デール帝国の不機嫌な王子
Coffee Break : 世評
「お、おい! メル!! お前、ライムに嘆願書送り付けたってホントか!?」
それは、とある日の、すし詰め状態の狭い食堂に、メルの一家、つまり家族のほぼ全員が夕餉の席に着いた直後の話だった。
仕事で帰りの遅くなったメルの姉ギリファンが、琥珀色のポニーテールを振り乱しながら食堂へ姿を現したかと思うと、開口一番大きな声でメルにそう問いかけてきた。
"メル"は一世代に一人づつその名を受け継ぎ、王族を支える友として、右腕として、侍従とは別に付き従う特殊な名前兼称号だ。
主人の頼みならばなんでも答え、時に叱咤し、相談にも乗る。
要するに小間使い+αなのだが、その主人を決めるのは王族でもなければ議会でもなく、メルの名を受け継いだ本人のみが行えることとなっていた。
王や王子以外にも公爵家の人間に仕える場合もあり得るわけだが、メルは在学中から、既にライマールを主人にと心を決めていたのだ。
メルはギリファンに問われ、少し照れた様子で「あ、バレましたぁ?」と、頭をポリポリ掻いてみせる。
「さすが姉さん。伊達に団長……あ、今副団長でしたね。副団長やってないですね〜。今日丁度みんなに報告しようと思ってたんですよ。嘆願書は先週出してたんですけどね、ええと……これこれ! じゃじゃーん!」
などと言い、メルはローブのポケットから一枚の書類をペラリと取り出し広げて見せる。
そこには《専属小間使い契約書》とあり、下の方にはメルとライマールの署名が記されてあった。
よく見れば書類の上の方にはご丁寧に割印まで入っている。
「なんと! 今日正式にライマール様付きの小間使いになりました!! お忙しい方だったのでなかなか時間が取れなかったんですけど、今日ようやく同意を頂けて、ボクもこれで晴れて一人前のメルですよ!」
えっへん! と胸を張ってメルが胸を叩いて見せると、春になったばかりだというのに、何故か室内が一気に凍りつく。
「お前……何てことを…………」
「メル君〜……なんでよりによってライマール様なんですかぁ〜……」
「メル兄は世間に疎いからしょうがないよ……ガラン兄」
「いくら疎いって言っても私でも知ってることよ? クルロ。きっとメル兄さんは全てを承知の上で嘆願したのよ」
「ばぁか、メル兄だぞ? そこまで深く調べてるわけないってツィシー」
「ツィシーって呼ぶのやめてよエド兄さん! お祖母様がつけてくれたフランジスカって名前がちゃんとあるんだから、略さないで!」
「お前がちゃんとエドゥアルトって呼んだら考えてやるよ、ツィシー」
「あなた、あなた! ジュニアちゃんが、私の可愛いジュニアちゃんが……よりによって悪魔のお付きに……」
「あぁ、あぁ、イザベラ泣くでない。ギリファンやガランがいるんだ。そう悪いことにはなるまいよ……ううぅ……」
長女ギリファンの言葉を筆頭に、長男ガラン、四男クルロ、次女フランジスカ、三男エドゥアルト、それに母、父と、方々各々好き勝手に悲観するものだから、食事が始まる前に、食堂は大混乱の大騒ぎである。
ちなみに皆、メルとメル(父)を除き、若干の個人差はあるものの、金髪というよりほぼオレンジ色の髪の毛に、濃い緑色の瞳をしている。
当然皆祝福してくれると思っていた当のメルは、各々の反応にしばらく唖然としていたが、やがて耐えられなくなり両手で耳を塞ぎ、両目をギュッと瞑ると大きな声で怒声をあげた。
「うるっっっさーーーーい!! なんなんだよ皆して! 神童と名高いライマール様のお付きだぞ? こんな名誉なことはないじゃないか!! そりゃぁ皇太子のクロドゥルフ様と比べてしまえば花はないかもしれないけど、第二王子だって十分立派な方だろう!?」
 
ライマールはすぐに上の学年へ移った為、机を並べた期間はそう長くなかったが、幼いながらとても聡明な王子としてメルの中で大きな印象が残っていた。
自分にとっては大事なことを教えてくれた尊敬すべき人。
それ以上でもそれ以下でもない。
だというのに、一番近くで働いている筈のギリファンやガランですらも、何故かメルに哀れなものを見るような視線を向けてくる。
しんと静まり返った食堂で皆メルに注目する中、深い深い溜息を長女ギリファンが吐き出した。
