それは冒瀆的な物語

だく

その9-1 破綻

 
 夢の中でローナがこっちを見てにやにや笑っている。
「ねえ、やっぱり気持ちいいよね。ね? 男の人からだとどんな感じなの? やっぱり私がやるのとはちょっと違う? 荒々しい感じ? それともむしろ気遣うような優しい感じ? ねえ、ねえ?」
「し、知らない!」
「というか触れられた時点で意識するものがあるんじゃないの? ぐふふ、男の人のものが自分の中に、なんて言い方したらまるで――」
「う、うううるさい! そんな変な事考えているのはローナだけなんだから!」
「えー、じゃあなんでさっき顔赤くしてたのよー。自分だってちょっとは私の言っている事の意味が分かるから、あんな風に――」
「だーっ! もうローナしつこい!」
 何度か叫び返したところでサンは目を覚ました。
 すぐ近くでイノセントが心配そうに自分の顔を覗き込んでいる。
「あ、ご、ごめんなさい!」
 飛び跳ねるように起きると、サンはばたばたとひどく不格好に逃げ出して距離を取った。なぜ謝ったのかは自分でもよく分からない。
「大丈夫ですか? 軽めの魔法だったはずなのですけれど、急に顔色が変わってしまって…。熱とかはありません? 身体の不調とかは?」
「あ、う、ほ、本当に大丈夫です…。そ、そういうのじゃありませんから…。」
 自分で額に触れてみるとまだ彼の手の温もりが残っているように思える。ここから彼の魔力が自分の中に流れ込んで来たのだ。ぼっと急に顔が熱くなった。
「ほ、本当に大丈夫ですか? なんかまた顔色が…。」
「だ、だ、大丈夫です…! そ、その…! えっと…!」
 やらなければいけないことが山積みになっている気がして、どこから手を付ければよいのかさえ分からない。彼は、自分の心を映す鏡のような話をしてくれた。それこそまるで、彼の中に自分の姿があるかのように。――もしかすると彼には、駄目なところばかりの自分の心の内を隅々まで知られてしまっているのではないだろうか。
「あわ、あわわわ…!」
「え、えっと、どういう流れでここまで来たのか覚えていますか…?」
 まるで裸姿を見られてしまったような気がして、また狼狽えて何も出来ずにいたのだが、それを見かねたのかイノセントは話を進めてくれた。
「えっ! え、えっと、あ、あの…!」
 その声に呼び戻されて慌てて頭を回した。確か街に戻ろうとしたところで倒れてしまったのだが、その後彼に拾ってもらってここまで来たのだ。
「あ、ありがとうございます…。…? あ、ち、違っ!」
 彼からの質問に対してちぐはぐな回答をしていることに、言ったすぐそばから気が付いた。
「そ、その、なぜか街に戻ろうとしたところで倒れちゃって…!」
「その原因なんですけれど、どうやら私に非があるようなのです。…申し訳ありません」
 ひどく混乱した訳の分からない言い方だったのだが、彼はただ真摯に頭を下げてから経緯を話し始めてくれた。
「何が起こったのか詳しくは私たちの方でも調べているところなのですけれど、どうやら街の人たちがやっていたたき火の中に、幻覚剤となる植物が誤って混入していたみたいなのです。それを鎮火するまでの一時的な対応として、私が魔法で風の流れを作って街中にそのケムリを入れないようにとしたのですけれど、そしたらあなたがその煽りを受けてケムリに巻かれてしまったようでして…。…申し訳ありません」
「い、いえ、そんな…!」
 彼は重ねて頭を下げたが、サンはむしろ恐縮してしまった。というのも彼の話が始まってすぐの時から、ほとんど確信と言ってよい別の考えが頭の中に浮かんで来ている。
