それは冒瀆的な物語
その8-2 共通する回答
サンにとってはダーレス宅を離れたちょうどその頃、ディオにとってはアルベの宿へと駆け戻っていた頃、イノセントは詰所の二階、隊長格のためにと用意されている部屋で今回の山賊騒ぎの報告書にもう一度目を通していた。
どうも気に掛かる不審な点が多過ぎるのだ。奇襲したはずなのに結局誰一人として捕まえる事も出来ず返り討ちにされている上に、何の脈絡も無く魔法使いが出て来る。そもそも襲撃場所を間違えた挙句、全く関係のない人間を追い回したのではないかと最初は疑ったのだが、しかし盗品の多くがその後道端に転がっていたというのだからやはり訳が分からない。
逃走した山賊から市民の安全を守るため、という名目で一応この街の警備に配属されてはいるものの、自分の方でも少し調べておく必要はあるかもしれない。盗品も所有者不明として大半は騎士団の方でこのまま接収してしまうつもりだろうし、いつもだったら山賊を捕まえられなくてもこれで解決としてしまう所なのだろうが、体面を保つために騎士たちの方で適当な人間を山賊に仕立て上げようという動きが出てくる可能性だってある。山賊はもちろんだが、他の隊の騎士にも注意しておいた方が良いだろう。
イノセントはため息を一つついた。組織なんてこんなものだとも思うが、それにしたってどうしてもうんざりしてしまう。
そこに突然、一人の騎士が慌ただしく駆け込んで来た。
「イノセントさん! 大変です! 街の入り口でみんながソーマを焚いていて…!」
「えっ?」
イノセントはこんな所で聞くとは思ってもいなかった単語に驚き、報告書から目を上げた。
ソーマ。王都で密かに問題となっている幻覚剤の一種だ。もちろん禁制の品なのだが、使用すれば多幸感を得られるとして裏社会では密かに売買されているという。しかしそれとは正反対に、――こういった品にはつきものなのだが――時には人の不安感を非常に煽るという一面もあるそうだ。どちらにせよまともな代物ではないのだが、最大の特徴はなぜか魔法を使える人間には非常によく効いてしまうという点だ。どうやら魔法使いを王都に集める政策と一緒に、この薬物までもが王都の中へと入り込んでしまったらしい。
「まさか…。私が戻って来た時には別に何も――。」
「で、ですけれど本当なんです! ほら、外を見てください!」
あまりにも突拍子も無い事でにわかには信じられなかったが、彼が指差す窓の方を見てイノセントは目を丸くした。紫色の、非常に特徴的なソーマのケムリがもくもくと空に上がって行くのが良く見える。
「な、何でこんな所で…! ポロロ君いますか! 彼を今すぐダーレスさんの所へ遣って下さい! ただしダーレスさんにとってもソーマは危険なものですから絶対に裏道を使うこと! 到着したらこの詰所での協力をお願いしてください!」
「は、はい! すぐに伝えます!」
「私もすぐに現場へ向かいます! みなさんもすぐに準備を!」
部下の騎士と共にイノセントは階段を駆け下り、彼らを引き連れて現場へと向かった。
「うひゃひゃひゃひゃひゃ! おりゃあああっ! もっと燃やせええっ!」
その場に着いてみると、上を下へのどんちゃん騒ぎになっていた。諸悪の根源である紫色のケムリを上げる炎がいくつも並んでいる。どれもがごうごうと燃え盛っているのだが、それでもまだ足りないのか皆そこに嬉々として材木などを投げ入れていた。
「こ、これはひどいな…。」
幸い火はまだどこにも燃え移ってもいないが、このままでは一体何が起こるか分かったものでは無い。見ているだけでも胆が冷えて来る。
「うっひょー! この世は天国だぜ!」
彼等は楽しいらしいが、見ている方からすれば地獄で悪魔たちが宴を行っているのと大差ない。
イノセントは手を前にかざし、魔法で生み出した水流を炎へと奔らせた。だが魔力から生み出した水ではやはりうまく消火し切れない。この惨状にも満足せずさらに新たな炎を作り出そうと、街の人達がにこにこしながら育てていた火種を消すのがやっとのことだ。
