それは冒瀆的な物語

だく

その8-1 共通する回想

 
 今までサンの触れたことの無い全くの未知の分野の話だというのに、ダーレスの教え方が上手いのか、自分自身でも驚いてしまうほどすんなりと新しい知識は身体の中に溶け込んで行った。むしろそう言った世界が自分のすぐ近くにあったというのに、それに気が付かなかったこと自体が不思議に思えたほどだ。
 随分と久しぶりに、自らの世界を開拓していく学問の面白さに接した気がした。
 時はあっという間に流れて行った。
「おとうさん、おなかすいた」
 今日はまだ見かけていなかったクリスがそう口にしながらやって来た。気が付けばお昼をとうに過ぎていたらしい。部屋の中で見る彼女の姿は、外で活発に走り回っている時とは少し違って、なんだかとても女の子らしく見える。
「ん? ああ、もうそんな時間か。そうだね、お昼にしようか。それよりクリス、お姉さんにあいさつした?」
「んふふ、こんにちは」
 こちらに向き直ると、少しはにかみながらもクリスはそう言ってくれた。どうやら彼女自身、外で会う時と少し勝手が違うのをなんとなく感じているらしい。
「うん、こんにちは」
 その姿がとてもかわいらしく、サンが微笑みながらあいさつすると、彼女も嬉しそうににこにこと笑顔を返してくれた。
「サン君も食べて行くと良いよ。何か作って来るから少し待っていて」
「あ、私もお手伝いします」
 ダーレスはそう言ってくれたが、サンも彼と一緒になって立ち上がった。ただのお客さんという訳では無いのだ。お世話になってばかりという訳にもいかない。
「そうかい? ありがとう、それなら――。」
「わたしも! わたしもおてつだいする!」
 するとクリスも一緒になってぴょんぴょん跳ねた。
「じゃあ、クリスは料理が出来たらお皿運んでね」
「ちがうの! わたしもおりょうりするの!」
「え、えー…。クリス、料理なんて初めてじゃないか。別にわざわざ今日じゃなくても…。」
「ちがうの! おてつだいするの!」
 クリスは退く気が無いらしい。今度は飛び跳ねながらダーレスの服を掴んでいる。
「う、うーん…、でもなあ…。クリスにも出来そうなものって何かあったかな…?」
「え、えっと…。」
 少し困った様子のダーレスと目が合って、サンは他人の家で出過ぎたことかと一瞬逡巡したものの、何も言わない方がむしろ悪い気がしてやっぱりおずおずと提案してみることにした。
「それでしたら、私が出来るものだとホットケーキなんかがあるんですけれど、それはどうでしょう…? 刃物も使わないで済みますし、簡単なのできっとクリスちゃんも一緒に出来ますよ…?」
 すぐさまクリスがきらきらと目を輝かせた。
「ほんとう?」
「うん。これならきっとクリスちゃんも一緒に出来るよ」
 サンが頷くと、クリスは期待に胸まで膨らませてダーレスを見上げた。
 だがそれはダーレスの少し弱ったような視線となって再びサンの元へと戻って来た。
「だけど、私は作り方なんて知らないよ? 料理本とかも持っていないし…。ああいうのって割合とかが大切なんじゃないのかい?」
「あ、いえ、私が覚えているのでそこは大丈夫ですよ。お昼には軽すぎるかもしれないですけれど…。」
「本当かい? …よし! じゃあクリスも一緒にやってみようか!」
 ダーレスがクリスの前に屈んで言うと、彼女は飛び付くようにしてダーレスに抱き着いた。
「…ごめんね、君がいるからって良いところ見せようとしちゃっているみたいで…。」
 小さな声でダーレスは口にしたが、サンは笑って首を横に振った。きっと、午前中は自分が独占してしまっていた分、ダーレスに甘えたいというのもあるのだろう。
 サンにとっても随分と久しぶりなこのホットケーキ作りは、この親子二人の和やかで仲睦まじい様子もあって本当に楽しいものだった。どんな時だって二人はずっと一緒だ。生地作りのため材料をかき混ぜる時には、ボウルを抑えるダーレスの両腕の間にクリスがすっぽり納まって。その生地をフライパンの上でひっくり返す時にも、クリスがやけどしないようダーレスはすぐ後ろにぴったりとくっついて。
 うまく出来なかった時も、初めての体験がいっぱいらしくてクリスは楽しそう。それでもうまく出来た時はやっぱりより一層自慢げで嬉しそう。ダーレスもそんなクリスを見て笑って、熱心に頑張っていた彼女の頭を撫ぜていた。
 こんなの二人にとっては何でもない日常のやり取りでしかなかったのかもしれない。だがサンにとっては胸の内にまで温かいものが湧き上がって来る、本当に特別なものにすべてが見えた。
「ありがとうね、クリスのために」
 もう食事も、その後片付けも終わり、ダーレスは玄関までサンのことを見送ってくれていた。当のクリスは満腹になったのか、ダーレスに抱かれながら昨日と同じようにうとうとしている。昼食後はお昼寝の時間らしい。
「いえ、そんな…。お礼をしなくちゃいけないのは私の方です。魔法の話といい、お世話になっているのは私の方ですから」
「魔法についてだったらいくらでも教えてあげられるよ。いつでも来てくれれば良い。…ただ、そうだな、時々で良いからまた別の料理とかも教えてくれないかな? 私も少し凝った料理とか作れるようにしていきたいからさ」
「あ、はい!」
 笑顔で頷き、最後に挨拶をかわすと、サンはダーレスの家を後にした。
(――なんだかすごく充実してる! …いや、こんなのまだ始まりだ! これからもっともっと忙しくなるんだもの!)
