夢奪われた劣等剣士は銀の姫の守護騎士となり悪徳貴族に叛逆する
酒は飲んでも
「ここが姫さんに指定された場所か」
聖堂広場の西からアーケードを抜け、北の湖沼から流れる大河川を超えた先には港湾区が広がっている。
建国以来、宗主国ロンディニアと南のアルマーレを結んできた海洋交易の要であり、公都の中でも一際賑やかな街区である。
エルーナ湾に沿って半円状に伸びる通りには港湾労働者の住居は勿論、宿泊施設や飲食店などが立ち並び、入植初期に建てられた総督府や礼拝所なども観光施設として開放され通りを賑やかしていた。
昼でも賑やかな通りだが、すっかり日も暮れた今の時間帯は漁や交易から帰ってきた人々でごった返し、沖の方ではぽつぽつと灯る漁火が風雅な光景を描いて、一層の活気に満ちていた。エルド達はこの港湾区の通りにある《うみねこ亭》という酒場を訪れていた。
大陸を流離う《巡遊の民》が経営する酒場である。何らかの理由で国や集落を追われたもの、生まれつき親を持たぬもの、行商人、傭兵、冒険者など、定住する地を持たずに流浪する者は珍しくない。
孤独に流離う彼らはいつしか互いに身を寄せ合い、大陸を巡る様々なキャラバンを構成し始め、いつしか《巡遊の民》と呼ばれるようになった。
ここはそのキャラバンの中でも用心棒や危険な遺跡・秘境の探索、魔獣討伐を生業とする者たちが共同出資して作り上げた《冒険者ギルド》という互助組織の運営する施設である。
「お二人ともこっちですよー」
店の入口できょろきょろと辺りを見回してアリシアの姿を探していると、陽気な声がエルドたちを呼んだ。
声に導かれて隅のテーブルへ向かうと短くボブに切りそろえられた栗毛の女性がグラスを片手に手招きしていた。
「二人とも来てくださったんですね」
女性は革鎧をまとい、いかにも冒険者風といった装いであった。その頬はすっかり上気しており、飲み始めてからだいぶ経っていることが伺われた。
しかし女性の親しげな態度とは裏腹に、エルドたちは小首をかしげていた。
「さあさあ、座ってください。ここのブイヤベースは絶品ですよ」
一体この女性は誰なのだろうか。
アリシアの協力者かそれとも……彼女の呼びかけにどう返したら良いものかと逡巡していると女性がふっと笑みをこぼした。
「どうやらうまくごまかせているようですね」
女性の浮かべたいたずらっぽい笑顔でようやく気付いた。彼女こそがアリシアだ。
髪型や髪の色、服装から瞳の色までがらりと変わっており気付かなかったが、その顔立ちや雰囲気は確かにアリシアのものであった。体格はともかく、髪の色や瞳の色程度であれば魔術で容易に変えられる。髪の方も普段は付け髪を利用しているのだろう。
幻惑魔法のような手の込んだものではないが、よくよく注視しなければ簡単に気付け無いほどその変装はよく出来ていた。
「流石に普段の格好のままでは騒ぎになってしまうでしょうから当分はこの姿で活動しようかと思います。お二人もそのつもりでお願いしますね」
「わかりました、ひめ――――」
エルドの言葉を遮るようにすっとアリシアが人差し指を伸ばす。口許に触れるか触れないかの距離まで伸ばされたその白く柔らかな指先に思わずどきりとする。
「ダメですよ。名前で呼んだらバレてしまいますよ? この姿の時はアリアと。それとできれば堅い言葉遣いも控えていただければ」
「なるほどな。そう言ってくれるとこっちとしても気が楽だ」
「カイムさんは全く心配してませんけどね」
曲がりなりにも騎士学校の卒業生だというのに、カイムはやんごとない身分の者への敬意を欠くことに長けていた。
対してエルドは貴族家の生まれだけあって作法は厳しく叩き込まれていた。ある事情から公の場に出る機会は殆どなかったが、それでもカイムのように砕けた態度をとることは不可能に近かった。
「私も少し砕けた話し方になるよう頑張ってみますね。ええと、よろしくね。エルドくん、カイムくん」
「…………」
「どうかしましたか?」
不意打ちであった。アリシア姫にくんを付けて呼ばれるなど、それはとても幸せなことではないのだろうか?