「学校ではどうだったのか知らんがな、ライムの城での評価は最悪だぞ。確かに頭は良いが…………頭が良いだけだな。私は団長を譲ったことを若干後悔してる」
「本当ですよ〜。まだ姉さんが団長だった頃の方が楽でしたぁ〜。ライマール様は人使いが荒いではすみませんからねぇ〜。この前の《笑顔になる薬》は最悪でしたぁ〜。勧められるままうっかり口にして、お腹の筋肉がどうにかなりそうでしたよぉ〜」
「えっ!? やっぱあの噂って本当なの? ライマール様は違法な生体実験に明け暮れ、行方不明者が後を絶たないって」
「あれ? 僕は手足がなくなったり、逆に生えて帰ってくる人が後を絶たないって聞いたけど」
「そんなわけないじゃない。正しくは失明したり声が出なくなったりするのよね?」
「えっ? なにその噂……」
兄弟が口々に話すかなり物騒な事実や噂にメルは瞠目する。
「いや、ガランはともかくとして、お前達の聞いたそれはデマだからな? まぁ、勝手に試薬を飲ませたり、騎士団に歯向かったりして、かなり困ってはいるが……」
「ううう……ジュニアちゃん。今からでもきっと遅くはないわ。殿下に間違えましたって言って契約を取り消してきなさい?」
「それは無理ですよ〜母さん〜。姉さんや私みたいな元メルならまだしも〜、メル君は正式な現メル君ですし〜、主人となる人が同意してしまっては〜破棄は出来ませんよ〜? エド君かクー君がメル君になるなら〜話は別ですが〜?」
「俺パス。人に仕えるとか死んでもやだね」
「エド兄に同じ。僕メルなんてダサい名前絶対いやだ」
「……私男に生まれなくて良かったって、今、心の底から初めて思ったわ」
「安心して下さい。ボクはメルを譲る気も契約を取り消すつもりもありません! 噂なんてあくまで噂でしかないだろう? ボクはボクの目で見たライマール様を信じてるから!!」
どんなに力説してもメルに向けられるのは哀れみの眼差しのみで、母に至ってはまた目に涙を貯めて父にすがるように泣き始めてしまった。
「……まぁ、そうだな。ライムにとっても、お前みたいなお人好しが一人ぐらい近くに居た方が良いのかもしれないな」
「苦労しますよぉ〜? メル君はなんだかんだで面倒見がいいですから〜」
「メル兄さん、私で良ければ愚痴ぐらいならいつでも聞いてあげるからね?」
「ありがとうツィシー……」
「フ・ラ・ン・ジ・ス・カ!!」
妹の抗議を受け流しつつも、メルは胸の内に若干の不安を感じ始める。
実の所、今日たまたま街であった後輩にも同じような反応をされていたのだ。
(大丈夫。ライマール様は世間で言われるような、そんな方じゃない筈だ。姉さんや兄さんも愚痴は言っても、本当に嫌だったらライマール様の下で働いているわけがないんだから)
テーブルの上に振舞われたパンを鷲掴みにして、メルはヤケクソ気味に口に頬張ると、これでもかと言わんばかりに咀嚼する。
弟妹達はもはやこの話題に飽きたようで、今は今日自分達の周りであった出来事について夢中になって話し始めていた。
メルは弟妹達の話も聞かずに、テーブルに置いた契約書の署名をボンヤリと眺めながら、昼間の事を思い出す。
**********
『……本当に俺で良いのか? よく考えた方がいい』
あの頃よりだいぶ背が伸び、……学園の教壇に立つ様になって忙しい所為なのだろうか? 前髪もかなり伸びてしまっている王子は、口をへの字に曲げてメルを見上げ、署名を躊躇っていた。
『ライマール様は覚えていらっしゃらないでしょうが、ボクは初めてお会いした時からずっと心に決めていました。だから、これ以上は考えようがありません』
断固たる決意を持ってメルが宣言すれば、ライマールは少し頬を染めて小さく俯いた。
『覚えている。……あの時は助かった。……俺はいい主人にはなれないと思う。きっと後悔する』
『しませんよ。ボクが選んだんですから。それともライマール様はボクじゃ役不足ですか?』
『そんなことはない、が……』
何か言いかけて、ライマールは逡巡すると、諦めたように深々と歎息を着いた。
『……分った。署名をする。だが、一つ約束して欲しい』
『約束ですか? 無理難題でなければいいですよ』
『……"メル"としての役割より、感情を優先させて欲しい。決まりごとに囚われすぎず、俺以外の者にも目を向けろ。……助けたいと思った者がいたら、そいつを優先するんだ』