(…ディオさんだ…。ぜったいおおもとの原因はディオさんだ…。こんなわけの分からないこと引き起こせるのなんて、ディオさんしかいないもの…。)
 自分もいろいろと考え事をしていたせいで、一人で勝手にケムリの中へと突っ込んで行ってしまったような気もする。ディオの話は当然としても、こちらも間抜け過ぎて彼には打ち明けられそうも無かった。
「…むしろ、ありがとうございます…。助けていただいて…。」
 ずるいとは思ったが、お礼を言って誤魔化した。
「…そ、その、私、なんかちょっと変だったみたいで…!」
 落ち着いた彼の声もあってやっと冷静さを取り戻せつつあったのだが、またもや先走り始めた思考につられて言葉が勝手に続いてしまった。
「いえ…。…私の方こそ少し喋り過ぎてしまったかもしれません。まさかこんなところで王都出身の魔法使いの方と会えるなんて思ってもみませんでしたから」
 だが彼はこちらの心の内を察しての事なのか、少し話をずらしてその時のこちらの様子には触れないでいてくれた。
「いえ、そんな…! 私の方こそ…! 別の道を選んだ魔法使いの方がいらっしゃったなんて、私、初めて知ったので…。…本当に、とても勇気を分けて頂けました…。…え、えっと…、先輩に当たられるんですよね?」
「ええ、そうですね。そうなりますかね。いまさらその呼ばれ方は少しくすぐったいですけれど」
 彼はちょっと困ったように笑った。
「私の事を知らなかったというのは仕方ありませんよ。私みたいにわがままを言って、道から逸れる人が出て来るのを防ごうと、学校の方では公言しない事にしているみたいですから。まあ、秘密というほど厳密なものでは無いようですけれどね」
「…なんかちょっとずるいですね…。」
「まあ、そういうところですから…。」
 あんまり良い話題では無いとは分かっていても、何の引け目も感じることなくこういう話を出来る相手というのは初めてで、正直ちょっと楽しい。
「えっと…、今更なのですけれど、お名前はサンさんでよろしいですよね?」
 愚痴っぽくなってしまいそうな流れを変えるように、彼は改めて切り出してくれた。
「あっ、はい。えっと、イノセントさんですよね? お名前だけは色んな人から伺ってはいたのですけれど…。改めてありがとうございます」
 サンはもう一度頭を下げた。
「……あと、私の呼び方はサンで良いですよ? それだとなんか、音の響きが変になっちゃうので…。」
「ではサン君で。これからダーレスさんの家まで彼が迎えに来てくれることになっているのに、呼び捨てにしているわけには行きませんから」
「え、ディオさんが?」
 そう言われると、うっすらとだが、自分のことを探しに来てくれていた彼の姿が記憶に残っている。もしかして心配してくれていたのだろうか。
「…あっ! ち、違っ…! ディオさんとはそういうのじゃ…!」
 しかし一拍遅れて彼の言わんとしていることがやっと分かって、サンはまた慌てて言葉を続けた。だが口にしてみると、ここで焦ってしまうということそれ自体が変な意味を持つような気もして来た。そもそも曖昧な記憶しか持たず、名前が出て来たわけでもないというのに、最初にディオのことが思い浮かんだというのも非常にまずいのではないだろうか。また顔が赤くなってしまったのを自分でも感じる。
「あ、すいません。これは出過ぎたことでしたね」
(…で、でも、ディオさん、心配してくれていたのは本当だし…。――あっ! だ、ダメだ! これこそマッチポンプじゃないか…!)