誰もが憧れる姫の澄んだ声は柔らかな春の風の様にエルドの耳をそっと撫でて脳天を揺さぶる。思いがけぬ幸運を噛みしめるかのようにエルドはアリシアの声を反芻していた。
「放っておいていいぞ。病気みたいなもんだ」
「?」
そうしている間にごとりと二本のグラスと三枚の木皿が置かれた。そして黄金色の透き通った液体がグラスになみなみと注がれていく。
それにしても気になるのは皿の上に乗せられた黒い石鍋だ。エビや貝だけでなく見たことのないような種々の魚介がトマトのスープにぐつぐつと煮込まれ、まぶされたハーブの香りと相まって強烈な食欲を誘う。
「ブイヤベース? それにこの鍋は一昨日の昼も見た……アルマーレの食器なのかな」
「正確には。アルマーレのさらに南のアナトリアからの輸入品だそうですよ。《巡遊の民》が経営するだけあって珍しいものが揃ってるみたいです。さあ冷めない内にお召し上がりください」
「…………いや、待ってくれ。なんでしれっと飲み会になってるんだ? 俺たちは今から今後どう動くのかとかそういった大事な話をするんじゃなかったのか?」
「そりゃカイムの思い込みだったんだよ。いただきます」
早速エルドが皿に飛びついた。
採れたての魚介から抽出されたエキスがこれでもかと凝縮された濃厚な味わいだ。
次に手元のグラスに口をつける。ほのかに潮の香りと塩の風味がした。ほんのりとした塩気は魚介のコクを引き立て、喉元を過ぎては爽快な食後感を抱かせた。
間違いない地元で取れたブドウを使ったものだろう。沿海部で棚栽培されたブドウは塩の風味がするという。それを用いたワインをチョイスする辺り、酒類にもこだわっているようだ。
「昨日までうじうじと思い悩んでいたくせに、食べ物の事になるとこれだよ」
カイムは呆れのため息を漏らす。
「ん? カイムも早く食べなよ。スプーンが止まらない」
カイムはもう一度小さくため息をつくとスプーンでブイヤベースをつついた。こうしてエルドのスイッチが入った以上何を言っても無駄であろう。
「お口にあって何よりです」
二人の様子を見守りながらアリシアが微笑む。
「ここのオーナーはイシュメルの方なんです。私も昔はよくここに訪れていました。今日みたいに変装はしていましたけど」
「イシュメル人の酒場……か」
酒気に紛れて判りづらいが、その言葉を聞いた瞬間エルドの表情が一瞬曇った。
「我々のことで気に病ませてしまったようですね……」
一人の青年が一行に近づいてきた。それは先日出会ったイシュメルの青年、キシュワードであった。
「あんた、どうしてここに?」
「ここはイシュメル人の酒場ですからね。私のような爪弾き者が気兼ねなく飲める、数少ない憩いの場なんですよ。同席しても?」
「ええ、構いませんよ。人が多いほうが盛り上がります」
そう言って、アリシアは一足先にグラスを空にした。
「やれやれ、そんな勢いよく酒なんかあおって大丈夫か?」
「ここでは飲まないほうが不自然ですよ、カイムくん」
エルド達が来る前から引っ掛けていたせいか。アリシアの顔はなお赤く染まり、すっかり酔いが回ったといった様子だ。その飲みっぷりに負けじとキシュワードも麦酒をぐいとあおる。
「おいおい……」
これでは本当にただの歓迎会でしかない。キシュワードの参戦でエルドも調子を取り戻したのかグラスを空にし、おかわりをする始末だ。
今後の活動方針について話があるとこの場を指定されていたのだが、酒場という時点で疑うべきであった。
「さてそちらのお嬢さんは紹介していただけますか?」
「ふふ、初対面ではありませんよ。あなたもあの時、略奪者の捕縛に協力くださいましたよね?」
「ああなるほど、そういうことでしたか。すっかり見違えてしまったので気付きませんでした」
どうやらキシュワードはアリシアの言葉ですぐに気付いたようだ。
「あなたのお父様には返しきれない御恩があります。情報収集に私も協力させてください」
「ありがとうございます。確かキシュワードさんでしたね。私のことはアリアとお呼びください」
「ええ、アリアさん。といっても私は既にイシュメル人街から居を移した身なので、よく知るものを呼びますね」
