デール帝国の不機嫌な王子

みすみ蓮華

異常事態 1

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 南下を始めて数日が経ち、深夜、アスベルグの領土を出てから二日もしない内にそれは発生した。


 秋にもかかわらず、梅雨時期特有のぬめりとした空気が辺りを包み込む。
 雨も霧も発生していないというのに、全身に纏わり付く様な気持ちの悪い感覚に、眠りについていたギリファンが不快感を感じて起き上がる。


 起き抜けでぼぅっとする頭を覚醒させながら、辺りを見渡すものの、敵の気配は全く感じられなかった。


『猫の眼差し』
 念の為に灯りは避けるべきだろうと、暗視の魔法を呟き、ギリファンは異常に備え、ベッドの横に置いておいた錫杖を手に握り締める。


「トル、起きているか?」
 下で眠っていた筈の幼馴染に声を掛けると、彼も微かな変化を感じ取っていたのか、自分よりも先に起きていた様で、既に剣を引き抜いて周囲に気を配っていた。


「ファー、何があっても私から離れない様に。どうも様子がおかしい。殺気は感じないが……アレ・・が発生する時と感じが似ている気がする」
「あぁ……だが解せない。ここはまだゼイルの森にすら差し掛かっていない。レイスが大量発生するにしては不自然だ」


 気を抜けば陰鬱な気分になるこの空気は、何度も経験した複数のレイスが蠢く気配に近かった。
 しかしレイスは、ゼイルの森以外でその姿を現した事など今まで一度も無かった。
 あの魔物があの森に縛られているのか、それとも森以外の環境で生きられないのかは解らない。
 謎の多い魔物と言うことは確かだが、今更イレギュラーが発生するとは考えにくかった。


 何より、レイスが発生したのだとすれば、他の兵士や魔術師達が即座に動き出す気配がする筈だ。
 今の所外で誰かが戦闘を行っている気配は感じられない。


「それともこれから奴らが湧いてくるという事なのか?」
「どっちにしても殿下達の元へ行く必要があるね。勿論君の事も護るけど、悔しい事に騎士である以上、殿下を優先しなければならないからね」


 警戒をしながらテントの外をチラリと覗き見て、トルドヴィンは歯噛みしながら声を落とす。
 ギリファンはトルドヴィンの後ろから同じ様に外を見た後、チラリと彼の顔を見上げる。
 その横顔は本当に悔しそうに歪められていて、この空気に引きずられる様に、ギリファンはツキリと胸に小さな痛みを感じた。


「私の事はいい。気持ちだけ受け取っておく。……やはり霧は発生していない様だが……一応粗方の人間は起きてるみたいだな。陣を組もうにも、不気味すぎて下手に動けないって所か」
 複数のテントの中で人が固まっている気配を感じ取りながら、ギリファンは状況を分析する。
 誤算だったのは魔術師と兵士で別々のテントを使っていた為、死霊に対して兵士がほぼ無防備な状況になっているという事だった。


 無論兵士達の剣にも死霊と戦える細工が施されては居るのだが、身を守る防護魔法は魔術師にしか使えない。
 魔術師が防護魔法を唱えているかいないかで、兵士の生存率は99%から30%位まで落ち込んでしまうと断言できる。


「気持ちだけなんて言わないでくれ。私は約束を違える気はないよ。骨は折れるが両方守れば済むだけの事だし」
「とりあえずライム達の所へ行くぞ。……テントの中、か。一か八かだな」
「えっ……ファ、ファー?!」


 ギリファンは至って厳しい顔つきで、トルドヴィンの背中に腕を回す。
 思いがけずガッチリと抱き締められて目を白黒させるトルドヴィンに構わず、ギリファンは数回深呼吸する。


 短距離とはいえ、見えない場所に転移するのはかなり危険な行為に違いない。
 ライマールやクロドゥルフ達が使うテントにも、ギリファンの使うテントと同じ様にテーブルやベッドが配置されている。
 目を閉じて、その配置をなるべく詳細に思い出し、ここからの距離も想像し、何度も繰り返し確認する。


