藍―AI―

葉月瞬



 男がいた。旅をしている。
 旅人然とした容姿だ。カウボーイハットを目深に被り、バンダナで口元を隠している。動きやすい貫頭衣に、裾の長いジーンズをはいている。その上からマントを羽織っている。
 男は、巨大なクレーターの縁に立っている。縁に立って、じっと、その中心点に倒れた少女を見詰めていた。
 と、男が動いた。中心点に向かって、真っ直ぐと疾走して行く。
 誰よりも早く少女を運び出さねばならぬ。信念の光がその瞳には宿っていた。
 少女がいる場所――藍色の力が弾けた中心点――爆心地は、跡形も無くなっていた。それまで彼の地には人の町が存在していた。人の町は戦争の餌食になっていた。焼け爛れた人家や、倒壊した家の下敷きになっていた人間、それまで人間たちが生活していたその跡も何もかも消えてしまった。大きな町だったのだが、その広大な面積はただの土が露出した地面に変わり果てている。その地面には、中心点に向かって筋のようなものが刻まれている。その中心地点には裸体の少女が横たわっている。長い尻尾、体中を藍色の和毛にこげが覆っている肢体、頭頂に短く鋭角に突き出た耳――猫のような容姿は、彼女が孤猫族イエネコであることを物語っている。
 男は無言のまま中心地点に近付くと、少女を抱き起こした。少女は意識を喪失している。
「可哀想に」
 男は目を伏せて、悲哀を浮かべながらそう言うと、インディゴを背に担いだ。男が数歩、来た道を戻ったとき、ジープ型の車が一台近付いてきた。乗っているのは獣の容姿を持った者達だ。螺旋を描いた角を持っているところを見ると、弓角族ヤギのようだ。どうやら彼等は少女を回収しに来たようである。
「早いな」
 男は知らぬ間に急ぎ足になる。
「……! 何者だ!」
 途端に誰何の声が男に掛けられる。その言葉は、同時に制止の意味も含まれていた。だが、男がそれを聞き入れるはずもなく、今や駆け足となった足はそのまま回収班が来た方向の対角へ向かっていく。
「止まれ! 止まらないと撃つぞ!」
「娘を放せ!」
 その言葉を耳にするよりも早く、男は銃身の長い銃を取り出して、抜き撃ちで回収班の男達を撃ち抜いていく。男はこういう事には慣れているのだろう、その手つきは鮮やかだった。乗り手がいなくなったジープ型の車は、暫くはそのまま慣性で走り続けたが、石に乗り上げて引っくり返ってしまった。男はその様を見届けると、即座に踵を返し、走り去って行った。残ったのは腹を剥き出しにしたジープだけだった。