「ふふっ」
 思い描けるこれからの日々があまりにも明るくて、サンは林の中を一人で歩きながらもつい笑みを零してしまった。
(私も料理の練習、ちゃんとやっておいた方が良いかも。…アルベさんに台所貸してもらえないかな? あっ、それだったらいっそのこと少し働かせてもらうなんてどうだろう! …うん! いいかもしれない! ふふっ、ディオさんなんて言うかな? ちゃんと私の作ったもの食べてくれるかな? でもディオさん、案外照れ屋みたいだしな…。…何回かこっそりと作っておいてから後でばらした方が面白いかも…。ふふっ!)
 いつも悪戯ばかりされているのだ。たまにはちゃんと仕返しもしとかないと。
 その時、そっと頬を撫でるような優しいそよ風が吹いた。
 それは決して強い風などでは無かったはずだ。だがそれを十分な切っ掛けとしたかのように、まだ美しい緑色をした木の葉が一枚、すぐ脇の木からそっと離れた。それはそのまま悠々と風に乗って、真っ青な空へと飛んで行ってしまう。
「あ」
 ふと、サンは気が付いた。
(…でもディオさん…、まだ私と一緒にいてくれるのかな…?)
 また思考が奔り始めたが、それはもう、さっきまでとは向きも、色も、まるで変っていた。
(…だってディオさん、今までずっと旅して来たみたいだし…。きっと、私のこと手伝うって言ってくれたのは、魔法を求めての冒険を考えてのことだと思うし…。
 私はやっぱり、ダーレスさんのところでちゃんと勉強したいんだけれど…。でもそうなると、ディオさんが喜んでくれそうなものなんて私からは何も提供出来ないし…。…ここまでずっと助けてくれたのに、それなのに何のお返しも出来ないままだなんて…。
 …もしかして、これでもうお別れなんてことになっちゃうのかな…?
 で、でも! でも、今朝だってちゃんと見送ってくれていたんだから…! それに昨日なんてダーレスさんのところまで送ってくれようとしていたんだもの…!
