それは冒瀆的な物語

だく

その10 失楽の二人


 夜が更けた頃、サンは一人、ダーレスの家を抜け出した。イノセントの考え方を自分はきっと理解できてしまう。だが同時に、クリスの事を心から大切に思える。きっと、自分がこの状況の唯一の鍵だ。まだ自分に何が出来るのかさえはっきりしていなくとも、イノセントと言葉を交わす必要がある事だけは明白だった。
 詰所近くの暗い路地裏まで来ると、サンは小さく息を吐き、姿を消す魔法を自分に掛けた。あの時とは違って時間もある。丁寧に複数の魔法を重ね掛けした今なら、闇夜の中では当然として灯のともった室内でも自分の姿は全く見えないはずだ。
 静かに息を殺して機を待つと、がやがやと話しながら四人の騎士が詰所に戻って来るのが目に映った。胸はドキドキと痛いほどに鳴っている。彼らが何を話しているのかさえ自分の耳に入って来ない。だがそれでも、姿を消したまま彼らのすぐ後ろに身を寄せ、彼らが詰所の扉を開けるのに合わせて自分もその中へと身体を滑り込ませた。
 その騎士たちの帰って来たことを告げる声、それを迎える声とこちらに向けられるいくつもの視線、それらの全てが自分を咎めているように思えてしまう。だがすぐに上の階へと続く階段を見つけて、サンはその場を離れた。今は誰に止められようともやらなければいけないことがある。詰所は二階建てだ。きっとイノセントの部屋もそこにあるだろう。
 そして二階のある部屋の前でサンは足を止めた。詰所の造りから言ってこの部屋だけ広い区画を取っている。方角からして先ほどサンが隠れていた道路側に面していて、外の様子を伺う事が出来るようになっているようだ。
 サン自身にも直感があった。この奥にイノセントはいる。
 二階に他の騎士が上がって来る様子は無いことを確認すると、サンは自身に掛けた魔法を解き、その扉を叩いた。
「…サンです。大事なお話があります、イノセントさん」
 すぐに聞き覚えのある優しい声が応えてくれた。
「よかった、無事だったんですね」
「またイノセントさんにも助けて頂いてしまったみたいで…。何度もすいません…、そしてありがとうございます」
 自分がここに忍び込んで来たことも彼は分かっているはずだ。だが彼はそれを咎める事もなく、柔和な表情で迎え入れてくれた。
 だが部屋の中へと場所を移すと、簡単な挨拶のような会話さえもすぐに途切れてしまった。少しの沈黙が流れた。
「さあ、なんの話をしましょうか?」
「…それが、私にも分からないんです…。話さなければいけないことがあまりにも多くあるような気がして…。」
「ふふっ、そうですね。じゃあ私から話を振りましょうか。」
 まるで楽しい社交場のような切り出し方だった。だがそれは、触れれば切れてしまう程の真剣さを互いに剥き出しでこの場に持ち寄っているからこそ、そうせざるを得ないことははっきりとしていた。
「あなたはどうして王都を離れたのですか? あの時は私の方から決めつけるようなことばかりを言ってしまいましたが、今はこういう話をするためにここに来てくれたのでしょう?」
 サンは頷いた。
「あそこには本当に色々なものが在ります。目が回ってしまう程たくさんの人がいて、最先端のもので溢れていて、それを支えて余りあるほどの仕事まであります。…だけど、どんなものにもその裏には強迫観念のような幸福が張り付いているような気がしてしまったんです。人が幸福を追い求める姿を批判する資格なんて私に無いことは分かっています。でもまるで、幸福という観念に急き立てられているように私には見えてしまった。夢を思い描いて邁進していく人がいる事も分かっています。私はそれに憧れてさえもいました。それでもやはり、私にはあそこでの未来に何も見出すことなど出来ませんでした。ただ惰性のままあそこにいるのは、まるで自分の意思を捨て去るのと同義であるかのように思えたんです。私は自分の命の意味は自分で決めたかった。王都が用意してくれている幸福のサンプルの中には私の求めているものは無かった。保証された幸福よりも、あてもない自由を求めたんです。ただそれだけの、子供みたいに我儘な理由です。」
「私にはやはり、むしろ立派な理由であるように思えます。ただ流されているだけでも生きていけてしまう世の中であろうとも、それを良しとせずに自らの意思を持つ、私はそれこそが強さだと思う。
