夢奪われた劣等剣士は銀の姫の守護騎士となり悪徳貴族に叛逆する
心震わす律動
幼い頃、父の声が思い出せないことがあった。
日頃から方々を巡り、家に帰っても執務室に引きこもっていてばかりで、その窓明かりも消えることは無かった。
一体、いつ食事を摂っているのか、睡眠はどうしているのか、息子であるローレンスにも分からなかった。
エインズワースという男は一切の関心を家族に寄せなかった。
実際はどう考えていたのかは分からなかったが、家族との交流を持つことはなく、家督の相続すら関心がないように見えた。
だが、それでも彼が父親として振る舞っていた時期はあった。
どれほど昔のことか定かではないが、よく笑い、根気よくローレンスの遊びに付き合い、武術・芸術・馬術・学問・魔法など様々な教養を与えてくれたことを覚えている。
特に熱心であったのは音楽だ。彼自身、演奏を嗜み、よくローレンスと二人でピアノの連弾をしたり、協奏曲を奏でたりしたものであった。
*
ある日、帝国との間に戦争が勃発した。
国境にほど近い地を治めるエインズワース家からも当主であるエインズワースが出兵し、その間ローレンスは母方の故郷であるサザーランド地方のリヴィエラに移り住むこととなった。
その頃、ローレンスはある考えに囚われていた。
父が家庭を顧みなくなったのは、家族の存在に興味が持てなくなったからではないのかと。
自分の演奏の腕が上がらないから、父は自分たち家族とのふれあいの時間を設けてくれないのではないか。そして、もう二度と昔のように共にピアノの鍵を打ってくれはしないのではないかと。
そんな焦燥にも似た想いを抱えながら、来る日も来る日も街の修道院で演奏を重ねた。
ヴァイオリン、ピアノ、パイプオルガン、楽器を選ばず賛美歌や聖歌を奏で続けた。ただ、ひたすらに己の腕を磨くために。
本人は気付かなかったが、当時のローレンスが楽器を奏でる姿には鬼気迫るものがあった。
*
「あなたの演奏には心がないわ」
そんな研鑽の日々の中、一人の少女がピアノを弾いていたローレンスに声をかけてきた。さらさらとしたクリーム色の長髪が特徴的な可愛らしい少女であった。
元々、彼が大貴族の子息であることは知れ渡っていた。そしてただでさえ近寄りがたい身であるというのに、余りに鬼気迫る演奏をするため、同年代で彼に話しかける子など居なかった。
それにもかかわらず、少女は恐れを見せる素振りもなく声をかけてきたのだ。
「うるさい。君に何が分かるんだ。だいたい心なんて非合理的だ」
だが、最初に口をついて出たのはそんな言葉であった。
同年代の子に話しかけられたことへの驚きよりも、これまでの努力をそんな曖昧な言葉で否定されたことへの腹立たしさが先に湧いたのだ。
「あのねどれだけ技術が良くても、計算高くても、人の真心の籠もった打鍵やリズム、旋律には決して敵わないんだから。それに、心のこもった演奏は"奇跡"だって起こすのよ? ほら貸して、私が手本を見せてあげる」
などと偉そうなことを言うと、少女はローレンスを押しのけるように強引にピアノ椅子に座り込んだ。
「あっ、ちょっと」
結果、横にずれたローレンスと少女が密着するような体勢となった。
子供の身体にはやや大きい椅子も、二人で座るにはやや窮屈であった。
少女の温もりが直に伝わってきた。初めて接する同年代の少女の温もり、そして遅れてやってきた仄かな香りにローレンスは思わずどきりとした。
「お、俺が練習してたんだ。どいてよ」
だが、そこで席を立つのはまるで彼女を意識しているように思われて、出来なかった。だからローレンスは、彼女をどかそうと抗議したのだが、それに応じる気配もなく少女はその指を鍵盤の上に置いた。
「あ……」
ローレンスはその指を見てハッとした。盛り上がった親指と小指の付け根、その可憐な見た目には不釣り合いに発達した手の甲の筋肉、それは少女がどれほど鍵を打ち続けてきたかを示していた。