『それは職務中でも困っている人がいたら優先的に助けろって事ですか? 例えば妊婦が倒れてたら医者を呼ぶとか?』
『……上手く言えない。だが、大体そんな感じだ』
ライマールは頷きながら、何故か悔しそうに俯いた。
非常に常識的な条件に、メルはかなり面を食らう。
それってわざわざ条件付けするほどのことじゃないような気が……と、思ったものの、自分が"メル"という特殊な立場故に、もしかしたらライマールはライマールなりに、自分が不自由しないように気をかけてくれたのでは?と思い直す。
『……分かりました。メルの名においてお約束します!』
胸を張りながら、ハッキリとメルが宣言すれば、ライマールも無言で頷き、契約書にサインをした。
**********
「役割よりも感情を優先……か。確かに変わった人ではあるなぁ……」
契約書のサインを眺めながらメルはポツリと呟く。
(でも、やっぱり聡明な方なんだと思う)
それは自己より他者を重んじているから言える言葉だ。
王子という立場にいて、なかなか言えることではないだろうとメルは改めて確信する。
契約書を再びポケットへとしまうと、残りの夕飯を一気に平らげた。
「ごちそうさま! ボク明日早いから先に休むね!」
話に夢中になっている家族の返事も待たずに、メルは騒がしい食堂を後にする。
(うん。大丈夫だ。周りがなんと言おうとあの姿がライマール様の真実だ)
ポケットを押さえながら満足そうに頷いて、メルは板張りの質素な廊下を足早に進む。
続いて二階に上ってすぐ横の自室に戻ると、机の引き出しに先程の契約書をそっと仕舞い込んだ。
明日から正式に"メル"だ。
机に向かって満足げに一人頷くと、明日の準備をいそいそと始める。
先程一瞬だけ感じた不安を忘れ、期待に胸を膨らませているメルは、数日と立たずに姉と兄の忠告の意味を身を持って知る羽目になった。
そしてそれから程なくしてメルはライマールの抱える真実を知る。
それ以降、二人の間には一種の深い絆が生まれるわけだが、しかし、契約時にライマールと交わした約束の意味をメルが知るのは、かなり先の話となった。
それは、とある日の、すし詰め状態の狭い食堂に、メルの一家、つまり家族のほぼ全員が夕餉の席に着いた直後の話だった。
仕事で帰りの遅くなったメルの姉ギリファンが、琥珀色のポニーテールを振り乱しながら食堂へ姿を現したかと思うと、開口一番大きな声でメルにそう問いかけてきた。
"メル"は一世代に一人づつその名を受け継ぎ、王族を支える友として、右腕として、侍従とは別に付き従う特殊な名前兼称号だ。
主人の頼みならばなんでも答え、時に叱咤し、相談にも乗る。
要するに小間使い+αなのだが、その主人を決めるのは王族でもなければ議会でもなく、メルの名を受け継いだ本人のみが行えることとなっていた。
王や王子以外にも公爵家の人間に仕える場合もあり得るわけだが、メルは在学中から、既にライマールを主人にと心を決めていたのだ。
メルはギリファンに問われ、少し照れた様子で「あ、バレましたぁ?」と、頭をポリポリ掻いてみせる。
「さすが姉さん。伊達に団長……あ、今副団長でしたね。副団長やってないですね〜。今日丁度みんなに報告しようと思ってたんですよ。嘆願書は先週出してたんですけどね、ええと……これこれ! じゃじゃーん!」
などと言い、メルはローブのポケットから一枚の書類をペラリと取り出し広げて見せる。
そこには《専属小間使い契約書》とあり、下の方にはメルとライマールの署名が記されてあった。
よく見れば書類の上の方にはご丁寧に割印まで入っている。
「なんと! 今日正式にライマール様付きの小間使いになりました!! お忙しい方だったのでなかなか時間が取れなかったんですけど、今日ようやく同意を頂けて、ボクもこれで晴れて一人前のメルですよ!」
えっへん! と胸を張ってメルが胸を叩いて見せると、春になったばかりだというのに、何故か室内が一気に凍りつく。
「お前……何てことを…………」
「メル君〜……なんでよりによってライマール様なんですかぁ〜……」
「メル兄は世間に疎いからしょうがないよ……ガラン兄」
「いくら疎いって言っても私でも知ってることよ? クルロ。きっとメル兄さんは全てを承知の上で嘆願したのよ」