 イノセントの言葉も耳に入らぬまま、今度は胸の奥がくすぐられるような感じがしていたのだが、サンは慌ててかぶりを振った。昨日キャロルに注意されたばかりじゃないか。
(………で、でも、やっぱり改めてゆっくりと色々話したいな…。最初はやっぱり言い訳みたいな思いでしかなかったのかもしれないけれど、あの時に、結果どころか自分で自信さえ持てていなかったあの時に、ディオさんは私の話を楽しそうに聞いてくれたから…。その上勇気を分けてくれて、手も貸してくれて、ダーレスさんと引き合わせてまでくれたから私はここまで――)
「ふふっ、じゃあダーレスさんのところに行きましょうか。そちらで待ち合わせになっていますから」
「う、は、はい…。」
 少しだけ漏らした彼の笑みに、今自分が考えていたことが再び筒抜けになってしまっているような気がしてしまい、もう何度目かも分らぬままサンは顔を火照らせた。
 二人は泉からダーレスの家へと続く道を行くことにした。
 彼の魔法はやはりよく効いてくれたらしい。もういつも通りに歩くことが出来る。それでも念のためにと彼は担架を勧めてくれたのだがそれは断った。今さらかも知れないし、きっと彼は気にもしないだろうが、それでも迷惑ばかり掛けていてはこちらが居た堪れない。
 しかしその道の途中、イノセントは木々の方に目を向けて足を止めた。どうしたのだろうとサンもそちらを見てみると、小さな影がこっそりとこちらの様子を窺っている。木の影に隠れているつもりなのだろうが、真っ白な彼女の姿はよく目立つ。
「…どうしたの? クリスちゃん…。」
 いつもはこちらを見つけるとすぐさまやって来るのに、今回はなぜだかこそこそしている。サンが声を掛けても、やっぱり木の影から頭を出してこちらの様子を見ているだけだ。
「知っている子ですか?」
「え、ええ…。ダーレスさんの娘さんなんですけれども…。あ、イノセントさんに人見知りしているのかな?」
「…お姉ちゃん、その男の人とあそんでいるの?」
 イノセントに向かって軽く彼女の紹介をしているところで、やっと彼女は言葉を返してくれた。ただ、なんだか非常に頷きにくいような質問だ。
「ちょ、ちょっと違うかな…。…あと、ほかの人にその言い方はしないでね?」
 変な噂を広げられないように、一応予防線は張っておいた。
「えー…。なんだー…。」
 サンが否定すると、クリスはなぜかがっかりしたような言い方だ。それでもやっとサンのすぐそばまでやって来てくれた。半ば癖のようにサンが彼女の頭を撫ぜると、クリスは少しくすぐったそうな、だけど嬉しそうないつもの笑顔でこちらを見上げてくれた。
「ふふっ、かわいい友達ですね」
 イノセントも微笑んでいる。
「ええ。…ふふっ」
 クリスのことをそう言ってもらえると、なぜか自分まで嬉しく感じてしまう。
「クリスちゃんはもうお昼寝終わったんだね。さっきからずっとあそこにいたの?」
 サンは再びクリスに言葉を投げかけた。
「ううん。おとうさんがね、今日はもうお部屋でしずかにしていなさいって言うからね、さっきまではおうちにいたの」
「…ダメだよ、勝手に抜け出してきちゃ…。」
「だってだれもいないときがお部屋はいちばんしずかだもん」
 とんちみたいな事をクリスは言う。
「それでね、お外でいつもみたいにあそんでたんだ。あ! ほら見て! カエル!」
 クリスはぴょんと地面に飛び付くと、あっさりとカエルを捕まえてしまった。サンの元まですぐに戻って来た彼女の様子はどこか自慢げだ。これだけで普段の遊びがどんなものかよく分かる。
「う、うん、すごいね」
 クリスの手から逃げ出そうとじたばたもがくカエルのその姿にサンは思わず一歩退きそうになってしまったが、なんとかぎりぎりの所で堪えてその場に踏み止まった。喜んでくれるに違いないとクリスは思って見せてくれているのに、ここで逃げ出したりしたらかわいそうだ。
「手を出して! のっけてあげる!」
「………え?」
 クリスはそのままにこにこと嬉しそうに続けた。その笑顔には喜びを分け合える歓びに満ちている。ただ、その言葉の意味がどうしてもサンには理解できない。
「手を出して! のっけてあげる!」
 聞こえていないと思ったのか、純粋な、そして誰も逆らえないであろう輝くような笑顔でクリスは繰り返した。
「……う、ぐ、ぐぐ……! あ、ありがとう…。」
