穂波皆穂

秋色

穂波皆穂

「穂波皆穂」裏表紙に黒マジックでそう書かれた本が本棚にいつしか置いてあった。
その本はボロボロで所々破れていて、日焼けしている。そんな本を横目にいつも通り漫画を読んでいると、外からバイクが停まる音が聞こえてきた。ふと、時計を見ると午後二時を少し回ったばかりだったので、この時間にこの辺りをバイクで走っているのは、郵便局のそれしかない、そう思いながら窓から外を覗くと一階のポストの周辺をそれらしき人が、彷徨いているのが見えた。しばらくするとその人はバイクへ跨り何処かへ行ってしまう。
自分宛の手紙が来ていないかと思い、階段を降りてポストへ向かう。珍しく僕のところにだけ郵便物が入っているポストを開けると、送り主には「穂波皆穂」と書かれた封筒が届いていた。家へ帰り中を開けると、そこには僕が持っている、あの本が入っていた。中をめくって見ても何の変哲も無い見慣れた文の羅列ばかりだ。妙に苛つき、本を放り投げ、一回転して裏向きになった本をチラッと見ると、そこにはまたしても「穂波皆穂」と黒マジックで書かれていた。不審に思うも、自分の本棚にあるそれすらもわからないのに、此処へ来て更に謎を深められては困ると思った。気付けば僕は、襖の奥に眠っていた卒業アルバムを取り出していた。ページを捲って照らし合わせたが、贈り主と苗字が一緒という女子は居たが合致する名前はなく、僕はいま少しばかり、落胆している。悶々とした時間が流れ、その時間に耐えきれなくなる頃、僕は母にいつか以来の電話を掛けていた。母は妙に話が長い、だからあまり電話はしたくないのだが、致し方ない。母と二十分ばかり話した僕は、穂波という女子の事を四方山話序でに聞いたつもりだった。しかし、母の口から出たそれは、僕にとって余りにも衝撃的なものだった。穂波という女子はその昔、お隣さんだったらしく、小学生になる前に引っ越していってしまったが、それまでは兄妹のような間柄だった。そして、僕が当時訳も分からず好きだったドラマの原作本が今、僕の本棚にあるそれだという。そして彼女、穂波は当時両親が共働きで僕の家に良く居た為か僕の影響をもろに受けたのだろうか、僕がこの本を買うと言ったら穂波も買うと言ったので、卑しい僕は小遣いを節約できると考え、穂波に買わせたという。当然、両親にはひどく怒られたのだが、どうやら右から左だったようで、すっかり忘れていた。そして、僕の母が彼女にお詫びの印として僕が持っている本と同じ本を買ったのだ。しかし、そうすると穂波しか本を持っていないはず。そう思い母に尋ねると、結局穂波の親も僕へ買い、この話は決着がついた。そう言われると微妙ながらよくあり話と腑に落ちる。では、この「穂波皆穂」というのは、何だろうか。母は電話越しにも分かるくらいに失笑しつつ、話す。ある日、穂波と同じ部屋にいて僕が本を読んでいると、回文のシーンが出てきた。辞書に当たると、トマトや新聞紙の事だと分かりすぐさま目の前の穂波を揶揄い回文を作ってみた。それが「穂波皆穂」だという。穂波は嫌がる様子もなくその日以来穂波皆穂と名乗るようになり、ついには本に名前を書いた。






では、何故二冊も名前入りの本があるのか、母は「そのうち分かるから」と、それ以上何も言わず電話は切れた。ふと、外を見るともう日が落ちかけていたので、夕飯の支度をしようとすると、携帯が鳴った。普段は滅多に鳴らないからか、思わず名前も確かめずに電話に出てしまった。しかし、何故か「もしもし、もしもし」僕が何度かそう言ってもなかなか返事をしない。痺れを切らした僕が電話を切ろうとすると、相手は雨漏りした天井から垂れてくる水滴のようにポツリポツリとか細い声で呟いた。「あの、穂波です。覚えてますか」「え、穂波さん?本当に?」僕は何度か同じ問いを繰り返した。穂波はそんな僕を尻目に冷静に話を進める。母から聞いた内容が殆どを占めていたが、彼女は彼女にしか彼女
でないと知らない真相についても淡々と話す。要約するとこうだ、穂波は僕の本にも「穂波皆穂と書いたことを言いそびれ、その内僕が本の存在を口にしなくなるのを見計らい、恰も自分の本をつまり名前入りの本Aを僕の本棚に置いているかのように見せ、本来、僕の本であるはずの名前入りの本Bは穂波が所持していた、という訳だ。見た目が変わらないのだから、分かるはずがない。そして、彼女は引っ越してしまい、幼い少女には罪悪感が残る。拭いきれない罪悪感をどうすれば良いか分からず、十数年ぶりに連絡網を頼りにして、僕へ連絡を取ろうとした彼女は僕の母に電話番号と住所を聞いた。躊躇いから、本を先に送り届いた時を見計らい、僕へ電話を掛ける。僕はこの計画を立てたのが母だと穂波から聞いてギョッとした。
「女同士の結束は固いなあ」「そうですかね、では本はちゃんと返しましたからね」
「うん。あ、そうだ穂波さん、いや穂波」急に呼び捨てにしてはまずいかなと思いつつ勢いに身をまかせる。「なんですか」「お前の住所を教えてくれ」「え?封筒に書いて……」「そうじゃない。わざわざ芝居掛かってるよホント」「あ、ばれちゃいましたか」僕は今彼女が「郵便」で送ったという封筒を手に通話している。しかし、封筒には52円切手時代の料金分しか貼られていなかった。「切手値上がりしたの知ってたか?今は62円だぞ」「今知りましたよ、穂波それ知ってたらちゃんとしたのになぁ」「キャラぶれてるぞ、お淑やかさはどこへ?」「あー、まぁ本音を言えば捨てるのもあれかな、って。」「わざわざ、そんな
手間をかけなくても良いだろうに」「だって、穂波の印象上げるチャンスかなって」「お前なあ……」僕が一つ説教でもしようかとすると、穂波の甲高く他所様向けの甘ったるい声が聞こえてくる。「おかえりー、あ、もう旦那帰ってきたからそれじゃ」ガチャ、ツーツーと聞きなれない音を聞きながら僕は思った。然もありなん、と。



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