「ばぁか、メル兄だぞ? そこまで深く調べてるわけないってツィシー」
「ツィシーって呼ぶのやめてよエド兄さん! お祖母様がつけてくれたフランジスカって名前がちゃんとあるんだから、略さないで!」
「お前がちゃんとエドゥアルトって呼んだら考えてやるよ、ツィシー」
「あなた、あなた! ジュニアちゃんが、私の可愛いジュニアちゃんが……よりによって悪魔のお付きに……」
「あぁ、あぁ、イザベラ泣くでない。ギリファンやガランがいるんだ。そう悪いことにはなるまいよ……ううぅ……」
長女ギリファンの言葉を筆頭に、長男ガラン、四男クルロ、次女フランジスカ、三男エドゥアルト、それに母、父と、方々各々好き勝手に悲観するものだから、食事が始まる前に、食堂は大混乱の大騒ぎである。
ちなみに皆、メルとメル(父)を除き、若干の個人差はあるものの、金髪というよりほぼオレンジ色の髪の毛に、濃い緑色の瞳をしている。
当然皆祝福してくれると思っていた当のメルは、各々の反応にしばらく唖然としていたが、やがて耐えられなくなり両手で耳を塞ぎ、両目をギュッと瞑ると大きな声で怒声をあげた。
「うるっっっさーーーーい!! なんなんだよ皆して! 神童と名高いライマール様のお付きだぞ? こんな名誉なことはないじゃないか!! そりゃぁ皇太子のクロドゥルフ様と比べてしまえば花はないかもしれないけど、第二王子だって十分立派な方だろう!?」
 
ライマールはすぐに上の学年へ移った為、机を並べた期間はそう長くなかったが、幼いながらとても聡明な王子としてメルの中で大きな印象が残っていた。
自分にとっては大事なことを教えてくれた尊敬すべき人。
それ以上でもそれ以下でもない。
だというのに、一番近くで働いている筈のギリファンやガランですらも、何故かメルに哀れなものを見るような視線を向けてくる。
しんと静まり返った食堂で皆メルに注目する中、深い深い溜息を長女ギリファンが吐き出した。
「学校ではどうだったのか知らんがな、ライムの城での評価は最悪だぞ。確かに頭は良いが…………頭が良いだけだな。私は団長を譲ったことを若干後悔してる」
「本当ですよ〜。まだ姉さんが団長だった頃の方が楽でしたぁ〜。ライマール様は人使いが荒いではすみませんからねぇ〜。この前の《笑顔になる薬》は最悪でしたぁ〜。勧められるままうっかり口にして、お腹の筋肉がどうにかなりそうでしたよぉ〜」
「えっ!? やっぱあの噂って本当なの? ライマール様は違法な生体実験に明け暮れ、行方不明者が後を絶たないって」
「あれ? 僕は手足がなくなったり、逆に生えて帰ってくる人が後を絶たないって聞いたけど」
「そんなわけないじゃない。正しくは失明したり声が出なくなったりするのよね?」
「えっ? なにその噂……」
兄弟が口々に話すかなり物騒な事実や噂にメルは瞠目する。
「いや、ガランはともかくとして、お前達の聞いたそれはデマだからな? まぁ、勝手に試薬を飲ませたり、騎士団に歯向かったりして、かなり困ってはいるが……」
「ううう……ジュニアちゃん。今からでもきっと遅くはないわ。殿下に間違えましたって言って契約を取り消してきなさい?」
「それは無理ですよ〜母さん〜。姉さんや私みたいな元メルならまだしも〜、メル君は正式な現メル君ですし〜、主人となる人が同意してしまっては〜破棄は出来ませんよ〜? エド君かクー君がメル君になるなら〜話は別ですが〜?」
「俺パス。人に仕えるとか死んでもやだね」
「エド兄に同じ。僕メルなんてダサい名前絶対いやだ」
「……私男に生まれなくて良かったって、今、心の底から初めて思ったわ」
「安心して下さい。ボクはメルを譲る気も契約を取り消すつもりもありません! 噂なんてあくまで噂でしかないだろう? ボクはボクの目で見たライマール様を信じてるから!!」
どんなに力説してもメルに向けられるのは哀れみの眼差しのみで、母に至ってはまた目に涙を貯めて父にすがるように泣き始めてしまった。
「……まぁ、そうだな。ライムにとっても、お前みたいなお人好しが一人ぐらい近くに居た方が良いのかもしれないな」
「苦労しますよぉ〜? メル君はなんだかんだで面倒見がいいですから〜」
「メル兄さん、私で良ければ愚痴ぐらいならいつでも聞いてあげるからね?」