 洞窟の中、男は焚き火に火を起こしている。てらてらと光る灯りは洞窟の凸凹の壁面に反射して、岩の赤い色合いを如実に照らし出していた。そこは大地の隆起によって起きた小山の中腹であることが解る。岩が隆起して出来たそこは、岩石がごろごろと転がっている。男の対面には焚き火を挟んで少女が横たわっている。先ほど男が連れ去った少女だ。少女は静かに寝息を立てている。和毛の無い二足歩行動物――人間である男とは似ても似つかないどころか、種族同士で敵対関係にあるもの同士だ。その男が、静かに少女の目覚めるのを待っている。裸体であった少女には毛布代わりのマントが掛けられている。火が点いて、数瞬の後に少女は目覚めた。
 薄ぼんやりとした視界の中、ただ赤々と燃える焚き火の火が眼に飛び込んできた。ぼんやりとした頭でその奥に人が座っていることを認識する。認識した後で、ふと何かに気付き、被せてあるマントの中を覗く。途端に、少女の頬から耳にかけて朱に染まり、小さい悲鳴を上げた。マントの中は赤裸々だったからだ。一糸纏いぬその様を見て、ついで男と自分を交互に見遣り、ますます朱に染まった頬を色濃くしていく。少女の疑いの視線を受け、男は苦笑いを浮かべる。
「気が付いたようだね。……はっは、安心したまえ、君には手を出してはいない。君に手を付けたら、怒られてしまうよ」鳶色の目が笑っている。
「……誰?」
 少女は、誰に? と問いかけたい衝動を抑え、誰何に留めた。その声は、小さく、弱々しかったが、よく通る声なので相手には伝わっているだろうと、少女は男が言葉を発するのを待った。
「ああ、すまない。名乗るのが遅れた。俺はハーベイラス・エコーと言う者で、アルセナヴィッチコフの友人だ。ハーベイでいい。…………君は、インディゴ・ブルーだね?」
 アルセナヴィッチコフと言うのは、獣人世界における伝説の人だ。少女と同じ藍色の和毛を持っている。伝説に名高いその人の名前を聞いて、少女は少し警戒を解いた。だが、まだ油断してはいない。
「おじさん、アルセナヴィッチコフを知っているの?」
「ああ、古くからの友人だよ」
「どうして、私の名前を……?」
「アルが予言したからさ」
「予言?」
「…………君は服を着たほうが良い」
 あえて話題を逸らしたのだろう。その言を受け、インディゴは思い出したとでも言わんばかりに、顔から火が噴出したように真っ赤になる。
 実際、インディゴたち獣人は体中和毛で覆われているために、若干の寒さには強いのだ。人間達よりも遥かに。体毛が無いのは腹部と胸部だけで、あとは柔毛に覆われている。その柔毛が寒風を防いでくれるのだ。だから獣人達はもともと服を着る、という文化を持っていなかった。多少の布切れを身に着けるぐらいだった。その獣人達に服飾文化を持ち込んだのは、他でもない人間だった。そして、服飾文化が広く浸透していったとき、純粋な獣人達に恥辱という感情が芽生えた。
 ハーベイは自身の荷物の中から代えの服を取り出すと、「男物だが」と断りを入れてインディゴに手渡した。そして自分は「何か、食べるものを獲ってくる」と言い置いてライフル銃を手にすると、洞窟を出て行った。それが彼の配慮なのだと解るのに、さほど時間は要しなかった。
 インディゴは遅々として着替え始める。ふと何かに気付き、胸の直ぐ上、左右の鎖骨の真ん中に手を当て辛そうに目を瞑る。掌の下には研究所にいた頃につけられた刺青がある。割り振られた番号と共に研究所の名前が彫られてある。とても辛い記憶だ。暫しの間、そうしていたが、暫瞬の後に着替えを再開した。
 ハーベイが兎を数匹手に戻ってくると、既にインディゴの着替えは終わっていた。大きいサイズを無理やり着込んでいる風は隠せないが、他に服が無いので今のところは止むを得ない。どこか町に着いたら女物の服を買ってやろうと、彼は思った。
 ハーベイは獲ってきた兎の喉元に小刀を当てると、躊躇無く裂いた。多少血飛沫が飛んだが、インディゴにはかからない様な向きを向いているので問題ない。インディゴは一瞬肩を竦めたが、目を瞠っている。ハーベイはそのまま首を切った方とは逆の方に逸らし、全ての血液を出し切るまで出す。出し切った後で、兎の足を四本切断し、毛皮を剥ぎ取る。兎の足は旅のお守りにするための物だとか、毛皮はいい値段で売れるだの、逐次説明しながら他の二匹も同じように作業していく。慣れているようで、手際は良かった。一匹分を拾ってきた木の棒に突き刺し、股のように分かれた木の棒二本を焚き火の対面になるように地面に突き刺し、その上に兎肉を突き刺した棒を乗せる。これで簡易式のグリルの完成だ。残り二匹は塩漬けにして保存食にするつもりらしい。
「食べないのか?」
 兎肉が焼きあがって、ハーベイはナイフで裂いて食べている。インディゴの分も小皿にとってあるが、インディゴは手をつけていない。
「食べたくないのなら、食べなくて良い。食べたくなったら食べろ」
「………………おじさんは人間でしょ。どうして私を助けたの」
「それか。んー、アルに託されたから、じゃ不服かい?」
「…………」
「わかった、わかった。じゃあ、話してあげよう。長くなるが……、
 俺がアルと出会ったのは、ほんの偶然だった。俺は旅をしていた。自分を探す旅だ。とても長い旅だった。その旅の最中、俺は妙な噂話を耳にした。“世界のへそ”と呼ばれる森の奥から、男の呻き声のようなものが聞こえてくる、というものだった。俺は確かめずにはいられなかった。もともと当ての無い旅だったし、好奇心が強い方なのでね。俺は一人で“世界のへそ”に足を踏み入れた。……正直驚いたよ。そこは、まったくの別世界、異界にも等しき世界だったからだ。この世のものとは思えない極彩色に彩られていた。その森は、迷いの森とも呼ばれていて、導きの鈴が無いと迷って出られなくなるのだそうだ。俺は、導きの鈴を持って入ったから迷うことは無かった。何日彷徨っていただろう。その森では昼と夜の境目が無くて、歩き続けて、疲れたら寝るを繰り返した。その森の中には不思議と襲ってくる動物がいなかったから、安全は保たれていたんだ。寝るときは森の木々や草叢がどいてくれた。不思議な森だったよ。まるで生きているような。……何処まで話したっけな。…………ああ、そうだ。ともかくそうやって何日も彷徨った末、突然開けた場所に出た。そこには、驚くべきものがあった。獣人が、木に喰われていたんだ。――いやいや、喩えじゃない。本当に喰われていたんだ。そいつは気だるそうに眼を開けると、俺を認めてこう言ったんだ。「ああ、人が来た」そう言って、その獣人は微笑んだ。驚いたことに、そいつは生きていたんだ。それから、俺たちは親交を深めていった。
 いろいろな話をしたさ。俺が旅で出会った様々なこと。そいつの身の上に起こった出来事。藍色の伝説のこともな」
 薪が弾け、炎が揺らめいた。ハーベイは新しい薪をくべる。
「そして、俺があいつの元を去ろうというときに、あいつは言ったんだ。お前のことを頼むと。そいつがアルセナヴィッチコフ。毛色はお前と同じ藍色だった――」
 炎がぱちと爆ぜた。
「教えて。私に、何があったの?」
 発問したインディゴの瞳は真剣だった。

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