それは冒瀆的な物語

だく

その13 それは冒瀆的な――

 
 受け取った手紙の通り、イノセントが泉の畔にまで来た時、彼は一人でそこにいた。
「…よし。じゃあ始めるぞ」
 彼はそれだけを口にすると、腰に携えている剣に手を触れた。
「いや、私はそういうつもりは――」
 しかしイノセントは構えなかった。そんな必要など、どこにも無かったのだから。
 私があの人を殺した。
 いかに言葉を積み上げようと、その事実は絶対に変わらない。
 ここから目を背けようとするなど、誰よりも私自身が許さない。
 あるがままの世界を見つめる、それが出来ないほどに幼稚だったのだ、私は。
 ずっと、今ここにないものばかりを求めていた。それこそが生だと思っていた。
 それは今の拒絶に他ならないというのに。それは命の放棄でしかないというのに。
 だから私はあの人を殺したのだ。
 私は私を殺す代わりに、あの人を殺したのだ。
 私はもう、求めない。そして、拒まない。
 それは、私自身の罪から目を背けることに他ならないのだから。
 だから、彼に抗しようだなんて思うわけが無い。
 いかなる罰でも受け入れよう。
 辺りは耳が痛いほどの静けさに包まれている。澄み切った空気が冷たさを思わせる。
 すべてはこのまま終わりとなるはずだった。
 しかし、突然林の向こうがざわめき始め、そうかと思うとすぐ脇の茂みが大きく揺れた。


 おとうさん!
 おまつりすっごくたのしかったよ!
 それにね、ともだちができたの!
 ディオっていうんだ! すっごくやさしいんだよ!
 いっぱいあそんでくれたの! かたぐるまも!
 でもね、でもね、それだけじゃなくてね!
 ディオはね、みんなをえがおにするの!
 ――うん! わたしのはじめてのともだち!


 むっふっふー。
 この厳粛とした雰囲気を壊さないよう気を付けながらも、ディオは鼻息を荒くした。
 これほど澄んだ空気の森の中、きらきらと光輝く泉を脇に、剣一振りだけを手にした自分の姿はどれほど格好よく決まっていることだろう。
 古今東西、物語のクライマックス、そして華というのは決まっているのだ。
 やはりいつだって最後を飾るに最もふさわしいのは、儀式的なものさえ感じさせる一対一の決闘だ。
 イノセントだってちゃんと一人で来たし、しかも空気を読んで神妙な顔つきまでしている。
 すべては企んでいた演出以上に順調だ。
「よし。じゃあ始めるぞ」
 ディオはうまく行き過ぎてにやにやしてしまいそうなのを堪えつつも、合図の意味も込めて自らの剣に手を触れた。
「いや、私は――」
 イノセントは何かを言い掛けたが、しかし、その言葉は途中で止まってしまった。
 突然、森の中がざわめき始めたのだ。まるで、たった今までの森然たる空気が自らの場違いさを悟り、そそくさとどこかに行ってしまったかのように。おかしな気配に釣られるように、二人揃ってその目は林の方へと自然に向いた。
 すると、不意に茂みががさがさ揺れ、いきなり一つの影がすっころぶようにして飛び出して来た。
「ふがっ!」
「うおっ! …ってなんだ、ギルか…。」
 最初は変な獣でも出て来たのかと思ったのだが、地面に這いつくばっているその姿にはディオも見覚えがある。
「え? あっ! アニキー!」
「お、おい! なんだよ急に! くっつくのはやめろ!」
 ディオが声を掛けるとギルもこちらに気付いたらしい。彼はいきなり飛び掛かるようにして抱き付いて来た。しかしディオは泡を食って振り払った。ここまで粛々と進めて来た演出をこんな形で台無しにされるわけにはいかないのだ。
「ううっ! よ、良かった…! アニキ無事だったんですね…! さっきはアニキのおかげで――。い、いや! こんなこと言うなんて野暮ってものですね! ――ん? あっ! あいつは騎士じゃないですか! こ、今度こそはアニキの力になるんです! 助太刀します!」
 やっとのことでギルを引き剥がせたかと思うと、今度の彼は訳の分からないことを言い出した。イノセントの姿にも今になって気付いたらしく、また勝手に騒いでいる。
「も、もー! なんだよ急に出て来て! 今はそういうの良いから大人しくしていろよ!」
