デール帝国の不機嫌な王子

みすみ蓮華

異常事態 3

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「な、なんだこれはっ?!」
 剣を振り回しながら、見た事も無い未知の魔物にトルドヴィンが声を上げる。
 巧みに繰り出される剣は、ユニコーンの力で清められた聖剣にも関わらず、スカスカと影で出来た腕をすり抜けていく。


 まるで霧に攻撃をしているかの様に手応えは感じられず、それでいてその影の腕はガッチリとトルドヴィンの足を掴もうと手を伸ばして来る。
 か細い女性の様な手が、トルドヴィンの左足首をガッチリと掴み、その手の冷んやりとした感触と、ズブリと地面に沈みそうになる感覚を感じた所で、すかさずギリファンが呪文を唱える。


『破魔の泉!』


 錫杖の先端で地面を叩くと、そこを中心に空気の波紋が広がり、四人の付近に出現していた複数の手が、ガラスを掻いた様な音を立てて消えていく。
 しかしライマールが言った通り未完成なのか、その効果範囲は互いの足の爪先程の範囲までしか効果が無かった。


「ね、ねぇさぁん」
「判っている!!っく…ライム!!これでは数分も持たないぞ!!…破魔の泉!!」


 奥の方から止めどなく出現する腕を見ながら、メルが泣きそうな声で姉に声をかければ、ギリファンもメルの言わんとする事を理解して焦りの色を浮かべる。
 奥の方で蠢いていた腕は更に地面から這い出して、幾つかの影はフードをスッポリと被った時のライマールの様な不気味な人型を成し始めていた。


 ライマールは何も言わず、それどころか抵抗する素振りも見せずに腕を組んだまま、ジッと魔物を見つめている。
 それに気がついたトルドヴィンが、声を荒げてライマールを叱咤する。


「殿下!!何故戦おうとなさらないんです!!例え貴方が視た未来が絶望的なものであっても、抵抗しなければ奇跡は起きない!!私は貴方に言われたからと言って諦めるつもりは毛頭ない!!」


 そう言ってトルドヴィンは伸びて来る腕を避けながら、どんな攻撃なら有効なのかを必死で模索する。
 たとえ自分がこの魔物の犠牲になろうとも、命運尽きる瞬間まで、この三人だけは護らなければと震えそうになる心臓を落ち着かせる。


 その言葉を聞いたメルやギリファンも、トルドヴィンの言葉に賛同する様に息を合わせて呪文を繰り返し唱えていた。
 浄化系の呪文は、体内の魔法文字を多く消化してしまうというのに、更に慣れない呪文の所為で、あっという間に二人の体力を奪って行く。


「諦めた訳ではない。今、助かる訳にはいかない・・・・だけだ。適当な所で止めておけ。それだけ後悔する事になる」
「な……何、行って、るんですか?!……破魔の泉!!…ハァ……どう、考えても……抵抗、しないっ…破魔の…い、いずみ……ハァ…………方が、後悔、するじゃ……ないで、すかっ!!」


 上擦った声で、息も切れ切れにメルが訴えるも、ライマールは軽く首を振っただけで、やはり抵抗しようとはしなかった。
 敵の数は減った実感も無いまま、いよいよメルとギリファンの足元がフラついて来る。


「くっ……メルッ!!」
「姉さん?!」
「ファー!!……ライマール殿下ッ!!」


 メルが汗で濡れた地面に足を取られた瞬間、人の形をした影の塊が数体、メルを一気に飲み込もうと手を伸ばす。
 その危険を察知したギリファンが、思い切りメルの右腕を引っ張って自分のいた場所と交代する。


 結果、捕まる筈だったメルに替わり、ギリファンが影の腕に引き寄せられた。
 青い顔で叫ぶメルと、苛立たしげに声を上げたトルドヴィンの悲鳴も虚しく、ギリファンはあっという間に影の胸の中にその身をうずめる。
 我が子でも抱え込む様に、両腕を抱き締めた影が腕を開くと、ギリファンの姿は忽然とその場から姿を消していた。


