それは冒瀆的な物語

だく

その9-2 呪い

 
 いつも気を遣ってはいるのだが、キャロルはそれでも改めて身だしなみを確認してからレストランを後にした。もうそろそろイノセントも今日の仕事が終わる頃合いのはずだ。そのまま詰所へと歩を進めることにした。
 イノセントは特別だ。
 それはキャロル自身にとって、という非常に個人的な意味合いもあるが、そういった部分も超えて本当に特別な人だとキャロルは思っている。彼はそれほど積極的に自分の事を語ってくれるわけではないのだが、それでも大切な人としてずっと見つめて来たからこそ、キャロルはすでに多くの事を読み取っていた。
 全く正反対の姿が二重になって同時に、しかし矛盾なく調和しているような、少し気づき難い事ではあるのだがそんな複雑さを彼は秘めている。いつだって冷静な人に見えるが、内には燃え盛るように情熱的なものがある。真面目な人である事は間違いないのだが、実務的な面ではかなり融通の利く所もあるらしい。彼と出会うまで騎士とは何の関係も無かった部外者の自分を傍に置いてくれているのが何よりの証拠だろう。格式高く見えながらも、人を区別することを嫌う人でもあるようだ。
 多くを語らずともそれらの全てが彼の深みとなり、彼特有の魅力となっていた。
 …だが、そんな彼を取り囲む状況は苦しいものばかりだ。
 彼は今、魔法使いでありながらも騎士という立場にいる。しかし、ここまでの道のりは決して平坦なものでは無かったようだ。この辺りは人から伝え聞いた話なので正確な所は分からないのだが、どうやら騎士を目指したというよりは、魔法使いとしての生き方を選べなかった、という方が適当らしい。もしかすると特権階級的な扱いを嫌ったのかもしれない。利と高潔さは時に相反する、そして彼は間違いなく、困難であろうとも自分が正しいと信じる方を選んでしまう。心が強く求める何かをずっと探している、そういう人なのだ。
 しかし騎士になってからも、魔法という才は彼に飛躍をもたらすのではなく、むしろ枷の如く付きまとっているかのようだ。今度は魔法使いであるという事が偏見となって正当な評価をされていないようにキャロルには思える。特例として騎士になれたのだから、剣や指揮能力にも相応以上の実力を有していることは間違いない。彼本来の性格として真面目な人だし、彼と出会ってからの期間は長くないというのに、彼がいくつもの事件を解決して来ているのを自分はすぐ傍でいくつも見ている。そもそも魔法を使えるのだから他の人たちよりも遥かに大きな状況解決能力を有していると言っても良いはずだ。だが、彼が率いているのは未だに小さな一部隊でしかない。
 これもやはり少しは贔屓目なのかもしれない。だが、政策として優遇されている魔法使いへの反感が、身近なところにいる彼へと向けられているというのも実際に在り得てしまう話だろう。また、魔法という人よりも優れている点は、時にその力を持っていない人に意味もなく劣等感を抱かせてしまう。それは優れている点として、あまりにも明確過ぎて誰にも否定を許さない代物だ。彼をよく思わない人がそれを目にすれば、悲しい人の性から、それは不要な力の誇示としてその目に映り、自らが持たざる者であることへの指摘となりかねない。彼には何の非も無くとも、その力はいつの間にか、彼を疎ましく思う人を生み出しかねない危ういものへと変わってしまった。本当に必要な時以外に彼が他の人の前で魔法を使わないのはそういう理由もあるのだろう。
 彼にとって魔法とは、彼自身の可能性を奪うだけの呪いでしかなかった。
 彼は決してそういった事を口にはしない。だが彼は恐らく、自分の未来というものを正確に見ている。何も展望がない故に、正確に見通せてしまう。
 ただ傍で見ていることしか出来なくとも、キャロルにはそれが辛くて堪らなかった。まるで濡れた大きな綿が彼に纏わりつき、そのまま彼を圧し潰しそうとしているかのように見えてしまうのだ。
 彼は魔法使いには成れない。騎士にも成り切れない。
 彼の状況は閉塞している。