 ディオはもう堪らず声を張り上げた。今自分は主役としてこの場に立っているのだ。ここでギルに絡まれて彼と同じ三枚目にまで引きずり降ろされる訳には絶対にいかない。そもそもこれはサンに主役の座を奪われ、クリスに好き放題言われることになった聖霊祭へのリターンマッチでもあるのだ。
「騎士相手にそんなこと言うなんて水臭いじゃないですか! アニキ!」
 しかしギルは頑として動くつもりはないらしい。ぶんぶん首を横に振っている。正直ディオとしてはギルが出て来てからのこのやり取りをどうにかこうにか無かったことにして、一旦仕切り直したいくらいだというのに。
 イノセントだってさっきからの展開にずっときょとんとしている。
 とにかく今すぐにでもギルには退場してもらわなければ――
「だってオレ、同じような仲間とも出会えたんですよ! みんなアニキに恩を感じているんです! ほら!」
 しかし、まだまだギルの台詞は終わっていなかった。
「…へ?」
 頭に浮かんだ疑問符と共に間抜けな声が出てしまったその時、近くの茂みがまたがさがさ揺れた。そうかと思うと今度はガラの悪い男たちがどやどや出て来た。
「た、大将…? ああっ! 本当に大将じゃありませんか!」
「んな…!」
 いきなり出て来た謎の男たちからの意味の分からない呼ばれ方に、今回はディオでさえも一瞬固まりかけた。
「な、なんだその呼び方は! というか誰なんだ、お前らは!」
 しかしなんとか瞬時に切り返すことが出来た。たった今現れた男たちはなぜか自分に輝かせた目を向けている。だがディオはもう嫌な予感が止まらなくなって来た。彼らはにこにこしているのだが、どうしてだかギルと一緒に自分の舞台を叩き壊しにやって来たようにしか思えない。少なくとも今一瞬でも後れを取れば、そうなっていた可能性は非常に高い気がする。
「もー! 大将ったら、あれだけのことをしてくれたのにそんなこと言って!」
 しかし彼らはやはりにこにこしながら、そしてディオの抗議を軽く扱うように手を振った。まるでディオの文句なんて、恩着せがましくなるのを嫌っただけの冗談でしかないように。それどころか彼らはディオの言葉でより一層目を輝かせ、ディオにとって訳の分からない長広舌まで披露した。
「だって大将は騎士からオレ達を庇ってくれたじゃないですか! オレ達なんかどうしようもない山賊だって言うのに約束を守るため、身を挺してまでして…! 騎士がやって来たらみんなのことを叩き起こして知らせて回り、気が付けば大将はたった一人で囮になってオレ達を逃がしてくれた…! 正直最初はなんて理不尽でひどいやつがやって来たんだって思いましたけれど、それでもオレ達なんかを相手に、大将はそこまでして約束を守ってくれました…! 全員がそれを見ていたんですよ! 逃げおおせた後に大将に恩返しをしたくて方々をさ迷っていたら、ついさっき知り合ったそこのギルがここまで連れて来てくれたんです! これは何かの運命に違いありません! 手を貸させてください、大将!」
「し、知るかあっ! なんの話をしているんだ! お前らは!」
 ディオはもはや怒鳴るしかなかった。彼らの誰一人として記憶になんて残っていないが、もうはっきりとしている。こいつらは敵だ。自分の見せ場を台無しにするために現れたのだ。
「……ディオさん…、まさか本当に山賊を…。」
 今度はサンが、ディオのすぐ後ろの木からひょっこりと姿を現した。
「ち、違うぞ! 俺はそんなことした覚えなんてないからな! というかサンも何当たり前のように頭を出しているんだ! まだ出番じゃないだろ!」
 初めて会った時のように山賊呼ばわりされたことでディオは怒鳴ったが、サンもまたあの時と同じで見るからに納得していない。
「イノセントさん! 様子がおかしいからと思ってこっそり後をつけてみれば水臭いじゃないですか! 例の山賊を見つけていたのに全部一人で抱え込もうとするなんて!」
 さらに今度はイノセントの後ろからも変なのがぞろぞろと出て来た。ついさっき耳にしたようなセリフと、ぎょっとしたようなイノセントの表情から察するに、あの騎士たちも勝手に付いて来たものらしい。
「大将! あいつらが敵なんですね!」
「その呼び方止めろ! お前らも引っ込んでろよ!」
「いいえ! 恩は必ず返すんです!」