そういってキシュワードが席を立つ。そしてしばらくすると一人で飲んでいたであろう一人の大柄な男を連れてきた。
「彼はヤークト、亡くなった父の親友です」
「ほう、聞いた通り二人共その歳で随分な飲みっぷりじゃねえか」
いかにも漁帰りという風貌の男は豪気な声で二人の飲みぶりを褒めると乱暴に空いた席に座り、麦酒いっぱいの木樽ジョッキを一気にあおった。
「これぐらいジュースとそう変わりませんよ」
アリシアは恐ろしいことをさらりと言ってのけた。下戸のカイムからすればとても正気で言っているようには思えないが、エルドらも賛同するようにまた頷いていた。
(地獄だ……)
この中でカイムだけが孤独を感じていた。
「言うねえ。うちの若いのなんて酒なんてまずいだの、嫁が待ってるからだのと全然付き合ってくれねえからなあ。坊主達が付き合ってくれると聞いて嬉しいぜ」
「酒は大勢で味わう方が美味しいですから」
アリシアはヤークトにも動じずに快く受け入れる。
「よく分かってるじゃねえか」
そう言って男はガハハと大口を開けながら、バンバンとカイムの肩を叩いた。
「痛っ、俺を叩くなよおっさん」
カイムは体質のせいで酒が苦手だ。加えて人は酔うと上機嫌になってこんな風に馴れ馴れしく絡んでくるものだから、気分の乗り切れないカイムはその温度差から飲みの場を嫌悪していた。
自分も多少なりとも飲めるのであれば少しは違ったのだろうが、いかんせん舐めただけでも酔いが回って途端に吐き気を催すほどなのだ。
「はぁ……」
そっとため息をつく。一刻も早くこの場から抜けたかった。
「なんだこっちの兄ちゃんは飲めんのか。なら俺がミルクをおごってやろう」
「はいはい、ありがとうよ」
こちらの事情も無視して無理やり飲ませてこないだけいくらかマシだが、すっかり出来上がった皆を前にカイムはすっかり辟易していた。
「しかし、あんたら冒険者か? 今のアルビオンに来るなんて物好きだな」
「どういうことですか?」
別に冒険者ではないのだが、特に否定はせずアリシアは尋ね返す。
「知らんのか? 最近は騎士団の連中もろくに仕事しやがらねえから街道は魔獣やら盗賊やらで荒れ放題なんだよ。史跡巡りに来たんなら時期が悪いな」
「そうなんですか? アルスターは白の古都と呼ばれるほど風光明媚な景観が魅力的だと聞いて楽しみにしてたんですけど……」
「そりゃ前の公王様が治めてた頃の話だな。雷帝っつう恐ろしく強い騎士が公国を守ってたからな」
「雷帝……」
その言葉を聞いて、エルドはその響きをなぞるように反芻した。
「昨日も話したな。先代公王の側近アルバートの異名だ。帝国との戦いは劣勢だったが、それでも雷帝は敵軍の大部隊をたった一人で押し返したって逸話が残ってるぐらいだ」
「立派なお方でしたよ。僕が戦場に出てたときも、何度命を救われたことか。こうしてここに定住できるのも雷帝――アルバート准将のおかげだ」
キシュワードが懐かしげに回顧する。
「キシュワードさん、参加していたんですか? あの戦争に?」
エルドが驚きの表情を浮かべた。
「ええ。僕はまだ十二でしたけど、イシュメル人の多くは年齢・性別の別なく参加しましたよ。議会の要請でしたから」
「…………」
キシュワードが意味深に語った内容、それの意味するところが想像できないエルドたちではなかった。それは教科書に記されない、歴史の裏側の闇であった。
「あの戦争は悲惨だった。俺たちは住む場所を手に入れるために必死に戦い、毎日屍の山を築く有様だった。そんな俺たちの必死さをわかっていたのか、雷帝が指揮する時は必ず最前線に出て俺たちの盾になってくださった。偉大なお方だったよ。だけどな――」
「雷帝は死んだ」
ヤークトの言葉を遮ってそっとエルドがこぼした。
「ああ、和平調停の時だ。アリアナの州都グリューネで調印式が行われるはずだった。だがあの街は大火災に呑み込まれ公王共々帰らぬ人だ……以来この国はがたがただ。公王の歯止めの効かなくなった貴族の中には俺らを追い出そうってやつもいる。公王の娘の姫さんもいるがまあ、即位してないんだからなんの期待もできやしねえしな」