 …あまりにも気軽に人口に膾炙する言葉となってしまった分、私たちは自由という言葉が本来指示していたはずの意味の一部を忘れてしまったのかもしれません。ですがそれは本来、真剣に追求していこうとすればどこまでも孤独な闘いを強いられるものに他なりません。自分の抱いた思想と正面から向き合おうとすれば、世論や常識というその曖昧さ故にあらゆる批判の対象とは成り得ないものと相反することだってあるはずです。それが分かっていてもなお、自らを自らとして保とうとするならば、世界と自らの間にあるその矛盾に押し潰されることの無いよう永遠に耐え続けなければいけません。人々からの期待、それを受けてすでに内面化までされてしまっているだろう良心にさえ、自分が本当に自発的に生み出した何かの萌芽は圧迫され続ける事になります。その萌芽を守ろうとする限り。
 ですがあなたはここを超え、自らの世界までをも手に入れた。」
「私は――、私はそんなに立派な人間なんかではありません…。いつだって…。」
 私が王都の生活に耐えられないような弱さを持っていなければ、そしてそこから逃げ出そうとして旅になど出なければ、こんな事態にはならなかったのかもしれないのだ。もしかしたら新しい何かが始まるかもしれない、そう思えた未来はあまりに脆く、すでに自分の手で壊してしまっている。ダーレスはもういないのだ。たった一人の女の子を残して、私が彼女から父親を奪ってしまった。
 しかし伝えなければいけない事実だと分かっていても、どうしてもそれを切り出すことが出来なかった。それは核心の所にある。不用意に切り出せばその瞬間に彼と分かり合える余地は完全に消え去ってしまうかもしれない。そんな予感がどこかあった。
 不自然に押し黙ってしまったとはいえ、いくら彼でも全てを察することが出来たはずは無い。だが彼はこちらの様子を気遣うように、少し話を戻して別の方向へと向けてくれた。
「私も、王都にある幸福に価値を見出せなかった人間です。あそこでは人間よりも大事な目標が無数に掲げられています。それは未来だったり、果て無き発展だったり、もっと明け透けに利益という言葉が使われることだってあるでしょう。君の言う幸福はかなり的確な言葉だと私も思います。何にせよ、ここには偉大な何かが人の上にいる。
 きっと、少し前の時代までそこにいたのは神でしょうね。人々が自由を得て行く当てを失い困り果ててしまう事が無いよう、神は人々の生活の基盤にある事で祝福の約束を、つまりは幸福を分け与えていました。誰もが帰属先として神をその内に抱いていた。ですが人々の帰る場所と成り得たのは神だけではありません。他には絶対的な権力者、自らの民族共同体などがあるでしょうか。もしかすると初めの意味など失って独り歩きし始めたただの言葉に全ての人間が傅いてしまった事だってあります。それは別に何であっても良いのです。肝要なのはただ、それらが人よりも優先するという構造が、むしろ人に帰属感から導かれる安定と幸福を供したという事です。
 今はもしかするとその最も高いところには、神などを介在させること無く、直接に幸福がいるのかもしれません。誰もが自らを幸福という曖昧な概念の中に漬け込むことを目的としている。自分の求めているものと他人の求めているものの境界が消失していく。誰もが幸福のために自己を喪失していく。自らの意味よりも幸福であることが人にとって何よりも大事なものへと変わっていく。
 この人間の無意味さは廻り続けて行くこの世界にとって非常に都合の良いものです。人間はいくらでも交換可能なものへと変わりました。その上、何より人間自身がその事を受け入れています。自らの空虚さに圧迫されるように誰もががむしゃらに働き、その喪失してしまった自己を埋め立ててくれる幸福を確保しようと躍起になってくれる。しかも実際にはそんな幸福が提供されなくともこれは成り立つのです。今がどれほど不幸であっても、どこかには必ず幸福があるはずだと信じるならば、人々はさらに血眼になってその幸福を探し続けるだけなのですから。無意味なものと化した人間には、もはや幸福に夢中になること以外に出来ることなど残されていないのかも知れません。幸福を追い求める事に耐えられないならば世界から消えるしかない。もはや幸福であること以外に人の価値や意義はない。
 こんなもの一つの歪み切ったモデルにしか過ぎない事は十分に分かっています。だけど、この世界の一部は確かにそういう形で私には見えてしまっている。私にとって提供される幸福が理解できないのも当然です。あなたと同じように、自分の命を私は求めていた。」
「…ダーレスさんも言っていました、神さまに成り代わろうとするものがいる事を。だけどそれは、神さまなどでは無いはずだとも。」
「そうですか…。
