泣き虫エリオット

叶 望

プロローグ

 夜の闇にぽっかりと浮かんだ月が柔らかな光を注ぐ中、古い城の中から一人の女が籠を抱いて飛び出してきた。その女は城から出てそのまま森の中へと入っていく。荒い息を吐きながらも籠の中を気にかけながら走る女は少しでも遠くに行こうと必死に足を動かしている。
 暗闇であるのに女はひたすら走った。背後にある茂みが、がさりと音を立てて揺れる。一瞬立ち止まった女は先ほどまでの走りが嘘のようにものすごい勢いで駆け出した。
その後を狼のような姿の魔物が追いかけてきた。ヘルハウンドと呼ばれる魔物だ。
 鈍色の毛色に鋭い牙。群れで獲物を追う魔物。女の手元には武器などはなく一度でも攻撃を受ければ逃げられないだろう。
 全速力で走る女はとうとう崖に追い詰められた。崖下には水音が聞こえてくるため、おそらく川が流れているのだろう。ずりずりと迫るヘルハウンドに女は思わず後退る。がくりと踏み外した足の勢いでそのまま女は崖からずり落ちそうになった。


「あっ…。」


 手元にあった籠が手から滑り落ちて崖の下へと消えていく。女は崖の裾にしっかりと掴まって魔物が立ち去るのを必死で祈った。しばらくして諦めたらしいヘルハウンドが立ち去ったのを気配で感じた女はそろそろと崖をよじ登っていった。
 そして崖に落ちてしまった籠を探していたが見つかることはなかった。


***


 明るい日差しが眩しい。


 王城に勤める乳母のリンダはその日、自由になった時間を散歩という形で消費していた。ヴァレントの国は結界に守られている国だ。結界の外には魔物が跋扈しており町や村をそれぞれ結界石という特殊な石でその侵入を阻んでいるのだ。先日交換したばかりの王都は今日も穏やかな一日が流れている。


「ん?何かしらあれは…。」


 川の上のほうから茶色の籠が流れてきている。リンダは一体何が流れてきたのかと籠の近くへと寄っていくがその足は次第に速くなる。泣き声が聞こえたのだ。
 乳母であるリンダは生まれた息子を失ったばかりだった。授乳はできるため同じ頃に生まれたばかりの姫様の乳母に抜擢されたのだが、きっと子供を失ったリンダに配慮してくれたのだろうとすぐに分かった。
 国王夫妻はとても優しい方だ。3歳になる王子もいて、仲睦まじい夫婦でいらっしゃる。リンダは川の水で服が濡れるのも構わずにずぶずぶと入って籠に近寄った。中にはリンダの懸念通り赤子が入っていた。
 金の産毛が生えて肌は色白だ。泣いていたのは生まれて間もない男の子だった。深い青の瞳は少し紫がかっており、神秘的な色合いに見える。ぷっくらとした手足を動かして泣いていた男の子はリンダの気配を感じたのかぴったりと泣き止んだ。


「捨て子なのかしら。」


 リンダはそっと男の子を抱き上げると川から上がる。服をはだけて豊満な乳房を取り出すと男の子の口元へと持っていく。しばらくして男の子はリンダの乳に口をつけた。ごくごくとものすごい勢いで乳を吸い上げる男の子の頭をそっと撫でてリンダは流れ去っていった籠を見送る。


「いくらなんでも、赤子を川に捨てる母親は居ないわよね。何か事故でもあったのかしら。」


 疑問を口にしてもそれに答えてくれる存在はいない。真実を知るかもしれない赤子はもくもくとリンダの乳を吸っている。知っていたとしてもそれを答えてくれるはずもなく小さな男の子を抱えてリンダは仕事に戻るために城へと帰った。


