デール帝国の不機嫌な王子
プロローグ 1
ハイニア大陸で一番古い竜の国。
言い伝えによれば神が魂の国の番人と交渉し、ありとあらゆる生物を生み出して最初に創ったのが高い山脈に囲まれた"神の箱庭"と呼ばれたこの国だった。
もう300代近くになろうとする竜の国の王族クロンヴァール家は、現在ただ1人の王族となってしまった女王が国主を務めていた。
遡ること五年前。
竜の国の王と王妃が立て続けに亡くなり、現女王の兄であった皇太子が王位を継いで間も置かず、突如として行方を眩ましてしまうという前代未聞の事件が勃発した。
八方尽くして捜索をしたが、何処を探しても新王は見つからず、その後、王位は残された、たった一人の妹姫、エイラ・リータ・クロンヴァールが引継ぎ、孤高の女王が誕生したのだった。
エイラが女王の位に着いたのは、兄の失踪から二年が経った十五歳の時で、三年経った今では、女王の仮面を被る事は苦ではなくなっていた。
政治手腕も男顔負けで、滅多に笑顔を見せる事のないエイラを、人々は"冷酷な淑女"と噂する。
いくつもの街や村がすっぽりと収まった、竜の山脈と同じくらい、大きく高い城の頂上で、エイラは下階に暮らす多くの国民と、ハイニア大陸の諸国をただ一人で守るべく、孤独に耐えながら聡明な女王然とした日々を過ごしていた。
ーー少なからず、半年程前までは。
=====
エイラが住む城の最上層から唯一見える竜の山脈は、半年前まで青々としていたというのに、今ではすっかり雪に覆われ、眼下に広がる雲の海と同じ、真っ白な冬の装いに身を包んでいる。
山脈に暮らすドラゴン達も、山脈に点在する洞窟内で過ごしているのか、最近では滅多に姿を現さなくなったなぁと、エイラは執務室の窓の外を眺めながら、ただボンヤリと物思いに耽っていた。
宰相が部屋へ入りお辞儀をすれば、エイラはやはりそのままボンヤリとその姿を認める。
傍目で見れば、エイラが王位を継いでから毎朝変わらないごく平凡な日常風景に見えるだろう。
『陛下、今日の主な議題ですが、まず二十七階層の領主からの嘆願書で、上層階の町の下水処理設備の老朽化によるーー』
いつもの様に宰相が、女王に向かって本日解決しなければならない議題について説明する。
竜の国は他国との交信があまり無い為、議題となる案件は、大抵国内の問題に関してが多かった。
それも大抵は大きな問題でもなく、この日もエイラにとっては些事な議題が次々と挙げられて行く。
しかし宰相が話す中、エイラは内心頭を抱えていた。
宰相が部屋に入ってくるまでは、まだ少しマシだったのにと、エイラは微かに眉を寄せる。
(ここのところ、また酷くなってきています。意識が朦朧として、誰かが話し掛けてきても、まるで耳の奥で話を聞いている様)
原因は分かっているのに、自分の意思でその原因を遠ざける事が何故か出来ない。
それどころか近くにいて欲しいという欲求が日に日に強く……縋りたくなってしまうのだ。
(私は一体どうしてしまったというのでしょうか……)
ハッキリしない意識を取り戻そうと懸命に頭を左右に振ったものの、やはり遠くから宰相の呆れたような声がする。
『陛下、聞いておられますかのぅ?』
「……えぇ、カレン。貴方の思う様にやって頂戴……」
『エイラ様!』
(マウリに名前で呼ばれるのはいつ振りでしょうか……もう何年も呼ばれていなかった気がします)
"エイラ"とマウリ・カレン宰相に名で呼ばれても、エイラの頭は未だハッキリとする気配がない。
何とかしなければいけないのに、もう全てがどうでもいいじゃないかと思い始めている自分がいる。
そんなエイラの葛藤を見透かしたかのように、エイラの後ろで控えていた、赤毛をした中年の女性が二人の話に割って入ってくる。
「陛下はまだお若い身でありながら多忙に多忙を重ねてお疲れなのですわ。カレン宰相は幸い信頼の厚いお方でらっしゃいますし、今日の所はお休みになられては如何ですか? 娘達に陛下のお世話をするように言いますから」
女は労わるようにエイラの肩を抱きよせると、いやらしい笑みを浮かべる。
