デール帝国の不機嫌な王子

みすみ蓮華

残される者へ 2

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 それから暫くしてアディは隣の家で分けてもらった柘榴を両手いっぱいに抱えて戻ってきた。
 夫妻の家で何か良い事があったのか、出掛けよりも心なしか元気が出た様子でアディは終始ニコニコと笑みを浮かべてメル達が食事をするのを眺めていた。


 その後も前日までとは打って変わって積極的に家事をこなし、その暮らしぶりを興味深そうに色々と質問を重ね、ひょこひょことアディの後ろについて回るライマールに嫌な顔一つせず一つ一つ丁寧に答えたりと、メルはアディの元気そうな姿にホッと息をついたのだった。


 アディが心配で着いて来たものの、ライマールがいる限りは付き人として常にライマールに気を払って居なければならず、メルは時折アディがふと顔を曇らせる瞬間がある事に気づく事が出来なかった。


 そうして翌日になってみれば、ケット・シーは前日よりもほんの少し背が縮まり、体にはふさふさとした真っ白な毛が生え、前日よりも更に猫らしい体型へと変化を遂げていた。
 プルプルと痙攣をしているものの言葉は普通に話せるし、目の前にいるのがケット・シーだと言う事は判断出来た。その姿の変化にメルやベルンハルトはかなり困惑したのだが、一番動揺するかもしれないと思っていたアディはいつもと変わらない様子でケット・シーの介護を献身的に続けていた。


 この時になれば流石にメルもアディがかなり無理をしているのだと気が付いたが、掛ける言葉も思い浮かばず、自分に何ができるにかと悩んでいる間に、その日の夕刻を迎え、その頃にはケット・シーは人の子供位の大きさまで縮まり、見た目は猫の半獣族かと勘違いしてしまいそうな様相になっていた。
 隣にいた黒猫は姿に目立った変化はまだなかったものの、心なしか以前よりも理知的な目付きをしているような気がした。


 その日の夕餉は夫婦の家ではなく、アディの家でささやかな宴会を催す事となった。
 事情を知っているのか、近所に住んで居る人達も何人か集まり、食事を持ち寄り各々歌ったり楽器を弾いたりと素朴ながらもグルグネスト独特の文化を垣間見る。
 変わった抑揚の歌声や手拍子の音に耳を傾けていれば、ふと、先程よりも更に小さくなったケット・シーがヨボヨボと小さな声でアディに向かって「踊りが見たい」とリクエストした。


 アディは少し驚いた顔をした後、ニッコリと笑顔を浮かべて快く頷き、部屋の扉の前に進み出る。
 皆それに習い、食事や楽器を抱えてケット・シーの横に並ぶように狭い部屋の中を移動をすると、アディはふと表情を固くしてケット・シーを見つめる。


 ゆっくりと手を差し出し、徐々に激しい動きへと変化していくアディの踊りは以前皇帝広場で見たものとは違い、美しくも妖艶で情熱的なものだった。


 室内の明かりに照らされて、アディの大きな影が部屋の壁に揺れ動く。
 楽器を手にしていた人達もその踊りに共鳴して、皆額や首筋に大粒の汗を流していた。


 普段のアディからは想像もつかない程大人びた顔付きに、メルは元よりライマールやベルンハルトも息をするのも忘れ、終始無言で魅入ってしまう。


 終盤に差し掛かると曲は更に激しさを増し、足や腕につけていた鈴はジャラジャラと豪快な音を立てていた。
 両手を天に掲げる様に差し出し、ピタリと止まったアディは神々しく、同じ人とは思えない程美しいとメルは胸を高鳴らせながら最後の最後までただ呆然とその姿に魅了されていた。


 踊り終えたアディは普段と同じ無邪気な笑みを浮かべ、ぺこりとお辞儀をしてみせる。
 その額からは大量の汗が絨毯の上にポタポタと落ちていたが、目元付近からも別の小さな雫がこぼれ落ちている様な気がした。


 顔を上げたアディがケット・シーに向かって手を振ると、ケット・シーはとても満足そうに何度も頷き笑みを浮かべる。
 駆け寄って来たアディの手を取りながらイスクリス語で何か話しかけ、アディはそれに照れた様に笑みを浮かべる。
 そうして二人は手を握り合ったまま宴の最後まで楽しそうに寄り添いあっていた。


 更に翌朝、ケット・シーは完全に白い猫の姿へと変化を遂げる。
 もう人の言葉を話す事も無く、自力で起き上がる事も出来ずに、か細く呼吸を繰り返しながら横たわっていた。


 ケット・シーの隣にはアディと然程歳の変らなさそうな猫の耳の生えた黒髪の青年がジッと腰掛けており、黙って老猫を見つめていた。


 皆が息をのんで見守る中、アディは恐る恐る老猫に近づく。
アムハお婆ちゃん?」


 震える手で恐る恐る白く長いふさふさとした毛の生えた背を恐る恐るアディが撫でると、老猫は掠れた声で「ニャー」と小さく鳴く。


 その弱々しい声を聞いて、流石に堪えきれなくなったアディの蒼い瞳からポロポロと涙が零れ落ちる。
 言葉を失い小さく震えるアディの背を見つめ、メルが当惑していると、メルの隣にいたライマールの肩から、ゼイルがピョンと飛び降りて、アディの肩へと飛び移った。