「な、なにすんだお前! 焼き芋作ってんだぞ!」
「ど、どう見たってそれだけじゃ済まないでしょ! このままじゃ!」
つい言い返してしまったが、今の彼等には何を言っても無駄でしかない。
緊急措置として、イノセントは追加の魔法で風の流れを生み出した。紫色の毒々しいケムリを街の外へと追い出していく。まずはこれだけでも、これ以上街の中へケムリが流入してしまう事を防げるはずだ。
「私は街中へ入ってしまったケムリを少しでも追い出します! 皆さんは街の人の安全確保と消火作業を! 状態の良くない人は詰所へ運んで下さい、すぐダーレスさんが来てくれるはずです! みなさんも出来るだけこのケムリは吸わないように!」
「は、はい!」
すぐさま振り返って指示を出すと、心強い返事と共にみなすぐさま動き出してくれた。まだ若く、その上騎士の中でも非常に微妙な立場にいる自分の事を信じてくれている事が頼もしい。
「なにしやがるんだ! こんだけでっかくきれいに燃えているのに!」
「危ないだけじゃないですか! ほら下がって下さい!」
すぐさまたちの悪い酔っ払いに絡まれているようなやり取りがあちらこちらから聞こえ始めた。だが皆で十分に対応出来そうだ。イノセントは一安心すると共に街中へと駆け出した。距離もしっかり取っていて風上にいたはずなのに、さっきから目が回っているような気がする。やはり魔法を使える自分とは相当相性が悪いらしい。それでも他の場所ならできる事があるはずだ。
街の中を駆けると、騎士が珍しいのか人々が純朴そうな顔で何事か尋ねて来た。あのたき火が始まってしまってからまだそれほどの時間は経っていないらしく、紫色のケムリが空へと昇っている事にまだ気付いていない人も多いようだ。
「へえー、そんな騒ぎになっているの? 見に行って平気?」
「だ、駄目ですよ、まだ危ないですから!」
何度目かの魔法で風を生み出しながら、尋ねて来たその女性にイノセントは答えた。危険を促すために伝えたのだが、この街の人々にとっては悪戯に好奇心を刺激されるだけだったらしい。
「なになに? なんの話? あっ、騎士さんじゃないの。何かトラブルでもあったの?」
「それがね――。」
別の女性がやって来て会話に加わり始めた。騎士自体が珍しいのか、自分がいるというだけで人が集まって来てしまう。
「あと少しだけは家の中に居て下さいね! それと、野次馬みたいなことをしちゃ絶対に駄目ですからね!」
イノセントはそれだけを言い残して次の場所へと向かった。
(今まであちらこちら回って来たけれど、この街の人は特に人懐っこいというか、度量が広いというか…。焦っているのは何だか自分だけのような気がしてしまうな…。)
そんな事を思ってしまった。
(…だけど、ダーレスさんがいるおかげでみんな見慣れているのか、魔法を気兼ねなく使えるのは助かる)
さらにいくつもの場所で魔法を使い、ふと空を見上げると例のケムリの筋もだいぶ細くなっていた。どうやら皆の方もうまく行っているようだ。
そろそろ例のたき火の現場へと戻ろうかと思ったのだが、その前にイノセントは詰所へ向かった。緊急事態だったとはいえダーレスに対しては不躾に呼びつけるような真似をしてしまったのだ。もしかするとどこかですれ違えるかもしれないと思っていたのだが、そう都合よく事は運んでくれないらしい。おそらくまだ治療に当たってくれているダーレスへの謝罪と共に感謝の気持ちくらいはしっかり伝えておきたい。
しかし詰所の目の前までイノセントが来た時、ちょうど扉を開けて中からダーレスが出て来た。
「あ、イノセント君。お疲れ様、こっちはもう大丈夫だよ」
ダーレスの方が先に口を開いた。
「ありがとうございます、急な要請に応えていただいて。そして、すいませんでした。自分たちだけでは対応できずにご迷惑をお掛けしてしまいました」
イノセントは頭を下げようとしたが、ダーレスに止められた。