 さっきから今にも崩れてしまいそうにぐらぐらと揺れている自分の舞台を守ろうとディオは必死に叫んだが、分からず屋の彼らはまるで言うことを聞いてくれない。自分のことを慕ってくれているのは本当らしいのに、なぜかその篤い思いに阻まれてこちらの言葉が届かない。
「この…! 覚悟しろ、山賊が!」
「大将を騎士なんかに渡すものか! うおおおっ!」
 誰も号令なんて出していないのに水と油たちの衝突は勝手に始まり、ディオの舞台はついに木っ端微塵に吹き飛んだ。
 やかましい人々の波に呑まれて、もうイノセントの姿さえ見えやしない。
「うわあ、どうすんだよこれ…。もう滅茶苦茶じゃないか…。」
「カイゼルさん、こうなってしまったら私たちは出来るだけ関わらず、自分の身を守ることだけに専念すれば良いと思いますよ。それかいっそのこと、アルベさん達の方に行って隠れているか。どうせディオなんて一人で放っておいても大丈夫なんですから」
「おいキャロル! 全部聞こえてるんだからな! ここまで来て俺に丸投げなんて裏切り同然だぞ!」
 カイゼルとキャロルも木の影から姿を現した。だがとても聞き流せない呟きだ。
「だってもうどうしようもないじゃないの…。外から聞いてれば、どうもこれも全部あんた自身が撒いた種みたいだし…。」
 しかしキャロルは悪びれた様子もなく、そのままの調子でなお言葉を続けた。
「正直結構気合だって入れて来たのに、これじゃあ馬鹿らしくなっても来るわよ…。ポロロ君だってあんたのちっちゃい子分やっつけに行っちゃったんだからね?」
「な、なにいっ!」
 まだまだ続く予想外の報告に、ディオは近くの岩場を一気に駆け上がると辺りに目を奔らせた。
 どこもかしこも揉み合いへし合いの大騒ぎだ。だが一段高いところからだと、小柄な二人の姿は逆に目立ってすぐに見つかった。
「この…! どこでも人に迷惑ばかり掛けるようなことをして…!」
「な、なんだとおっ! お前らがオレの邪魔ばかりするのがいけないんだぞ!」
 不倶戴天の敵同士らしい二人の対峙し合っている声が、あちらこちらから聞こえて来る怒声に交じってディオの耳にまで届いた。そしてすぐさま二人は殴り合いを始めている。
「むぐぐ…! ポロロのやつ、さっきまでこっちの味方に付くようなことを言っていたくせに…! だ、だけどこっちの戦力はむしろ最初の予定よりも増えているんだ! サン! こうなったら切り札行くぞ! 魔法の力を見せてやれ! 一気に一掃だ!」
 このままこの勢いにやられっ放しでいるわけにはいかない。どれほどしっちゃかめっちゃかであろうとも、格好付けようとしてこうなるなんて結局いつも通りのことでしかないのだ。流れを取り戻すためにもディオは声を張り上げた。
「え、だ、駄目ですよ…。この味方、なのかどうかもよく分からないですれけど、その人たちにも当たっちゃいますもん…。」
 しかしサンの返事はぱっとしない。どうもさっき怒鳴ってしまったことで拗ねているらしい。
「それだったら一人ずつ狙う魔法でもいいから何か使えよ! なにお前までサボるつもりになってんだ!」
「え、えー…、もう…。」
 だがわがままを言わせる訳にもいかずディオはさらにがなり立てた。それでやっとサンも杖を構えると、その杖先からは光のロープが勢いよく飛び出した。それは空中を泳ぐように漂って一人の騎士に狙いを定めると、突如急降下を仕掛けて彼を瞬く間に縛り上げてしまった。
「おおっ! サン本当にやるじゃないか!」
「まあ、このくらいは…。…えへへ」
 ちょっと褒めるとサンも少しは機嫌を直してくれたようだ。くすぐったそうな、はにかんだような笑顔を見せてくれた。ほんの数日前までは騎士に向かって魔法を使っただけで半べそを掻いていたというのに、やはりディオの見込んだ通りかなりとんでもない。
「大将! あいつら強いんですよ! 指示ください! 大将!」
 今度は山賊の一人がディオの立っている岩場の下までぼろぼろになって駆け込んで来た。
「なははっ! よーし! 名軍師の俺に任せろ!」
 しかしサンの魔法がうまくいったこともあって、頼られるとディオはさらに調子に乗って来た。
「おい! 左翼! そっち広がり過ぎてるぞ!」
「……これだけ混戦になってるんだからそんなこと言ったって意味ないでしょうよ…。そもそもそこまでの大軍隊ってわけでも無いんだし…。」
 キャロルがぼそっと呟いたが、都合の良いディオの耳には届かない。