 それならばきっと、こんな言い方をしても君が不快に思わないのなら、私たちは知恵の実を食べてしまったのかもしれませんね。どれだけの幸福が用意されていようとも、それを取るよりは自由を欲した。あの楽園で生きている人々が今もなお見ている夢からはもう醒めてしまっている。一度目を開いてしまえばもうかつてのようには戻れない。幸福の中に浸っている事はもう出来なくなった。
 …だが、死が自らの内に宿る事になろうとも、私は自由のために何度でもそれを喰らうだろう。それ故に、彼らの神にもう二度と顔を向けることが出来なくなろうとも。」
 彼の眼に現れた紅蓮に、身体までもが焦がされるような思いがした。深部を避けて、ただ畔を歩くだけのような会話はもう終わったことをその眼は告げていた。
「私は、……――、私にはあの子を認めることは出来ない…!」
 ついに彼は切り出した。
「あの子は人と物との間に何の境界も無いことを指し示す! 私たちが抱いているつもりのこの自由な意思などただの錯覚でしかなく、すべては自然が揺り起こした運動に過ぎないという証明だ…! 人間の生には目指すべき目標も意味も無いというこの世界の象徴そのものだろう…! それはまさしく人間存在への冒瀆に他ならない…!」
「それは違います! クリスちゃんが教えてくれるのはむしろ、どんな人であろうとも生まれながらにして世界と調和し合っているだという事実そのものです!」
 彼の芯が折れるような事は決して無いのかも知れない。ましてや言いくるめるような終わり方など絶対に在り得ない。だがそれでも、今こそが闘わなければいけない時なのだ。ただただ全身全霊で応えた。
「ダーレスさんはその神さまに成り代わるものの話をした時、たとえそれが本当に神さまのように振舞っていたとしても、それに逆らう事は赦されているはずだとも話されていたのです。
 本当の神さまについてのお話は自分には出来ないとダーレスさんは言葉を避けましたけれども、あの人はそういう所に人の煌きを認めていたはずです。どんな言葉でもそれは人を縛り、自由を奪うことになる。それを知っていたあの人が見ていた神さまは何も言わず、それでも全てを赦して優しく微笑みながら、人を見つめていてくれているような存在だったのだと私は思います。
 そんな優しい世界を見出せるということ、思い描いても良いのだということ。こんな私でもここにいても良いのだとその時に諭してくれたような気がしたんです。
 …クリスちゃんは、どこまでも優しく、全てを赦す想いの結晶に他なりません…!
 あの子の中に在るのはただの自然の運動では無く、この世界の摂理そのものです…! このどこまでも広がる世界の全てをあの子はその内に抱いている、尽きることなど無いほどにこの世界が大きいことを示してくれる…!
 そこに現れるのは機械的な運動にしか過ぎない人の姿などでは決してありません! 誰もがあの子と同じなんです、誰もがその内に世界の全てを宿しているんです…! あの子が教えてくれるのは、どこまでも自由な人の姿以外のなにものでもありません!」
「…そうだね。君の言う通りなのかもしれない。人の心が流転する自然の波の中に現れる錯覚のようなものでしかないとしても、それ自体が偉大なものだとするのならそれは決して人間への冒瀆などにはならない。むしろそれは祝福とさえ呼んでも良いような意味を持つだろう。」
 彼は静かに頷いた。しかしその眼の射貫くような光はさらに鋭さを増した。
「だが君は気付いているだろうか? あの子の中に宿っているものが世界そのものだとするならば、それが何を意味することになるのか。彼女が何者になるのかを」
 短くとも耳が痛くなるほどの沈黙が流れた。
「あの子は神だ。」
 瞬間、時が止まったような気がした。彼が今口にしているのはただ闇雲に権威を振り回す存在の、人がいつの間にか創り上げてしまっただけの「神」などでは無い。始まりであり、全てであり、誰にも語り尽くす事さえ出来ないはずのあの神だ。
「ま、待って下さい! それでもただその誕生が特別であったというだけです! クリスちゃんが普通の女の子だってことはイノセントさんだって十分に分かっているはず…!」
「ああ、地上における神だなんてただの呼び名に過ぎない。だがその特別さはまさしく神としての力さえも持つ…。…いや、むしろ彼女が普通の女の子であるからこそ、その神としての力は増すのかもしれない…。彼女を知れば誰もが自らの事を省みずにはいられない。人が連続した自然現象の集まりでしかないとする強烈な指摘は翻って誰もに自らの命を自覚させるだろう。それは自らが自らで在る事の合理性さえ失われてしまったあの楽園で、幸福に生きる事を選ぶために自らの死を選んだ人々でさえもだ。そして君の言う通りに、人々は自らの内にも神の御光が宿っていることを知るかもしれない。あの子はまさしく死者を蘇らせることが出来る、その奇蹟を起こせるだけの力を持っている。
