彼女と出会ったあの日から

秋色

第二十四話

「では、そろそろ帰りましょうか。言いたいこと言うとすっきりします」「私のような卑しい人間にご教授願いましたこと、有難く存じます」「うむ、青山君。君は中々見どころがあるね。どうだろう、私の研究室に入らないかね」「川角教授の研究室に、ですか。ぜひお願いします」「そうか、そうか。共に恋愛を極めようじゃないか」先に行ってるぜ、と言わんばかりに先へ進みながら笑っているのを背中越しに見ていると思わず駆け出したくなった。ともあれ俺は、この茶番を気に入っている節がある。


台所にいきなり、料理研究家がやってきたりするのも、自称ラッパーがやってくるのも大変に非日常的で素晴らしいだろう。「青山さん、さっきのどうでしたかな?」「若干、教授が残ってますよ」「あ、テヘッって感じですかね。で、どうでしたか、さっきの」「うん、面白かったですよ。研究室のくだりはリアルでしたし」「私が聞いているのは、そっちじゃありません」
彼女はそう言って、顔をしかめる。しかめる道中に慣れていないのだろうか、鼻が一瞬膨らみ慌ててそれを修正していた。俺は、キスの事を聞かれているのだと思った。だが分かっていても口にしようとすると、鼻が膨らみそうになる。
「もう、良いですよ。私の事なんて、遊びだったんですよね」踵を返す彼女を引き留めようと肩へと手を伸ばす。
彼女の細い肩甲骨の辺りに確かな感触を感じたと同時に、軽快な音がする。パチンと音が聞こえ幾分かの遅れを伴って俺の手のひらには、湧いた湧いたとやかましいやかんを咄嗟になだめようとして、触れてしまった時のように赤らんでいた。
手のひらを呆然と眺めていると、彼女は言った。「キス、キスの話ですよ。分かりますよね。さっき何回もしたやつです」
彼女に勢いは止まらない。口がシンガポールのライオンになったらしい。「女の子の方から、こんなこと言わせるなんて。ありえないですよね。はい、ありえません。ということで、青山さんには罰を受けてもらいます。良いですよね」前半は分かる、何となくだが、ドラマなんかでも告白やホテルに誘うのは決まって男の方だし、何よりも俺の愛読書であり、毎月更新されるという稀有なバイブル『男の八割はダメな生き物だがそこが良い』通称オトハチの作者である天命涼子先生もそのようなことを仰っていたはずだ。
しかし、罰ゲームとはなんだろうか。あれか、新任の教師の登竜門であり通過儀礼であるところの黒板消しで頭部を真っ白に染められてしまうやつだろうか、いや多分違うだろうな。彼女の事だ、どうせ大した罰ゲームなんぞは画策のしようがない事を俺は知っている。天命先生いわく『女が怒った顔をしながら、無茶な要求をしてきたとき、それは焼きもちを焼いているのよ』と言われていたわけで。どれ、聞いてみようじゃないか。どうせ、ファンシーなものを食べたいとか、オーガニックな空間を演出すれば良いのだろうから。「では、発表いたします」「俺の返事を聞いてはもらえないでしょうか」却下します、そういって彼女は続ける。「青山さんには、私の実家に来てもらいます。私こう見えて結婚願望強いんですよ」
ファンタジーつまり、幻想であるがこれは俺の中にある幻想性が顕在化しもたらしめた妄想ではないだろうか。思案中である。

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