 ゼイルはぽんぽんとアディの頭を叩きながら、真剣な面持ちでジッと老猫を見つめる。
「安心する様な話をしてやれ。なるべく静かにな。騒ぐと不安になる」
「安心…わか、らなイでス。何、言ウますカ?お別れ、イヤでス。言ウたくなイでス」
「別れが嫌なら再会を願えばいい」


 ポツリと低く呟く声が聞こえ、メルがふと横を見れば、ライマールがしかめっ面でアディと同じ様に涙を流しながら真っ赤になってその背をムッと睨みつけていた。
 見かねたベルンハルトが心配そうにハンカチを差し出せば、ライマールは無言でそれを受け取りグジグジと鼻を啜りながら涙を拭う。


 振り返ったアディもそんなライマールの姿に釣られる様に、また大粒の涙を零して小さく頷いて答えていた。


 囁く様に老猫の耳元でアディはそっと語り掛ける。
 そのアディの言葉の一つ一つにケット・シーの耳がピクピクと小さく反応しているのがメルからも見えた。
 語りかける言葉の意味は解らないが、子供をあやす様に紡がれる異国に言葉は、まるで子守唄の様に心地よい響きを紡ぎだす。


 震える声で老猫に語り掛けるアディを見ながら、メルもそっと目頭を押さえた。
 デールの貴族が亡くなった際に葬儀に顔を出す事は偶にあったものもの、実際にこの様な場面に会うのはメルも初めての事だった。


 必死で笑みを浮かべるアディは、ライマールに言われた通りケット・シーといつかまた再開できる日を約束しているのかもしれない。
 もしくは思い出を語っているのか、アディは何かを懐かしむ様に優しく目を細めて目を逸らす事無く老猫を見つめていた。


 ゴロゴロと喉を鳴らしながらアディの言葉に耳を傾けていたケット・シーは鳴き声とも取れない声を小さく漏らしながら仕切りに何かを訴える。
 目の焦点はもう殆どどこを見ているのか解らない状態で、普通の猫へと戻ってしまった今では、もう何を言っているのか判断する事が出来なかった。


 困惑した様に瞳を揺らし、ジッと老猫を見つめるアディに、近くで座っていた猫の耳をした黒髪の青年が口を開く。
 その表情から感情は読み取れず、寝起きの様にぼんやりした状態で話し始めた。


『…王の宝、ワシの大事な娘、アディ、会えて、良かった。ありがとう』


 ポツポツと抑揚なく青年が呟くと、アディはハッとして青年を凝視する。
 すると青年が言葉を終えた瞬間、老猫の体はブルブルと小さく震え、蛍の様にボンヤリとした青白い光が老猫の全身から溢れ出す。


 その光が老猫の体を離れ、アディをいたわる様に何度か周回するとやがて青年の胸の前で霧散した。
 同時にアディの胸元にあった小さな鈴がパキリと割れる様な音を立てて崩れ落ちる。


 アディはハッとして胸元に手を当て、鈴が無くなっている事を確認すると、慌てて老猫へと視線を戻す。


アムハお婆ちゃん…?」
 恐る恐る問い掛けるものの、もうその声に耳はピクリとも動かず、そっと触れればその身体は徐々に体温を失い硬くなって行くのが感じられた。


 言葉を失いただ静かにボタボタと涙を流すアディに、ゼイルは何も言わずにポンポンと頭を撫で続ける。
 その様子をジッと見ていた黒髪の青年は、ほんの少し寂しそうな目で辺りを見渡し、やがてまたアディへと視線を向けると、目を伏せて、しゅるりと風の唸る音と共にその場から忽然と姿を消してしまった。


 その風が、動かなくなった老猫の白く長いやわらかな毛とアディの頬をそっと撫でる。
「アリ…ガト……私、言ウます、言葉、でス。アムハ、アリガト、大好き、でス」
 青年の風を感じながら、アディは片言に呟いて、そっと老猫の額にキスを落とす。


 始終静かに見守っていたベルンハルトがそっとメルとライマールの肩を叩いて、外へ出ていようと無言で合図を送ってきた。
 それに気がついたゼイルもライマールの元へと戻り、メルはアディを気にしつつも家の扉を静かに開く。


 外へ出れば家の中とは対照的にデールよりも心なしか大きく見える太陽が強い陽射しと共に三人と一頭を出迎えた。
 扉を閉める際、メルは後ろ髪を惹かれながらチラリとアディの姿を目の端に捕らえる。
 アディはその視線に気付く事無く、ただ静かに動かなくなった老猫の背を縋る様にいつまでも撫で続けていた。

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