「そ、そんな!!姉さん!!姉さああぁぁぁん!!……クソッ!!姉さんを、返せっ!!」
「ギリファン!!ッチ!!何かっ!!何か方法は無いのかっ?!」


 怒りと悲しみに冷静さを失ったメルとトルドヴィンを、チラリと横目で確認して、ライマールはクルリとその場で回転する。
 背中の圧力が、更に人一人分無くなった所で、メルとトルドヴィンはハッとして振り返ろうとした。


 ところがそれは叶う隙もなく、その代わりに誰かから背中を強く押される衝撃を受ける。


「ライマール様?!」
「殿下っ?!」


 予期せず加えられた衝撃に、どちらも抵抗する事もできず、その反動で前に身体が傾く。
 驚きに声を上げた二人は、ギリファン同様人型をした不気味な存在に腕を取られ、その身を埋める。
 影に埋まった自分の腕から、スライムに腕を突っ込んだ様な、ぬちゃりとした、気持ちの悪い冷たい感覚に襲われる。


 二人が振り返った先には、地面から生えたうごめく黒い腕と、人の形をした幾つもの黒い影の中心で、変わらず腕を組んで立ち尽くすライマールの姿があった。
 その異様な光景に、二人は思わず息を止める。


 金色に瞳を揺らすライマールを飲み込もうとする事なく、辺りに留まっている得体の知れない魔物達は、まるでライマール自身が操っているのでは無いかと疑いそうになる位、ここにきて、不気味で不自然な光景だった。


 飲み込まれて行く二人の家臣をジッと眺めながら、ライマールはゆっくりと目を細める。


「抵抗するなと言ってるだろう?俺を信じろ」


 ニヤリと上げられたライマールの口端が徐々に闇に消えていく。
 霞んでいくその姿を見ながら、メルとトルドヴィンは、生まれて初めて絶望という言葉の意味をその身に思い知らされた。


 ギリファンに続き、メルとトルドヴィンが完全に魔物の体内に飲み込まれたのを確認すると、ライマールは深々と深呼吸をする。


滅亡の泉ザハエン・クェール


 地の底を這う様に、低く、静かに発せられたライマールにしか唱えられないその呪文は、ライマールの足元から渦を巻く潮の様な銀色の水しぶきを螺旋状に放ち、ギリファンやメルが口にした呪文がまるで子供の手習いかと思える程の段違いの威力を発揮する。




 地面から生えかかっていた腕の塊や、人の形をした影は、悲鳴すら掻き消され、その全てが渦潮に飲まれる。
 渦潮が外側へ広がっていくにも関わらず、テントは微動だにもせず、それどころかテントをすり抜けて外へ外へと広がっていく。


 ごうごうという大きな音は、気味の悪かったぬめりとした空気を浄化して、正体不明の魔物の気配が、一つ、また一つと消えていく。


 キャンプ地一帯を囲むまで、その渦潮は衰えを無くす事無く広がり続けた。
 北東で混乱しながら戦っていたガラン、クロドゥルフやアダルベルト達もその光景に唖然として手を止める。


 やがて、全ての魔物が消え去った事を理解したかの様に、渦潮は忽然と消滅する。
 まるで何事も無かったかの様な静けさを取り戻し、テントの中でただ一人佇んでいたライマールがフッと瞳の色を元へと戻した。


「悪い事は起きない筈だったんだが……これも歪みの影響なのか……」


 何処か憂いを帯びた険しい表情で、ライマールはポツリと呟く。
 とんだ転換期だな……と目を伏せた後、深々と息を吐き出して、ライマールは再び金色の瞳を宿す。


 獲物を狙う虎の様に、瞳を鋭く光らせると、何処からとも無く現れた疾風に身を任せる。
 周囲の安全を確認したクロドゥルフ達がテントへと戻って来た時には、先に消えた三人は元より、一人残っていた筈のライマールも忽然とその場から姿を消していた。

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