 サンは消え入りそうな声でお礼を言うと、意思に反して拒否するように強張ってしまっている手を恐る恐るクリスの方へと差し出した。顔を背けてしまうのも我慢して、ただ薄目だけを開けて、避けられそうにない運命を待つことにした。
「待って、クリスちゃん。そのカエル、僕にちょうだい?」
 しかしイノセントが助け舟を出してくれた。
「えへへ、じゃああげる」
 クリスは嬉しそうな笑顔のまま、彼女と目線の高さを合わせるよう屈んだイノセントの手にカエルを乗せた。
「ふふっ、ありがとう」
「んふふっ!」
 クリスはより一層咲き誇るような笑顔を見せてくれた。イノセントが喜んでくれたことがよほど嬉しいらしく、少しはしゃぎながら辺りをちょろちょろと駆け、また新しい何かを探し始めている。
「あ、ありがとうございます…」
 クリスの気がそちらに取られている内にサンは小さな声で伝えると、イノセントはただ楽しそうに笑った。彼が手のひらを地面に近付けると、クリスに手渡されたカエルはぴょんと跳ねて草むらの中に姿を消した。
「ねえ、クリスちゃん。今から君のおうちに行きたいんだけど、案内してくれないかな?」
「うん! いいよ! こっち!」
 クリスは道の先を指さした。サン達も彼女の後に続いた。
「クリスちゃんはいつもこの辺りで遊んでいるの?」
 サンはクリスに尋ねた。彼女は少しだけみんなの先を進んでは、すぐに二人のもとに戻って来る。みんなを案内しているのだというその事が彼女の心をくすぐるのか、とても誇らしげで、嬉しそうだ。
「うん! でもね、おとうさんとお庭であそぶのがいちばんたのしいよ!」
 彼女のかわいらしい答えにサンは微笑んだ。かなり立派な庭なので、普段は二人で一緒にお手入れしているのかもしれない。
「だけどね、おとうさんがいそがしそうなときは一人であそぶの! でも、泉はあぶないから一人でちかづいちゃダメなの。とくべつだから、ほんとうはもっと近くにいってみたいのに…」
「特別?」
 クリスの言葉にイノセントが首を傾げた。
「あ。あの泉なんですけれど、魔力を溜め込むことが出来るようなんです。それがあふれ出す光になってとても美しいので、この街ではあの泉を中心にしたお祭りがあるほどで」
 サンが少しだけ言葉を足した。あの光景を知らなければクリスの言葉は不思議に聞こえるだろう。
「あ…、もしかしたら足を踏み入れちゃいけないような神聖なところだったんですかね…?」
「あ、いえ。お祭りのとき以外にも、その光を見るためにみんな遊びに来ているらしいですよ」
 神子の時に聞かせてもらった話をそのまま伝えたのだが、言われてみるとイノセントの律儀な指摘ももっともな気がする。
「でもね! せいれいさんだけじゃないの! ほかにもあの泉にはとくべつなところがいっぱいあるんだよ! あのおっきい木は赤い実をつけるんだって!」
 クリスは目を輝かせながら続けた。きっと、ダーレスに教えてもらったものがたくさんあるのだろう。
「ふふっ。クリスちゃんはよく知っているね?」
「えへへ」
 サンがまた彼女の頭を撫ぜると、クリスもまた嬉しそうににこにこと笑ってくれた。
「でもね、もっともっとすごいひみつがあってね、あそこには神さまがいるの」
「神さま?」
 お祭りの時の聖霊とはまた違うらしい言葉に、今度はサンも首を傾げながら尋ねた。
 全てはクリスとイノセントが出会ってしまった時点で避けられないことだったのかも知れない。だがそれでも自分のこの一言が、ぎりぎりの所で保たれていた均衡を崩し、決壊をもたらしてしまった最後の一滴であった様にしか後のサンには思えなかった。
「うん! わたしはそこからきたんだよ!」
(………? …ダーレスさん、お母さんがいないこと、クリスちゃんにはそう話しているのかな? …いや、だけどクリスちゃんがダーレスさんの所に来たのは最近のはず…? いくら子供だからってダーレスさんと出会った時の事を忘れるなんて事は――。)
 この時、サンが感じたのはわずかな違和感でしか無かった。
「…まさか君は…。」
 イノセントは足を止めていた。彼の表情は真っ青になっている。穏やかな色は消え失せ、蒼白とさえ言ってよかった。
「まさか君は…、君が『コトハ』なのか…?」
「…えっ?」
 イノセントの言葉もまた不可解なものだった。まるでサンには意味が取れない。
(コトハ…? それって確か医療用の魔法か何かじゃ…?)