失礼な少女だと思った。父に仕込まれ、一心不乱に研鑽を積んだ演奏の技術、それがこんな平民の少女にどうこう言われる筋合いは無いと、そう思い上がっていた。
だが、今は彼女の指をじっと見守ることとした。
やがて、少女がゆっくりと指を弾ませた――
*
それはこれまでに聞いたことのない、美しく優しい旋律であった。
技術は然ることながら、旋律・音の調和・韻律、彼女の指から紡がれるそれらは、聞く者への労りに溢れていた。
技術を誇示するわけでもなく、自らの持論をひけらかすわけでもなく、ただ父とのすれ違いに荒み、音の技術ばかりを追及するようになったローレンスの心を解き、癒やすための音楽であった。
ローレンスはただひたすらに耳を傾けた。
父が家庭を顧みなくなってから、心のどこかで染みのように湧き出るようになったもやもやとした感情、彼女が鍵盤を弾く度にそれらが晴れていくような心地がした。
そして最後に残ったのは、父と演奏をしていた頃に抱いていた、楽しく、純粋な気持ちであった。
「あれ……」
いつしか頬を涙が伝った。
懐かしい頃の記憶、それに対する寂寥にも似た想いが、次々とこみ上げて涙となって溢れていくのだ。
普段、厳しい表情を浮かべてばかりの父、それが二人での演奏になると柔和な笑みを浮かべる、ローレンスはその時の彼の雰囲気がとても好きであった。傍らで身体を揺らしながら聞き入る母の姿が心地よかった。
だが、父は変わってしまった。家を空け、家族との触れ合いにも関心を持たない。そのことがどうしようもなく辛く、悔しく、悲しかった。
だが、同時にその想いは、彼の父に対する想い、家族に対する感情によるものなのだと気付いた。そして、昔のような家族の団らんを取り戻したいと、そんな想いが強くなっていった。
ローレンスの心を溶かし、素直な気持ちにさせた、それは紛れもなく彼女の演奏がもたらした"奇跡"であった。
日頃から方々を巡り、家に帰っても執務室に引きこもっていてばかりで、その窓明かりも消えることは無かった。
一体、いつ食事を摂っているのか、睡眠はどうしているのか、息子であるローレンスにも分からなかった。
エインズワースという男は一切の関心を家族に寄せなかった。
実際はどう考えていたのかは分からなかったが、家族との交流を持つことはなく、家督の相続すら関心がないように見えた。
だが、それでも彼が父親として振る舞っていた時期はあった。
どれほど昔のことか定かではないが、よく笑い、根気よくローレンスの遊びに付き合い、武術・芸術・馬術・学問・魔法など様々な教養を与えてくれたことを覚えている。
特に熱心であったのは音楽だ。彼自身、演奏を嗜み、よくローレンスと二人でピアノの連弾をしたり、協奏曲を奏でたりしたものであった。
*
ある日、帝国との間に戦争が勃発した。
国境にほど近い地を治めるエインズワース家からも当主であるエインズワースが出兵し、その間ローレンスは母方の故郷であるサザーランド地方のリヴィエラに移り住むこととなった。
その頃、ローレンスはある考えに囚われていた。
父が家庭を顧みなくなったのは、家族の存在に興味が持てなくなったからではないのかと。
自分の演奏の腕が上がらないから、父は自分たち家族とのふれあいの時間を設けてくれないのではないか。そして、もう二度と昔のように共にピアノの鍵を打ってくれはしないのではないかと。
そんな焦燥にも似た想いを抱えながら、来る日も来る日も街の修道院で演奏を重ねた。
ヴァイオリン、ピアノ、パイプオルガン、楽器を選ばず賛美歌や聖歌を奏で続けた。ただ、ひたすらに己の腕を磨くために。
本人は気付かなかったが、当時のローレンスが楽器を奏でる姿には鬼気迫るものがあった。
*
「あなたの演奏には心がないわ」