意識はボンヤリするのに、この女の猫なで声だけは何故か毎回鮮明で、とても気味が悪いのに、それに相反して彼女の言うとおりにするのが一番だと感じてしまう。
「……ええ、そうね……ごめんなさいカレン宰相。どうも頭が重たくて……今日の所はこれ位で許して……」
『陛下……』
本能に従うようにエイラが立ち上がれば、心配そうなマウリの顔が目に映る。
その不安そうな顔に、エイラは心の片隅でつきりと胸を痛めた。
(このままではいけません……)
赤毛の女性に支えられながら、エイラは部屋へと向かいつつ、またボンヤリと考える。
思考の中を相手に気取られない様にと、無言のまま部屋へ戻れば、部屋の中はむせ返るようなサンダルウッドの香の香りが充満していた。
エイラが顔を歪めている後ろで「娘達を呼んでまいりますのでお休みになってお待ち下さいね」と、赤毛の女性が声を掛けてくる。
しかしエイラは、部屋に充満する不快な臭いと、更に広がっていく頭の中のもやから耐えるのに必死で、誰かの言葉を聞く余裕はもうどこにも残っていなかった。
(今朝捨てたばかりなのに……またあの娘が……)
クラクラとする頭を押さえながら、エイラはチェストのある場所へ向かい、手を伸ばす。
その手が目指す先では、大きな山を抱え込んだドラゴンの装飾が施された豪華な香炉が、ゆらゆらと妖しく揺らめく紫色の煙を漂わせていた。
エイラは香炉を手に持ち、壁伝いにベランダへ移動すると、そこから遥か空の下へと中身を全部ぶち撒ける。
香炉灰が眼下の雲を濁った色に染まる。
少しばかり灰を吸い込んでしまったのか、ゴホゴホと咳き込みながらも、エイラは最後に持てる力をもってして、香炉を思い切り床に叩きつけた。
ガシャンと陶器の割れる音を耳にすると同時に、重い体を鎮めるように壁に寄り掛かり、ズルズルとその場に座り込む。
ぼんやりと割れた香炉を眺めながら、エイラは大きく息を吸い込んでゆっくりと吐き出すと、額から垂れる汗も拭かずに、グッタリとして目を伏せた。
(兄様……私はもう限界かもしれません……)
外の穏やかな空気に癒されていたのもつかの間、平和な時間はすぐに終わり、断りも無しに部屋の扉が開かれる。
そちらを見れば、エイラと同じ年頃の娘とまだ思春期に入ったばかりであろう少年がズカズカと遠慮無しに入ってきた。
「まぁ陛下! このような所でお休みになるなんて! お風邪を引かれては大変です!! 早く中へお入り下さい。ロア、陛下を手伝ってさしあげて」
「いらないわソルテ……しばらく放っておいて頂戴……」
「そういう訳には参りません。陛下の御身はお1人のものではないのですから、ご自愛下さいませ。ロア! 突っ立ってないで早く陛下をベッドへ!」
どの口が……と、エイラは顔を顰める。
エイラがソルテと呼んだ娘と、ソルテがロアと呼んだ少年は、エイラが思うように動けないのをいい事に、自分達が思う通り、好き勝手に動き回る。
ソルテは母に似た赤毛と清楚な面立ちながらも、テキパキと無駄のない動きでエイラの身の回りを整え、ロアは父親似なのだろうか、母や姉とは違う茶色に近い赤毛に、見るからに大人しそうな面立ちをしており、事実、姉とは正反対に自分の意思がまるで無いかの様に、言われるがままエイラの背中を支えた。
ロアが無理やりエイラをベッドへ寝かしつけると、ソルテは部屋の香が失くなっている事に気がつき、一度部屋を退出して、新たな香を手に抱えて部屋へと戻ってくる。
その所為で折角捨てたというのに、あのキツい匂いがまた部屋中に広がっていく。
「香は要らない! その香は止めてと言っているでしょう!?」
苛立たしげにエイラが起き上がれば、少年とは思えない力で、ロアがエイラをベッドへと押さえ付ける。
ソルテはエイラのそんな様子を見て、クスリとあどけなく笑って見せると、軽く布団の上からエイラを宥めるように撫でつけた。
「陛下、疲れを取るための香です。多少不快でも我慢して下さい。暫くすれば慣れますし、直ぐに気分も良くなりますわ」
外の空気に触れ、冴え始めていた頭がまたぼんやりと霞掛かってくる。
(何とか…………しなければ……)