 う、うん…。だから、そう…。ここに残りたいってわがまま言っても、きっと大丈夫…。
 …これでお別れなんて、絶対嫌だもの…。)
「……っ、けほっ、けほ、…、……えっ、な、なに?」
 物思いに耽っていると、いつの間にか街の入り口にまで戻って来ていたらしい。だがそこでは、紫色のケムリがもうもうと立ち込んでいた。
「えっ…! もしかして火事…? ……あっ!」
 こちらが風下なのか、そのケムリに視界はほとんど塞がれてしまっている。だがその向こう側で騎士達が走り回っている姿が見えると、サンは反射的に近くの木陰に身を潜めた。騎士についてはもうほとんど安全だとは思うが、出来るだけ接触はせずに済ませてしまいたい。
「おらあっ! オレ達の芋を返せえっ!」
「暴れないで下さい! 危ないですから!」
「何しやがるんだ! 横暴だぞ! 焼き芋を作っているのに水をぶっかけやがって! オレは焼き芋が好きなんだ! ふかした芋が喰いたいんじゃねえ! てめえの分はてめえで作れば良いだろ!」
「ち、違いますよ! ほら下がって!」
 騎士達と街の人々の怒鳴り声が聞こえてくる。よくよく辺りを見てみると、少し離れた場所では街に入る馬車まで止められているようだ。
「な、なんなんだろ…。…ちょっと怖いし、一応魔法で隠れとこうかな…。」
 もしかすると検問でもしているのかも知れない。そう思ってサンは自身の姿を隠す魔法を使おうとしたのだが、その途中で急に頭がクラクラし始めた。結局魔法を掛け切ることも出来ず、ひどく中途半端なところで手は止まってしまった。
「そのケムリが危ないんです! ほら、早く下がって下さい!」
 街の方からは騎士たちの声が引き続き聞こえて来ているが、なぜだか彼らの言葉の意味が良く取れない。それどころか足にも力が入らなくなり、サンはぺたりとその場に座り込んでしまった。
「あ、あれ…?」
 急に耐え難い眠気までもが差して来て、サンはその場に倒れ、まぶたを閉じた。


「――サン! ねえ、サン!」
「……ん、うーん、……うん?」
 自分の名を呼ぶ大きな声に、サンはうめき声を上げながらも、突っ伏していた机から顔を上げた。
「珍しいね、サンが居眠りなんて。夜更かしでもしたの?」
 ローナが不思議そうな顔で自分の事を見つめている。毎日この教室で顔を合わせているはずなのに、なぜか全て懐かしく感じる。
「う、ううん。そんな事は無かったと思うんだけれど…。」
 うわの空でサンは応えた。随分と不思議な、そして特別な夢を見ていた気がするのだが、それが何なのかまるで思い出せない。何か思い出せる切っ掛けが見つからないかと、意味も無く教室の中をきょろきょろと見回してしまう。
 だが黒板に書かれている魔法理論と、がやがやとおしゃべりに興じ合っているクラスメートたちの様子以外には特に何も目に入っては来なかった。
「サン、こっち向いて」
 ローナの方へと改めて振り返ると、額に手を当てられた。
 傷を癒す時などに使われる、暖かく柔らかい治癒の魔力が自分の中へと流れ込んで来る。
「だ、大丈夫だよ。怪我とかじゃ無いもん」
 何でもないのに心配してくれているという事が少し照れ臭い。
「んふふ、良いから。じゃあ今度はサンから送って来て?」
「え? どこか調子悪いの?」
「いいから」
 にこにことローナは笑顔を浮かべている。
「う、うん…」
 仕方なしにローナの手を握ると、サンはそこから同じように魔力を流し込んだ。
「うひゃあっ」
 同時にローナが身体をぶるっと震わせた。
「ちょ、ちょっと! 変な声出さないでよ!」
 クラスメートたちから注目されてしまったのを感じ、サンは小声でローナの事を咎めながら魔力の流れを慌てて止めた。
「えー、何で止めちゃうの? もうちょっと続けて欲しいんだけれど…」
「………い、嫌だ」
 サンも不穏な気配を察知し始めた。
「えー……。」
 不満そうな顔をローナはしている。
 だが、それ以上の要求は無かった。
 …ただし、説明さえも何も無い。
「……いったい何がしたいの…?」
 あまり気は乗らなかったのだが、聞かなければいけないような気がしてサンは尋ねた。
 やはり企みに乗っかってしまったのか、ローナがにやりと笑った。
「…他人と魔力を交換し合うのって、なんかちょっといやらしいよね」
 サンはすぐさま逃げようとしたのだが、さっきから握られたままの手をローナは放してくれない。
「温かいものが自分の中に入って来て、それが自然と自分の魔力と溶け合うなんて。…ちょっと気持ちいいし」
 新しいいけない遊びを見つけたかのように、にやにやローナは笑っている。
「い、いったい何を言っているの! ちょ…! ちょっと放して!」
 サンはもう一度、力ずくで手を振りほどこうとした。
「やだ! もう一回! ――じゃあ私から…!」
「やめて! そんな話聞いてからなんて受けたくない! こ、この…!」
 こんな所で奇跡が起きたのか、ローナに強く握られていたはずの手がするりと抜けた。
 サンはそのまま一目散に逃げ出した。
「あ、待ってよー!」
 後ろからローナの声が追い掛けて来るが、サンは止まらなかった。
 追いかけっこ、そんなのはただ駆け出すための理由でしかなかった。
 走る。いつの間にか、ただただそのこと自体に夢中になっていた。
 いつの間にかそれはもう、学校の廊下などでは無かった。
 しかしどこに向かっているのかは分からなくとも、今あるこの瞬間にすべてを集わせ走ること。それが堪らないほどに面白かった。
 自分が今いる場所も、行く先も、何も関係なんて無かった。例えどこにいようと、どこに辿り着こうと、すぐにその場所を通り越していくのだから。
「走る」という、一つの行為の中に自分が入り込んで行く。
 没我的とさえ言ってよいそれに、どこまでも潜り込んでいける。
 次第に自分の感覚が、気が付いた時には自分自身までもが消えている。
 しかしそれさえも些末なことだ。
 ただただ彼方へ。理由なんていらない。先に行きたいが故に先に行く。
 果てなど無い。それが嬉しい。終わらない。だからずっと、もっとうまく走れるようになる。もっともっと、先へと行ける。
 しかし突然、ふと気が付いた。
 みんなはどうしているのだろう? どんな風に、どこまで走ったのだろう?
