彼女と出会ったあの日から

秋色

第十四話

「好きでう」しまった。大変にやらかしているではないか。彼女は俺の顔をまじまじと見ながら口元に手を当てている。指の間から見える白い歯や赤い唇に見惚れていると彼女は言った。「何が、ですか。いえ、誰がでもいいですけど……」「えっとあの」俺は彼女を指さす。むかし母親に人様を指さすもんじゃない、と怒られたことを思い出す。しかし、今はそんな礼節なんぞにかまけている時間的余裕はない、一刻も早く思いを伝えなければならないのだから。彼女は、待ってましたとばかりにその色白でシミやしわひとつない顔をパッと明るくしながら、此方を見ては視線を逸らし、また見ては逸らしを繰り返した。何度目だろうか、そろそろ返事を貰いたくなる頃にようやく彼女は自分を指さしながら言った。「私で、良いんでしょうか。つまらない女ですし、何より可愛くないですよ」どこかイジワルな彼女の笑顔を見ながら俺は彼女のどこかどう魅力的なのか一心不乱にアピールする。此処に惹かれたとか、笑った時に垣間見える八重歯と赤い唇のコントラストがどうのこうと。「ありがとうございます。それと、いや何でもないです」何かを言いかけ止めた彼女を俺は止めることができない。自分の部屋へと向かっている彼女の瞬間瞬間に靡く髪やユラユラと揺れる腰回りに見惚れていたというのもあるが止められないドアの前でこちらへと向き直る彼女はまさに満面というべき笑顔で言った。「私も好きでう」そう言って彼女は部屋へとガチャガチャと音をたて入っていってしまう。俺は目の前の白いコンクリートの壁と足元の石段を何度も見る。夢かもしれないからだが、何度見ても景色はそう変わっては見えなかった。よくよく見ると煙草の灰がもとい俺が普段からポイ捨てしている煙草の灰がやけに目立つなぁ、ぐらいだった。次は頬を叩く。定番だが痛みによって現実に押し戻されるかもしれないからだ。パチンッパチンッと何度か階段中に響き渡る音とともに次第に赤くなっているであろう頬の痛みを加えてみたが、目の前は何も変わってはいない。
「青山さーん」「はい、いかがお過ごしでしょうか」昔やった保険営業のバイトの癖が何故ここで……と思うものの彼女に気取られるわけにはいかない。「何ですか、それ」笑う彼女、引き攣る笑顔の俺。うん、この方がしっくりくるな。「いや、昔バイトしてたんすよ、保険の」「えー、すごいじゃないですか。何で辞めちゃったんですか」「色々とありまして……」会話をしながら俺は思う。人間関係性はいろいろだ、俺たちは当分の間はこんな友達の延長でいいじゃないか、と。まぁ眠る前に枕を抱きかかえても今日この日の現実を受け入れられなかったわけだが。

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