっていた。そして同じくこの時代には外の国から来た旅人が死刑囚の絵を勝手に描き、町で売り出すなどといったことが相次いでいた。その絵を買ったものや、知らぬふりをしたものはすぐに捕らえられてしまった。これはそんな時代の話。

このお宿は、かつて伊予と呼ばれた国にあった。それの主人は年老いた男で、例え逃亡犯であれども客は客とお宿に泊めるようなものだった。だが決して優しく聡明というわけではなく、ただお宿を求めてきているものには泊めてやるという、主人の信念のようなものなのだ。

日も十分に暮れた夜、主人は一人静かに絵を見ていた。この絵は外の、確か伊太利亜とかいったか。その国から来た旅人が銭の代わりに置いていったものだった。主人に絵の知識は無いものの、誰が見てもわかるようにこの絵が秀才なものだということは主人にもわかった。だが主人にはそれとは別にこの絵に何か思うところがあるようだ。

暫くしてお宿の壁を叩く音が聞こえてきた。主人が怪訝に思いながら表に出てみると、そこにはまるで先程まで捕亡吏から逃げてきたと言わんばかりの容姿の男が立っていた。だがこの男が捕亡吏から逃げてきたのではないだろうと主人が思ったのには訳があった。まず一つに、この男には逃亡犯には必ずあるであろう焦りというものが全くもって見受けられないのだ。そして二つに、逃亡犯というにはこの男は若すぎる気がする。いや、逃亡犯に若さなど関係はないのだが。主人にはこの男がどうしても逃亡犯だとは思えなかった。
「おい、おまえさんや。もうお宿はしまいだぜ。泊まりたいならどこか独り身の女の家でも泊まんな。」
「いや、こんな夜分にすいやせん。あっし、名を伊兵衛と申しやす。ちょいと道に迷ってしまいやして、一晩だけ泊めてくれやしないでしょうか。ご安心を。銭なら腐るほど持っておりやすから。」
伊兵衛はそう言葉を並べ立て、ちらと腰にかかった銭の入った袋を主人に見せる。主人は周りを見通し、殆どの灯が消えていることに気がついた。これならば独り身の女はいたとしても、泊めてくれるかは別だろう。
「そんじゃあ入んな。丁度客がいないんだ。」

お宿に入った伊兵衛は被っていた傘を脱いだ。外では傘と暗闇であまりよく見えなかった伊兵衛の顔は、凛々しい眉と顔の中央の大きな傷を除けば、何処にでもあるようなごく普通の顔だった。伊兵衛は主人が出した白湯を飲むとほっと一息をついた。
「おまえさん、いったい何処からきたのかい。」
「へい、実は伊賀におったのですがね。そこで伊予の湯はまさに極楽と誰かが言ったそうでして。それを求めに来たはいいですが、道はあやふやで、ここの方はなんとも冷たいとくる。途方に暮れているうちに、これが最期と覚悟してこのお宿にたどり着いたのですよ。」
そこまで話し、白湯を一口。
「そりゃあ大変なこって。伊兵衛さんや、伊予の湯とは、道後の湯で間違いはないかい。」
「道後の湯というんですね。何処にあるかはご存知ですか。」
「ここらの連中は知ってるよ。このお宿を右手に出て、そこをまっすぐ進むと看板が見えるから、あとはそれを見たらいい。」
「これはこれは。お宿さんや、ご親切にどうも。」

「ところで伊兵衛さん。道後の湯に浸かりたいなら、もう寝たほうがいい。あそこには朝に浸かるのが一番極楽だよ。」
「おっとそうでやしたか。それまで教えていただけるとはね。本当に有難い。」
「いやいや。道後の湯を求める旅人さんはよく来るからね。当たり前のことだよ、おまえさん。」
主人は立ち上がり、戸締りを始める。すると伊兵衛が先程まで主人が見ていた絵に気がついた。
「お宿さん、この絵はあなたさんが描いたのですかい。」
「いやいや。これは前に泊まった、伊太利亜とかいう国から来た旅人さんが銭の代わりに置いていったんだよ。なんだい、気になるのかい。」
主人の言葉を聞くと、伊兵衛は納得したように頷いた。
「なるほど。ああいや、別に欲しい訳じゃありやせん。ただこれは燃やした方がいいと思いやしてね。まあ燃やしたくないというのなら、燃やさなくても結構ですが。お宿さんはなんともお優しい方ですから。これは単なる一人の旅人の助言とみて構いやせんよ。」
そういうと碗を置き、奥の部屋に入っていった。主人はそれをぽかんと見ながら、何かを思い出したかのように急いで、その絵を燃やした。

次の日、伊兵衛は主人に銭をたんまりと渡し、道後の湯のほうへさっさと行ってしまった。主人はその背を見送りながら、晩に燃やした絵のことを思い浮かべ、身震いをしたのだった。

その後、お宿には捕亡吏が、死刑囚の姿が描かれた、秀才な人物画のような絵を知らぬかと尋ねてきたが、主人は知らぬと答えたそうだ。

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