そんな研鑽の日々の中、一人の少女がピアノを弾いていたローレンスに声をかけてきた。さらさらとしたクリーム色の長髪が特徴的な可愛らしい少女であった。
元々、彼が大貴族の子息であることは知れ渡っていた。そしてただでさえ近寄りがたい身であるというのに、余りに鬼気迫る演奏をするため、同年代で彼に話しかける子など居なかった。
それにもかかわらず、少女は恐れを見せる素振りもなく声をかけてきたのだ。
「うるさい。君に何が分かるんだ。だいたい心なんて非合理的だ」
だが、最初に口をついて出たのはそんな言葉であった。
同年代の子に話しかけられたことへの驚きよりも、これまでの努力をそんな曖昧な言葉で否定されたことへの腹立たしさが先に湧いたのだ。
「あのねどれだけ技術が良くても、計算高くても、人の真心の籠もった打鍵やリズム、旋律には決して敵わないんだから。それに、心のこもった演奏は"奇跡"だって起こすのよ? ほら貸して、私が手本を見せてあげる」
などと偉そうなことを言うと、少女はローレンスを押しのけるように強引にピアノ椅子に座り込んだ。
「あっ、ちょっと」
結果、横にずれたローレンスと少女が密着するような体勢となった。
子供の身体にはやや大きい椅子も、二人で座るにはやや窮屈であった。
少女の温もりが直に伝わってきた。初めて接する同年代の少女の温もり、そして遅れてやってきた仄かな香りにローレンスは思わずどきりとした。
「お、俺が練習してたんだ。どいてよ」
だが、そこで席を立つのはまるで彼女を意識しているように思われて、出来なかった。だからローレンスは、彼女をどかそうと抗議したのだが、それに応じる気配もなく少女はその指を鍵盤の上に置いた。
「あ……」
ローレンスはその指を見てハッとした。盛り上がった親指と小指の付け根、その可憐な見た目には不釣り合いに発達した手の甲の筋肉、それは少女がどれほど鍵を打ち続けてきたかを示していた。
失礼な少女だと思った。父に仕込まれ、一心不乱に研鑽を積んだ演奏の技術、それがこんな平民の少女にどうこう言われる筋合いは無いと、そう思い上がっていた。
だが、今は彼女の指をじっと見守ることとした。
やがて、少女がゆっくりと指を弾ませた――
*
それはこれまでに聞いたことのない、美しく優しい旋律であった。
技術は然ることながら、旋律・音の調和・韻律、彼女の指から紡がれるそれらは、聞く者への労りに溢れていた。
技術を誇示するわけでもなく、自らの持論をひけらかすわけでもなく、ただ父とのすれ違いに荒み、音の技術ばかりを追及するようになったローレンスの心を解き、癒やすための音楽であった。
ローレンスはただひたすらに耳を傾けた。
父が家庭を顧みなくなってから、心のどこかで染みのように湧き出るようになったもやもやとした感情、彼女が鍵盤を弾く度にそれらが晴れていくような心地がした。
そして最後に残ったのは、父と演奏をしていた頃に抱いていた、楽しく、純粋な気持ちであった。
「あれ……」
いつしか頬を涙が伝った。
懐かしい頃の記憶、それに対する寂寥にも似た想いが、次々とこみ上げて涙となって溢れていくのだ。
普段、厳しい表情を浮かべてばかりの父、それが二人での演奏になると柔和な笑みを浮かべる、ローレンスはその時の彼の雰囲気がとても好きであった。傍らで身体を揺らしながら聞き入る母の姿が心地よかった。
だが、父は変わってしまった。家を空け、家族との触れ合いにも関心を持たない。そのことがどうしようもなく辛く、悔しく、悲しかった。
だが、同時にその想いは、彼の父に対する想い、家族に対する感情によるものなのだと気付いた。そして、昔のような家族の団らんを取り戻したいと、そんな想いが強くなっていった。
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