 振り返ってみると、遥か遠くに彼らの姿があった。
 誰もが足を止め、自らの世界を耕し始めていた。そこでは談笑の声が響いていた。
 自分だけだ。たった独り、未だ真っ白な世界にいるのは。
 そしてそのことに夢中になって喜んでいるのは。
 慌てて彼らの真似をして地に足をつけようとしたのだが、気が付けばどちらが地面の方向なのか、それさえも自分には分からなくなっていた。
 そもそも、今の自分は何をしている所なのだろう?
 彼らの方へと振り返ったその時に立ち止まったのだろうか。
 それともまだ走っている最中なのだろうか。
 …いや、きっとまだ自分は歩めているはずだ。だからいつか、どこかに辿り着くに決まっている。これはただ道の途中なのだ。だから何も見えないだけなのだ。
 だからきっと、もっと、もっと走ってみればみんなと同じように出来るはず…。
 …そう、そうだ。そうに決まっている…。
 ……でも、どうすれば走れるのだろう? どこが地面なのかも、もう分からないのに。
 …いや、大丈夫だ。とにかく足を動かさなくちゃ…。
 そうすれば進めるに決まっているじゃないか…。
 …でも、それは自分がそう信じたいがためのことでしかなかったとしたら?
 …例えそうであろうとも、もはや自分にはそうだと信じることしか出来ない…。
 …だから、そう…。歩けているはずなのだ…。
 不審しか生まないと言うならば、目は閉じられたままであるべきだった。そうであれば、自らが歩んでいるのだと無垢に信じたままでいることが出来たのに。
 しかし目を刺すような痛みまで伴う白は、暴力的に瞑目を強制し、形の上ではそれを叶えてくれた。
 そして、眩さの中であろうとも、閉じられた目はまどろみを誘う。
「あー! もー!」
 ボーっとしてしまっていた所を、不満の声を上げるローナに引き戻された。
 ローナは研究室の紹介が記されている紙の束をテーブルの上に放り出すと、その上に突っ伏した。今後の進路について一緒に検討しようと二人でこの喫茶店に入ったはずなのに、手持無沙汰でいる内に心がどこかに飛び立っていたらしい。
「ううーっ!」
 ローナは何の言葉にもなっていないうめき声をあげながら、積み上げられているパンフレットの山にさっきから頭を打ち付けている。
「も、もう…。いったいどうしたの?」
 ローナが突拍子もない行動をとる事はいつもの事なのだが、それでも尋ねない訳にはいかない。
「なんか嫌だ! メランコリアだ!」
「…これのこと?」
 本当は自分だって憂鬱なものを感じているのだからわざわざ確かめるまでも無く今後の進路の事だと分かるのだが、こうやって快活な彼女には似合わない台詞まで言って駄々をこねているという事は構って欲しいのだろう。
「だって自分の事を向こうの用意した価値に換算し直しているみたいなんだもん! 私、求められているような良い性格なんかしてないもん!」
「そんなことないって…。ローナは明るいし、とても社交的だもの。ローナならどこでも大丈夫だよ」
 彼女の言葉には少しどきりとするものがあったのだが、それでもここは宥める側に回った。
「でもー…」
 しかしローナはまだ不満そうに口を尖らせた。少し目を伏せたり、こちらを伺うよう目を上げてみたりと落ち着かない様子を見せてから、意を決したように改めて切り出した。
「こんなのなんだか、私たち、工場で造られている製品と何にも変わらないみたいじゃない。それで、今は完成した商品の検査をしているところで…。出荷間近になったからって、規定に合わない人は不良品として爪弾きにしようとしているみたいだし…。」
 どきりと、今度は痛みが伴うほどの鋭さで胸が鳴った。
 決して、ローナにさえ打ち明けられない自分の中のある部分を、その気など全く無かったはずだがその言葉はどこまでも的確に打ち抜いていた。
 何を望み、何を欲しがり、何に意義を見出すか。これらは決して個人的な感情などではない。自分で自由に好き勝手して良いものなどではない。
 なぜなら、この社会にとって有益であることこそが私たちの価値なのだから。
 私たちとは、期待通りの反応を返すよう成形されている、この社会のパーツに過ぎないのだから。
 特定の入力に対して、正しい出力をするよう作られているのが私たちなのだから。
 そしてローナの言う通り、今は最後のテスト中だ。