 物でしかない人間としての概念を超えようとするならば、必然的に彼女の中に神が現れる。それは全ての人が神の似姿であることを指し示す。人の全ては神に帰結することになる。彼女は、誰もが無限の存在である事を人々に教えてくれるだろう。
 生の無意味さを暴露するなどというのは彼女の示す真の問題の表面的な部分に過ぎない。むしろこちらにこそ、人の生を脅かすあらゆる危険が詰まっている。」
「危険…? ど、どうして…? それならばクリスちゃんはむしろ人の自由を唄い、自らを押し殺すことでしか生きられない人々の救いに他なりません…! あの時にイノセントさん自身が言ってくれたように、誰もが自らの命の内に生きられるというその可能性を示してくれる存在ではありませんか!」
「この世界はもう自由なんてもの必要としていないよ。人々だってそれを手渡されたら初めは喜ぶかもしれないが、すぐにどうすれば良いか分からなくなって途方に暮れるに違いない。そのうち、自らがまだ自由を持っていることを確かめるために、自由の敵を作り上げて争いを始めるだけだ。敵を批判することでしか手の内に自由がある事を理解できなくなってね。
 今度は再び長い争いを経て自由が神になるだけだ。そしてその自由に支配されることを人々は望むだろう。口を開けて待っていれば幸福が垂れ落ちてくるというのに、その構造を拒否することがどうして人間に出来る。
 救いなんて誰一人として待ち望んでなんかいないんだ。」
「あ、あなたは一体――…」
 自由への讃歌と共にそれを否定する。彼がどこに立っているのかさえももはや分からない。彼の言葉に追い付けない。
「私は知恵の実を食べたんだ。だからそこには死と罰も含まれている事を知っている。ただそれだけの事だよ。自由が大切だからと言って人々に知恵の実を配って歩けば、それは人間がやっとたどり着いたこの世界を滅ぼすことと変わらない。
 そもそも自由というものを、いや、敢えて言い直そう。神というものを理解できるほどに人間とは上等なものなのか?」
 その時の彼の表情は底が見えないほどに深い愁いを感じさせるものだった。だというのに、それは同時に、歪んだ微笑のようにも見えた。
「人間には神の名を絶叫し、歓喜の涙を流しながら女子供を殺すことが出来る。
 これはもしかすると自らと違う神を信じる者をその手に掛けている場面かも知れない。相手を徹底的に否定することで自らの神と一体化できるという法悦を味わっているその瞬間だ。それならばその殺し方は残虐であればある程に強烈な快感とさえ呼べるものを覚える事だろう。目を愉しませる為にシーソーの上で人間を火あぶりにしてきた事だってあるんだ。一種の娯楽さ。
 神と共に殺した話ならいくらでもあるよ。例えばこんなものはどうだろう? ある虐殺の一場面だ。
 まずは囚人の手足を縛り上げて無理矢理にナイフを持たせるんだ。そしてその刃先を同じように拘束した彼の妻や父、母、娘や息子の胸に突き付ける形にした上でその囚人の背中を押すんだよ。そうすれば彼は――もちろんナイフを持たされた彼のことだよ――家族を殺したという決して赦されない禁忌を犯したことになる。つまりは地獄行きが決まるのさ。その後に彼を殺すのは一種の愉悦さえ伴うだろう。それは地獄に行くような真似を仕出かした者を裁くことなのだから。その刑吏は一種の充実感と共に夜はぐっすりと眠ったことだろうね。
 果たしてこれはまだ迷妄に満ちていた時代のある一場面でしかないのだろうか? だが『家族を大切にしなさい』というただそれだけの文言をここまで曲解できてしまうというその事実だけでも、次のような問いを提起するには十分ではないだろうか。
 神など人間の手には余る思想ではないだろうか、と。
 こんな話は本当に腐るほど無数にあるよ。なんだったら神から離れたって良い。
 母親から取り上げた子供を放り投げ、曲芸のように直剣で受け止めて遊ぶのもまた人間だ。男か女か予想して妊婦の腹から短剣で赤ん坊を切り出して賭け事するゲームだってあるそうだ。だがこれは別に穢れ切った大人だけに限った話ではない。こんなこと子供にだって出来る。子供が殺される話もあれば子供が殺す話もある。親が子を殺すのもあれば子が親を殺すものだってある。当然、子供が子供を殺すものだって。
 これは彼等だけが特別なのだろうか? いいや、私はそうは思わない。これらは目立って発現しただけであって、どの人間にもどこかに似たような残虐性が眠っているのではないか?