「あ…………」
今度はアリシアが押し黙ってしまう。悪意など無いのだろうが、改めて自身の力の無さをはっきりと告げられてしまって堪えるものがあるのだろう。
「もしかしたらまた俺たちは流浪の民に戻るかもしれねえな……」
漁師の言葉に、アリシアの目の色がわずかに変わった。
「それはまたどうしてですか?」
「お、ああ、いやただなんとなくそう思っただけよ」
漁師はあからさまに誤魔化そうとしていた。当然アリシアも察するが、どう聞き出そうか逡巡しているようであった。
「ヤークトさん、もしかしてイシュメル人街で何かあったんですか……?」
キシュワードが真剣な表情で尋ねる。その真剣さにヤークトも観念したのかやがて再び口を開いた。
「ああ、まあ良いか話しても。坊主達には愚痴っちまったしな」
漁師がきょろきょろと辺りを見回す。やがて誰も耳をそばだてていないことを確認するとおもむろに口を開いた。
「政府がイシュメル人街の土地を接収しようって動きがあるんだ。連中も反抗してたんだが、一番の理由は例の汚染騒ぎだ。俺たちがやったと決めつけるようなことはしてねえが、調査が必要だの施設の点検が必要だのあれこれ、理由をつけて明け渡しを要求してきてな。一時的な措置だって言ってるが信用ならねえ」
「それは……初耳でした」
アリシアが驚きの表情を浮かべる。
「だが最近になって交易権が剥奪されたり税率を引き上げられたり、行動が露骨になってきやがった。あの一帯だけ守備隊の巡回路から外されて、野盗も珍しくねえ。連中、本気で俺たちを追い出したいみたいでな」
「先代大公に与えられた土地だってのにその死後、勝手な理由で奪われるってわけか。随分と勝手な話だな」
「加えて先日の事件だ。世論もどうなるかわからねえ」
エルドはその話を聞いて考え込む。そうまでしてイシュメル人を放逐する、一体どれほどの理由があるのか。それは伺いしれなかったが、イシュメル人が何故襲撃事件を起こしたのかその理由の一端が見えた気がした。
「センセイがうまく交渉してくれりゃ良いんだがな……」
ヤークトがボソリとつぶやいた。
「"センセイ"……それってどなたのことですか?」
なにか引っ掛かるものを感じたのか、キシュワードが尋ねた。
「ん? あ、ああ。それが最近流れ者が居着いてな。相当腕が立って、イシュメル人街を襲う野盗を片っ端から追っ払ってくださるんだ」
「ふぅん、随分と義侠心に溢れた奴もいるもんだな」
「センセイも俺らの話を聞いて同情してくれてな。今は野盗を払うため戦闘訓練や、政府の連中との交渉を手伝ってくれたりするんだ」
「しばらく離れていましたが、そんなことになっていたんですね……そういえばヤークトさん、時間はよろしいのですか? あまり遅くなると奥さんが怖いって前に言ってましたけど」
「んあ!? もうそんな時間か。やれやれほとんど俺のつまらんぼやきで終わっちまった。悪かったな、あんま楽しい話じゃなくてよ」
「いえいえ、色々お話が聞けて面白かったですよ」
特に気を悪くした素振りも見せずアリシアは丁寧に返した。
「優しい嬢ちゃんだぜ。そうだ俺はこの時間、だいたいいつもここで飲んだくれてる。こんなジジイ相手じゃ気乗りせんかもしれんが、まあ気が向いたらまた相手してくれや。なんなら仕事も紹介してやるからな」
そう言うとヤークトはいくらか金を置いていった。飲み代にしては多めで戸惑うエルドたちであったが、年長者としてかっこつけさせてくれと言い放ってそのまま去っていった。
さてヤークトを見送った一行は視線を交わした。
「思わぬ情報が手に入ったな。最初からこれが狙いってわけか」
先程まで呆れていたカイムだがその真意に気付き感心した。
「キシュワードさんのおかげですよ。おかげでスムーズにお話が聞けました。ありがとうございます」
「いえいえ私もイシュメル人街の近況は知りたかったですし、お役に立ててよかったです」
「さて、そうすると明日はイシュメル人街へ?」
「ええ、行ってみましょう。その"センセイ"なる人物、気になります」