 その課題は、自らを有用なものに変えて決定させること。
 だがもうこの結果は分かっている。私には、これが出来ない。
 結局私はあの時からずっと、真っ白な海の中にいる。どこかに島を見つけることも出来ず、そして当然、不器用にでもみんなの真似をすることさえ出来ないまま。
 自らをこの社会にとって有用なものに変えるよう、何度も指示が出ているというのに、それへ応答が出来ない私はどこかに欠陥があったのだろう。
 他人事のようにそう思う。
 私は、私のままでいたいなどと思っているのだろうか。
 だとしたらやはり断言できる。
 私には一切の価値が無い。
 私はただの失敗作だ。
 私のような欠陥品は廃棄されて然るべきだ。
 未来など待っていない。
 そもそもとして、未来に何かを見出すことなど出来るはずが無い。
 どうして無価値なものに価値あるものが理解できるだろうか。
 私にとってはもうすべてが明確な結末を迎えていた。
 ここが終わりだ。
 他の解答なんてある筈も無い。
 なぜなら、すべて私が私であるが故のことだから。
「――…だけど、ローナは行きたいところがあるんでしょ? 魔法動力の研究室だったよね?」
 そこにはもしかすると空白があったかも知れない。しかしそれでも平静を装い、ローナに言葉を返して話の向きを少し戻した。いくら親友の前であろうとも、いや、むしろ目の前にいるのが本当に大切な親友だからこそ、そこに触れることは出来そうもなかった。
「う、うん。まあ、それはそうなんだけれど…。ただ、私の成績だとちょっと厳しいかも知れなくて…。」
 彼女は少し口ごもりながら、そして少し居心地が悪そうに答えた。彼女のさっきのあの言葉はきっと不安の裏返しだったのだろう。今の言葉で彼女の視線も彼女自身の中へと向いたのか、こちらが動揺してしまったことにも気付かれずに済みそうだった。
「自分の創ったものが色んな技術の前提になったり、たくさんの人の手に渡ったりしたら素敵だろうな、とは思うんだけれど…」
 テーブルにまた突っ伏して小さな声でローナは呟いたのだが、彼女の声はこちらの耳まで確かに届いた。
「やっぱり、ローナだったら大丈夫だと思うな」
 未来に向けて自分の憧れをしっかりと抱いているその姿は、彼女を除いてこの世界の誰も手に入れられない特別な輝きを、もうすでにその手で包み込んでいるように思えた。
 だから、暗い自分の想いでその邪魔をしたくない。こんなものは自分の奥に仕舞い込んでおけばそれで良い。
「う、うーん……。本当にそうなってくれれば良いんだけれど…。」
 しかし、その眩しいほどの光は当の本人には分からないものらしい。
「…私もサンくらい勉強出来たらなあ……。」
「や、やめてよ、もう…。」
 ぼそっと付け加えられた一言に、口ごもりながら答えた。そう言われると、なぜかいつも友人のことを裏切っているような後ろめたさを感じてしまう。だがそれはもしかすると、実際に自分が道を外れているからなのかも知れない。
「だってー…」
 ローナは拗ねたような、そして少し甘えるような声を出していた。
「実際、サンの成績だったらどこでも引く手数多でしょ? どこを希望しているの?」
「え、えっと……。」
 私はそれに答えることが出来なかった。
 気が付いた時には街中に一人ぼっちで立っていた。
 目の前には薬物中毒者が描いたような極彩色の貼り紙がある。
 きっと何かの広告だろう。
 強迫してくるその幸福にはただ眩暈を覚えるだけだ。
 ただ俗悪にしか見えない、堪らないほどに。
 だというのに目を逸らす先はない。辺りはたくさんの、私には理解できない幸福で満たされている。
 目を閉じた。無遠慮に耳に入り込んで来る音がそのまま勝手に身体の中を這い回る。怖気が奔る。
 耳を塞いだ。香水や下水の混濁した臭いが鼻に付く。めまいがしてくる。
 どこにもいないものになりたかった。
 今の自分に夢と呼べるものがあるとすれば、ただそれだけだ。
 どこでなにが変わってしまったのか。なにを知ってしまったのか。
 自分の世界はもうすでに色を失っている。
 そしてそれはきっともう、戻ってくることは二度とない。
 なぜなら、みんなが惹かれるという彩が持つはずのその良さが、私には分からないから。
 分からない人間だと、はっきりしてしまったから。
 この明るい色で満たされた世界に、私のようなものはふさわしくない。