「大将! 左翼ってどっちですか!」
 だが、もともと訓練なんてしていないのだからいくら指揮を取ろうともまとまるはずも無かった。
「そっちだバカ!」
 ディオは岩場から駆け下りると、返事をしてくれた右翼の方へと自らも突っ込んだ。
 
 
 イノセントはどうしても堪え切れず、つい吹き出してしまった。
 ……すごいな…。彼がこのすべてを巻き起こしている…。
 穏便さとはかけ離れた状況になってしまったが、顔にはつい笑みまで浮かんでしまう。
 不謹慎なことは分かっている。自分はただ罰を受けに来たのだから、こんな顔なんてしてはいけないのだということも十分に。
 だが、突然始まったこの大騒ぎを目の前にして、自分の都合に囚われたままでいることなんて出来るはずもなかった。
 何より彼は示してくれたのだ。
 門はいつだって開かれていたのだと。
 そしてその門をくぐるかどうか、後はすべて私の意思にのみ委ねられているのだと。
 そう、目の前にはいつだってすべてがあったのだ。
 大地の上に立つ自分の身体を、風は優しく撫ぜるように吹いていく。
 木々からは囁くような声が聴こえ、泉からは水の香りがする。
 そして、太陽があまねく照らしてくれている。
 どんな時だって、足りないものなど何もなかったのだ。
 さらに、ここにあるのはそれだけじゃない。
 目の前では手に負えないほどの事態が繰り広げられている。
 今は、その理不尽さが喜ばしく思えてしまうのだ。
 これほどのことが起こり得る世界に生きていたなんて、まるで知りもしなかった。
 いかに今まで自分は小さな、そして狭い所にいたのだろう。
 それが世界のすべてだと思っていた。
 だが、世界はきっと、果てしないほどに広かったのだ。
 すべて知ったつもりになって目を瞑り、見ようともしなかっただけでしかない。
 日が空へと昇って行くことを知っていても、その日を最後に見たのはいつのことだろう。
 いつだって地の上、天の下にいたというのに、いつからそれを忘れていたのだろう。
 きっと、そういうことを積み重ね、私は自ら世界を削っていたのだ。
 だが今なら、世界と真っ直ぐに向き合えるように思えるのだ。
 だから、剣を抜こう。
 本当はもう、自分にはそんな資格なんてないことは分かっている。
 だけど君はそんなことなど歯牙にもかけず、この場を私に与えてくれた。
 そんな君が相手だからこそ、私もやはり全力で応えたい。
 今になってやっと、自分の望みがはっきりと分かるようになったのだ。
 揉み合いへし合いのお祭り騒ぎ、その一群の向こうを真っ直ぐに見つめた。
 今すぐにでも君はやって来る。
 自分が剣を握るようになった理由なんて、立派なものからは程遠い。騎士団にまで勢力を伸ばそうとしたどこかの魔法使いが、勝手に自分のことをここへと割り振っただけでしかないのだから。
 だが今は、手に感じる剣の重さが心地良い。
 たくさんの仲間がいる。
 彼らの事さえ見えなくなってしまっていた薄情な自分だというのに、彼らはそれでもここまで追いかけて来てくれた。いかなる始まりであろうとも彼らと過ごした日々は本物だ。
 すべて今の自分へと繋がっている。
 紆余曲折ばかりだったこれまでの歩み、それさえもきっと無駄などでは無かった。
 剣で君と語り合えること。それが出来る自分になれた上で君と巡り会えたこと。そして、こんなのは決して赦されない傲慢な感情だとは分かっていても、それでもここまで自分を導いてくれたあの人へ。すべてに、今は感謝したい。
 自分のすべてがこの瞬間のここにあった。
「やっと見つけた! いくぞ!」
 君はまるで飛ぶように人の波を割って現れると、剣を抜き一気に躍りかかって来る。私もまた大地を踏み締め、剣で応えた。


 大気さえも切り裂くような音が辺りに突然響き渡った。
 それ以外の音はすべて一瞬で消え去っていた。激しく打ち合う鋼の音は決して止まることなく次から次へと鳴り響いて来る。今や誰もがその中心にいる二人に目を奪われていた。
 辺りに火花さえ散しているその剣戟に、もはや誰もが戦いの手を止めていた。その中心にいる二人によってのみ、全ての勝敗が決することをここにいる誰もが瞬時に悟っていた。
「…う、うそ……、ディオさんってこんなに強かったの…?」
