メイドAは何も知らない。
メイドの知らない彼の決意。 1
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茫然自失となってしまったセスをユリアが引きずって帰ってから二日。
一日置いて気分も少し落ち着いて、リリアはまたいつもの日常に戻っていた。
朝食の準備から始まり、一階の掃除と自分の朝食、それから洗濯物をアミリスに渡し、花壇の手入れと屋敷内の掃除。
もう人を招いても恥ずかしくない程度には、どの部屋も綺麗に整えられており、いつ暇を問われても次に来る人が苦戦することはないだろう。
書斎の掃除を大方終えた所で、スカートのポケットから封筒を取り出す。
セスたちが来る前にナナリーから渡された、主人からの手紙だ。
リリアはあれからこの手紙をいつ開けるべきかずっと悩んでいた。
主人がわざわざ認めたのだからすぐに開けて読むべきなのだけど、リリアにとって良くないことが書かれているらしいそれを、今開けるのはとても勇気いる。
もし本当に暇を申し付けられるような内容であったらと思うと、どうしても開けるのに躊躇してしまうのだ。
幸い昨日は帰ってこない日だったらしく、手紙を読んでいない事を咎められる事にはならなかったが、今日もそうとは限らない。
思いつめた顔をしていたとナナリーが言っていたが、もしかして、リリアとは関係なく主人を悩ませるような事情があったのだろうか?
例えば本当は借金があって給与を払えない、とか。
……実は人に言えないような後ろ暗い仕事をしているとか。
そこまで考えて、リリアは慌てて首を振る。
そんな事を考えてしまうなんて、なんて恩知らずなのだろう。
日報には必ず返事を記して、あんなに暖かい朝食を作って、一介の使用人でしかないリリアをよく気遣って下さる雇い主なんて、そうそういないのに、ヘストン伯爵と同じ様に考えてしまうなんて。
怖い怖いと躊躇ってばかりいるから、ついそんな事を考えてしまうのだ。
昨日だってそうだ。もっとちゃんと考えて物をキチンと伝えられていたら、セスをあそこまで傷つけないで済んだかもしれないのに、結局ユリアに縋ってしまった。
もう小さな子供じゃないのに、これでは家を出る前と何も変わっていない。
(何が書かれてても受け止めなきゃ)
リリアは祈る様に額に封筒を押し付けた後、漸く意を決して、机の上に無造作に置かれたブロンズ製のペーパーナイフを手に取ると、封筒の隙間にそれを引っ掛けた。
ビリッと、紙が切れる心地いい音を響かせ、封筒の角が裂ける。
「おーい、リリアちゃーん」
不意に、裏口の方からリリアを呼ぶ声がして、リリアは慌ててその手を止める。
書斎の壁掛け振り子時計を見れば、いつもラルフが訪れる時刻を通り過ぎていた。
「大変!」
ラルフを待たせてしまっていたことに気がついて、リリアは手にしていたペーパーナイフと手紙をポケットにしまうと、慌てて部屋を出ようとする。
その勢いでスカートの裾が羽ペンに当たり、リリアはインク壺をひっくり返してしまった。
「あっ……」
気づいた時には遅く、割れはしなかったものの、蓋の締め方が緩かったのか、インクがぼたぼたと盛大に床や机にぶちまけられてしまった。
「あぁ……」
「リリアちゃーん?」
やってしまった。と落ち込む暇もなく、ラルフの声がリリアを呼ぶ。
リリアはとりあえず掃除を後回しにと判断して、ラルフを引き止めることを優先することにした。
部屋を出て、廊下をバタバタと走り、息を切らして台所にある裏口を開けると、丁度その場を離れようとしていたラルフが、こちらに気づいてくるりと振り返る。