「いやいや。むしろ君たちがいてくれた時で良かったよ。こちらで治療は出来ても騒ぎを止めることは出来ないからね」
そう言ってダーレスは後ろの詰所の方へと目をやった。
「症状がひどそうな人達をこちらに運んでもらったんだけれど、体調に悪影響が出てしまっているような人はいないよ。みんなはしゃぎすぎてしまったようなものだ。一眠りしてもらった方が安全だろうと鎮静剤は使ったけれどね。現場の方を見たわけでは無いけれど、他のみんなには水を多めに飲ませておくくらいで十分だろう」
「ありがとうございます、本当に助かりました。残りの現場の方は私たちで対応しておきます」
「すまないね。でも、君はまだ向こうに行くのは止めておいた方が良いよ。ここからでもまだケムリが見えるようだと、私たちには影響が強く出て来てしまうかもしれないから」
イノセントは頷くと共にその忠告に感謝の念を伝えようとしたのだが、ダーレスは手を挙げて軽く流し、立ち去りながら続けた。
「ごめん、待たせている子がいるんだ。あとは頼むね。繰り返しになるけれど、他のみんなには水を多めに飲ませておけば十分なはずだから。あと君も安全第一で動いた方が良いと思う」
そう口にするとそのまま彼は足早に行ってしまった。
(…診療中だったのだろうか。それは本当に申し訳ないことをしてしまったな)
だが彼のおかげで事態は確実に収束しつつあるようだ。気合を入れ直すためにふっと短く息を吐き、もう一度駆け出した。もう数か所で魔法の用意をしてからなら、自分もみんなの所で力になれるだろう。
イノセントが例の現場へと戻って来た時には、さっきまでごうごうと燃え盛っていた炎は完全に消えていた。今はもう、ただ白い湯気が立ち上るだけだ。あの毒々しい紫色をしたケムリはもはやその名残さえ見つからない。
「あ、イノセントさん!」
部下がこちらに気が付いて駆け寄って来た。
「ありがとうございます。これでもう、こちらも安心ですね」
「ええ。…あと、このソーマの出所なんですけれど、ポロロが何かを知っているそうなんです」
彼と入れ替わるように、ポロロが今にも泣き出しそうな顔をしながら目の前にやって来た。
「あ、あの、僕、午前中にキャロルさん達と近くの廃村へ行ったんです。廃品を集めに行こうって話だったんです…。そ、それで色々と集めてから帰って来たんですけれど、その時の一人が急にたき火をしたいって言い始めて…。たぶん、その人は他のみんなに隠れてソーマを拾って来ていたんです…! 僕、気付くことが出来たかもしれないのに…! こんな大騒ぎにならずに済んだかもしれないのに…!」
「その人は今どこにいるか分かりますか?」
「……キャロルさんにちょっかい出そうとした所を返り討ちにされて、今は牢屋に入っています…。」
「え? キャロルさんが?」
気高ささえ感じてしまうような美しさとは裏腹に、物腰は柔らかく愛嬌もある女性というイメージしか無いため、どうもうまく想像することが出来ない。
「ご、ごめんなさい…。」
ポロロは顔を下に向け、小さくなっている。
「いえ、むしろお手柄ですよ。…彼等からは話を聞けそうにありませんし…。」
イノセントはちらっと、さっきまで火を囲んでいた人々に目を向けた。
「芋うめー!」
部下たちに誘導された道の端っこで、両手で大事そうに焼き芋を抱えながら目を輝かせて雄叫びを上げている。
「…あの人達には水をたくさん飲ませてあげて下さいね。それだけで大丈夫らしいですから…。」
ポロロを連れて来てくれた彼にイノセントは小さい声で伝えた。彼は頷くと、すぐにそちらへと向かってくれた。
それとは対照的に、そんな街の人達の様子にさらに心を痛めてしまったようでポロロはなおのこと俯いている。
イノセントはポロロの頭にぽんぽんと軽く手を触れた。他の部下たちの手前特別扱いするわけにもいかないのだが、内心、彼の事を年の離れた弟のように感じてしまっている。