 二人の話している内容が自分の中ではどうしても繋がらない。代わりに疑問ばかりが頭の中で鎖のように連なっていく。冷たさと、重さまでをも伴いながら。
「コトハ? ううん、ちがうよ?」
 しかしクリスはただ不思議そうに首を傾げてイノセントにそう答えていた。
「そ、そうだよね。ごめんね、変な事を聞いちゃって。今のは忘れ――」
 イノセントは最後まで言い切れなかった。クリスの言葉はまだ続いていた。
「わたしは結晶クリスタル
 サンの目にももはやクリスしか映らなかった。絶対に反芻しなければいけない何かが、どこか誇らしげに語られた今の彼女の言葉には詰まっていた。
(ど、どういう意味…? まるで自分が人ではないと言っているかのような…)
 その瞬間、頭の中に閃光が走った。私はこの「結晶」という言葉を、ごく最近目にしている。それもダーレスの書斎、彼の記したノートの中で。これは絶対に偶然の一致などではない。
 だが、そのすべてを暴き立てる理知の光はさらに突き進み、全く関係がないはずのダーレスの心臓の魔法に光を当てた。
 サンは稲妻のような直感に撃たれた。
 私はもう既に、みなが口を揃えて禁忌だと言う「コトハ」の正体を知っているのではないか? ダーレスの胸の内にあるという魔法、これは既存の魔法を遥かに凌駕する、まさしく奇跡の医術だ。ならば、これこそがコトハの力なのではないか?
 だが、「コトハ」とは単なる医療用の魔法などでは決してない。なぜなら、これは絶対にあってはならない禁忌の魔法なのだから。それはただ、人の身体を補えるというだけのものでは無いはずだ。
 そして「コトハ」と「結晶」。今の二人の会話からして、この二つの言葉の意味は限りなく近いのだ。何より、目の前のこの子は自らが「結晶」だと――。
 この場で誰もその「コトハ」について言及したわけでは無い。だが、気が付いた時には彼等の話している言葉の意味が全て理解できるようになっていた。
 人は、人を創れるのだ。
 私たちが社会によって製造された存在に過ぎないと、裏付けるように。


 イノセントはクリスの前で膝を付いた。
 彼女の純真で、好奇心の強そうなきらきらと輝く目がイノセントの目に映った。目と目が合うと、どこか照れ臭そうに彼女は笑顔を浮かべた。イノセントは不器用な笑顔で彼女に応えた。
「お父さんのこと好き?」
「うん! 大好き!」
 勝手に口をついて出て来た質問にクリスは元気に答えてくれた。
「うん、そっか。それは良かった」
 イノセントは彼女のその頭に優しく手を触れた。さらさらと柔らかい髪や、暖かいぬくもりなどをはっきりと感じる。頭を撫でてもらうのが好きなのか、彼女は目を細めてそのまま大人しくしている。
 頭の中では多くの事が渦巻いていたのだがなぜか心は静かだった。可能なものとして実在すると心のどこかでは確信していたコトハの魔法を、今までは自分を欺いてでも認めようとしなかっただけのことでしかないのだ。その葛藤はもうすでに消え去っていた。彼女を目の前にしてはそれが残る余地などどこにもなかった。
 その時、ダーレスが姿を現した。ダーレスのその焦りの見える顔色から、彼女の事をずっと探していたのだろうとは容易に分かった。彼の表情はこちらの姿を捉えるとすぐに全てを悟ったかのような悲しげな色に変わった。
「…ダーレスさん、この子は――」
 イノセントは立ち上がり、彼女から手を離した。問いたいことはいくつもあるはずなのに言葉が続かなかった。だがどこか底冷えさせてしまうような音が乗ったのか、不穏な気配を感じたのか、クリスはぱたぱたと走ってすぐ近くにいたサンの方へと逃げて行った。
 ただ理性だけが全てを正しく認識していた。
 ダーレスが先に口を開いた。
「違うんだ、イノセント君。全ては逆なんだ。その子こそが、人の生が決して無意味になど成り得ない事の証明なんだ。」
「な、なにを…!」
 その言葉を切っ掛けに心が事態に追いついた。今まで彼と行って来たやり取りは全て茶番でしか無かったというのか。沸騰したかのように頭の中は熱くなり、視界は真っ赤に染まった。