 そしてこれらの類型は今の時代でもその気になって探せばすぐに見つかるはずだ。それもすぐ身近にね。本質的には別に殺すという形式に拘る必要も無いのだから。集団で誰か一人を吊るし上げるのも、自分よりも弱いものを徹底的に痛めつけるのも、その中心にある残虐性は同じように満たされている事だろう。これらが残っていくための要件は驚くほどに簡単で単純だ。
 君だって何かを壊したいと思った事はあるのではないかい?」
 ぶるりと身体が勝手に震えた。整っている彼の顔に浮かんだ僅かな笑みは、まるで頬を裂くようにして現れたかのように思えた。
「改めて訊くよ。
 人間の自由な良心に全てを託す神など理解できるほど、人とは上等なものなのか?」
 サンには何も言う事が出来なかった。言葉を失っていた。
「だがそんな人間たちでも自らの頭上に共通のものを掲げる事がやっと出来たんだ。それが奇蹟なのか神秘なのか権威なのか、そんなことは知らないが自らをそこに預けて人は注がれる幸福を待つことにしたんだ。それが自由でないからと言って、その幸福を人々から取り上げるだけの権利を誰がどうして持つことが出来る…!
 どうしてその自由をそこまで崇め奉る! 知恵の実を食らった私たちは他の誰よりも進歩した存在だと言えるとでも? だから自由の下へと人々を連れて行く資格があるのだと? それは絶対に違う! これはただ他の皆が抱いているものとは別の価値観を手に入れてしまったというそれだけの事に過ぎない! 誰もが等しく人間なんだ!
 人間の主人となり今を生きる人々の幸福を取り上げて正しい方向へと導いてやるのだなどと、その神の如き傲慢を私は決して認めない! 例えそれを為すのが神であろうともだ!」
 もしクリスが何ら特別な存在などでは無いのならば、人間はただ数式の波の上で機械的に動くだけの存在だ。しかし彼女に特別性を認めるならば、それは翻って神の似姿としての人を描き出す。だがその神をも認められないならば――。
「ですがクリスちゃんの奥に神さまの姿を見ようとも、彼女を否定したところでそれはただの象徴以上の意味を持たないはずです! 人間が何をしようともその神さままでは決して届かない! ただ神さまへの呪詛を欲するだけならクリスちゃんを持ち出す必要なんてどこにもありません! 神さまには決して届かない刃を代替として罪なき彼女に向けようとしているだけではありませんか!」
「さっきの会話の焼き増しになるだけだよ。彼女自身は神では無かろうと、彼女は神としての力を持つのだから。彼女は人々を阿片の中に漬け込むような幸福から解き放ち、自分の命は自分が持っているのだというごく当たり前の事を、そしてそこにこそ真の自由の萌芽がある事を示してくれる。
 だが、人々がどれほどの間彼女の中からその真の自由と神を見出していることが出来るのか、という点が問題だ。
 おそらく最初の内は彼女というその存在に衝撃を受け、その目新しさゆえに何の偏見も無く人々は彼女の中からその神を見出せるはずだ。人々は自らの命を生きるというその自由に触れるだろう。
 だが僅かな時の流れと共にそれは形骸化し、いつしか今掲げている幸福と大差ない神となってしまう。なぜなら彼女に何かを見出した者が受けた天啓は、他の者に伝えられるときにはただの言葉になっているからだ。その時それは固定化され分かり易さを手に入れた代わりに、神を見出した者が感じたはずの、心が沸き立つような決して欠いてはいけない感情が消えている。そのうち神の名に宿っていたはずのそれは完全に消え去り、ただの固い言葉が時の流れを超えて残る唯一のものとなっているはずだ。
 そして最後には音だけの抜け殻となり果てた自由が掲げられるだけだ。
 だがこの時にはそれだけでは決して済まない。なぜなら今人々が掲げている幸福もあるからだ。この時にはもはや自由も幸福も同じものに成り果てていて、ただどちらに人の支配権を握らせるのかという問題でしかない。だが名前が違うというのは互いを批判し合うには十分な理由だ。またいくつもの争いを経て、何人にも贖いきれぬほどの罪なき者たちの血と涙が流され、そして結局はどちらが勝つにせよ今と同じ神を人の頭の上に戴かせることになるだろう。
 彼女のために全ての代償が支払われてから。」
「そんなの…! そんなの全て空想でしかないではありませんか! いったいその中のどこに今あるこの世界の現実が含まれているというのです…!」
「彼女が人に自由をもたらす神であろうがなかろうが、彼女は人を支配する神に成り得るほどには十分に特別だという点は認めてくれるだろう?