リリアの慌てた様子を見て、ラルフはにっこりと微笑んで戻ってきてくれた。
「よかった。また表かと思って回ろうとしてた所だよ」
「す、すみません。えっと、今日は……」
「うん。タラの切ってあるやつと、ポロネギでしょ、赤レタスに、生クリームと、そうそう、胡椒が手に入ったから持ってきたよ。シチューにするといいよ」
「あ、ありがとうございます。あの……その、御用聞き、辞めちゃうんですか?」
リリアの所為で、先日、あんなとばっちりを受けたというのに、昨日今日と顔を出したラルフはご機嫌で、どこか浮き足立っている様な印象を受ける。
いつも楽しそうではあるのだけれど、船に乗れるのがよほど嬉しいのか、持ってきてくれるものも、意図的なのか無意識なのか、いつもより量まで多めだ。
どこか行きたい所があるから御用聞きをしていると言っていたのを思い出して、リリアは少し寂しそうな顔でラルフに尋ねた。
その顔を見たラルフが、「ん?」と、首を傾げる。
「あぁ、うん。まさかこんなに早くとは思ってなかったけど、半島の方に行きたいんだよ。僕はいろんな所を旅するのが好きでね。この歳でも御用聞きなんてやってるのはそんな理由。他の土地に移ればまたその土地にあった仕事をするし、今も掛け持ちはしてるしね。そう考えると僕は、どっちかっていうと何でも屋かな?」
「そう、なんですか」
半島といえば、この国の南西の場所にあるケツァラー公国のことを指す。
ケツァラー公国は陸の孤島で、フィランジ王国とは山と大きな川で隔てられている。
陸路を経由して行けないわけではないのだが、川は水流が荒く、山には人を襲う大きな熊や狼が生息しているため、造船技術が進歩した現代では、海路を渡ってケツァラーに行くのが最も安全と言われている。
目と鼻の先のケツァラーだが、ケツァラーで育てられている作物や魚はフィランジ国内で生産されているものと変わらないため、他の周辺諸国と比べると旅行に訪れる人が圧倒的に少ない。
更にケツァラーを往復する船の数もあまり多くなく、時期によっては帝国便より高くついてしまうこともザラだった。
ラルフがあんなに喜んだのも無理はないだろう。
仲良くなれそうだったのに……と、リリアは肩を落とす。
ラルフのように人好きする青年は、リリアの周りにはあまりいなかった。
ユリア達が言うような恋とか愛はまだ分からないが、男性で普通に話せる人というのは、リリアにすれば稀有な存在なのだ。
大体がリリアの遺産目当てで近付いてくるか、気が良くてもウォーレンス商会で働く様な船乗りに分類されてしまう。
数少ない、怖がらずに話せる人が何処かに行ってしまうのは、残念でならない。
「あ、勿論、僕の代わりに誰か来る様になる筈だから、そこはご心配なく。短い間だったけどお世話になったね。君には感謝してもしきれないよ」
「いえ、私の方こそ、色々とご迷惑を……あの、寂しくなります」
「え? あはは。リリアちゃんみたいな可愛い子にそんなこと言われたら離れがたいなぁ。あ、こんなこと言ったらまた怒られちゃうか。まぁ、明日までは顔を出すから、それまではよろしくね」
「は、はい」
入り用な物を言付けると、ラルフはまたね。と手を振り去っていく。
それを見送ってから食材を保管庫にしまい、書斎に戻る前に道具を揃えにキッチン横の、ランドリー室へと移動する。
タオルを抱えながら、ラルフの去り際の言葉を思い出し、明日までだなんて本当に急だと項垂れる。
明後日からはリリアの知らない人がこの館に顔を出しに来ると思うと、少し憂鬱になった。
ラルフみたいに優しい人ならいいが、セスみたいにガタイの良い人だと困る。