エルド、カイム、アリシアの三人は今後の動きを確認すると、改めてキシュワードに礼を伝え店を後にした。
聖堂広場の西からアーケードを抜け、北の湖沼から流れる大河川を超えた先には港湾区が広がっている。
建国以来、宗主国ロンディニアと南のアルマーレを結んできた海洋交易の要であり、公都の中でも一際賑やかな街区である。
エルーナ湾に沿って半円状に伸びる通りには港湾労働者の住居は勿論、宿泊施設や飲食店などが立ち並び、入植初期に建てられた総督府や礼拝所なども観光施設として開放され通りを賑やかしていた。
昼でも賑やかな通りだが、すっかり日も暮れた今の時間帯は漁や交易から帰ってきた人々でごった返し、沖の方ではぽつぽつと灯る漁火が風雅な光景を描いて、一層の活気に満ちていた。エルド達はこの港湾区の通りにある《うみねこ亭》という酒場を訪れていた。
大陸を流離う《巡遊の民》が経営する酒場である。何らかの理由で国や集落を追われたもの、生まれつき親を持たぬもの、行商人、傭兵、冒険者など、定住する地を持たずに流浪する者は珍しくない。
孤独に流離う彼らはいつしか互いに身を寄せ合い、大陸を巡る様々なキャラバンを構成し始め、いつしか《巡遊の民》と呼ばれるようになった。
ここはそのキャラバンの中でも用心棒や危険な遺跡・秘境の探索、魔獣討伐を生業とする者たちが共同出資して作り上げた《冒険者ギルド》という互助組織の運営する施設である。
「お二人ともこっちですよー」
店の入口できょろきょろと辺りを見回してアリシアの姿を探していると、陽気な声がエルドたちを呼んだ。
声に導かれて隅のテーブルへ向かうと短くボブに切りそろえられた栗毛の女性がグラスを片手に手招きしていた。
「二人とも来てくださったんですね」
女性は革鎧をまとい、いかにも冒険者風といった装いであった。その頬はすっかり上気しており、飲み始めてからだいぶ経っていることが伺われた。
しかし女性の親しげな態度とは裏腹に、エルドたちは小首をかしげていた。
「さあさあ、座ってください。ここのブイヤベースは絶品ですよ」
一体この女性は誰なのだろうか。
アリシアの協力者かそれとも……彼女の呼びかけにどう返したら良いものかと逡巡していると女性がふっと笑みをこぼした。
「どうやらうまくごまかせているようですね」
女性の浮かべたいたずらっぽい笑顔でようやく気付いた。彼女こそがアリシアだ。
髪型や髪の色、服装から瞳の色までがらりと変わっており気付かなかったが、その顔立ちや雰囲気は確かにアリシアのものであった。体格はともかく、髪の色や瞳の色程度であれば魔術で容易に変えられる。髪の方も普段は付け髪を利用しているのだろう。
幻惑魔法のような手の込んだものではないが、よくよく注視しなければ簡単に気付け無いほどその変装はよく出来ていた。
「流石に普段の格好のままでは騒ぎになってしまうでしょうから当分はこの姿で活動しようかと思います。お二人もそのつもりでお願いしますね」
「わかりました、ひめ――――」
エルドの言葉を遮るようにすっとアリシアが人差し指を伸ばす。口許に触れるか触れないかの距離まで伸ばされたその白く柔らかな指先に思わずどきりとする。
「ダメですよ。名前で呼んだらバレてしまいますよ? この姿の時はアリアと。それとできれば堅い言葉遣いも控えていただければ」
「なるほどな。そう言ってくれるとこっちとしても気が楽だ」
「カイムさんは全く心配してませんけどね」
曲がりなりにも騎士学校の卒業生だというのに、カイムはやんごとない身分の者への敬意を欠くことに長けていた。
対してエルドは貴族家の生まれだけあって作法は厳しく叩き込まれていた。ある事情から公の場に出る機会は殆どなかったが、それでもカイムのように砕けた態度をとることは不可能に近かった。
「私も少し砕けた話し方になるよう頑張ってみますね。ええと、よろしくね。エルドくん、カイムくん」
「…………」
「どうかしましたか?」
不意打ちであった。アリシア姫にくんを付けて呼ばれるなど、それはとても幸せなことではないのだろうか?