(悪くて大怪我で済むといいな……)


 一瞬だけライマールの不吉な予言を思い出したが、トルドヴィンが居るのだから大丈夫だと言い聞かせる。
 深呼吸をした後、そっと目を開けトルドヴィンを見上げると、かなり動揺した様子のトルドヴィンがギリファンを見下ろしていた。


「トル、私の背に手を回してしっかり捕まってろ。二人だけで外を歩くのは流石に危険だ。直接飛ぶぞ」
「…………あ……あぁ、なんだ……うん。判った」
 ギリファンの意図を理解して、ほんの少しガッカリした様子でトルドヴィンは頷く。
 彼のその鼓動はまだ何かに期待している様に早鐘を打っていたが、ギリファンはそれに気づく余裕もなく、ライマール達のテントの方角をじっと見据える。
 トルドヴィンの腕が自分の腰に回った所で、再び彼と視線をかわし頷きあう。


(大丈夫だ。これしきの計算ぐらい私にだって出来る!)


『夢想の狭間』


 ギリファンが呪文を口にすると辺りの風景がぐにゃりと歪む。
 目の錯覚かと見紛うその歪みは瞬きをする間に別の景色へと変わり、そこには待ち構えていたのであろう、ライマールが腕組みをしながらギリファン達を見つめていた。
 近くのベッドの上には険しい表情で腰掛けるクロドゥルフの姿もあった。


「来たな。予定通りだ。二人とも、兵士と魔術師を今から指定する場所に集めて来い。それとギリファン、お前は今から俺が教える呪文を憶えて他の奴らにも憶えさせろ。ガランやメルと手分けしてもいい。5分経ったら全員に教え切れなくても一旦ここに戻ってこい。兄上は先程説明した様に集めた兵士と魔術師の指揮を頼みます」
「っは?!待って下さい!!状況が判らないのに個々で動くのは危険すぎます!!」
「問題ない。場所は昨日宴会を行った所よりも北東のこの辺りだ。いいか?時間はきっちり守れ。それ以上は保証できん!」


 地図を片手にいつになく厳しい口調で怒号を放つライマールに、反論したトルドヴィンは反射的に怯む。
 ライマールがこれ程までに厳しい口調で威圧してくるのを、トルドヴィンやクロドゥルフは見た事が無かった。
 しかしギリファンはこの様に緊迫した様子のライマールを過去に一度だけ見た事があった。


(初めて大量のレイスが湧いた時の反応とそっくりだ……)


 あの時もライマールは有無を言わさず威圧的な態度を取り、魔術師を引き連れて壊滅寸前だった村を救った。
 強引なやり方をするのは、説得して説得出来る状況にない時だろうと直感的に悟る。


「判った。何を憶えればいいんだ?」
「ファー!!」
「トル、こいつがこう言う時は従った方がいい。少なからず私達がお前の命を聞いている間はまだ何も起こらないって事だろう?」
「ああ。ギリファンこっちに来い。使う魔法文字は浄化の時と変わらない。だが術の組み上げがアレとは異なる。それを今から説明する。クーべ、お前はさっさと行け。兵士は魔術師より人数が圧倒的に多い、お前がもたついていればそれだけ被害が増えるぞ!」


 ライマールはトルドヴィンに視線を寄越すことなく、厳しい口調で言葉を投げる。
 まだ困惑したままクロドゥルフに視線を送ると、ライマールの意思を尊重する様にとトルドヴィンに頷いてみせた。


「……承知、しました」


 主の命に逆らうわけには行かず、納得できないままトルドヴィンはテントの外へと足早に移動する。
 テントを出る際にチラリとギリファンの下ろされたままの癖のある金髪を目端に焼き付けて、一抹の不安を抱えながら部下達のいるテントへと急いだ。

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