 サンもまた呆然として、つい構えていた杖を下ろしてしまった。全て目の前で起こっている事のはずなのにとても理解が追い付かない。互いの剣が何度弾かれ合おうとも、それは決して止まることなく流れるように次の動きへとつながっていく。まるで互いに何度も示し合わせていたかのように剣が剣へ吸い込まれ、激しい打ち合いを創り上げている。決してそんなことなど無いと分かっていても、どこまでも洗練されている二人のそれはまるで、息を合わせて行われている舞踏のようにさえサンには見えた。
「…そっか……。……ディオのやつ、ぜんぶ分かっていたのかな…。」
「え?」
 ずっと近くにいてくれたキャロルが悲しげに漏らした言葉に、サンは振り返った。彼女は小さく首を横に振ってから、その不思議な言葉の続きを答えた。
「たぶんね、イノセントさん、騎士団の中でも自分の力を隠さなくちゃいけなかったんだと思う…。ただでさえ魔法っていう特別な力を持っているのに、ディオとこんな風に渡り合えるなんてあまりにも強過ぎるのよ…。」
 そこでサンは初めて気が付いた。ポロロを含めた騎士の人達でさえ、イノセントのことを見つめながら唖然としているのだ。
 だがキャロルは二人の方を見ると、改めて優しい笑顔で続けた。
「でも、今のイノセントさん、本当に楽しそうなんだもの…。そんな窮屈な話とはまるで無縁なように。…だからさ、ディオ、初めからこうするのが一番だって、どこかで分かっていたんじゃないかなって」
 サンも再び二人の方へと目を向けた。どれほど剣を素早く交わし合っていようとも、恐ろしい印象など全く受けない。二人はただ楽しそうに、自由に剣を振るう。
「あーあ、もう、やっぱりズルいんだよなあ、ディオのやつ…。今までの話とか関係なしに、結局あいつが全部持って行っちゃうんだもの。…ふふっ、でも、やっぱりディオに任せて正解だったかな」
 サンはディオのことを見つめた。ただただ目を奪われていた。
 今になってやっと気付けたことがある。彼がずっと第一にしていたのは、実はいつだってみんなのことだ。――そう。本当に、初めて出会ったあの時から彼はずっとそういう人だったのだ。
 振り返ってみればやはりどうしても不思議に思えてしまうのだ。どうして彼はあの時、自分のことを手伝うと言ってくれたのだろう。それにあの時の彼は、彼にしても少し強引ではなかっただろうか。
 その理由を考えてみた時、彼だからこそ信じられるわけがある。
 彼はもしかすると初めて出会ったあの時には既に、自分がずっと抱え込んでいた心細さに気付いていたのではないだろうか。だから、いくら旅をしていようとも自分の世界からずっと抜け出せずにいた、臆病で、頑なな自分のことを無理にでも引っ張って、ここまで連れて来てくれたのではないだろうか。
 こんなの少し思い上がりが過ぎるかもしれない。訊いてみたところで、照れ屋な彼にはきっと否定されてしまうだろう。…だけど、きっと――
「あっ!」
 しかし、二人の剣舞には唐突な終わりが訪れた。
 剣撃に耐え切れなくなったイノセントの剣が真っ二つに折れて、宙を舞っていた。
 その息を呑むような声が自分のものだと気づくのに、サンは随分と時間が掛かってしまった。それほど二人に強く惹き込まれていた。
 だがディオは絶好の機会であるはずのこの瞬間に、後ろへと大きく飛び退いた。
 彼はそのまま剣を構えている。だが同時に、その顔に自信に満ちた、そしてどこか誘うような笑みも浮かべていた。
 イノセントは一瞬驚いたような様子を見せたが、ディオに目だけで応えると、すっと背筋を伸ばした。ほぼ同時に、宙を舞っていたはずの刃は彼の手の中に姿を移していた。転瞬の内に魔法で転移させたらしい。
 彼が砕けてしまった剣の断面を重ね合わせると、あたりに青い稲妻が奔った。ただ繋ぎ合せているだけではない。それは元よりもさらに洗練されていく。
「…今度は魔法も使わせてもらうよ」
「おう、来い。全部超えてやる」
 ディオが不敵な笑みと共に答えた。
 イノセントも微笑み返し、生まれ変わった剣で霞を払った。
 次の瞬間イノセントの姿は消え、ディオの元から再び耳をつんざくような音が響いた。
 さらに激しさを増した応酬が始まっていた。
 より鋭さと、速さを増した刃。そして無数の魔法の弾丸がディオへと襲い掛かる。