「正しさそのもの、になんてなれないものですよ。ただ、だからこそ、時には難しくとも出来る限りの事をしていきましょう。今は特にあの人達のために、ね?」
「………は、はい!」
ポロロは顔を上げて涙ぐんでいた目を擦ると、街の人達の看護を手伝うためにイノセントに背を向けて、そちらへと駆け出して行った。
こういった所が素直で良い子だなと思うと同時に、イノセントにとっては少しうらやましくもある。
確かに大騒ぎになりはしたものの、誰も怪我をしたわけでは無いのだ。ポロロとは違い、自分はこの程度で済んで良かったとむしろほっとしてしまう。だが被害者が出ている事に変わりはない。ポロロの場合は自責の念もあるだろうが、それを差し引いたとしてもこんな自分の感想は冷淡だろう。それこそ騎士になりたての頃はあらゆる事に彼と同じように心を動かされていたはずなのに。
知らず知らずのうちに、自らも摩耗してしまっていることに気付かずにはいられない。
(………ん…?)
客観的に自らを見る視点が何か不審なものに気付き、イノセントは調べようかと近付いていた火の跡から慌てて距離を取った。ダーレスの言っていた通り、もう火は燻ってさえいないというのに自分にはソーマの影響が十分に出てしまうのかもしれない。心に愁いが差すにしてもあまりに唐突過ぎる。
(…他の皆はいつも通りに動けているようだけれど…。…自分はやっぱり、ここにはいない方が良いのかも知れないな…。)
どうしたものかと遠巻きに眺めていたのだが、街から少し出たところにある木陰に、不思議な魔力の流れを感じた。さりげなく光が歪められているのだ。
嫌な予感に駆られてそちらへと走ると、今朝すれ違った覚えのある少女がへたり込んでいた。使い掛けの魔法が彼女の姿を今まで覆い隠してしまっていたらしい。イノセントは急いでその魔力を払ったが、彼女はそれでもまだこちらにも気が付けないようで、涙をぽろぽろと零しながら虚空を見つめている。
「大丈夫ですか?」
声を掛けると彼女は不安そうに、涙をいっぱいに溜めた目でやっとこちらを見上げた。
意識は朦朧としているようだが何とかこちらの姿を認めてくれたらしい。涙に濡れた目を隠すように袖で拭っている。
「もしかして、魔法を使えますか?」
こくりと、何も言わずに彼女は小さく頷いた。
どうやらその事と、イノセントが使った魔法の風下に入ってしまった事、そして発見が遅れてしまった事で誰よりも強くソーマの影響を受けてしまったようだ。異常に気が付いた時には身体の自由が奪われてしまっていたのだろう。今なおどこか不安げな彼女の様子から、もしかすると混乱している中で幻覚か何かから逃げようとして自ら姿を隠すような魔法を使ってしまったのかも知れない。
(…気付けなかった私のせいだな、これは……。)
彼女はふらふらしながら立ち上がったのだが、突然びくりと身をすくませると、小さく縮こまってイノセントの影にひそもうとするかのように身体を寄せて来た。
「どうしました?」
突然様子が変わった事に驚きながらも出来るだけ優しく尋ねたのだが、彼女は何も答えてくれない。ただ何かに耐えるかのように、怯えているかのように身体を小さく震わせていた。
ふと彼女の視線がどこかを気に掛けているのに気が付いて、イノセントは街の方へと振り返った。すると一瞬だけだが、ひどく急いだ様子でその場を走り去って行く青年の影が見えた。
「…今、知り合いの方が迎えに来てくれていたのでは?」
彼女は辛そうに、か細い声で初めて口を開いた。
「……ダメなんです、私…。私、本当はあの人に助けて貰う資格なんて無かったのに…。だ、だけどあの人は約束を守ってくれようとしたのに、私、それをわざと反故にするような事を…! 私…、私また身勝手な事ばっかり…!」
「大丈夫ですよ、落ち着いて」
彼女の声から混乱と葛藤の、辛く厳しい色が見え始め、イノセントは宥めるように言って押し留めた。
(…さっきの人には悪いけれど、今すぐには会わせない方が良いかも知れないな…。)