「人の手で人を生み出せるというのなら、人の精神も、善意も、悪意も全て抜け穴も無い自然律の下にいるだけだという何よりの証明ではありませんか! あらゆる生の意味の剥奪に他ならない! それ以外にどういう解釈の仕方があるというのですか!」
「少なくとも私にとってはこの子こそが救いだったんだ。君の求める答えに成り得るような、広範な人の意義を答える事なんて私には出来ない。だが、それを問う必要さえも無くなる時が来るんだ。誰にだって、必ず」
「『その問いを提起することさえ不可能になった』の間違いでしょう…! 理論の枠を超えた否定できない事実として人の生が無意味であることを示してしまったというのに! あなたはただ、自らの都合の良いように全てを受け取っているだけではありませんか!」
「…そうだね。私は自分勝手に物事を見ているだけなのかもしれない。それを否定することも出来ない。…すまない、イノセント君。君を騙すようなつもりは本当に無かったんだ。力になってあげたいと思ったのも本当なんだ。…本当にすまない」
 誠実に頭を下げるダーレス、不安そうにこちらを見つめているサン、怯えたように彼女の後ろへ隠れてしまっているクリスの姿に、イノセントの頭も急速に冷え始めた。
「…コトハの魔法ですか?」
 だがそれでもこの話題から離れる事は出来なかった。むしろこの深みに何かがある事をすでに自分は知っていて、今は手探りでそれを求めている途中のような気さえした。
「いいや、違う。クリスの誕生は全く予期出来ていなかった。…本当に奇蹟だったんだ」
 クリスを見つめるダーレスの目には、ただ深い愛情だけが見えた。
「――私自身が『結晶』と名付けたものを創ろうとしたんだ。それは誰もが魔法の恩恵にあずかる事が出来るようにと、魔力を安定した形態で固定化させただけのものになるはずだった。人の望みに応じ、それを叶えるための力を引き出すための源。私が思い描いていたのはただそれだけに過ぎなかった。
 それがなぜクリスへと姿を変えたのか、それは私にも分からない。もしかすると私が魔法の研究をしていた理由の底には亡くした家族がいたから、その思いを汲み取るように結晶が反応してしまったのかもしれない。
 だが彼女は、私が亡くしてしまった妻にも、娘にも似ていないんだ。
 彼女は彼女なんだ。誰かの影などでは決して無く、彼女は彼女以外の何者でも無いんだ。その始まりは確かに特別ではあったけれども、彼女はほかの人々の土台を脅かすような存在では決して無いんだよ」
「…そしてあなたにとっては救いであったと?」
「ああ。クリスはクリスとしてこの世界に生まれて来てくれた。――その事を、私はたまらなく嬉しく思う」
 頭の中で様々な想念が入り乱れていた。どんな物事にもいくつもの多様な面が在る事は十分に知っている。それを痛感するような経験は何度もしている。だが今イノセントの目の前には、多様といえども絶対に同時には並ばないはずの二つの結論が共にそこにいた。
「…救いとは何なのです? それは神への信仰についての話ですか?」
「…いや、それは断言出来ない…。だが、神の名で呼ばれたことだって何度もあったはずの何かだ、きっと。…こんな世界でもそういうものが在ると信じたって良いんだ、人にはそれが出来るんだよ」
 耳が痛いほどの沈黙が流れた。森の中だというのに木々のざわめきさえも消えていた。頭の中が痺れるような感覚を覚えながらイノセントは静かに口を開いた。
「……こんな形での出会いになってしまったとはいえ、それでもこれは私自身が求めていたことです。私にあなたを批判するような資格なんてありません」
 後は何も言わずにただ立ち去るべきだ。そう分かっていたにも関わらず足は釘付けにされたように動いてくれなかった。ただ身体が熱病の時のような悪寒と共に震えるのを感じた。
 自身でさえ何を言おうとしているのかさえ分からない内に、その黒い熱が激情となって噴き出し、口を開かせた。
「……あなたの言っていることは到底私には分からないことばかりだ…! 矛盾していることばかりに聞こえる…! 人は無意味ではないと言いつつ意味など必要無いと言う! 世界の辛苦をまるでそれこそが救済を信じるに足る理由であるかのように指し示す!