 それらの全てがあり、彼は自らの意味を問わなければいけなかったのだとキャロルは思っている。問いとしては誰もが一度は考えるようなありふれたものではあるだろう。だが、彼にとってそれはずっと否定され続けて来たものなのだ。彼にとってその問いはあまりにも切実な、生きるすべを見出すための闘いになってしまっていた。
 問うことを止めるとは、今のまま朽ちていくことしか出来ない自らを受け入れ、すべてを諦めること。意味を見出せないとは、自分にとっても自身は不要であると断じること。今やもう、それは本当に文字通り命懸けの闘争になってしまっていた。
 そしてこの闘い自体、自己の再発見を繰り返すような喜ばしいものでは決して在り得ない。自らの意味を求めるという作業は、どれほど逆説的でも、自らの意味を徹底的に否定していくことに他ならないのだから。どこまでも自分の事を削りつつ、最後に残るかもしれない完全なる不変の核を探すことなのだから。それがあるかどうかさえ分からなくとも、立ち止まることを何よりも恐れて己を擂り潰していくしかないのだから。
 全てキャロルには、いくら望んでも出る幕の与えられていない事ではあった。今の彼の心に自分の入り込める場所は無い。全ては彼一人による彼だけの闘いだった。だがどれほど微力なものであろうとも、どうしても彼の事を支えていたかったのだ。
 だから彼に魔法の捜索を依頼されたとき、たとえ細い糸口しか見えなくとも決して諦めなかったのだ。仕事以外の事で彼が何かを頼むことなんて今まで全く無かったからこそ、それは彼にとって真に重要なことだとはすぐさま分かった。それで諦めることなど出来るはずが無かった。
 彼に捜索を依頼されたもの、それはコトハの魔法。
 …それは、人を創る魔法。
 だがこれは、果たして本当に彼の求めているものなのだろうか? 彼は救いを求めているというのに、これはそれとは正反対の、破滅をもたらす魔法でしかないのではないか?
 彼自身から頼まれたこととは言え、そんな疑問が何度も頭を過った。これがダーレスの手元にあると突き止めても、イノセントにそれを伝えることをキャロルは何度も躊躇った。だが同時に、聡明な彼がそのことを自覚していないはずなど決して無いことは分かり切っていた。もしかすると彼には、これが最早避けて通れぬものになってしまったのかも知れない。彼は妥協を挟むにはあまりにも強過ぎ、そして真摯過ぎる人だから。
 それならばせめて、自分は彼の近くで支え続けることにしようと決めたのだ。
 だが、それでも時に思ってしまうのだ。そんな風に問い続けることを諦めてはくれないだろうか、と。
 本当は怖がりの自分は、ずっと彼の近くにいるというのに伝えられずにいる事がたくさんある。だが今日久しぶりにあの弟みたいなのと過ごしたら、多くの事を考え過ぎて立ち止まり、全く動けずにいる自分の事がとても小さく思えてしまったのだ。
 だから一つだけ、伝えようと決心したことがある。
 それは彼の求める回答としては不足過ぎるものかもしれない。だけど、彼の抱えている悩みからしたら遥かに小さな、こんな事に耳を傾けてはくれないだろうか。優しい彼らしく、自分のこんなわがままを聞いてはくれないだろうか。
「イノセントさんはいる?」
 詰所に入ると、一人だけで留守番をしている騎士がいた。他に人の気配がほとんどしない事からみんな出払っているらしい。自分の身体が緊張で少し硬くなっていることは自覚しながらも、いつも通りである事を装いキャロルは彼に声をかけた。変に意識すると余計に分からなくなってしまうのだが、相手は騎士とはいえもう顔馴染なのだからいつもこのぐらい気さくに話していたはずだ。
「ええ、たった今戻って来られましたよ。…ただ、ちょっと様子がおかしくて、心ここにあらずというか…。」
 その彼は、自身も戸惑っているかのような答え方をした。
 瞬間、嫌な予感がキャロルの中を奔った。
「会いに行って良い?」
「え、ええ。もちろん」
「ありがとう」
 最後まで言い終わらないうちにキャロルは階段を駆け上がった。すぐさま目当てのドアの前までやって来ると、少し気持ちを落ち着け、静かにノックした。
 だが、中からの返事は何もない。
