メイドAは何も知らない。

みすみ蓮華

メイドの知らない約束事。 3

『初めまして旦那様。今日からこちらでお世話になります、リリア・ウォーレンスと申します。
 直接お会いする事は叶わないとの事でしたので、この様な形で失礼させて頂きます。
 掃除は嗜む程度で、料理の方もまだ勉強中の身で、至らない事の方が多いかと思いますが、これからよろしくお願いします。
 何か不備が御座いましたら、この帳面にて何なりとお申し付け下さい。
 今日は初日ということもあって、一階と二階の部屋の場所を確認しました。
 もし入ってはいけない部屋がありましたら教えて頂ければと思います。
 それと、お夕食なのですが……
 いえ、今から卵を作り直しますので、今日はご容赦頂けると幸いです。
 失敗したニシンは責任を持って私が処分します。
 旦那様はどの様な物を好まれるのでしょうか?
 すぐには作れないかもしれませんが、次からはなるべくご希望に沿ったものをご用意させて頂きたいと思います』


「掃除は嗜む……」


 なんだか妙な言い回しが気になり無意識に口にして、チェイスは慌てて緩みそうになる口元を押さえる。
 どこかあどけなさの残る文章は、彼女の人柄がよく現れている。
 どうやら料理は得意ではないらしく、その後に続く数日分の報告内容でも、用意していたらしいニシンは彼女の犠牲となったようだ。
 最終的に火が通った物を出すのを諦めたらしく、酢漬けに行き着いたらしい。
 よくよく考えてみれば、料理番などメイドの仕事ではないのだから当たり前だ。
 しかも今日は、洗濯から庭の手入れまで始めたらしく、チェイスは一度も家に帰らなかった事を後悔した。


 元々行儀見習いで城で働き始めたらしいのに、今では下級階級の下働きの様な扱いになってしまっている。
 貴族出身でないとはいえ、伯父は準男爵だし、彼女は裕福な家の令嬢だ。
 家に帰ってきた時の状況から鑑みるに、この様子では恐らく彼女は一階に部屋を設けたに違いない。
 顔を鉢合わせてしまう可能性を考えると、それが正しいのかもしれないが、あの寒くカビ臭い棟を一人で使っているのかと思えば、なんだか邪険に扱っているような気がして落ち着かない。


 チェイスは少し考えた後、胸ポケットから携帯用のペンを取り出し、リリアへの返事を認める。
 チェイスが全てのページにサインを記し終えた頃には、皿に盛られたニシンの山は、影も形も無くなっていた。




 =====




 初めて主人の夕食の皿が空になったその日から、リリアの生活は目まぐるしい速度で変化していく。
 まず家主の許可を得た事で、庭は見違える程青々とした生命力溢れる庭園へと姿を変える。
 雑草が生え放題で悪戦苦闘していた花壇には、ナナリーから紹介して貰った花屋のエンゲルスと相談して色とりどりのパンジーの花と、白くて小さなアリッサムを植えた。


 それから洗濯は主人の言いつけで、リリアが来る以前から時折世話になっていたらしい洗濯業者に頼むようになった。
 回収に来るのは知的な切れ長の目をしたアミリスさんという40近い女性で、この近所に古くから住み、リリアの知っている中で、唯一この館の主人の顔を知っているとても稀有な存在だ。


 顔を合わせることを禁止されているリリアとしては羨ましいことこの上ないのだが、その事を話すと、ここの主人はまだ若いのに冗談も通じないかなりの堅物で面白味のない人物だから、顔を合わせても気まずい思いをするだけだと顰め面で窘められてしまった。


 その話が本当かどうかは置いておいて、彼女自身もそう愛想がいいわけではない。
 とはいえアミリスのお陰でリリアももっと他の事に時間を割ける様になり、随分と助かっている。
 本来リリアの仕事である掃除の時間もさる事ながら、特に料理を勉強する時間が増えた事はありがたい。


 主人からの返答には、 "極力帰る様には心掛けるが、当面は家に戻らない事の方が多い為、料理を無理にする必要はないし、用意する時も出来合いの物を適量・・買ってきてもらえればそれでいい" と書かれていたのだが、リリアはやはり出来れば自分の手で料理を作りたいと思った。


 アミリスはああ言ったが、日報に書かれた主人の返事は、連日邸を開けていたとしても、必ず一つ一つに返事を返してくれたし、その内容も決していい加減なものはなく、人嫌いが嘘のようにリリアを気遣うような物ばかりなのだ。
 そんな優しい主人に甘えてばかりもいられないし、ここまで良くして頂いているのだから、何か少しでもお返ししたい。


 その事をナナリーに話すと、やはりナナリーは快く料理の先生役を引き受けてくれた。
 おかげで今では卵料理とニシンフライの他に、スープまで作れるようになった。
 当面の目標はニシン以外の魚や肉料理なのだが、どちらもまだ自力で捌くまでには至っていない。


 最も酷かったのは、ナナリーが紹介してくれた御用聞きのラルフが、キジを丸ごと一羽持ってきてくれた時の事だ。
 お近づきの印にとよく肥えている立派なキジを持ってきてくれたのだが、リリアの目の前にキジの死体が置かれた瞬間、肉がまさかこのような形で届けられているとは思いもよらなかったリリアは、ピクリとも動かない動物の死骸に衝撃を受け、そのまま卒倒してしまい、ラルフがナナリーに説教を食らう羽目になってしまった。


 ナナリーは手始めに魚を捌くところからと、生のニシンの他にサバやスズキといった少し大きめの魚を持ってきてくれるのだが、それでもリリアは及び腰でなかなか上手く行かなかった。
 もしリリアの父や母が生きていたら、船乗りの娘がと大笑いしていたに違いない。


 それでも少しずつ色々な事を憶え、自分が成長していくのを実感する。
 なにより色んな人と話すようになったのは、以前のリリアなら想像もつかなかっただろう。
 苦手なことも落ち込むことも勿論あるが、働く事や誰かと話す事が楽しいと感じたのは、お城で働き始めたばかりの頃以来だ。


 本当にここに来て良かった。
 直接感謝が言えないのはとても残念だけど、このまま少しずつ色々な事を覚えていけば主人から信頼を得て、いつかそんな日が来るかもしれない。


 淡い期待を抱きながら、リリアは今日も台所に立つ。
 スープにする為の野菜を桶に入れ、たわしを使って泥を丁寧に落としていく。
 随分手際よくこなせる様になった作業に気を良くして鼻歌交りに手を動かしていると、下階から少々乱暴に扉を叩く音が聞こえてきた。


「は、はいぃっ! 今行きます!」


 前掛けのエプロンで濡れた手を拭きながら階段を降り、使用人用の玄関の前に立つ。
 主人から二階の空いている部屋を自室にする様に言われてから、よく顔を見せに来てくれるナナリーやラルフ、それにアミリスは、二階の台所にある裏口から訪ねてくる様になっていた為、リリアは一体誰だろうと首を捻りながら扉に手をかける。


「お待たせしましーー」
「リリア!!」


 扉が完全に開ききる前に、リリアは突然手首を掴まれる。
 その乱暴な行為と、聞き覚えのある声に驚いてリリアが顔を上げると、栗色の髪をした筋肉質の男が、物凄い形相でリリアを見下ろし、佇んでいた。


「えっ……セス、さん?」


 その顔を確かめ、リリアは呆然と目の前にいる人物の名を呟く。
 そこに立っていたのは、リリアもよく知り、そして最も苦手な、ウォーレンス商会貿易船の若き副船長、セス・エッケルトだった。



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