仕事なのだから我儘は言えないのはわかっているけど、染み付いてしまっているものはなかなか乗り越えるのは簡単ではないのだ。
駄目だなぁ……と自己嫌悪に陥っている所に、また裏口から誰かが呼ぶ声が聞こえる。
慌ててタオルを抱えたままそちらへと向かうと、洗濯物の入ったカゴを抱えたアミリスが立っていた。
「乾いたの持ってきたよ。入れとくれ」
「あ……ありがとうございます」
アミリスはタオルを抱えたリリアの姿に一瞬眉を寄せたが、いつもの様にランドリー室へと向かう。
普通なら手渡しだけで終わるのだが、リリアが一人で働いていると知っているアミリスは、いつもアイロン掛けまでだまって請け負ってくれているので、とても助かっている。
ランドリー室に入って「終わったら勝手に帰るよ」と、リリアに声を掛けるまでがアミリスの定例なのだが、普段は使わない様な道具が引っ張り出されているのを目にして、アミリスは顔を顰めた。
「なんだい。まだ掃除が終わってないところがあるのかい?」
「あ、ち、違うんです。書斎で……その……」
「なんだい、聞こえないよ。はっきりお言いよ!」
「は、はいっ! えっと、インクを絨毯に、こ、こぼしてしまって……ご、ごめんなさいっ」
「あんたねぇ、そう怯えないでおくれよ。それに私に謝られてもねぇ。はぁー、しょうがないねぇ。どうせあんた夕飯の支度しないといけないんだろう? あたしがやっとくから、あんたは台所へお行き」
アミリスは籠を置いて、リリアからタオルを取り上げると、リリアが用意していた道具を抱え、キビキビと歩き出す。
慌てて後を追いかけると、アミリスは既に台所からお酢と塩を手に取り、廊下へと出て行こうとしているところだった。
「ア、アミリスさんっ、ま、待って下さいっ! あの、そこまでして頂くわけには……私が、やりますからっ」
「何言ってんだい。あんたがやってたら全部終わるまでに日が暮れちまうよ。あたしは今日はもうここに洗濯物届けたら終わりなんだ。いいから、あんたはあんたの仕事をおし」
「で、でも……」
自分の後始末を関係ないアミリスに押し付けるなんて……と、リリアがまごついていると、更に間が悪いことにナナリーがパンを抱えてキッチンに入ってくる。
「こんにちはーリリアちゃん。パンを届けに来たわよー? って、あら、アミリスさんもいたのね。よかったら後でうちに寄ってくださいな。今日新しい小麦が手に入ってね。いつもより美味しく焼けてると思うから」
「そうかい。ナナリー、あんたこのあと予定ないなら夕飯の支度手伝ってやってくれないかい? この子まだ支度に取り掛かってないみたいでね。あたしは書斎の染抜き終わったらアイロン掛けに入るから、頼んだよ」
「えぇ。勿論そのつもりで来たのよ。じゃ、始めましょうか? 今日は何が届いてるのかしら?」
「えっ?あ、あぁ……」
ぽんぽんと勝手に進んでいく二人の会話に追いつけず、右往左往している間に、結局アミリスはナナリーにリリアを押し付けて、とっとと書斎の方へ消えてしまった。
「ごめんなさい……」
アミリスを結局引き止められず、既に野菜を選別し始めているナナリーを見ながら、リリアはギュッとエプロンの裾を握りしめる。
その姿を見たナナリーが、少し首を捻ってから暫く思案したあと、にっこりとリリアに微笑んで手招きをした。
「リリアちゃん。ほら、お料理、覚えるんでしょう? この材料なら残ってる野菜と合わせてシチューでもいいけど、今日はちょっと頑張って、パイにしましょうか? お店に少しまだ使ってない生地が残ってたはずだから、持ってきてあげる。リリアちゃんは先にお野菜の準備をしててくれると助かるわ」
「はい……」
