彼女と出会ったあの日から

秋色

第二十五話

俺は今、大変に窮屈な思いをしている。例えるなら、コーヒーの事を外来黒豆の挽き汁と言ったり、どこが面白いのかわからないが味噌汁を味噌スープと言ったりしなければならない事態に見舞われた時ぐらいだろうか。新調したばかりで裾上げ部分がやけに張り付けてくる黒のスーツを着込み、足元にはセットで購入した革靴を履いている。手には、申し訳程度で駅の売店に置いてあったものをぶら下げ、腰にはする必要性を見出すことが大変に難しく、端的に言ってコルセットをしていた方がよほど腹部や臀部、腰回りによさそうなベルトを割ときつめに巻いている。こうなってくると、普段の俺ではいられないわけで、傍から見ている分には滑稽に見えて、指を指したくなるだろう。その気持ちは十分に分かるのだが、俺にはこのような格好をしなくてはならない重大かつ早急にこなさなければならない課題がある。そう、彼女のご両親への挨拶である。
ご両親の挨拶と言えば、定番であるところの「娘さんを僕にください」が思い当たるだろうが、俺はこの言葉には少し懐疑的である。というのも、くださいとお願いするという事はご両親には権利があるわけであるからして、その権利を破棄しろ、すなわち婚姻の承諾を迫るわけだ。目上の方にする態度ではないだろう、ではどうするべきなのか。俺としてはこう言いたいと思っている。
「娘さんを僕に貸してください」こういえば、何か不始末があった場合には返却、つまりは離婚してもらって構わない。だが、そんなつもりは毛頭ないという誠意と、なかなか殊勝な男じゃないかとあの位の世代の自尊心を少しばかり刺激できると言う点において優位性があるわけだ。まぁ、冗談である。嘘である。ちょっとしたおふざけである。いうなれば暇を持て余した俺の遊びである。


電車に揺られているわけだが、外の景色は一向に変わる気配を見せないが故のお遊びだ。こういったことがあるから、バスなんかで乗り物酔いをした奴が周りから、外を見ろと指示され素直に従ったにもかかわらず、辺り一面に盛大に吐しゃ物をまき散らし、しばらくの間、で済めばよいがたいていの場合は卒業した後も語り継がれてしまうのだろう。
さて、暇である。とりあえず一服しよう。席を立とうと向かいの席の彼女に一声かけてから喫煙スペースへ。
電車の面倒くさいところランキング第二位はドアの多さと開閉の遅さである。少しもたついていると、彼女の消え入りそうな声が聞こえてくる。「青山さん、青山さん。ズボンズボン」なるほど、俺はいたって冷静に股間部を見る。大方社会の窓が、前回だったのに、それに気づいていながら言うに言えず、俺が物思いにふけっていたのもあって今の今まで忘れていたのであろうことは察しがついた。しかし、股間には大層立派なマムシ以外にはそれと言って異変は見当たらなかった。
彼女の方へと視線を向ける。口をパクパクさせている彼女、それを見て首をかしげる俺。バカップルである。彼女は面倒だと思ったのか、席を立ち俺の方へと歩み寄ってくる。耳元で囁き、俺は恥ずかしくなってしまった。
「お尻のところ、少し破けちゃってますよ。後で縫ってあげます」いや、今やっていただきたのだが。彼女は踵を返して席へと向い、そのまま座る。カバンの中から四六版の本を取出し、とうとう俺には一瞥もくれなくなってしまった。
私こと俺はクールでダンディーな喫煙シーンを映画なんかで見るたびに自身が大人になったら出来るのだと、昂揚感に包まれていたためか、年齢が許す少しほんの少し手前で始めたのだが、よもやこんな格好の悪い姿で、喫煙することになるとは……
少年時代に戻りたくなってしまった。とりあえず、この一本は吸いきるのだが。



コメント

コメントを書く

「文学」の人気作品

書籍化作品