 自身の胸が痛いほどに鳴っている。
 ただ聞こえなかっただけであって欲しい。そう信じてもう一度ノックをしたのだが、やはり中からは何の返事も無かった。
「…イノセントさん?」
 小さく声を掛けながら、キャロルはゆっくりと扉を開いた。
 中にはそれでも、イノセントの姿があった。彼は椅子に深く腰掛けながら窓の方をあてどなく眺めているようだった。しかし彼はそのまま身じろぎもせず、こちらに背を向けたまま振り返ってもくれない。
「……あ、あの、イノセントさん…?」
 キャロルは改めて、もう一度彼に声を掛けた。
「…ああ、キャロルさんですか。すいません、気が付きもしないで」
 本当にたった今気が付いたかのようだった。彼はそう口にすると、こちらへと振り返りながら立ち上がった。その話し方はいつもと変わらない、静かで人を気遣うような優しい響きを含んでいた。
 だがその眼には、いつもは本当にわずかな瞬間しか見ることの出来ない、燃え盛るような炎が揺らめいていた。それは彼を焼き尽くそうとする暗い炎でありながら、彼の生命の輝きでもある事をキャロルは知っていた。危うさと抗えない魅力が一体となった、彼特有の輝きだった。
「…あ、あの」
 キャロルはその彼の様子に気圧された。
 しかしイノセントはそれを気に留めた様子もなく話し始めた。それはいつも人のことを気遣ってくれる彼だったら決して有り得ないことだった。今の彼はキャロルの方を向きながらも、どこか自分の内側に向かって話しているようでもあった。
「コトハの魔法の事、ありがとうございます。あの魔法をまだ見せて貰った訳ではないのですけれど、もう知りたかったことは十分に分かったようです。約束の代金を支払わなければいけませんね」
「ま、待って! 待ってください!」
 キャロルは瞬間的に恐怖を感じた。彼は何かしら特別なことを口にしたわけではない。だが、もうすべてが取り返しのつかないほど手遅れになってしまったのだと、今の彼の言葉は告げているようにしか思えなかった。
「ま、まだ約束は終わってなんかいません! イノセントさんからお話を聞くことになっていたはずです!」
 キャロルは矢継ぎ早に続けた。彼が決して手の届かないどこか遠くに行ってしまうかのような恐怖。それを追い払うためにも、そうせざるを得なかった。
「…そうでしたね。…ですが、私から話せるようなことなんてやっぱり何も…。…では、なぜ私がコトハを求めたのか、あなたに頼んだ時はぼかしてしまいましたけれども、もう少し率直に伝えるべきかも知れませんね」
 数瞬だけ伏せられた彼の目が再び上げられた時、そこに湛えられていた光には人を射抜くような鋭さが宿っていた。それは、愛しい人のものだというのにぞっとしてしまうほどの、あまりにも強すぎる光だった。
「私にはもう、人と物との区別が付いていません。これはコトハと出会う前からのことです。誰もがただ割り振られた役割をこなしているようにしか、人がただの歯車のようにしか見えない。そこに人間性などと言ったものが入り込む余地は皆無だ。
 …だけど、そうではないと信じたかった。コトハは確かにこれ以上ないほどに冒瀆的なものかも知れませんが、人の意義を問うという面においては本当に誠実なものに思えたのです。…今はそんなことを問うこと自体、不適切なものとして誰も触れようともしませんから」
「………っ!」
 キャロルはもはや何を言うべきかも分からず、だが不安感に急き立てられるように彼のもとへと駆け寄りその手を取った。初めて触れる彼の手は見た目よりも大きく、想像していたようなしなやかさだけではなく、鍛え抜かれた強靭さと硬さを持っていた。自分はずっと近くで彼の事を見つめていたというのに、結局は彼の事を何も知ることが出来ずにいてしまったのではないだろうか。
 しかし彼はただ、そんなこちらのことを優しく見つめ、そして微笑んでから続けた。それはただ彼との距離を感じさせるだけで、余計にキャロルにとっては辛いものだった。
「でも、これらの問いに対するすべての答えは提示されました。だから、ここまででもう良いのです。…ありがとう、キャロルさん。」