 そして私たちはここに至るまでの歴史の中でずっとこの神のために殺し合いをして来たんだ。今だって世界を見れば自分を支配してくれる神のために人々は無数の殺し合いをしている。それは文字通り文化的、宗教的な対立かもしれないし、イデオロギーの対立かもしれない。もっと浮世らしく、その全てを隠れ蓑にしているだけで実際は単なる経済的な対立が本当の理由だなんてこともありふれている話だろう。だが確実に言えることは、これらの全てはおとぎ話などでは無く現実だという事だ。神というのは平和をもたらすための存在などではない。人々に剣を投ずるための存在だ。
 むしろ人の自由などというものこそが天上の世界の理屈でしかないのではないか? そしてそれは彼女がこちらに持ち込んで来たとはいえ、本来はこの地上の世界では成り立たないものだとは思わないかい?」
「やっぱりおかしいですよ! あなただって王都の在り方に疑問を抱いている人なのに…! 自由を望んでいる人のはずなのに…! それなのになぜ…! 人がそんなに愚かなものでは無いこともあなたは十分に分かっているはずです!」
「人に自由と尊厳を見出そうとするならばあの子が象徴する君の神だ。
 だが人に幸福と安寧をもたらすことが出来るのは王都が象徴する私の神だ。
 君と私は似ているかもしれないがここでの選択が決定的に違うんだ。私はここで人を道具に貶めようともそれを隠しながら幸福を提供する王都を選ぶ。たとえ私自身はその神を憎悪していようともね。私はその神の罪咎に加担しよう。この御業が人を家畜化していると暴露するものを許さない。
 君の見る真の神に何が出来る?
 重荷に苛まれるものの苦痛を和らげたことがあるのか?
 悩める者の涙を鎮めたことがあるのか?
 その一つとして為せたことなど無いだろう? 人を救って来たのはいつだって人間だ。人間にしか救えないんだ。だからこそ私は神を夢見る世界では無く、人が人を救う世界を選ぶ。その代償として全き神を否定することになろうとも。」
「自由と幸福がどうして対立するものになるのですか! なぜそれが互いに矛盾するものになるのです! 
 …この短い数日の間、私はまぎれもなく自由だった。そして何の後ろ盾も無い私の事を支えてくれるたくさんの人に出会えた。その事が私にはたまらなく嬉しかった…! どうして片方だけしか選べないものとしてあなたはこれを語るのですか…!」
「…君は君の強さを自覚するべきだ」
 どきりと胸が鳴った。最後にローナから言われたあの言葉が頭をよぎった。
「君は本当にどちらも手に入れたのだろう。そこに嘘偽りが入っていない事は分かる。だけどそれは誰にでも出来る事では無いよ。一切の保証がない中に飛び込んでいくのは誰にとっても恐ろしい。しかしそれこそが自由だ。
 だが実際の所、皆で揃って同じものをその頭上に掲げる事を人は選んだんだ。しかも隣の人間が自分とは異なるものを掲げていたら、それはまるで自分の存在を脅かすものであるかのように多くの人間は感じる。もしかしたらそれは自分が自由でない事を咎めているように見えてしまうのかもしれない。だが、たったそれだけの事が十分に争いの理由になるほどに偏狭で厄介でどうしようもない生き物なんだ、私たちは。だから人々は誰もが等しくひれ伏すことの出来るものとしての幸福をそこに据えた。その誰もが共通して抱く絶対の思想となった幸福を否定してしまう自由は、この世界においてはまさしく対立するものなんだ。
 ここでいう幸福という言葉の意味は、君とダーレスさんの言葉を借りれば神に成り代わったもの、くらいの意味でしか無いだろう。だがそんな事、その中にいる彼ら自身にとってはどうでも良い事だ。私たちが語る幸福の尺度なんてものは知恵の実を食べてしまった人間の、あの幸福な世界においての罪に塗れた物差しでしかないのだから。彼らは同じように自分に自由がないなんて思っていないだろう。私たちがそこで見出せなかったその自由というのも、彼らの世界にいられなかった私たちの語るものでしかないのだから。
 異なる価値観を手にしてしまった私たちは彼らの住む世界にはもういられない。これは私たちが彼らに対して進んでいる訳でもない。ただの一つの頑然たる事実だ。
 だが君だってこれらの事がどこかで分かっているはずだ。だから王都を去ったのだろう?」
 その最後の問い掛けにサンは応えられなかった。ひどく動揺しているのはそれが正鵠を穿つが故であることは誰よりも自分が良く分かっていた。
「私も君も知恵の実を食べてしまった事を忘れてはいけない。