「何があったかわからないけど、そんなに落ち込まないで? ここの家主様もお仕事が落ち着いたらリリアちゃんの他に使用人を増やすつもりみたいだったから、きっとそのうちお仕事も楽になるわ」
ね? と言って、ナナリーはリリアの頭を撫でると、パイ生地を取りに裏口から出て行ってしまう。
リリアの他に使用人が増えるらしいと聞かされて、元気がでるどころかリリアはますます落ち込んだ。
なんだか上手くいかないなと野菜を手に取り、のろのろと桶の中に入れていく。
流し台の中に桶を置き、水瓶から水を掬って移していると、廊下の方から女性の悲鳴が聞こえてきた。
「アミリスさん?」
何かあったのだろうか? とリリアは野菜を洗う手を止め、急いで廊下に出る。
半開きになった書斎の扉に手をかけると、タオルを握り締めたまま、うつ伏せに倒れているアミリスの姿が目に飛び込んできた。
「アミリスさん!?」
リリアは慌ててアミリスに駆け寄り、おろおろとしゃがみこむ。
「アミリスさんっ! どうしたんですか? し、しっかり……」
うっ……と、呻き声を上げたアミリスを、とにかく起こさなければと、手を伸ばす。
その伸ばした手に、不意に暗く大きな影が差し込む。
陽が陰って来たのかとリリアが顔を上げれば、机の向こう側に、異国風の外套を羽織った背の高い男性らしき人物が、窓枠に手を掛け、今まさに外へ出て行こうとしている矢先だった。
「ひっ……」
明らかな不審者にリリアは身を硬くする。
しかし不審な男は、アミリスを抱きかかえ、恐怖で身を竦めるリリアを気にもとめず、あっという間にその場から立ち去ってしまった。
「いたた……」
何があったのか訳がわからないままリリアがガタガタと震えていると、リリアの胸の中で、アミリスが更に呻き声を上げ、リリアはハッとする。
もう居なくなったんだから、今はとにかくアミリスが先だと、恐怖で止まりそうになる思考を必死になって動かした。
「あ、アミリスさんっ!お、お怪我は……」
「あぁ。ちょいと突き飛ばされただけだよ……って、こうしちゃいらない。大変だ、泥棒だよ!! 誰かきとくれ!!」
腰を抜かしてしまっているリリアから離れ、アミリスは慌てて男が去っていった窓から顔を出し、大声で叫ぶ。
そうしてアミリス声を聞いた近所の人達が大通り四方八方から顔を出し、邸の周りはあっという間に大騒ぎとなってしまったのだった。
茫然自失となってしまったセスをユリアが引きずって帰ってから二日。
一日置いて気分も少し落ち着いて、リリアはまたいつもの日常に戻っていた。
朝食の準備から始まり、一階の掃除と自分の朝食、それから洗濯物をアミリスに渡し、花壇の手入れと屋敷内の掃除。
もう人を招いても恥ずかしくない程度には、どの部屋も綺麗に整えられており、いつ暇を問われても次に来る人が苦戦することはないだろう。
書斎の掃除を大方終えた所で、スカートのポケットから封筒を取り出す。
セスたちが来る前にナナリーから渡された、主人からの手紙だ。
リリアはあれからこの手紙をいつ開けるべきかずっと悩んでいた。
主人がわざわざ認めたのだからすぐに開けて読むべきなのだけど、リリアにとって良くないことが書かれているらしいそれを、今開けるのはとても勇気いる。
もし本当に暇を申し付けられるような内容であったらと思うと、どうしても開けるのに躊躇してしまうのだ。
幸い昨日は帰ってこない日だったらしく、手紙を読んでいない事を咎められる事にはならなかったが、今日もそうとは限らない。
思いつめた顔をしていたとナナリーが言っていたが、もしかして、リリアとは関係なく主人を悩ませるような事情があったのだろうか?
