彼女と出会ったあの日から

秋色

第四話



 最初は、控えめにピッポーン、ピッピッポーンと優しく呼びつける様に鳴っていたチャイムも俺が靴を脱ぎかけから履きかけだと自分に言い聞かせる頃には、ピピピピッポーンとまるで今どきの小学生には流行らないだろうが、少なくとも俺の小学生時代に流行っていた、いわゆるピンポンダッシュのようなそんな耳の中をやかましく行ったり来たりするその音を聞きながら俺の心臓はドク、ドクドクとやかましくなっていた。
「川角さんが来てくれたんだろうか」
 ドアを開けたその先に待っていたのは案の定というかご都合的というかなんというか想像通りの人だった。
「すいませーん、新聞取ってくれません?いやぁ最近はどこも不景気でしょう。だからね、ね? 」
 早口でまくしたているこの男の仲間に出会った人には俺の色々と言いたい事は分かってもらえるだろう。
 まず、何よりも言いたいのはこのいびつなじゃがいもよりもひどくデコボコしている面と額に汗と言えば聞こえはいいが、
このおっさんの年ではそれは汗は汗でも油分をたっぷりと吸ったキッチンペーパーのようなものではないだろうか。
そんなおっさんを俺は当然追い返そうとした。


「ふぁぁあ」俺があくびをしながら踊り場で一服していると、カラスがカァカァと鳴きながら群れを成してゴミ捨て場にあるビニール袋を漁っている。
 先程まで意気込んでいた俺も熟練のおっさんを前にしては刃が全く立たず、苦し紛れを言うしかなかった。
「貧乏暇無しとは言うもののフリーター金無しというのは聞かんですね。ははは、お父さんの熱意に免じて買いましょう」今の俺は一人踊り場で口にはお気に入りの煙草をふかしている。ここまでは良い。
 しかし、問題なのは、片手にはニケのシューズを、もう片手には申し訳程度の遊園地のチケットと取り敢えずの日刊分というおっさんの言葉を鵜呑みにして手に入れた新聞を持っている。
 何もこれからたまたま友人たちと近くの空き地で焼き芋でも焼こうとなっているわけでも、政治や経済に対する興味があるわけでもない。
 そんな俺が新聞を手にしたところで何ができるのであろうか。
 そんな事は誰にもわからんと誰かに言われる気がする。
 そんなことを考えていたはずなのに不思議と先程の新聞の押し売りが上手かったおっさんがその油分もとい額の汗をぬぐいながら満足した表情で帰り際に言っていた言葉が脳内をまるで牛がするように反芻していた。