「ちょこざいだあっ!」
 しかしその魔弾は一喝のもとに掻き消された。
「でたらめだな! 君は!」
「お前には言われたくないぞ!」
 瞬時に剣閃をも弾き、攻勢に転じたディオの剣がイノセントに肉薄したかに見えた。だが次の瞬間、イノセントの姿はディオの背後にあった。自身ごと魔法で転移させたらしい。今度はイノセントの一太刀が確実に決まるかに見えたが、完全に死角からの攻撃さえもディオは剣で受け止めていた。しかしそこに生じた隙をイノセントは決して逃さず、目にも止まらぬ速さで連撃を叩き込んでいく。
「め、めちゃくちゃだ、二人とも…!」
 サンは小さな声でそう漏らすことしか出来なかった。ついさっきまでだってこれ以上ないほどに極まっていると思っていたのに、二人はやすやすとその先へと超えて行く。
「イノセントさんいっけー!」
 キャロルは黄色い歓声を上げていた。だが今や誰もが同じだった。皆二人のことを思い思いに応援し、一挙手一投足に湧き立っている。
「うるさいぞキャロル! お前はどっちの味方だ!」
 辺りは歓声に満たされているというのに、ディオの耳にはキャロルの声がしっかりと届いたらしい。反撃に転じたディオはイノセントに斬りかかりつつも、器用に怒鳴り返して来た。
「もー、なによー。ほら、サンちゃんも応援してあげて?」
「――ふえっ? え、えっと、…? い、イノセントさんがんばって…?」
「少なくともお前は俺を応援しろよな!」
 キャロルに急に振られて間違えるとすぐさま檄が飛んで来た。あたふたしているサンの隣でキャロルはけたけた笑っている。
「アニキー! ポロロのやつ汚いんですよー! 早くオレの仇も取って下さいよー!」
「大将がんばって!」
「やかましい! 今忙しいんだ! そもそもお前らは誰なんだよ!」
 サンの見知らぬ男達から応援が送られたが、さっきのサンの失敗で拗ねてしまったようにディオは突っ撥ねている。
 イノセントはディオの剣を受け止めつつも、その様子にどこか楽しそうな表情さえ見せていた。
「イノセントさん負けないで!」
 ディオへの声援に対抗するように、ポロロ含め騎士たちの方からも声が上がった。
「ふふっ、よーし! これならどうかな!」
 イノセントが応えるように少し笑顔を漏らすと、その剣は鈍い光を纏った。
「むっ、あ! それサンに食らわされたから知ってるぞ!」
 ディオはイノセントの剣と正面から打ち合うのを止め、すべての白刃を受け流すように捌いていく。
「ちょ、ちょっと! またみんなの前で止めてくださいよ! さっき言ったばっかりじゃないですか!」
 サンは堪らず抗議したが、二人のやり取りは止まらない。
「え、サン君が?」
「あっ! お前もあいつの見てくれに騙されている口だな! あいつとんでもないやつなんだぞ! 出会った初日にそれで叩き潰しに来たんだからな!」
「んなっ! 一部だけ切り取ってそんなこと言うのズルいですよ! その前にディオさんが意地悪ばかりしたからなのに!」
 ディオはサンの言葉になど耳を貸さずに続けている。どうもこちらに向けたさっきの仕返しの意味もありそうだ。
「あはは、仲良しなんだね、ほんとうに」
「な、なにを訳の分からないことを…! こいつ…!」
 大地が抉れるほどの踏み込みと共に放たれたディオの斬撃は、幾重もの魔法の障壁さえも打ち破り、剣でそれを受け止めたはずのイノセントごと弾き飛ばした。
「うおおっ! ほんっとすげえな! あいつ!」
 カイゼルが喝采の声を上げた。だが彼だけではない。身を隠しているはずのアルベさえも、木の影から姿を覗かせてしまっている。
 今やもう敵も味方もない。騎士の中にさえ、剣一本でどこまでも渡り合っていくディオの姿に心奪われている者がいる。山賊の中にさえ、何度弾かれようと一瞬も怯むことなくさらに果敢に攻め続けるイノセントの姿に心惹かれている者がいる。二人が共に創り上げているものに誰もが熱狂していた。
 だがサンにとってはそれ以上に特別だった。胸の内には、まだとても言葉になんて仕切れない彼への想いがとめどなく溢れて来るのだから。
 一人ぼっちだったところに突然あなたは現れて、あっという間に私の世界の全てを変えてくれていた。目の前にはこれほど果てしない世界が広がっていたのだと教えてくれた。あなたは私を再び歩き出せるようにしてくれた。