誰もが憧れる姫の澄んだ声は柔らかな春の風の様にエルドの耳をそっと撫でて脳天を揺さぶる。思いがけぬ幸運を噛みしめるかのようにエルドはアリシアの声を反芻していた。
「放っておいていいぞ。病気みたいなもんだ」
「?」
そうしている間にごとりと二本のグラスと三枚の木皿が置かれた。そして黄金色の透き通った液体がグラスになみなみと注がれていく。
それにしても気になるのは皿の上に乗せられた黒い石鍋だ。エビや貝だけでなく見たことのないような種々の魚介がトマトのスープにぐつぐつと煮込まれ、まぶされたハーブの香りと相まって強烈な食欲を誘う。
「ブイヤベース? それにこの鍋は一昨日の昼も見た……アルマーレの食器なのかな」
「正確には。アルマーレのさらに南のアナトリアからの輸入品だそうですよ。《巡遊の民》が経営するだけあって珍しいものが揃ってるみたいです。さあ冷めない内にお召し上がりください」
「…………いや、待ってくれ。なんでしれっと飲み会になってるんだ? 俺たちは今から今後どう動くのかとかそういった大事な話をするんじゃなかったのか?」
「そりゃカイムの思い込みだったんだよ。いただきます」
早速エルドが皿に飛びついた。
採れたての魚介から抽出されたエキスがこれでもかと凝縮された濃厚な味わいだ。
次に手元のグラスに口をつける。ほのかに潮の香りと塩の風味がした。ほんのりとした塩気は魚介のコクを引き立て、喉元を過ぎては爽快な食後感を抱かせた。
間違いない地元で取れたブドウを使ったものだろう。沿海部で棚栽培されたブドウは塩の風味がするという。それを用いたワインをチョイスする辺り、酒類にもこだわっているようだ。
「昨日までうじうじと思い悩んでいたくせに、食べ物の事になるとこれだよ」
カイムは呆れのため息を漏らす。
「ん? カイムも早く食べなよ。スプーンが止まらない」
カイムはもう一度小さくため息をつくとスプーンでブイヤベースをつついた。こうしてエルドのスイッチが入った以上何を言っても無駄であろう。
「お口にあって何よりです」
二人の様子を見守りながらアリシアが微笑む。
「ここのオーナーはイシュメルの方なんです。私も昔はよくここに訪れていました。今日みたいに変装はしていましたけど」
「イシュメル人の酒場……か」
酒気に紛れて判りづらいが、その言葉を聞いた瞬間エルドの表情が一瞬曇った。
「我々のことで気に病ませてしまったようですね……」
一人の青年が一行に近づいてきた。それは先日出会ったイシュメルの青年、キシュワードであった。
「あんた、どうしてここに?」
「ここはイシュメル人の酒場ですからね。私のような爪弾き者が気兼ねなく飲める、数少ない憩いの場なんですよ。同席しても?」
「ええ、構いませんよ。人が多いほうが盛り上がります」
そう言って、アリシアは一足先にグラスを空にした。
「やれやれ、そんな勢いよく酒なんかあおって大丈夫か?」
「ここでは飲まないほうが不自然ですよ、カイムくん」
エルド達が来る前から引っ掛けていたせいか。アリシアの顔はなお赤く染まり、すっかり酔いが回ったといった様子だ。その飲みっぷりに負けじとキシュワードも麦酒をぐいとあおる。
「おいおい……」
これでは本当にただの歓迎会でしかない。キシュワードの参戦でエルドも調子を取り戻したのかグラスを空にし、おかわりをする始末だ。
今後の活動方針について話があるとこの場を指定されていたのだが、酒場という時点で疑うべきであった。
「さてそちらのお嬢さんは紹介していただけますか?」
「ふふ、初対面ではありませんよ。あなたもあの時、略奪者の捕縛に協力くださいましたよね?」
「ああなるほど、そういうことでしたか。すっかり見違えてしまったので気付きませんでした」
どうやらキシュワードはアリシアの言葉ですぐに気付いたようだ。
「あなたのお父様には返しきれない御恩があります。情報収集に私も協力させてください」
「ありがとうございます。確かキシュワードさんでしたね。私のことはアリアとお呼びください」
「ええ、アリアさん。といっても私は既にイシュメル人街から居を移した身なので、よく知るものを呼びますね」