 あなたの話している内容は全て言葉を超えた先に在る事だ…! どうしてそんな事が分かり合える! その余地なんてどこに残されているというのだ! あなたは一体何をしている――!」
 いくつもの想いをその内に秘めたダーレスの澄んだ目が、イノセントの中に小さな躊躇いをもたらした。
 それは一瞬の空白となった。
「おとうさんにいじわるしちゃだめっ!」
 サンの後ろから幼い声と共に、クリスの小さな影がイノセントの目の前に飛び出した。
 自分に向けられた彼女の手には青白い光が集っている。小さな身体には不似合いなその強大な力の奔流は、魔法なのかさえも瞬時には分からない。
「いけない! クリス!」
 ダーレスの叫ぶ声が響いた。
(……こんなのもまた、仕方のない結末か)
 だがイノセントは、自分へと向けられているその力から身を守ろうとは思えなかった。心の中の色は、それを目の前にした途端すっかりと変わってしまった。ただ諦めに似た静けさだけがあった。
(世界はずっと昔からこうだった。ただ、やはりと言うべきか、私には受け入れることが出来なかった。それだけのことだ。
 生きることと、世界の内にあること。その二つが私の中ではずっと拒斥し合っていた。いつかこうなるだろうという事はとっくに分かっていた。最後まで和解のしようが無い事も自明だったのだ。自由なんて、結局どこにも無かったのだから。
 ……ここが、私の行き止まりだ。これ以上先は無い)
 全てが静止してしまったような世界の中で、しかしサンが動いた。
「駄目だよ、クリスちゃん。そんな事しちゃ」
 彼女は優しく、クリスのことを包み込むように抱きしめた。青い光に巻かれていく彼女の背だけがイノセントの目に映った。
「だ、駄目だ!」
 叫び、駆け出した。だが突然目の前に現れた影に、その足は止めざるを得なかった。
 行く手を阻むように、彼女が何度も口にしていたあの青年が立ち塞がっていた。
「今は退け」
 彼はただ、それだけを言った。
「しかしこのままでは彼女が…!」
「こっちで状況は一度全部預かる。これ以上余計な混乱は必要ないだろ。この場はここまでで終わらせる」
 彼越しに彼女をも包むあの光が弱まっていく様が見えた。すぐさまダーレスも駆け寄ってくれたことが功を奏したのかもしれない。
 …確かに自分がここにいるだけでまた今と同じような事態になり兼ねない、自分こそが原因なのだ。
「…ええ、分かりました。私は去りましょう…。」
 この彼が、間違いなく彼女の話していたあの人だ。それだけで全てを任せても大丈夫なほどに信頼できるような気がした。少なくとも先程の彼女の口ぶりからはそれを感じられた。
「…その前にこれを。治癒の魔法を封じてある魔法石です。彼女に」
 彼はそれを受け取り、頷いてくれた。
「…すまない」
 一言だけ呟き、イノセントは残っている唯一出来る事として彼らに背を向けた。
 そのまま振り返ることも出来ず、ただ目の前の道に沿って足を進めた。この道が町中まで繋がっていたはずだ。
 だが本当はもはや何も残っていない暗闇の中に歩を向けているだけのような気がした。
 行く当てもなく高熱に浮かされたまま悪夢の中をさまよっているようだった。
 ひどい頭痛がする。
 手のひらにまでかいた汗の感触は、血に塗れた両手を連想させるほどだった。


 サンの目の前で、力を失い、倒れ込みそうになったクリスをダーレスが抱え上げた。
「悪い、遅くなった」
 駆け寄ってくれたディオの言葉に、サンは首を横に振った。へたり込んでしまったまま、自分は立ち上がることも出来ずにいる。心の内からはやっと安堵感が湧き上がって来たのだが、彼の姿はぼやけて見え、声は遠くにしか聞こえない。
「立てるか?」
 治癒の魔法石を使ってくれた彼が目の前まで手を差し出してくれたのだが、未だ身体には力が入らず、そこまで自分の手を持っていくことも出来ない。浅くなっている呼吸はいつまでも整わず、世界からは色がだんだんと抜け落ちていく。
「ご、ごめんなさい、ディオさん…、私も、ちょっと……。」
 自分の出しているはずの声さえはっきりと聞き取れないまま、瞼は重くなり、目を開けている事さえも出来なくなっていった。
「おい、サン!」
 地面に倒れ込みそうになった自分のことを支えてくれた、彼の暖かい掌を肩に感じた。
「サンは大丈夫なんだろうな」「…ああ、クリスの力に当てられて――。」「いったい何が――」「…全て――、まずは私の家へ――」「…――」「――。」
 薄れゆく意識の中で、そんな会話が耳に入って来たような気がした。

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