 自由な精神を手に入れた。自分の目で世界を見る事が出来るようになった。だが同時にそれは、他の人たちが見ている幸福な夢をもう見られないという事でもある。この自由を得てしまった私たちのこの精神は、彼らの幸福な生き方に何も見出せなかった。むしろそれは全てを虚構だと断じた。だがそれは翻って自らの無意味さを暴露する。どうして全てが無意味に囲まれている世界で自分だけが有意であることが出来るだろう。私たちはもう、あの楽園にいる事は出来ない。まさに知恵の実らしく死と罰もそこには含まれていた。
 だがその楽園にはまだたくさんの人がいるんだ。私はもうそこにいられなくとも、彼らからそれを奪い取れないだけだ。自由という名前を借りようとも、それは結局のところあの楽園にとってはただの害でしかない。それは誰もが同じ夢を見ている時間を終わらせる。あの楽園を人から奪い取ってしまう。幸福の中に生きる人々に余計な艱苦を押し付けるものでしかない。」
 サンは再び何も言えなかった。彼の言っている事の意味が自身の体験として理解できてしまう。
「彼らは知恵の実に手を伸ばさずにいるんだ。そして誰もが等しくひれ伏すことの出来る存在を決して失うことなく信じている。…その幸福を与えてくれるもの、それこそが王都だ。
 夢から醒めてしまった人間にとってはこんなもの全て虚構にしか見えなくとも、それでもこれは多くの人に確固たる基盤を与えてくれているものだ。例えその人々がこの神に対してどれほど大きな懐疑に苛まれていようとも、それでもやはり多くの人々はここから離れる事が出来ずにいるんだ。そのことがむしろこの神の重大さを物語ってしまっている。
 だがその生き方は糾弾されなければいけないようなものなのか? 人々のためにはむしろ奪わなければいけないようなものなのか? もっと良い世界を、などといった言葉はいつだって跋扈しているが本当に心の底からそれを信じている人間はどれほどいるのだろう。むしろ人々が望んでいるのは平々凡々な毎日なのではないのか? だがそんな毎日を送るためにさえみんな手一杯なんだ。どうしてそれで自分を失うことなく生きていけるだろうか。それがどうして赦されざる悪であろうか。真善美、そういったものはもう価値を失っている。もはや人にとって大事なのは言葉のうちに宿っている意味などではない。ただ皆で掲げるものが文句なしに響きの良い言葉かどうかという点に過ぎないんだ。
 人の強さは美しい。だが誰もが強いわけでは無いんだ。そして人々が手に入れたこの世界では誰もが必ずしも強くなければいけないわけでは無いんだ。誰もが生きていける世界を人間は手に入れたんだ。
 …だから大事なんだ、こんなものでも。何よりも大事なものになってしまったんだ。」
「…それでもやはり分かりません…。どうしてあなたはそちらを選ぶのですか…? 自由であっても良いのだとあなたは教えてくれたのに…。あなた自身が言うように、あなたはもうそこにはいられないはずなのに…。」
「…人が好きなんだ。それでも。こんな私でも。」
 彼はただ静かに答えた。目の前にいるのは手を差し伸べてくれたあの時と何ら変わらない温かさと、ほのかな光を纏っているあの人だった。
「……イノセントさんはそれで救われるのですか…? そこにあなたは何も見出してなんていないのでしょう…?」
 彼は何も答えなかった。だが彼はそのすべてを間違いなく知っている。
 もう話すべきことの全てが終わってしまっていた。
「…誰もクリスちゃんのことを公にしようだなんて思っていません」
「王都は広がっていくよ。どこもが王都になっていく。誰もがあそこに憧れているのだから。」
 こんな会話が全て無駄なものでしかない事はサンも分かっていた。彼は自らの在り方という次元で彼女と深く鋭く対立しているのだから。
「…人を信じていないんだ。人の事を愛しているのに。」
「…そうかもね。…いや、その想いだって擦り切れてしまって、もはやただの義務感からそうしているだけなのかもしれない。」
「……っ!」
 サンは息を呑み、目を伏せ、それでも顔を上げると、彼のことを真っ直ぐに見つめ直してその手を取った。
 もう今こそがすべてを伝えるときだ。
「ダーレスさんはもういません」
「…え?」
 尋ね返してくる彼にサンは続けた。もう全てが終わってしまっているのだとしても、終わらせたくなどないのだ。
「心臓が悪くて、本当は魔法を使えないお身体だったんです。でもクリスちゃんを助けるために魔法を使ってしまった…。
 クリスちゃんは救われました…。でも…! でもダーレスさんは…!
 …イノセントさん! 人はそこまで強く人を想うことが出来るんです! 自分の命よりも遥かに強いほどに! そういう人がいてくれたという事、そしてその想いを受け取った彼女がいてくれるという事、それだけで私はいくらでも信じることが出来ます…! それだけじゃない! あなたを含めてここまで私を連れて来てくれた人みんながたくさんのことを教えてくれたんです!