「その子はどうしたんだ?」


 生まれたばかりの姫の様子を見に来たのはこの国の王であるアルバート・ヴァレント・メイソンだ。部屋に入るなり金の産毛を生やした二人の赤子を見てリンダに尋ねた。


「それが、川から流れてきた子なのです。」


「川からだと?」


「はい。籠の中に入れられて泣いていたところを先ほど拾いました。」


 アルバート国王は赤子をちらりと一瞥して少し考え込む。柔らかな産着は白く真新しい。細かく織られた上質の布だ。しかし、ここ数日川から赤子が流れ来るような事態になるような事故の話は耳にしていない。


「そうであれば、随分遠くから流れてきたのかもしれないな。」


「えぇ、母親が名乗り出ればお返ししようと思っております。それまでは私が育てようかと。」


「ふむ、それでその子の名前や何か分かるものはあったのか?」


「いえ、それもないので困っていたのです。」


男の子の産着にも何も刺繍されておらず、ただ布地が高価であるのは城に勤めるリンダにもすぐに分かった。これだけ上質な布を使えるのは貴族か豪商くらいだ。そして平民には魔力はない。男の子は魔力を持っている。それは城に上がれるだけの地位を持つ貴族であれば誰もが分かるものだ。


「そうか。だが、名がなくては困るだろう。その子は男の子であったな。」


「えぇ…。」


 リンダは貴族であればすぐに名乗り出るかもしれないと考えて名前のことは考えないようにしていた。しかし、世話をする以上名前は必要だ。


「では、エリオットではどうだ?エリオット・ウェスラン。」


「へ、陛下?」


「本来の名前があるのであればその時に考えればよいだろう。それに私がつけた名前に文句をつけられる貴族などおるまい。」


 国王が名付けたとあっては誰も逆らえるはずがありませんという言葉は何とか飲み込んだリンダではあったが、困っていたのは確かだ。ウェスランというのはリンダの今の家名だ。伯爵家の次女であり、騎士団長であるマーカスを夫にウェスラン伯爵家へと嫁いだリンダは国王に信頼の厚い臣下である夫のおかげで王女の乳母という名誉を預かることができている。


「では、この子はエリオットと呼ぶことに致します。」


 こうして男の子の名前はエリオットという名前になった。ちなみに由来があるわけではなく生まれる子が男の子であればエリオット、女の子であればジュリアと決めていたからだ。すんなりと名前が出たのは夫妻に生まれた子が女の子であったため。


「ふっ、こうして並んでいると本当の姉弟のようにも見えるな。」


 仲良く眠る二人の赤子を見て国王は微笑んだ。その日、エリオットは母親が見つかるまでの間リンダの息子として扱われることとなった。
 騎士団長でありリンダの夫であるマーカスは突然出来た息子に戸惑ってはいたが、国王が名付けた子供であるし何よりリンダが喜んでいるのが分かり養子として受け入れる事を決めたようだ。
 初めは戸惑っていたマーカスだが、少しずつ慣れてきたらしく失った息子の分もエリオットを可愛がった。こうしてリンダはジュリア様とエリオットの世話に毎日忙しい日々を送っている。
 ジュリアの兄であるレオン王子はエリオットを気に入りよく遊びに来る。大きくなったら一緒に遊ぶんだと言ってその成長を楽しみにしているのだ。女の子と男の子では遊びの種類が異なるので自分の遊びに連れまわせるだろうエリオットに興味が行くのは当然だ。


「早く大きくなれよエリオット。」


 ぷにぷにの頬を突いて声をかけるレオンだが、妹にはそういった扱いはしない。それこそ大切な宝物のように丁寧に扱う。3歳とは思えないほど利発なレオンだが、妹に甘いのは国王夫妻と同じだ。
 よくジュリアを囲んで家族の団欒を楽しんでいるのだがエリオットもその中に含まれているのがリンダには微笑ましい。
 最近寝返りを覚えたジュリアとエリオットだが、どちらかというとエリオットは上品であまり動き回ることはない。お転婆なジュリアに覆いかぶされて二人で団子になっているのをよく見かける。
 しかしどんな体制であってもエリオットがジュリアを嫌がるそぶりを見せないのはどちらが主であるのかをすでに理解しているようにも見えた。

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