 私はただ黒い染みのように、この美しいキャンバスを汚してしまうだけだから。
 私は独りで消えて行くべきだ。居場所なんてどこにも無い。邪魔なのだから。
 私はローナのようにはなれない。
 彼女の持っている光を、私は捕まえることが出来ない。絶対に。
 自分一人を置いて、景色だけが勝手に流れて行った。
 ローナと最後に話したあの日がやって来た。
「…私ね、王都を出て行こうと思う」
 ローナは驚いたように見えたがそれも一瞬で、すぐ後には「そっか…」とただ静かに、寂しそうに頷くだけだった。
 猛烈に反対されるだろうと思っていただけに、むしろ自分の方が驚いてしまった。
「いや、ここ最近、色々と考えているみたいだったから…。」
 ローナが訳を口にした。隠し通せていると思っていたのは自分だけだったらしい。
「…サンにはこの国が小さすぎたんだね、きっと」
「ううん、そんなのじゃないよ。……私はいつも、ローナのようになりたかった」
 今度こそローナは驚いて目を丸くしていた。
「自分の夢があって、それを目指している姿、ずっと憧れていた」
「…そんなに立派な、はっきりとしたものなんかじゃ無いよ……。」
 悲しそうに、そして苦しそうにローナは言った。自分自身の胸までも締め付けられるかのような思いに駆られる。
「だけど実際に勉強も頑張って合格できたじゃない、ね?」
 しかしここは敢えて、努めて明るく言った。一滴でも涙が零れてしまったら、自分でも抑えが効かなくなってしまうような気がしたから。
「だけどそれは、全部サンが手伝ってくれたから…。全部サンのおかげで…。…きっと、本当はサンの方がずっとふさわしいのに…。」
 私は首を横に振った。
「ううん、そんなことない…。確かに勉強だったら少しは手伝ったかもしれないけれど、ローナは王都でのこれからの未来の事を描けていたもの」
 それは、ただ手間と時間を掛ければどうにかなるという問題のものでは無い。
「…私には、どうしてもそれが出来なかった……。そこに価値を見出すことが出来なかった…。」
 なぜ自分の心はこうなのか。
 なぜ皆と同じところに行くことが出来ないのか。
 どれほど考えても、いくつも浮かんで来るその問たちに対する答えなど見つからなかった。
 いつかローナの言ったように、自分はどうしようもなく規定に合わない欠陥品なのだろう。この世界において自分は滑稽とも呼べないような無様なものでしかない。
「…だけど……。」
 ローナは少しだけ何かを言い掛けたが、すぐに口を噤んだ。口にするべきか逡巡するように目が少し下を向き、左右に揺れた。だが顔を上げると静かに続きを口にし始めた。
「…だけどきっと、みんなそんな事、考えてなんていないと思う。確かに私は、たまたま行きたい所があったのだけれど…。でも、どんな人生の岐路に立たされたところで、多くの人はただ惰性と共に選んでいくだけのはずだよ。自分の選択の結果がどうなるかなんて、一度しかない人生で知る事なんて出来ないんだから…。惰性でないとしても、ただの勘みたいなもので選ぶだけであって…。自由な意思と透徹された理性でもって自身にとって最善の選択を為していく、なんてこと現実の人間にはそうそう起こらないと思う…。だけど私にはそれが悪い事だとは思えなくて……。…サンもそれじゃあ駄目なの? 適当にどこの研究室でも良いから選んでしまうとかでは…。王都から出て行くなんてきっと大変だよ?」
「…前にも話した事があるかもしれないんだけれど、家族の中でね、魔法を使えるのって私だけなんだ。だからずっと、私がこういった力を持って生まれたことには何か意味が在るんじゃないかって思っていて…。やっぱりこの力は可能な限り有効に使いたい。ローナたちのようには歩けなくても。…だからダメ、適当になんか選べないよ」
 嘘が入っている。自分はただ、何でもあるはずのこの王都でさえ何も見出すことが出来ないだけだ。
「…王都を出て、サンはどうするの?」
「古い魔法を探そうと思う。このままだと人知れずに失われてしまいそうな魔法を」
 大切な友人とずっと一緒に歩いて来た道が分かたれ始めた。
「…やっぱりサンはすごいよ」
 私は再び、首を横に振った。
「私はただ、絶対に出来なければいけない事が出来なかっただけ…。まっすぐ進めば明るい場所が待っていると分かっていても、それが私には出来ない…。そこに何かを見出すことが私には出来ない…。」