イノセントは手招きして、たまたま目の合ったポロロを呼びよせた。
「あ、あれ、サンさん?」
やって来て彼女を見るなり、ポロロはそう言った。
「あれ? 知り合いですか?」
「ええ。昨日、ダーレスさんの家の前で会ったんです。ディオさんにも伝えておかないと…。」
「もしかしてさっき来ていた人ですか? 足早に立ち去って行きましたけれど」
「はい、サンさんを探していたみたいなんです。いつまでも帰って来ないからと…。」
「それならダーレスさんの所に彼女を連れて行く旨を彼へ伝えておいてくれませんか? 他の人と比べると、やはり一度診て貰った方が良さそうですので…。ダーレスさんなら良いお薬も持っているかもしれませんし」
彼女は話が聞こえていないらしく俯いたままだ。ただ不安そうに、未だこちらの影に身を隠している。何かに縋らずにはいられないような心細さも今の彼女の傍らには居るらしい。
「…あの人もこのたき火の廃材を集めに行っていた一人なので引き留めようとしたのですけれど、無視して行ってしまって……。」
ポロロがまた言い辛そうに付け加えた。
「それでしたら向こうで私が直接聞いておきますよ。きっと彼女の事が心配だったというのもあるでしょうし、その方が落ち着いて話も出来るはずですから」
「イノセントさんが行かれるのですか?」
「ええ。…まだあの辺りはソーマの残り香があるみたいで、私がここにいても役に立ちそうにありませんから。さっきの彼を探すのはポロロ君にお願いします」
「は、はい」
用意してもらった担架を魔法で浮かせると、彼女にその上へ乗ってもらった。しかしどこか居心地の悪いものがあるらしく、彼女は横にはなってくれずに腰掛けただけなので少し不格好だ。だがこれでも十分だろう。
もう事態の収拾は付きそうだが改めて指示を出すと、イノセントは彼女と共に森へと向かった。
彼女は静かだった。
イノセントも特に口を開くことも無く、お互いに沈黙を守っていた。
しかし森の中を少し進み始めたところで彼女の様子が少し変わった。どこか落ち着きを失ったように、せわしなく辺りを見回し始めている。
ふと先ほどの彼女の様子が頭を過り、イノセントは足を止めると彼女の前に屈んだ。
「…今からダーレスさんのところに行こうと思います。きっと心を鎮めてくれるようなお薬もお持ちでしょうから。………行きたくはありませんか?」
彼女は狼狽えながらも何かを言おうとしてくれたのだが、結局何の言葉にもならない内にその口は噤まれてしまった。彼女の瞳には不安と葛藤の色が見える。身体は強張っていて、手は苦痛に耐えるかのように固く握りしめられていた。
だが、否定しないというのはきっとそういう事なのだろう。
(…困ったな…。彼女の知り合いはダメだったか……。…ダーレスさんの所に連れて行った方が良いのだろうけれど、やっぱり無理はさせたくないし…。)
彼女とすれ違ったのはダーレス宅の前でのことだった。魔法も使えるとなると、もしかすると二人は師弟関係なのかもしれない。近過ぎる人とは一緒にいられないという時も確かにあるものだ。ほとんど初対面のような自分はちょうど良くと言うべきなのか、暗い思いが渦巻いている彼女の心の台風の目となっている場所にいるのだろう。
(…もう少しだけでも回復してくれれば、自分の魔法だけでも彼女の気持ちを多少なりとも落ち着かせられるかもしれない…。どちらにしてもダーレスさんの所へ行く必要はあるけれど、その方がむしろ彼女の負担は少なく済みそうだし…。……待ち合わせはしてしまったけれど、ポロロ君の方ももう少し時間は掛かるだろう…。)
「少し、どこかで休んでから行きましょうか」
予定とは少し変わってしまうが、わざわざ街中に戻るよりはこちらの森の中の方が空気もきれいだろうとも思い、イノセントはダーレスの家へと向かう道からわざと外れることにした。