そういってキシュワードが席を立つ。そしてしばらくすると一人で飲んでいたであろう一人の大柄な男を連れてきた。
「彼はヤークト、亡くなった父の親友です」
「ほう、聞いた通り二人共その歳で随分な飲みっぷりじゃねえか」
いかにも漁帰りという風貌の男は豪気な声で二人の飲みぶりを褒めると乱暴に空いた席に座り、麦酒いっぱいの木樽ジョッキを一気にあおった。
「これぐらいジュースとそう変わりませんよ」
アリシアは恐ろしいことをさらりと言ってのけた。下戸のカイムからすればとても正気で言っているようには思えないが、エルドらも賛同するようにまた頷いていた。
(地獄だ……)
この中でカイムだけが孤独を感じていた。
「言うねえ。うちの若いのなんて酒なんてまずいだの、嫁が待ってるからだのと全然付き合ってくれねえからなあ。坊主達が付き合ってくれると聞いて嬉しいぜ」
「酒は大勢で味わう方が美味しいですから」
アリシアはヤークトにも動じずに快く受け入れる。
「よく分かってるじゃねえか」
そう言って男はガハハと大口を開けながら、バンバンとカイムの肩を叩いた。
「痛っ、俺を叩くなよおっさん」
カイムは体質のせいで酒が苦手だ。加えて人は酔うと上機嫌になってこんな風に馴れ馴れしく絡んでくるものだから、気分の乗り切れないカイムはその温度差から飲みの場を嫌悪していた。
自分も多少なりとも飲めるのであれば少しは違ったのだろうが、いかんせん舐めただけでも酔いが回って途端に吐き気を催すほどなのだ。
「はぁ……」
そっとため息をつく。一刻も早くこの場から抜けたかった。
「なんだこっちの兄ちゃんは飲めんのか。なら俺がミルクをおごってやろう」
「はいはい、ありがとうよ」
こちらの事情も無視して無理やり飲ませてこないだけいくらかマシだが、すっかり出来上がった皆を前にカイムはすっかり辟易していた。
「しかし、あんたら冒険者か? 今のアルビオンに来るなんて物好きだな」
「どういうことですか?」
別に冒険者ではないのだが、特に否定はせずアリシアは尋ね返す。
「知らんのか? 最近は騎士団の連中もろくに仕事しやがらねえから街道は魔獣やら盗賊やらで荒れ放題なんだよ。史跡巡りに来たんなら時期が悪いな」
「そうなんですか? アルスターは白の古都と呼ばれるほど風光明媚な景観が魅力的だと聞いて楽しみにしてたんですけど……」
「そりゃ前の公王様が治めてた頃の話だな。雷帝っつう恐ろしく強い騎士が公国を守ってたからな」
「雷帝……」
その言葉を聞いて、エルドはその響きをなぞるように反芻した。
「昨日も話したな。先代公王の側近アルバートの異名だ。帝国との戦いは劣勢だったが、それでも雷帝は敵軍の大部隊をたった一人で押し返したって逸話が残ってるぐらいだ」
「立派なお方でしたよ。僕が戦場に出てたときも、何度命を救われたことか。こうしてここに定住できるのも雷帝――アルバート准将のおかげだ」
キシュワードが懐かしげに回顧する。
「キシュワードさん、参加していたんですか? あの戦争に?」
エルドが驚きの表情を浮かべた。
「ええ。僕はまだ十二でしたけど、イシュメル人の多くは年齢・性別の別なく参加しましたよ。議会の要請でしたから」
「…………」
キシュワードが意味深に語った内容、それの意味するところが想像できないエルドたちではなかった。それは教科書に記されない、歴史の裏側の闇であった。
「あの戦争は悲惨だった。俺たちは住む場所を手に入れるために必死に戦い、毎日屍の山を築く有様だった。そんな俺たちの必死さをわかっていたのか、雷帝が指揮する時は必ず最前線に出て俺たちの盾になってくださった。偉大なお方だったよ。だけどな――」
「雷帝は死んだ」
ヤークトの言葉を遮ってそっとエルドがこぼした。
「ああ、和平調停の時だ。アリアナの州都グリューネで調印式が行われるはずだった。だがあの街は大火災に呑み込まれ公王共々帰らぬ人だ……以来この国はがたがただ。公王の歯止めの効かなくなった貴族の中には俺らを追い出そうってやつもいる。公王の娘の姫さんもいるがまあ、即位してないんだからなんの期待もできやしねえしな」
「あ…………」