例えば本当は借金があって給与を払えない、とか。
……実は人に言えないような後ろ暗い仕事をしているとか。
そこまで考えて、リリアは慌てて首を振る。
そんな事を考えてしまうなんて、なんて恩知らずなのだろう。
日報には必ず返事を記して、あんなに暖かい朝食を作って、一介の使用人でしかないリリアをよく気遣って下さる雇い主なんて、そうそういないのに、ヘストン伯爵と同じ様に考えてしまうなんて。
怖い怖いと躊躇ってばかりいるから、ついそんな事を考えてしまうのだ。
昨日だってそうだ。もっとちゃんと考えて物をキチンと伝えられていたら、セスをあそこまで傷つけないで済んだかもしれないのに、結局ユリアに縋ってしまった。
もう小さな子供じゃないのに、これでは家を出る前と何も変わっていない。
(何が書かれてても受け止めなきゃ)
リリアは祈る様に額に封筒を押し付けた後、漸く意を決して、机の上に無造作に置かれたブロンズ製のペーパーナイフを手に取ると、封筒の隙間にそれを引っ掛けた。
ビリッと、紙が切れる心地いい音を響かせ、封筒の角が裂ける。
「おーい、リリアちゃーん」
不意に、裏口の方からリリアを呼ぶ声がして、リリアは慌ててその手を止める。
書斎の壁掛け振り子時計を見れば、いつもラルフが訪れる時刻を通り過ぎていた。
「大変!」
ラルフを待たせてしまっていたことに気がついて、リリアは手にしていたペーパーナイフと手紙をポケットにしまうと、慌てて部屋を出ようとする。
その勢いでスカートの裾が羽ペンに当たり、リリアはインク壺をひっくり返してしまった。
「あっ……」
気づいた時には遅く、割れはしなかったものの、蓋の締め方が緩かったのか、インクがぼたぼたと盛大に床や机にぶちまけられてしまった。
「あぁ……」
「リリアちゃーん?」
やってしまった。と落ち込む暇もなく、ラルフの声がリリアを呼ぶ。
リリアはとりあえず掃除を後回しにと判断して、ラルフを引き止めることを優先することにした。
部屋を出て、廊下をバタバタと走り、息を切らして台所にある裏口を開けると、丁度その場を離れようとしていたラルフが、こちらに気づいてくるりと振り返る。
リリアの慌てた様子を見て、ラルフはにっこりと微笑んで戻ってきてくれた。
「よかった。また表かと思って回ろうとしてた所だよ」
「す、すみません。えっと、今日は……」
「うん。タラの切ってあるやつと、ポロネギでしょ、赤レタスに、生クリームと、そうそう、胡椒が手に入ったから持ってきたよ。シチューにするといいよ」
「あ、ありがとうございます。あの……その、御用聞き、辞めちゃうんですか?」
リリアの所為で、先日、あんなとばっちりを受けたというのに、昨日今日と顔を出したラルフはご機嫌で、どこか浮き足立っている様な印象を受ける。
いつも楽しそうではあるのだけれど、船に乗れるのがよほど嬉しいのか、持ってきてくれるものも、意図的なのか無意識なのか、いつもより量まで多めだ。
どこか行きたい所があるから御用聞きをしていると言っていたのを思い出して、リリアは少し寂しそうな顔でラルフに尋ねた。
その顔を見たラルフが、「ん?」と、首を傾げる。
「あぁ、うん。まさかこんなに早くとは思ってなかったけど、半島の方に行きたいんだよ。僕はいろんな所を旅するのが好きでね。この歳でも御用聞きなんてやってるのはそんな理由。他の土地に移ればまたその土地にあった仕事をするし、今も掛け持ちはしてるしね。そう考えると僕は、どっちかっていうと何でも屋かな?」
「そう、なんですか」
半島といえば、この国の南西の場所にあるケツァラー公国のことを指す。
ケツァラー公国は陸の孤島で、フィランジ王国とは山と大きな川で隔てられている。
陸路を経由して行けないわけではないのだが、川は水流が荒く、山には人を襲う大きな熊や狼が生息しているため、造船技術が進歩した現代では、海路を渡ってケツァラーに行くのが最も安全と言われている。