 人は決して弱くなんてない! 人は強いんですよ! イノセントさん!」
 この僅かな数日の間、積み重ねることが出来た目まぐるしくとも数え切れないほどの輝かしい出来事。胸の内にあるその全てへの想いを伝えたくて叫んだ。怯え切っていて手が伸ばされようともそれを掴むことさえ出来ずにいた自分のことを、ほとんど無理矢理と言っていいほどに、笑いながらここまで引っ張って来てくれたあの人の所にこそ全てがあるのだ。もし彼と自分に違いがあるとしたら、たったこれだけの所にあるのだ。
「――だが…! だが一人がどれほど偉大であろうとも、それがすべての人間への賛歌になど成り得ないことは君だって十分に分かっているはずだ! 他の誰一人として彼ではないのだから! 何より彼の死があったというのなら、その偉大なる彼を殺したのはこの私に他ならない! たとえ彼の成し得たことによって全人類がそちら側に行くのだとしても、私は君たちすべてを敵に回してでもこちらを選ぶ! 私は自らがそちら側に行くことなど断じて許さない! あの人を殺してでも選んだこの道なのだ! たとえ独りになろうとも、もはや何の意味も持たないものに成り下がろうとも、私はそちらへは行けない…! そんなこと決して許されるはずがない…!」
 彼はかぶりを振った。だがそこには苦しげな表情があった。それはこの会話の中で初めて揺れた彼の姿だった。
「いいえ! そんなこと決してない!」
 サンはさらに一歩踏み出し、彼の手をより強く握った。
「ダーレスさんは仰っていたんです、誰にも決して罪など無いのだと! なるべくしてなっただけのことなのだと! 何よりあなたはただ知らないだけなんです! あなたは手を伸ばして私のことを助けてくれたというのに、自分が伸ばされた手を取って良いことを! あなたの言葉は世界の否定などには成り得ていません! どの言葉も全てへの讃歌と紙一重ほどの差しか無いのだから!」
 目の前に深い色を湛えた彼の瞳が見える。彼らしい研ぎ澄まされた剣のような光を保ちながらも、そこには揺らめくものがある。
 サンは決めた。今からする話はただの詭弁でしかないのかもしれない。こんなのずるい方法だ。だがそれでも、今はそれこそが必要なのだ。
 彼の手を引き寄せ、懐から取り出した物を握らせた。
「――騎士の皆さんが探している山賊騒ぎでの魔法使い、それは私の事なんです。これがその証拠です。」
 彼の手の中で、ルビーがあの時と全く同じようにまるでそれ自身が燃えているかのように輝いていた。驚きと共に丸くなった彼の目が、まるで問い直すかのようにそのルビーからサンへと移された。
「私の事を捕らえるならあなたがこの街にいられる理由は無くなります。それともあなたを立ち去らせたくて私が嘘を付いているのだと思いますか? でもここで私の事を見逃したなら、私は必ずクリスちゃんの事を守ります。あの子はあの人の想いの結晶です。絶対に守り抜いて見せる」
 これだけでも彼には十分に言葉の裏の意味まで伝わったことが分かった。戸惑うような色が彼の目に見えた。
 そこに触れなければいけないのだ。そこにこそ彼の心があるのだ。だがその方法が分からない。ただ彼の手を強く握って近付くことしか出来ない。そこに飛び込んでいきたいというのに――。
 突然、狭い室内に木を蹴り砕く音が満ちた。そして、ほぼ同時にサンの視界は天地がひっくり返った。続いてガラスの割れる音、浮遊感、冷たい外気と満天の星空、その全てが感覚を埋め尽くすようにサンを襲った。
 自分が抱きかかえられていると気が付いた時、やっと目が慣れ、すぐ目の前にある彼の顔がはっきりと見えるようになった。この街まで自分を連れて来てくれた彼は騒ぎになり始めた詰所を後に、自分の事を抱えたままに夜の街を走り抜けていく。
「…ご、ごめんなさい……。」
 勝手に一人で抜け出してやって来てしまったこと、さっきのイノセントにした向こう見ずな会話、それでも結局何も出来なかったこと、それどころか詰所の他の騎士たちも巻き込んでただ問題を大きくしてしまっただけであること、そしてまた助けに来てくれたこと。その全てに対しての意味を込めてサンは呟いた。
 だが彼は笑うのだ。いつも通りいたずらを始める前の子供のように瞳をきらきらと輝かせながら。まるでこんなこと何でもないかのように。
「おう! ここからは全部俺に任せろ!」

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