「ま、待って! 私は――…!」
 決して離さぬよう両手で彼の手を握りしめキャロルは叫んだ。
 ずっと秘めて来た溢れるほどの想いに声が震え、目は涙で滲んでいく。
「私は――、私はあなたの傍にいたいのです…。…もう闘うのを止めて下さい…、自分の事を投げ打ってまで何かを求めるような事は止めて…。もう自分の事を傷付けないで…! 独りになろうとしないで…! 私をあなたの傍にいさせて下さい…!」
 繋いだままの彼の手に身体ごと引き寄せられ、気が付いた時には痛いほどに強く抱き締められていた。驚きと共に息を呑んだ身体はそのまま硬直してしまった。呼吸の仕方さえも思い出せない。
 しかし肩に彼の手を感じると、ふっと彼の身体が離れて行ってしまった。
 不安と共に彼の表情を伺うと、彼の口が何かを言いたげに少しだけ動くのが見えた。だが何の声にもならないうちに再び結ばれてしまった。改めて彼は言葉を紡いだが、最初に彼が言ってくれようとしたことはきっともう失われてしまった。
「…この世界はそれでもユートピアです。人々はかつてよりも遥かに多くのものを享受できるだけの豊かさを手に入れました。人々のなんでもない日々の営みの中にこそ偉大なものがあるのだと、私も知っています。――だけど私には、この幸福が理解できない…。…そう、たった一つの問題は、すべて私の中だけにある。…だから――」
 肩に置かれていた手が離れて行き、彼は静かに諭すように付け加えた。
「だから、ここから先はもう、私一人で十分です。――今まで本当にありがとう」
「待って! 待って下さい! そんな言い方されたらまるで――!」
 自分が口走りそうになった言葉をキャロルは慌てて飲み込んだ。もし言葉にしてしまったら、それは本当の事になってしまうような気がしたから。
「だ、駄目です! 私はまだそれでは納得できません! 契約はまだ完了してなんかいません! 私はお金を受け取ったりなんかしません! 絶対に!」
 約束が果たされてしまったら彼との繋がりが断ち切られてしまう。今やもう、こんな所だけが唯一残っている絆だった。
 しかしだがただ駄々をこねる事しか出来ないでいる自分に、彼は静かに、そして初めて耳にする冷たさと共に告げた。
「…それではもうお別れです、キャロルさん」
「――ッ!」
 直接に頬を張られたような思いがし、目頭が熱くなった。
 耳に入ってきた言葉を信じようとしない心が彼の顔に目を奔らせたが、拠り所となる色をそこに見出すことは出来なかった。
 それでも彼の心に近付かなければいけないのだ。だというのに、本当は今すぐにでもここから逃げ出したいと思っている自分の弱い心が邪魔をする。自分の中で渦巻く正反対の二つの想いに板挟みにされ、身動き一つ取ることが出来ない。
「…っ、――早く行け!」
 だが彼の怒鳴り声に釣り合っていた天秤は一気に傾き、キャロルはびくりと身体を震わせると弾かれたようにその部屋を飛び出した。さらにその勢いのまま階段を駆け下り、驚いた様子の騎士を脇に残して詰所の外へと走り抜けた。
 しかしそれでもなおキャロルは走った。何も出来ず、ただ逃げ出して来ただけの自分が情けなく、途中で止まることなどどうしても出来なかった。
(…なにが支えてあげたいだ…!)
 気が付いた時には、薄暗く誰もいない路地裏にいた。
(今こそ絶対に傍にいなくちゃいけないのに! 何も出来ずに逃げ出して…!)
 胸が締め付けられているようだった。自分の為すこと全てが裏目に出てしまっているように思える。目には涙が滲んだ。
 しかしそれでも顔を上げた。
 自分がここで折れるわけにはいかないのだ。彼の力になりたいという思いは本当なのだから。
(どうするべき…? 詰所に戻る? …いや、今は駄目だ。イノセントさんとちゃんと話せないと何の意味も無い。…それならまずは何が起こったのかちゃんと把握しないと…! ダーレスさんの所だ。あそこで何かがあったんだ…!)
 キャロルはもう一度、今度は目指すべき場所を見定めて走り出した。

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