「ありがとうツィシー……」
「フ・ラ・ン・ジ・ス・カ!!」
妹の抗議を受け流しつつも、メルは胸の内に若干の不安を感じ始める。
実の所、今日たまたま街であった後輩にも同じような反応をされていたのだ。
(大丈夫。ライマール様は世間で言われるような、そんな方じゃない筈だ。姉さんや兄さんも愚痴は言っても、本当に嫌だったらライマール様の下で働いているわけがないんだから)
テーブルの上に振舞われたパンを鷲掴みにして、メルはヤケクソ気味に口に頬張ると、これでもかと言わんばかりに咀嚼する。
弟妹達はもはやこの話題に飽きたようで、今は今日自分達の周りであった出来事について夢中になって話し始めていた。
メルは弟妹達の話も聞かずに、テーブルに置いた契約書の署名をボンヤリと眺めながら、昼間の事を思い出す。
**********
『……本当に俺で良いのか? よく考えた方がいい』
あの頃よりだいぶ背が伸び、……学園の教壇に立つ様になって忙しい所為なのだろうか? 前髪もかなり伸びてしまっている王子は、口をへの字に曲げてメルを見上げ、署名を躊躇っていた。
『ライマール様は覚えていらっしゃらないでしょうが、ボクは初めてお会いした時からずっと心に決めていました。だから、これ以上は考えようがありません』
断固たる決意を持ってメルが宣言すれば、ライマールは少し頬を染めて小さく俯いた。
『覚えている。……あの時は助かった。……俺はいい主人にはなれないと思う。きっと後悔する』
『しませんよ。ボクが選んだんですから。それともライマール様はボクじゃ役不足ですか?』
『そんなことはない、が……』
何か言いかけて、ライマールは逡巡すると、諦めたように深々と歎息を着いた。
『……分った。署名をする。だが、一つ約束して欲しい』
『約束ですか? 無理難題でなければいいですよ』
『……"メル"としての役割より、感情を優先させて欲しい。決まりごとに囚われすぎず、俺以外の者にも目を向けろ。……助けたいと思った者がいたら、そいつを優先するんだ』
『それは職務中でも困っている人がいたら優先的に助けろって事ですか? 例えば妊婦が倒れてたら医者を呼ぶとか?』
『……上手く言えない。だが、大体そんな感じだ』
ライマールは頷きながら、何故か悔しそうに俯いた。
非常に常識的な条件に、メルはかなり面を食らう。
それってわざわざ条件付けするほどのことじゃないような気が……と、思ったものの、自分が"メル"という特殊な立場故に、もしかしたらライマールはライマールなりに、自分が不自由しないように気をかけてくれたのでは?と思い直す。
『……分かりました。メルの名においてお約束します!』
胸を張りながら、ハッキリとメルが宣言すれば、ライマールも無言で頷き、契約書にサインをした。
**********
「役割よりも感情を優先……か。確かに変わった人ではあるなぁ……」
契約書のサインを眺めながらメルはポツリと呟く。
(でも、やっぱり聡明な方なんだと思う)
それは自己より他者を重んじているから言える言葉だ。
王子という立場にいて、なかなか言えることではないだろうとメルは改めて確信する。
契約書を再びポケットへとしまうと、残りの夕飯を一気に平らげた。
「ごちそうさま! ボク明日早いから先に休むね!」
話に夢中になっている家族の返事も待たずに、メルは騒がしい食堂を後にする。
(うん。大丈夫だ。周りがなんと言おうとあの姿がライマール様の真実だ)
ポケットを押さえながら満足そうに頷いて、メルは板張りの質素な廊下を足早に進む。
続いて二階に上ってすぐ横の自室に戻ると、机の引き出しに先程の契約書をそっと仕舞い込んだ。
明日から正式に"メル"だ。
机に向かって満足げに一人頷くと、明日の準備をいそいそと始める。
先程一瞬だけ感じた不安を忘れ、期待に胸を膨らませているメルは、数日と立たずに姉と兄の忠告の意味を身を持って知る羽目になった。
そしてそれから程なくしてメルはライマールの抱える真実を知る。
それ以降、二人の間には一種の深い絆が生まれるわけだが、しかし、契約時にライマールと交わした約束の意味をメルが知るのは、かなり先の話となった。
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