今朝一人で歩いた時から気になっていたもう一方の道を進んで行くと、美しい泉に辿り着いた。その傍らにある大樹からは慈しむような柔らかい風が吹き下ろされて来る。良い場所だ、こんな時であろうとも掛け値なしにそう言える。方角からしてダーレスの家もすぐ近くにあるはずだ。
「……ごめんなさい…」
魔法を解いて担架をそっと地に降ろした時、彼女は顔を伏せ、膝を抱きしめながら、かろうじて聞こえるほどでしかないか細い声で口にした。
「いえ、そんな。謝るようなことなんて何も――」
「ごめんなさい…、ごめんなさい…!」
彼女は繰り返した。彼女の手は膝を抱えたまま、節々が白くなるほどに強く握られている。それはまるで、自分自身のことを羽交い絞めにしているようにさえ見えた。その声の中には、こちらの胸まで痛くなるほどの明らかな苦しみの色がある。
彼女は謝るためにそれを口にしているのではない。それはただ、自らを責め苛むための言葉だ。
「自分の知っている人と距離を置きたくなるなんて、誰にだってあることですよ。だから今は焦らずに、ゆっくり休みましょう?」
イノセントは彼女の前に屈んでそっと語り掛けた。だが彼女は下を向いたままだ。語気にはさらに苦しみが滲んで行く。
「ち、違うんです、ほんとは私…! 私、本当はみんなの近くにいるような資格なんて無かったんです…! いさせてもらえるような資格なんてどこにも…! だってただ逃げて来ただけだから…! 私のこの力はギフトなのに…! ギフトだから、自分だけのものじゃないって分かっていたのに…! 王都で頑張らなくちゃいけないって、ぜんぶ知っていたのに…! それなのにただ逃げ出して…!」
「――あなたは自分の命を生きようとした、それだけのことですよ」
「……えっ?」
彼女は少し間を置くと、やっとその顔を上げてくれた。涙に濡れたその目には、驚きと共に問い直すような色が含まれている。
「…私も魔法を使えてしまいますから」
「あ、………」
その一言だけで、やはり彼女には十分に意味が伝わったらしい。
王都から遠く離れたここに、若い魔法使いがいるという時点で不思議ではあったのだ。だが先ほどの呟きと今の反応から、その背景が少し垣間見えたような気がする。
何より、今の自分だってそこから遠くない所にいるのだ。分からないはずが無い。
それならば今ここで話すべきは、自分の思う、この時代の魔法使いというものについてだろう。これは初対面にしてはひどく踏み込んだ話になってしまうかも知れない。だが独りとは多くの場合、自傷をよりひどいものにしてしまうだけだ。だから、今はこここそが必要に思える。
「――魔法を使えるということ。私たち自身でさえもこのことばかりに目を取られて、自らのことを社会にとっての一つの機能としてしか見なせなくなってしまうことがあるようなんです。実際のところ、この魔法という力は人生に対する決定権を私たちの意思とは別に持っているようなものですから。
だけどそれだけが私たちの在り方ではないはずです。もしそれしか許されないというのなら、私たちにとっての魔法とはただの呪いになってしまう。魔法だけが私たちじゃないと信じ、それ以外の道を選ぼうとすることは許されて然るべきことのはずですよ」
「で、でも、私が王都を離れたのなんて、ただ無責任なだけで――」
「きっと今の時代、魔法使いが自分に帰るためにはどうしても王都を離れる必要があるのでしょう。」
それ以上彼女には続かせず、少し強引にイノセントは言葉を引き取った。
「王都にいると、私たち魔法使いはどうしても外から規定されてしまいますから。自分で自分が何者なのか決めようとするのなら、どうしても王都にはいられない。それほどに今は魔法使いという尺度が強力です。ただ定められた以外の道を選ぼうとした時、王都を離れるという決断に至るのはごく自然なことでさえあるはずです。特に、正しささえも求めるならば。というのも、強いられただけの行いの中には善悪なんてものは入って来ませんから。だからまずは何よりも自由でなければ。あなたがここにいるというその事実はむしろ、あなた自身が自らに対して真っ直ぐに向かい合った結果なように私には思えます」