「お隣さんすごい美人ですね、どうでしょうこれを口実にデートに誘ってみては。本当は私が行ければ良いんですがあいにく、契約がノルマ取れてなくて」
 人は現金そのものが出ていくのには抵抗感を覚えるが、何らかの代替物へと変換してやれば先程まで頑なに拒否していたはずの現金を行使するという。
 例として挙げるならばスロットやパチンコの類だろうか。
それを俺は目の前で実演されている。
 理屈では分かっていたとしても、やはり人間は脆い。
ここ数日、彼女との距離感が初めて会った日よりも格段に近づいているのがわかっているから余計にグッと来てしまっていた。
 しかし、俺には前にも話した通り金銭的余裕はないし何よりフリーターなわけで。
 そんな俺は遊園地はおろか近所の公園にすら行ってはいけない事は分かっているが、彼女の事を持ち出されてしまうと惚れた弱みからか、最後に帰省した時に母親から「父さんには内緒よ」そう言われて渡されたあの茶封筒に縋ればよいと思い始めていた。
 無論、これは目の前にいる脂ぎった簡単なノルマさえ達成できず社内でもきっとうだつの上がらない年ばかり食っている家庭内でも居場所が浴室の浴槽内だけという評価を受けているであろうおっさんの思うつぼだと何度も心の中で葛藤した。
 しかし、負けてしまった。負けてしまったものはしょうがない。
「ふぅーチッチッ」気付くと五本も吸っていた俺の口の中はヤニでベトベトしている。喫煙歴が十年以上になる俺でもこればっかりは慣れない。
 たまらず「チッチッチッ」と一所懸命に口のベトつきを解消しようとしていると、ガチャ、と上から音がする。
 この踊り場から聞こえる上階の扉の開閉音は俺の部屋とそれだ。
 慌てた俺は口を両手で多いながら自身の口臭を確かめる。
 クサいどころかどこかの野良猫の耳の穴の匂いにそっくりな匂いに自分でしておいて顔をしかめた。
 カツッカツッとヒールの音が小気味よく階段中を包みそれがやがて俺の耳を充満する。
 充足感を覚えながら今か今かと彼女の登場を待ちわびていた俺の心を一瞬見透かされていたのかと思うほどに彼女はゆっくりとその綺麗で深淵な目をパチリと二回ほど閉じながら俺へと眼差しを向ける。
「あれ、何してるんですか、さっき振りですね」
「そうっすね。どこか行かれるんですか」
 俺はあくまでも口臭を気にしつつも自然を装っていた。
 しかし口臭以上に彼女のさっきまでとはあまりにも綺麗でそこらへんに出かける服とはあきらかに違う服装にチラチラと目線を送らざるを得なかった。
 彼女は何かを察したように切り出してくる。「あぁ、これですか、青山さんと別れた後に今からディナーでもって誘われたので今から行ってきます」
 「お友達とお食事に行かれる感じですか、
良いなぁ俺なんか今日も明日もカップ麺ですよ」
 彼女は若干の微笑を顔に浮かばせながら、そのやわらかそうな唇と間に見え隠れする白い歯をチラつかせながら言った。
「ダメですよ、しっかり食べなきゃ。じゃあそろそろ行きますね」
 彼女は小走りで階段を下りていき最後の段をチョッンと飛んで降りていった。転ばなきゃいいけど。
 意気地なしの俺はそう思いながらも声をかけるタイミングを失していた事を理由に強気に出ることをあきらめた。
 見送ったことだし帰るかな、そう思い階段を部屋のある方へと昇っていると、ものすごく遠いわけでも、ものすごく近いわけでもないなかなか狙って止まれる距離ではないであろう所から誰かをおーい、おーいと呼んでいる声が聞こえてくる。
 まさかな、そう思いながらも一応先程まで呑気に煙草をふかしていた踊り場まで戻ってそこから声をしてきた方へと視線を向ける。
 そこには彼女がいた。肩に背負っているバッグを上下にブンブンだいぶ距離があるここからでも、聞こえそうな勢いで振りながらもう片方の手では、こちらに向けて手を振っていた。
 すると彼女は、こちらが気づいたことに気づいたのか、手を使ってジェスチャーを始めた。
 すると、彼女の横を自転車で通り過ぎようとしたスーツを着た男性は、彼女の背中に何やら珍種の動物でも寄生しているかのような視線を向けながらどこかへと走り去っていくが、彼女はお構いなしにジェスチャーを続けるので、これ以上彼女に恥をかかせてはならんと思い必死に謎に満ちたそのジェスチャーの解読を試みる。
 耳の辺りをいじっていたかと思えば、すぐに胸のあたりで自分を人差し指で指してみたりそれが終わったかと思えば、また耳の辺りで親指と人差し指をグルグル回していた。
 数分後、ようやく彼女のジェスチャーを理解した俺は、彼女の部屋へと向かった。
 少し鼻息を荒くしながら間違っていたらとの不安からもういっそのこと彼女のもとへと走っていこうかとも思ったが、二度手間になるとまずいと思い直しドアノブに手をかけた。「ギッーキュキュー」彼女の部屋のドアは立てつけが悪いのかどこか悲鳴にも似た音をたてながら、俺を中へと誘った。
 思えば、女性の部屋に入ること自体が、
初めてなわけだが、不思議とこの時はやましい考えの一つでも健全な男子諸君なら起こしそうなこのシチュエーションを楽しめてはいなかった。
 寧ろ彼女に一刻も早く忘れ物を届けなければと思っていたのだから。
 机の上には、青いシーサーがついた鍵が無造作に置かれていた。
 それを手に取り慣れたものですぐさま鍵を詰め、俺は彼女のもとへと走った。
 彼女のもとへとつくころにはこの程度の距離とはいえ全力で疾走すると息を切らしていた。
「これで合ってましたか」
 息が上手くできず手を彼女に向けられない。すると、彼女は何か思ったのかそうではなかったのか、俺の手の甲へ手のひらをピッタリとくっつけて一言こう言った。
 「ありがとうございます。携帯だって分かってくれたんですね、流石地方レベルなら一緒ですね」最後の言葉にドキッとした俺は、すぐさま彼女へと視線を向けた。
 彼女は俺の顔をジッと見ながらニコッと笑う。
 あぁ、これが幸せってやつか。
 幸せを認識できるほどには落ち着いてきた俺はまだ足元がふらつくのにも気づく。
 彼女は大丈夫ですか、と今にも言わんばかりの表情だ。これはまずい。
 今、彼女の俺に対する好感度メーターなるものがもし、仮にあったとするならば
かなりの位置に居ることは間違いないのだから。

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