 誰よりも優しいあなたはきっと、あなた自身が為してくれたことにまるで気付いていないのかも知れません。あなたは決して力を振るったりはしないから、みんな独りでに身を起こしているようにしか見えなくて。
 でも、すべてはあなたがいてくれたから。
 気が付いた時にはいつだって、誰もがあなたの世界に惹き込まれている。
 私は、私で良かった。いつの間にかそう思えるようになったのです。あなたがそう思えるようにしてくれました。この胸を満たす切ないほどの想いを、私ではないあなたに届けたいと心の奥底から思うようになったから。
 私の始めた果てない孤独な旅は、あなたがすべて終わらせてくれました。あなたが私と初めて出会ってくれた、その時に。
 そしてあなたは無限に広がる世界へと連れて行ってくれました。私自身それとは気付かぬ内に、私の手を取って、軽々と。
 私にとって、あなたこそがこの世界そのものなのです。
 そこにいることを、あなたは私に赦してくれたのです。
「――ディオさんがんばって!」
 自分でさえ何を口にしているのか分からないまま、だが気が付けば誰よりも心の底から叫んでいた。


 …すごい…。本当に彼は全てを超えて来る…。
 烈火のような激しい攻防を終え、剣を構えながらもイノセントは距離を取った。
 剣を振るうための思考は、完全に言葉を置き去りにしていた。
 剣の切っ先にまで、自らの血潮が流れているかのように思えた。
 自分の持てる力、それ以上のものと一体になっているようにさえ感じた。
 それだというのに、彼には決して届かない。
 …次が自分に放てる最高の、そして最後の一撃だ。
 自分の全てを叩き込もう。
 絶対の自信がある。これならば必ず彼に追い付ける。
 しかし完全に矛盾するようだが確信がある。彼は必ずこれをも超えて来る。
 それが分かっているからこそ、自分は今見えているその頂の先にまで飛べるのだ。
 永遠に等しい瞬間がそこにはあった。
 今立っているこの場所こそが自由だ。
 世界には光が満ちていた。
 ――
「俺の勝ちだな」
 ……………あ…、負けちゃったのか…。
 彼の言葉で、イノセントは大地の上に仰向けで倒れている自分の姿にやっと気が付いた。
 体中から、自ら火傷してしまいそうなほどの熱が湧き上がって来るのを感じる。
 もはや力など入らず、指先を動かす事さえ出来ない。
 だが、顔には微笑さえ浮かんでしまった。
 ただただ満ち足りていたのだ。
 とうに勝敗などどうでも良かったのだから。
 すべてが在るが故に在った。純粋な、そして、澄み切った時間だった。
 理由や意味、そういったすべてのものが蛇足にしか思えなかったほどに。
 本当に素晴らしい密度だった。
「ふふん。こっちにはまだ切り札が残っているんだぞ?」
「………え?」
 自慢げに鼻を鳴らした彼に、やっとのことで驚きと疑問の声を漏らすと、彼はより一層嬉しそうににんまりと笑った。
 まるで悪だくみをしている子供のように目をきらきらと輝かせ、彼は剣を振り上げると――
 ――それを泉へと放り投げた。
 空を舞う彼の剣が、イノセントには随分とゆっくり見えた。
 くるくると回りながら刀身を輝かせ、人の目にその名残を残しながらも、揺るぎなく自らの軌跡を描いていくその姿が限りなく美しく見えた。
 何ら不思議なところなんてどこにもない、ごく自然な運動であることは十分に分かっていた。だがそれでも、なぜかそれは初めて目にするもののように思えた。それこそまるで、その剣によって天地が分かたれて行く瞬間に立ち会っているかのように。
 すべてが美しかった。
 世界は隙間なく、摂理で満たされていた。
 そのことが堪らなく嬉しく思えた。
 知っていても、ずっと分からなかったこと。
 そのすべてに、今なら触れられるような気がした。
 世界自らが謳う生命の讃歌が聞こえていた。
 私がどんな過ちを犯そうとも、世界を満たすこの美しい旋律は決して絶えずにいてくれた。
 それどころか、君たちは私にその永遠に加わることをさえ赦してくれた。
 ここから先、君たちはこの調べをさらに奏で続けて行くのだろう。
 君たちの始める世界はきっと、無限の楽奏に満ちているのだろうと心から信じられる。
 これからは、時折それに耳を傾けさせて貰えれば、それだけで私は本当に嬉しい。