 私はただ、ローナの様になれないだけだ。
 他の皆のようにもなれないだけだ。
 私はただの、王都からの落伍者に過ぎない。
 自分の中へと目を向けた瞬間、ローナの姿は溶けるように消えてしまった。
 代わりにさっきからずっとすぐ目の前にあったはずなのに、霞が掛かっていたかのように見えなかったあの街が再び目に映り始めた。
 だがそこでは大勢の人が立ち塞がるように行き交っている。ついさっきまでその街は自分の運命に大きく関わるだろうと自然に思えたというのに、随分とそれは遠くにあった。そして何より、自分はあそこに近付いてはいけないように思えた。
 すぐ脇から、せせら笑う声が聞こえた。
 その女性は座り込んだままでいる私の事を、私と同じ顔で見下ろしていた。
 だがその目は冷たく、顔のつくりは全く同じなのに自分とはまるで似ていないと思ってしまう程の妖しい光を湛えていた。妖艶とさえ言えるものを彼女は持っていた。
「とっくに分かっていたじゃない。自分がただの、肥大しきった自我を扱えないだけの馬鹿者だってことなんか」
 迷いのないすっと通る声だった。
 突き付けるような底冷えのする声だった。
「ふんっ」
 何も言い返せないでいる事がさもつまらないかのように、彼女は鼻を鳴らした。何より、彼女の言葉は的確に事実を穿っていた。
「そもそも古い魔法を探すというのだって、ただ自分のいられない王都から離れるための口実でしか無かったんでしょ?」
「そ、そんなことない! それはどうしても見過ごせない、価値のある事だと思って…! それは本当にやらなければいけないと――!」
「いいえ、そうじゃない。あなたにとって古い魔法が見つかるがどうかなんてどうでも良い事だった」
 彼女は全てを知っているのだとでも言いたげな口調で否定した。
「あなたが何よりも本気だったのは、自分を有効に使い果たしてしまう事よ」
 その言葉は胸の深いところを鋭く刺し貫いた。実際に体温を失っていくかのような寒気を感じた。怖気の波が体表を奔り、肌が粟立っていく。
 反対に彼女の目には嗜虐的で、燃えるような暗い光が宿っている。嘲るように、そして悦びを湛えながら彼女は再び笑った。
「だってあなたは知っていたでしょう? 例えどんな魔法を見つけようと、どれほど多くの魔法を集めて編纂しようと、それが評価される時など永遠に来ないと」
 身体は言う事など聞かず、小刻みに震えた。
 それが何よりの証拠だと、彼女のその目は告げていた。
「本当にあなたは嘘つきよね。知ってしまったという事実をもただの言い訳にして。本当は正しい事をしたという自己満足が欲しかっただけなのに。だから事の正否などあなたにとっては関係が無かった。むしろ望んでいたのは、その正しき道の半ばで倒れてしまう事。自身の身をもあなたが適当に選んだ正しき偉大なるもののために捧げてしまう事。あなたには夢を見る力など無いし、王都での生活を選ぶことも出来なかったけれど、その時にやっとローナ達の立っているところに並ぶことが出来るからね。
 ローナの言葉は否定してあんなことを言ったくせに、あなたにとってこんな目標なんてただの飾り以上の意味は持っていなかったはずよ。自分にさえも自分の事を少しでもきれいに見せたいという汚れきった虚栄心がこしらえただけ。
 本当のあなたはただ、きれいに言い繕っただけの破滅願望にひたり、感じられる暗い悦びに身を任せていただけよ」
 彼女からは次第に、愉しむような色が消えて行った。
「望まれていたのはただレールに従うことだけだったと言うのにそれをあなたは拒んだ。
 魔法使いがどう生きなければいけないかは、もうすべて決まっていたというのに。
 その全てをあなたははっきりと理解していた。
 それだというのに、それが出来なかったのよ、あなたは」
 そこにはもう怒気を超えた、明確な憎悪があるだけだった。
「この出来損ないが」
 例え何を言われようと、それでもただ彼女を見上げる事しか出来なかった。普段の自分とはまるで異なる表情とは言え同じ顔、話し方はまるで似ていなくとも同じ声、そんな彼女の口にする言葉は、私と同じ心を持つ者だけが語り得る絶対の真実だった。
