彼女と出会ったあの日から

秋色

第十六話

 日も沈みそろそろ夕食でも摂ろうか、今日は出前にしようかな。そんな家族のだんらんで話すような内容が頭に浮かんでくる時間。そう考えてしまう時間だが、何故か俺は一口も固形物を口に含んではいなかった。「青山さん、醤油ってポン酢じゃ代わりにはなりませんかね」「いや、あのですね。酢ってついているじゃないですか。そうすると違うものだと思います」
 もう、文句ばっかり。彼女はそういってまた狭苦しいおよそキッチンとは呼べない場所で白いエプロンをひらひらさせながら鍋やら、フライパンやらと戦う。冷蔵庫の中が空に近い事や調味料も最低限しかないのに料理をしようとする彼女。
 最初はほほえましく思って眺めていたが、一時間が経ち二時間が経ちと繰り返し時計の針を見飽きたころには彼女はもう俺の事なぞ忘れているのではないか、と思う程に熱中している。そろそろ腹が背中と同一になりそうだ。
「川角さん大事な話があります」彼女は俺がそういうとフライパンの中のよくわからない黒い物体を突いていたしゃもじを放って俺の方を見て言った。「え、なんでしょうか。大事な話って、もしかしてそういう感じの……ですか」「はい、とりあえず俺が空に近い財布を捻ってごちそうします。冷蔵庫を何度見返しても、ポン酢とわさびしか入ってません。ですので出かける準備をしてください」「あ、そういう大事な話。嫌です」「拒否するならコンビニ弁当になりますよ。それでも良ければどうぞ」
 少々、冷たい言い方にはなってしまったがもうそろそろ俺の腹も限界だし、彼女もやせ我慢と見栄で料理を行進するのをやめたほうが良いと思うわけで。「青山さんって意地悪ですよね。なんだかなぁ」「甘えても駄目です。駄目、絶対」
 何かのポスター標語みたいですね、彼女はそう言って白いエプロンを椅子に掛ける。「とりあえず、着替えてきます。汗かいちゃった」いや、それはむしろご褒美なのではないだろうか、そう言いかけて喉に圧をかけておいた。危ない。
「じゃあ、下で待ってます。五分以内でよろしくです」「女性の着替えには化粧と身の回りの片づけも含まれますので、胡粉は難しいですね。三十分後に下で」彼女は手慣れた様子で靴を履き、真向いの部屋の中へと入っていく。「そういや、お袋も出かける前は忙しなかったな」不思議だ、彼女を見ているとお袋がだぶつく。まぁ、気にしない。マザコンじゃあるまいし。



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