そう思うものの抗えない虚脱感に襲われ、エイラの意識は闇の奥深くへと落ちて行った。
言い伝えによれば神が魂の国の番人と交渉し、ありとあらゆる生物を生み出して最初に創ったのが高い山脈に囲まれた"神の箱庭"と呼ばれたこの国だった。
もう300代近くになろうとする竜の国の王族クロンヴァール家は、現在ただ1人の王族となってしまった女王が国主を務めていた。
遡ること五年前。
竜の国の王と王妃が立て続けに亡くなり、現女王の兄であった皇太子が王位を継いで間も置かず、突如として行方を眩ましてしまうという前代未聞の事件が勃発した。
八方尽くして捜索をしたが、何処を探しても新王は見つからず、その後、王位は残された、たった一人の妹姫、エイラ・リータ・クロンヴァールが引継ぎ、孤高の女王が誕生したのだった。
エイラが女王の位に着いたのは、兄の失踪から二年が経った十五歳の時で、三年経った今では、女王の仮面を被る事は苦ではなくなっていた。
政治手腕も男顔負けで、滅多に笑顔を見せる事のないエイラを、人々は"冷酷な淑女"と噂する。
いくつもの街や村がすっぽりと収まった、竜の山脈と同じくらい、大きく高い城の頂上で、エイラは下階に暮らす多くの国民と、ハイニア大陸の諸国をただ一人で守るべく、孤独に耐えながら聡明な女王然とした日々を過ごしていた。
ーー少なからず、半年程前までは。
=====
エイラが住む城の最上層から唯一見える竜の山脈は、半年前まで青々としていたというのに、今ではすっかり雪に覆われ、眼下に広がる雲の海と同じ、真っ白な冬の装いに身を包んでいる。
山脈に暮らすドラゴン達も、山脈に点在する洞窟内で過ごしているのか、最近では滅多に姿を現さなくなったなぁと、エイラは執務室の窓の外を眺めながら、ただボンヤリと物思いに耽っていた。
宰相が部屋へ入りお辞儀をすれば、エイラはやはりそのままボンヤリとその姿を認める。
傍目で見れば、エイラが王位を継いでから毎朝変わらないごく平凡な日常風景に見えるだろう。
『陛下、今日の主な議題ですが、まず二十七階層の領主からの嘆願書で、上層階の町の下水処理設備の老朽化によるーー』
いつもの様に宰相が、女王に向かって本日解決しなければならない議題について説明する。
竜の国は他国との交信があまり無い為、議題となる案件は、大抵国内の問題に関してが多かった。
それも大抵は大きな問題でもなく、この日もエイラにとっては些事な議題が次々と挙げられて行く。
しかし宰相が話す中、エイラは内心頭を抱えていた。
宰相が部屋に入ってくるまでは、まだ少しマシだったのにと、エイラは微かに眉を寄せる。
(ここのところ、また酷くなってきています。意識が朦朧として、誰かが話し掛けてきても、まるで耳の奥で話を聞いている様)
原因は分かっているのに、自分の意思でその原因を遠ざける事が何故か出来ない。
それどころか近くにいて欲しいという欲求が日に日に強く……縋りたくなってしまうのだ。
(私は一体どうしてしまったというのでしょうか……)
ハッキリしない意識を取り戻そうと懸命に頭を左右に振ったものの、やはり遠くから宰相の呆れたような声がする。
『陛下、聞いておられますかのぅ?』
「……えぇ、カレン。貴方の思う様にやって頂戴……」
『エイラ様!』
(マウリに名前で呼ばれるのはいつ振りでしょうか……もう何年も呼ばれていなかった気がします)
"エイラ"とマウリ・カレン宰相に名で呼ばれても、エイラの頭は未だハッキリとする気配がない。
何とかしなければいけないのに、もう全てがどうでもいいじゃないかと思い始めている自分がいる。
そんなエイラの葛藤を見透かしたかのように、エイラの後ろで控えていた、赤毛をした中年の女性が二人の話に割って入ってくる。
「陛下はまだお若い身でありながら多忙に多忙を重ねてお疲れなのですわ。カレン宰相は幸い信頼の厚いお方でらっしゃいますし、今日の所はお休みになられては如何ですか? 娘達に陛下のお世話をするように言いますから」
女は労わるようにエイラの肩を抱きよせると、いやらしい笑みを浮かべる。