「確かにあなたも少しは自分の事を矯正しようとはした。他の人達と同じものに意義を見出せるようになろうとはした。だがすぐさま自分の限界に気付くことになった。最後に必要なのは理屈などでは無く、感性とも言うべきものだった。『生きることは素晴らしい』という言葉に感動を覚えられる者と、それがふざけていてくさい戯言にしか聞こえない者がいるように。
 …もちろん、あなたは後者だった。
 自分の中に社会から要請されているものなど欠片も無い事に気付かざるを得なかった。一瞬だけならばどんな苦痛にも耐えられようとも、それがこれから先の未来全ての自分を費やさなければならないとなれば、あなたはそこにおぞましさを見出すことしか出来なかった。自分を騙し続けて価値を見出そうとするなんてどう考えても不可能だった。
 あなたはごくごく理性的に、自らを世界にとって不要な存在だと断じた。
 あなたの望みはただ自分のことを打ち捨ててしまうこと。だけどそんな方法、社会が用意してくれるはずも無い。
 だからあなたは少し迂遠な方法で、自分を弄び嬲り殺すことにした。
 それがあなたの用意した、決して達成されることの無い果てない旅だ。
 ……それならば自分もろとも他の人まで台無しにしようとするな! あなたの穢らわしくて迷惑な手慰みにどれだけの人の事を巻き込むつもりだ! 優しい人たちに付け込みさらに甘えて、あなたはいったい何をしている! 本当はその人たちに顔向けなんて出来ないはずでしょう!
 ――本当はうまく行くことなんてまるで期待していなかったというのに、ここまで導いてもらったらいけしゃあしゃあとそこに滑り込もうとしている…! 本当はそれに見合うような人間でも無いだろうに…!」
「で、でも、私は…――!」
「本当は清く正しい人間だとでも言うつもり? そこからは程遠い人間だって自分が一番良く分かっているでしょう? その生き方が出来なかったからこそ、今、あなたはここにいる」
 言い返さなければいけないのに、沈黙は全て彼女の言葉の肯定を意味してしまうというのに、言の葉の泉が枯れてしまったかのように口からは何の声も続いてくれなかった。
「あなたは自分の事を台無しにしてしまいたかった。いくら魔法をうまく使う事が出来ようとも、社会に要請される人間では無かった自分の事を…。……いや、それだけじゃない…。…――私は、私の事が大嫌いだ…。その嫌悪がずっと止まらない…。ずっと、どこに逃げることも許されない…。尽きることの無いそれが、抑えようも無く勝手に姿を変えていく…。」
 初めて、彼女は言葉を詰まらせるような様子を見せた。
 その顔は、煮えたぎるような黒い感情に炙り続けられ焼け爛れたかのように、かつてないほど醜く歪んでいた。その目は暗く、その顔には深く刻まれた深い苦悩が表れていた。
 そしてそれは、今まで彼女が見せたどの表情よりも自分に似ていた。
「――分かるでしょう?
 私は今でも何もかもをも殺してしまいたくて堪らない。
 神だか何だか知らない誰かが用意した理想像の中に自分を押し込めていくことでしか生きられないこの世界そのものが憎くて堪らない。
 それを美しいものであるとして崇め奉る人々を見ると縊り殺してやりたくなる。
 なぜ彼等はそう生きることが出来る…!
 なぜ私はこうなのだ!
 ……どうして、私はあのローナの事さえも憎まずにはいられない…!」
「それだけは絶対に違う! それだけは決して――!」
「……自分には持てないものあっさりと手に入れていて、さらに先へと進もうとしているローナに対して一度も嫉妬したことが無いと言えるの?」
 語気は弱まり、疲れ切り、もはや消沈したように彼女は続けた。
「……分からない。…そんな事分からないよ…。…だけどもしかすると、そういう思いもどこかにはあったのかもしれない…。それでも、ローナの事が眩しかったのは本当で…。」
「…そう。……その通りだ。…私にはこの大っ嫌いな世界を否定することさえ出来やしない…。だから…、だから全部! そんな思いは全部自分に向けるしか無いじゃないか!」
 涙を流しながら叫ぶその姿は、まぎれもなく自分のものだった。
 疑いようも無く、そこにいるのは私そのものだった。
 さっきからずっと木陰にへたり込みながら、虚空に向かって、声を上げることも出来ずに、ただ独りぼっちで涙を流していただけでしかない。

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