 あまりにも神々しくて、私のこの手でそこに加わるのは憚られるから、それだけで。
 血に塗れてしまったこの手でそこに行くなんて、とても恐れ多いから、それだけで。
 君たちはもう十分過ぎるほどに、私を救ってくれたのだから。
 ――だが君は、そのすべてを超えて行く。
 ついに泉の中心にその剣の切っ先が触れた。しかしそれは水面を揺らすこともない。まるで剣は溶けて消えてしまったかのように、ただ泉の中へと吸い込まれた。
 一切の音が消えていた。泉はそれが当然であるかのように澄み切った、揺れることの無い美しさを湛えている。
 次の瞬間、泉の中心から皆に向かって暖かな風が吹いた。泉はその色を朝焼けのように朱色に染めたかと思うと、泉の底から昇って来た一つの光によって、次第に一点の曇りも無い紺碧に変わって行った。その形ある光が水面を越えた時、それはたった今芽吹いたばかりの木の芽のような形を為していた。それは次第に成長し、大樹へと変わっていく。悠久の時の流れを早回しで見ているような光景だった。
「え…? な、なんで…? 昨日私が見た時には魔力なんて全く無かったのに…。いや、そもそも聖霊祭の時とも違う…!」
「なははっ! やっぱりうまくいったな!」
 サンが声を漏らした。誰もが目の前で何が起きているのか分からずどよめいている。
 だが、彼はただ笑うだけだ。
「え、あ、あの…! ディオさん! これはいったい…! ま、まさかこれが結晶…? でもどうやって…!」
「ふっふーん」
 彼はただ得意げに、そして自慢げに鼻を鳴らした。
 どこまでも天に伸びていく光の大樹が人々の視界を完全に覆い尽くした次の瞬間、それは純粋な光へと変わっていた。どこまでも強く、計り知れないほど大きな光だというのに、目が眩むことはまるで無い。形などとても捉えることが出来ないというのに、ただただ目を奪われる。初めて見るはずのものなのに、それはなぜか温かい懐かしさを抱かせる。
 そして彼は、この泉一番の大木の方へと振り返って声を張り上げた。
「よーし! クリス! 見せてやれ!」
「うん!」
 ディオの呼びかけにクリスは樹の影から一気に飛び出すと、躊躇うことなくその光へと飛び込んだ。


「…おとうさんに、あいたいな……。」
 クリスが涙ぐみながらそう漏らしたあの時、ディオが浮かべていたのは悪戯っぽい子供のような、そして自信に満ちた、いつものあの笑顔だった。


 すべての事情を知る者たちでさえ、光の中から現れたあの人の姿に唖然としている。事情をまるで知らない者たちにとってはなおのことだ。もしかしたらあの人自身、何が起こったのか把握仕切れていないのかもしれない。だが、降り注ぎ始めた光が生み出すその神秘的な光景から、尋常ではない何かを目の当たりにしているのだと誰もがすぐさま理解していた。
「――ん? あっちい!」
 その光が誰かに触れると悲鳴のような声が上がった。ゆっくりと、だが隙間なく、さらに人々に舞い降りて来るその光に似たような悲鳴があちらこちらから上がり始めた。
「ちょ、ちょっとディオ! あんた一体なにやったの!」
「あ、やべっ! これ体力も回復しちゃうんだったか…! で、でもたった今こっちが勝ったんだ! もう一回やっても俺が勝つに決まってるだろ! 戦力だってさらに増えたんだぞ! ほら! サンもなにぼーっとしてんだ!」
「え、え…? だ、だって…! よ、よかった…! よかった…! で、でもどうして…! なんで…!」
「な、なに泣いてんだよ! もー!」
 泉の中心には満天の笑顔のクリス。
 ――そして、その祈りを受け取り、また彼自身も祈るように彼女を抱きしめ返す、ダーレスの姿があった。
「あっはっはっはっはっ! あーあ! 敗けた! 完敗だ!」
 イノセントは未だ仰向けに倒れたまま声を張り上げた。
 目の前で起きたことが何なのか、自分にはまるで分からない。
 それは冒瀆なのか、奇蹟なのか、それさえも計り知ることが出来ない。
 真っ青な空に新しい太陽がさらに高く昇り始めている。
 このあまりにも大きく途方もない世界はどこまでも懐深く、そして果てしなく、目の前に広がっていた。

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