意識はボンヤリするのに、この女の猫なで声だけは何故か毎回鮮明で、とても気味が悪いのに、それに相反して彼女の言うとおりにするのが一番だと感じてしまう。
「……ええ、そうね……ごめんなさいカレン宰相。どうも頭が重たくて……今日の所はこれ位で許して……」
『陛下……』
本能に従うようにエイラが立ち上がれば、心配そうなマウリの顔が目に映る。
その不安そうな顔に、エイラは心の片隅でつきりと胸を痛めた。
(このままではいけません……)
赤毛の女性に支えられながら、エイラは部屋へと向かいつつ、またボンヤリと考える。
思考の中を相手に気取られない様にと、無言のまま部屋へ戻れば、部屋の中はむせ返るようなサンダルウッドの香の香りが充満していた。
エイラが顔を歪めている後ろで「娘達を呼んでまいりますのでお休みになってお待ち下さいね」と、赤毛の女性が声を掛けてくる。
しかしエイラは、部屋に充満する不快な臭いと、更に広がっていく頭の中のもやから耐えるのに必死で、誰かの言葉を聞く余裕はもうどこにも残っていなかった。
(今朝捨てたばかりなのに……またあの娘が……)
クラクラとする頭を押さえながら、エイラはチェストのある場所へ向かい、手を伸ばす。
その手が目指す先では、大きな山を抱え込んだドラゴンの装飾が施された豪華な香炉が、ゆらゆらと妖しく揺らめく紫色の煙を漂わせていた。
エイラは香炉を手に持ち、壁伝いにベランダへ移動すると、そこから遥か空の下へと中身を全部ぶち撒ける。
香炉灰が眼下の雲を濁った色に染まる。
少しばかり灰を吸い込んでしまったのか、ゴホゴホと咳き込みながらも、エイラは最後に持てる力をもってして、香炉を思い切り床に叩きつけた。
ガシャンと陶器の割れる音を耳にすると同時に、重い体を鎮めるように壁に寄り掛かり、ズルズルとその場に座り込む。
ぼんやりと割れた香炉を眺めながら、エイラは大きく息を吸い込んでゆっくりと吐き出すと、額から垂れる汗も拭かずに、グッタリとして目を伏せた。
(兄様……私はもう限界かもしれません……)
外の穏やかな空気に癒されていたのもつかの間、平和な時間はすぐに終わり、断りも無しに部屋の扉が開かれる。
そちらを見れば、エイラと同じ年頃の娘とまだ思春期に入ったばかりであろう少年がズカズカと遠慮無しに入ってきた。
「まぁ陛下! このような所でお休みになるなんて! お風邪を引かれては大変です!! 早く中へお入り下さい。ロア、陛下を手伝ってさしあげて」
「いらないわソルテ……しばらく放っておいて頂戴……」
「そういう訳には参りません。陛下の御身はお1人のものではないのですから、ご自愛下さいませ。ロア! 突っ立ってないで早く陛下をベッドへ!」
どの口が……と、エイラは顔を顰める。
エイラがソルテと呼んだ娘と、ソルテがロアと呼んだ少年は、エイラが思うように動けないのをいい事に、自分達が思う通り、好き勝手に動き回る。
ソルテは母に似た赤毛と清楚な面立ちながらも、テキパキと無駄のない動きでエイラの身の回りを整え、ロアは父親似なのだろうか、母や姉とは違う茶色に近い赤毛に、見るからに大人しそうな面立ちをしており、事実、姉とは正反対に自分の意思がまるで無いかの様に、言われるがままエイラの背中を支えた。
ロアが無理やりエイラをベッドへ寝かしつけると、ソルテは部屋の香が失くなっている事に気がつき、一度部屋を退出して、新たな香を手に抱えて部屋へと戻ってくる。
その所為で折角捨てたというのに、あのキツい匂いがまた部屋中に広がっていく。
「香は要らない! その香は止めてと言っているでしょう!?」
苛立たしげにエイラが起き上がれば、少年とは思えない力で、ロアがエイラをベッドへと押さえ付ける。
ソルテはエイラのそんな様子を見て、クスリとあどけなく笑って見せると、軽く布団の上からエイラを宥めるように撫でつけた。
「陛下、疲れを取るための香です。多少不快でも我慢して下さい。暫くすれば慣れますし、直ぐに気分も良くなりますわ」
外の空気に触れ、冴え始めていた頭がまたぼんやりと霞掛かってくる。
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