目と鼻の先のケツァラーだが、ケツァラーで育てられている作物や魚はフィランジ国内で生産されているものと変わらないため、他の周辺諸国と比べると旅行に訪れる人が圧倒的に少ない。
更にケツァラーを往復する船の数もあまり多くなく、時期によっては帝国便より高くついてしまうこともザラだった。
ラルフがあんなに喜んだのも無理はないだろう。
仲良くなれそうだったのに……と、リリアは肩を落とす。
ラルフのように人好きする青年は、リリアの周りにはあまりいなかった。
ユリア達が言うような恋とか愛はまだ分からないが、男性で普通に話せる人というのは、リリアにすれば稀有な存在なのだ。
大体がリリアの遺産目当てで近付いてくるか、気が良くてもウォーレンス商会で働く様な船乗りに分類されてしまう。
数少ない、怖がらずに話せる人が何処かに行ってしまうのは、残念でならない。
「あ、勿論、僕の代わりに誰か来る様になる筈だから、そこはご心配なく。短い間だったけどお世話になったね。君には感謝してもしきれないよ」
「いえ、私の方こそ、色々とご迷惑を……あの、寂しくなります」
「え? あはは。リリアちゃんみたいな可愛い子にそんなこと言われたら離れがたいなぁ。あ、こんなこと言ったらまた怒られちゃうか。まぁ、明日までは顔を出すから、それまではよろしくね」
「は、はい」
入り用な物を言付けると、ラルフはまたね。と手を振り去っていく。
それを見送ってから食材を保管庫にしまい、書斎に戻る前に道具を揃えにキッチン横の、ランドリー室へと移動する。
タオルを抱えながら、ラルフの去り際の言葉を思い出し、明日までだなんて本当に急だと項垂れる。
明後日からはリリアの知らない人がこの館に顔を出しに来ると思うと、少し憂鬱になった。
ラルフみたいに優しい人ならいいが、セスみたいにガタイの良い人だと困る。
仕事なのだから我儘は言えないのはわかっているけど、染み付いてしまっているものはなかなか乗り越えるのは簡単ではないのだ。
駄目だなぁ……と自己嫌悪に陥っている所に、また裏口から誰かが呼ぶ声が聞こえる。
慌ててタオルを抱えたままそちらへと向かうと、洗濯物の入ったカゴを抱えたアミリスが立っていた。
「乾いたの持ってきたよ。入れとくれ」
「あ……ありがとうございます」
アミリスはタオルを抱えたリリアの姿に一瞬眉を寄せたが、いつもの様にランドリー室へと向かう。
普通なら手渡しだけで終わるのだが、リリアが一人で働いていると知っているアミリスは、いつもアイロン掛けまでだまって請け負ってくれているので、とても助かっている。
ランドリー室に入って「終わったら勝手に帰るよ」と、リリアに声を掛けるまでがアミリスの定例なのだが、普段は使わない様な道具が引っ張り出されているのを目にして、アミリスは顔を顰めた。
「なんだい。まだ掃除が終わってないところがあるのかい?」
「あ、ち、違うんです。書斎で……その……」
「なんだい、聞こえないよ。はっきりお言いよ!」
「は、はいっ! えっと、インクを絨毯に、こ、こぼしてしまって……ご、ごめんなさいっ」
「あんたねぇ、そう怯えないでおくれよ。それに私に謝られてもねぇ。はぁー、しょうがないねぇ。どうせあんた夕飯の支度しないといけないんだろう? あたしがやっとくから、あんたは台所へお行き」
アミリスは籠を置いて、リリアからタオルを取り上げると、リリアが用意していた道具を抱え、キビキビと歩き出す。
慌てて後を追いかけると、アミリスは既に台所からお酢と塩を手に取り、廊下へと出て行こうとしているところだった。
「ア、アミリスさんっ、ま、待って下さいっ! あの、そこまでして頂くわけには……私が、やりますからっ」
「何言ってんだい。あんたがやってたら全部終わるまでに日が暮れちまうよ。あたしは今日はもうここに洗濯物届けたら終わりなんだ。いいから、あんたはあんたの仕事をおし」
「で、でも……」
自分の後始末を関係ないアミリスに押し付けるなんて……と、リリアがまごついていると、更に間が悪いことにナナリーがパンを抱えてキッチンに入ってくる。