今度はアリシアが押し黙ってしまう。悪意など無いのだろうが、改めて自身の力の無さをはっきりと告げられてしまって堪えるものがあるのだろう。
「もしかしたらまた俺たちは流浪の民に戻るかもしれねえな……」
漁師の言葉に、アリシアの目の色がわずかに変わった。
「それはまたどうしてですか?」
「お、ああ、いやただなんとなくそう思っただけよ」
漁師はあからさまに誤魔化そうとしていた。当然アリシアも察するが、どう聞き出そうか逡巡しているようであった。
「ヤークトさん、もしかしてイシュメル人街で何かあったんですか……?」
キシュワードが真剣な表情で尋ねる。その真剣さにヤークトも観念したのかやがて再び口を開いた。
「ああ、まあ良いか話しても。坊主達には愚痴っちまったしな」
漁師がきょろきょろと辺りを見回す。やがて誰も耳をそばだてていないことを確認するとおもむろに口を開いた。
「政府がイシュメル人街の土地を接収しようって動きがあるんだ。連中も反抗してたんだが、一番の理由は例の汚染騒ぎだ。俺たちがやったと決めつけるようなことはしてねえが、調査が必要だの施設の点検が必要だのあれこれ、理由をつけて明け渡しを要求してきてな。一時的な措置だって言ってるが信用ならねえ」
「それは……初耳でした」
アリシアが驚きの表情を浮かべる。
「だが最近になって交易権が剥奪されたり税率を引き上げられたり、行動が露骨になってきやがった。あの一帯だけ守備隊の巡回路から外されて、野盗も珍しくねえ。連中、本気で俺たちを追い出したいみたいでな」
「先代大公に与えられた土地だってのにその死後、勝手な理由で奪われるってわけか。随分と勝手な話だな」
「加えて先日の事件だ。世論もどうなるかわからねえ」
エルドはその話を聞いて考え込む。そうまでしてイシュメル人を放逐する、一体どれほどの理由があるのか。それは伺いしれなかったが、イシュメル人が何故襲撃事件を起こしたのかその理由の一端が見えた気がした。
「センセイがうまく交渉してくれりゃ良いんだがな……」
ヤークトがボソリとつぶやいた。
「"センセイ"……それってどなたのことですか?」
なにか引っ掛かるものを感じたのか、キシュワードが尋ねた。
「ん? あ、ああ。それが最近流れ者が居着いてな。相当腕が立って、イシュメル人街を襲う野盗を片っ端から追っ払ってくださるんだ」
「ふぅん、随分と義侠心に溢れた奴もいるもんだな」
「センセイも俺らの話を聞いて同情してくれてな。今は野盗を払うため戦闘訓練や、政府の連中との交渉を手伝ってくれたりするんだ」
「しばらく離れていましたが、そんなことになっていたんですね……そういえばヤークトさん、時間はよろしいのですか? あまり遅くなると奥さんが怖いって前に言ってましたけど」
「んあ!? もうそんな時間か。やれやれほとんど俺のつまらんぼやきで終わっちまった。悪かったな、あんま楽しい話じゃなくてよ」
「いえいえ、色々お話が聞けて面白かったですよ」
特に気を悪くした素振りも見せずアリシアは丁寧に返した。
「優しい嬢ちゃんだぜ。そうだ俺はこの時間、だいたいいつもここで飲んだくれてる。こんなジジイ相手じゃ気乗りせんかもしれんが、まあ気が向いたらまた相手してくれや。なんなら仕事も紹介してやるからな」
そう言うとヤークトはいくらか金を置いていった。飲み代にしては多めで戸惑うエルドたちであったが、年長者としてかっこつけさせてくれと言い放ってそのまま去っていった。
さてヤークトを見送った一行は視線を交わした。
「思わぬ情報が手に入ったな。最初からこれが狙いってわけか」
先程まで呆れていたカイムだがその真意に気付き感心した。
「キシュワードさんのおかげですよ。おかげでスムーズにお話が聞けました。ありがとうございます」
「いえいえ私もイシュメル人街の近況は知りたかったですし、お役に立ててよかったです」
「さて、そうすると明日はイシュメル人街へ?」
「ええ、行ってみましょう。その"センセイ"なる人物、気になります」
エルド、カイム、アリシアの三人は今後の動きを確認すると、改めてキシュワードに礼を伝え店を後にした。
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