彼女と出会ったあの日から

秋色

第六話

三月四日 未明






今、俺の目の前には一人の女の子がいる。その女の子は俺の太腿の辺りで必死に手を伸ばしながら、何かを話している。無論、いくら俺だって幼い彼女が必死に話す事を聞こうとする気がないわけじゃない。
 しかし、耳を傾ければ傾ける程にその声は遠ざかっていく。彼女は幼い体には似つかわしくない気迫に満ちたその目で歯がゆそうにこちらを見据えてくる。段々と彼女の姿が薄い模造紙のように白んでいき、とうとう、全くその姿は見えなくなった。
 突然、頭の四隅に痛みを覚え、その場にうずくまるしかなくなった。ズキズキと刺さるような痛みはヤブな歯医者の虫歯の治療よりもタチが悪い。
 麻酔すら意味をなしそうにないその痛みを必死に押さえ込もうと地面へと顔を押しやりながら頭を抱える。
よく、鈍器で殴られたような痛みと
形容される外側からの痛みではない。内から何かが押し出される痛みだ。俺は、一人息を荒くしながらその足元から次第に、闇を誘ってくる世界と対峙せざるを得なかった。
視界が徐々に暗く滲む。暗闇の中で、俺は一筋の白い光の糸を見た気がした。もう一度辺りを見返しても白い光はその姿を見せない。
 片手で頭を抱えながら、白い光のあった場所へ惨めったらしくもう片方の手を伸ばす。手が空を切ったと同時に視界が開けた。
 顔が熱く、額からは一粒大の汗がポツリと垂れてくる。それを拭いながら俺は、先ほどまでの夢について猫がマタタビを目の前にしたのと同じように、必然的に考えさせられる。
「ただの夢というのは、簡単すぎるだろうな。予知夢か何かの暗示か」
腕組みをしながら散らかったベッドの上で暫く考えて答えは出てこない。性分なのだろう、あまり長時間頭を使うのは得意ではない。
 そうすると、徐々に気が散りだし、耳の中をやたらとほじってみたり、鼻毛が出ていないかチェックしたりを何往復かした後は、自然と換気扇の下へと向かっていた。
 いつもの様に換気扇から垂れ下がっている先っちょにビーズがついた紐を下へと引くと、耳慣れない音と共に、換気扇は歌い出す。刃を買い換えるのを忘れているのに気がついたが、そんな些細な事は後回しにして気分的にはとにかく、一秒でも早く
朝の一服を楽しみたかった。
ところで、人は砂漠に長いこといると、何やら幻想を見るらしい。特に、水を欲しているときには、オアシスを見てしまうというが、生まれた時から水に不自由したことが無い俺から言わせればこの手の話は理解は出来るが、リアルな感じはしない。むしろ喉の渇きならともかくついでに脳まで渇いてしまったのかと疑りたくなるくらいに。
 ふと、手元に目を向けると根元近くまで、燃えている。
慌てて火をシンクに押し付け、水を流す。
 先ほどまで、気にはならない程度の歌声だった換気扇も次第に
「 ザッ、ザッ、ザ、ザックザクッ」と季節柄まだ早いが、不思議と
かき氷を食べたくなる音を奏でだす。
 彼も疲れたのだろう、次第にその音は最後に、「カラ、カラッカラカラ」と響かせたのを最後に、鳴りを潜めるかのように部屋中を沈黙させた。
沈黙に痺れを切らしそうな、そんな時に、チャイムが部屋中に響き渡る。



「文学」の人気作品

コメント

コメントを書く