「こんにちはーリリアちゃん。パンを届けに来たわよー? って、あら、アミリスさんもいたのね。よかったら後でうちに寄ってくださいな。今日新しい小麦が手に入ってね。いつもより美味しく焼けてると思うから」
「そうかい。ナナリー、あんたこのあと予定ないなら夕飯の支度手伝ってやってくれないかい? この子まだ支度に取り掛かってないみたいでね。あたしは書斎の染抜き終わったらアイロン掛けに入るから、頼んだよ」
「えぇ。勿論そのつもりで来たのよ。じゃ、始めましょうか? 今日は何が届いてるのかしら?」
「えっ?あ、あぁ……」
ぽんぽんと勝手に進んでいく二人の会話に追いつけず、右往左往している間に、結局アミリスはナナリーにリリアを押し付けて、とっとと書斎の方へ消えてしまった。
「ごめんなさい……」
アミリスを結局引き止められず、既に野菜を選別し始めているナナリーを見ながら、リリアはギュッとエプロンの裾を握りしめる。
その姿を見たナナリーが、少し首を捻ってから暫く思案したあと、にっこりとリリアに微笑んで手招きをした。
「リリアちゃん。ほら、お料理、覚えるんでしょう? この材料なら残ってる野菜と合わせてシチューでもいいけど、今日はちょっと頑張って、パイにしましょうか? お店に少しまだ使ってない生地が残ってたはずだから、持ってきてあげる。リリアちゃんは先にお野菜の準備をしててくれると助かるわ」
「はい……」
「何があったかわからないけど、そんなに落ち込まないで? ここの家主様もお仕事が落ち着いたらリリアちゃんの他に使用人を増やすつもりみたいだったから、きっとそのうちお仕事も楽になるわ」
ね? と言って、ナナリーはリリアの頭を撫でると、パイ生地を取りに裏口から出て行ってしまう。
リリアの他に使用人が増えるらしいと聞かされて、元気がでるどころかリリアはますます落ち込んだ。
なんだか上手くいかないなと野菜を手に取り、のろのろと桶の中に入れていく。
流し台の中に桶を置き、水瓶から水を掬って移していると、廊下の方から女性の悲鳴が聞こえてきた。
「アミリスさん?」
何かあったのだろうか? とリリアは野菜を洗う手を止め、急いで廊下に出る。
半開きになった書斎の扉に手をかけると、タオルを握り締めたまま、うつ伏せに倒れているアミリスの姿が目に飛び込んできた。
「アミリスさん!?」
リリアは慌ててアミリスに駆け寄り、おろおろとしゃがみこむ。
「アミリスさんっ! どうしたんですか? し、しっかり……」
うっ……と、呻き声を上げたアミリスを、とにかく起こさなければと、手を伸ばす。
その伸ばした手に、不意に暗く大きな影が差し込む。
陽が陰って来たのかとリリアが顔を上げれば、机の向こう側に、異国風の外套を羽織った背の高い男性らしき人物が、窓枠に手を掛け、今まさに外へ出て行こうとしている矢先だった。
「ひっ……」
明らかな不審者にリリアは身を硬くする。
しかし不審な男は、アミリスを抱きかかえ、恐怖で身を竦めるリリアを気にもとめず、あっという間にその場から立ち去ってしまった。
「いたた……」
何があったのか訳がわからないままリリアがガタガタと震えていると、リリアの胸の中で、アミリスが更に呻き声を上げ、リリアはハッとする。
もう居なくなったんだから、今はとにかくアミリスが先だと、恐怖で止まりそうになる思考を必死になって動かした。
「あ、アミリスさんっ!お、お怪我は……」
「あぁ。ちょいと突き飛ばされただけだよ……って、こうしちゃいらない。大変だ、泥棒だよ!! 誰かきとくれ!!」
腰を抜かしてしまっているリリアから離れ、アミリスは慌てて男が去っていった窓から顔を出し、大声で叫ぶ。
そうしてアミリス声を聞いた近所の人達が大通り四方八方から顔を出し、邸の周りはあっという間に大騒ぎとなってしまったのだった。
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