「で、でも、私はそんなこと考えていたわけじゃないんです…! ほんとにただの逃避でしかなくて…! 何かを求めていたわけでさえなくて…! それなのに…! それなのに、たくさんの優しい人たちを巻き込んで…!」
「考えていない、というのと、うまく言葉に出来ていない、というのはまた別の話かも知れませんね。言葉にするというのは、思考がかなりまとまって整理されて来た段階でやっと出来るようになるものですから。思考の本当に初めのところはきっと、頭ではなく心でするものなのでしょう。だから本当に切実に何か新しいものを求める場合、それは自らにさえ方向がやっと分かる程度でしかないような、曖昧な形にならざるを得ないのかも知れません。私の場合だと、理屈は右を示しているのに感情は左に行くことを叫んでいるからどうしても止まれないなんてことさえあって――」
イノセントは首を横に振って一旦言葉を切り上げた。このままでは今自分が行っているダーレスとのやり取りにまで話が脱線してしまいそうな気がした。今の話の中心は彼女だというのに。自分はもう大丈夫だと思っていたのだが、しっかりとソーマの影響が残ってしまっているのかも知れない。
だがそれでも、もう少しだけはしっかりと言葉を伝えなければ。
「――自分のことは自分が一番知っているようなつもりになってしまいますけれど、そうでない時もやはりあるものですよ。特に、大事な決断の時に限って。
ですが私からすると、やはりあなたの選択には逃避なんて一切入っていないように思えます。――実は今朝、私はあなたとすれ違っているんです。その時あなたはダーレスさんを訪ねられるところでした。それについさっきは、あなたを迎えに来てくれている人がいました。そのどちらもが、あなたはここで新しい人たちと出会い、新しい自らの世界を創り出したのだと謳っているように私には見える」
「で、でも…。そ、それは、それはただみんなが優しいからで――」
そう口にしつつも彼女の目は戸惑いを示すように左右に揺れた。他の人の事を持ち出すなんて強引な話の戻し方だし、こんな時にする話としても少しずるいやり方かも知れない。だが、こんな時だからこそ許されることでもあるだろう。
「あなたの言うように、きっとそれも本当のことなのでしょう。だけどそれ以上に、みんなが優しいならばそれは誰もがあなたを認めているということですよ。魔法という力ではなくて、あなた自身のことを。
だから自分を蔑むようなことなんて言わなくて良いんです。みんなが支えてくれているというのなら、なおのことそんな風に思っちゃいけない。そもそも、あなた自身だってそんな風に思う必要はどこにもない。せっかくここまで来たというのに、王都に心を囚われたままにさせておいてはいけませんよ。あなたがここにいるというそのことが示しているのは、あなたは自らの命の内に生きることを選べたという事実に他ならないのですから。」
「う…、え、えっと…」
少しは誰かの言葉と重なってくれるところがあったのかも知れない。一瞬だけ見えた表情に、そんな直観を覚えた。
だが今の彼女は面映ゆそうに、どこか落ち着かない様子でそわそわしている。愁いや痛みを含んだあの面差しではなく、どこかあどけなささえあるこちらの表情がいつもの彼女なのだろう。
彼女の顔色ももう大分よくなったように思える。ここの空気が澄んでいたおかげだ。
「――うん、もう大丈夫そうですね」
イノセントは癒しの魔法を手に込めて、彼女の額にそっと触れた。
「――えっ? あっ! あわ、あわわわわっ…!」
良く知られている魔法を使っただけなのだが、彼女の顔は茹で上がったかのように突然真っ赤になった。
「………きゅう」
「…え? えっ! だ、大丈夫ですか!」
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