すわんぷ・ガール!

ノベルバユーザー361966

最終話 こころのありか

  「アーリィのところに行く」


 翌日、起きるとレオンはそこに居なかった。


 少しだけ寂しくは思ったけど、きっとここに3人居たから、遠慮したんだなと思う。
 ただ、夜には確かに閉まっていた窓が少しだけ開いていて、朝の陽光と一緒に、柔らかな秋風が部屋に入ってきていた。
 それは、きっとレオンの残り香で、俺にはそれだけで十分な気がした。


 ベッドから一人抜け出して、レオンを探し、そして彼が執務室に居るのを発見した。
 そこはレオンが居ないとき、俺と、そしてメイド達で授業を行った場所。
 その時、アーリィも居て、それが当然だとも思っていた。
 きっと、レオンも同じだったに違いない。


 何時も、何時でも、変わらないあした。
 この館には、それが似合っている。
 だから、俺はレオンに会って、その言葉を口にした。
 どうして会うのか、何故そうするのかは、伝えなかった。
 レオンも、それを聞いては来なかった。










 そうして、俺達は馬車の中。
 レオンと俺。二人きり。アイラとパルミラには、留守を頼んだ。ちょっと気が引けたし、二人とも何かを言いたげにしていたが、最後には了承してくれた。


 アーリィが居ない館は、メイド達が何となく少し余所余所しくて、アーリィが居ないからなのか、それはひょっとして俺が変わってしまったからなのか、ちょっと判別がつきにくい。


 「お姉様、少し雰囲気がメイド長っぽかったですよ?」


 出る直前に言われたアイラの言葉が思い出される。
 両方なのかも知れない。


 なんにせよ、俺は変わってしまった。
 変わったというか、入れ替わった、というべきか。そして、いみじくもアイラが指摘したとおり、俺の中にある幾つもの経験が、俺を更に変容させようとしている。


 それは、自分ではどうにもならない。
 俺が俺で無くなっていくような感覚があるが、正直言って、それ以前に入れ替わっている俺からすると、元々無かったのだから、それを気にするのもおかしな話だった。


 ただ、みんなはどう思うだろう。
 レオンは、どう思うのかな。


 横に座るレオンをちらと、横目で見上げる。
 瞬間目が合って、俺は慌てて目を逸らした。
 その目は、何時ものレオンの優しいそれで、その口元は微笑みが浮かんでいた。


 レオンは何も、変わっていない。
 俺だけ、変わってしまう。それをレオンは受け入れてくれるだろうか。
 いや、それ以前に、クリスでは無い俺を、許してくれるだろうか。


 辛気くさい顔は、見せられない。
 俺は、馬車の窓の外を流れる景色に、視線を移した。










 城に着き、馬車を降りると意外な者が待っていた。


 「やっと来たか。あー、っと……レオン王子。良く応じて下さいまして……」


 それは、クリストファー・カーゾン。クリス・オリジナルだった。
 俺は突然の邂逅に、複雑な気持ちを抑えられない。今や、完全に別人とも言える、二人目のクリス。
 三人目のクリスが、戻りたがったその身体。そして、戻ることのできなかった姿。
 それをもって、壊れた三人目のクリスの元凶。


 「くっ……ククッ」


 レオンは、どう思っているのかと思っていると、突然レオンは吹き出して、俺を唖然とさせた。当然、目の前のクリスも、怪訝な顔つきになる。


 「……王子?」


 「はははっ……いや、申し訳ない。すこし、懐かしい気持ちになったものだから」


 漸く笑いを抑え、少しだけ遠い目つきになった。


 それを見て、俺は更に複雑な気持ちになる。
 その懐かしさは、きっとレオンとクリスが初めて会ったときの事。今やあまりにも遠く感じる、テラベランの門の外。
 クリスが馬車の中、しどろもどろになりながら、取り繕ったときの記憶。


 きっと、そうなのだろう。
 それを思い出してくれていることが、嬉しく、そして―――寂しかった。


 「……ともかく、急いでください。余り時間は、ありませんから」


 納得しかねるのか、憮然とした顔でレオンを促すクリス。


 クリスは先ほど、応じて、と言った。一体何が待っているというのだろう。
 レオンはそれについて、何も言わなかった。てっきり、俺の提案を呑んでいるだけだと思っていた俺は、首を傾げてレオンを見る。
 レオンは俺を見て、ぽんと頭に手を置いた。つい最近、そうされたような気がする。何となく自分の背が低くなってるんじゃないかという錯覚を起こしそうになる。


 それにしても、卑怯じゃないか。
 内緒にしてることなんかじゃない。
 そうしたら、俺が黙るとわかっているあたりが、だ。










 仕方なく、何故か焦っているクリスに続いて城内を進む。


 城内は意外と閑散としていて、時折文官ぽかったり、騎士っぽかったりする者達と行き交うぐらいだった。クリスで言えば、たった1回だけの登城。
 ただ、レオンの記憶を解けば、おおよそ何処に何があるのかが、わかっている。
 それを思うと、知ってしまうのは良いことばかりでは無いのかも知れないと思う。


 やがて、クリスは一つの大きな扉の前で止まった。扉の作りは豪華で、その横に二人ほどの騎士然とした衛士が立っている。


 クリスは手早くノックして、その扉を開けた。その部屋は―――


 その部屋は、第二王子の私室。ルシアンの部屋だった。


 クリスに続いて、中に入る。
 正直、戸惑いが隠せない。一体何故、この期に及んでルシアンの部屋に来なければならなかったのか。レオンは、何かを知っているのだろうが、俺にはさっぱりだった。


 正面から魔術を受けて、壁に叩き付けられたルシアン。


 結局、彼は何をしようとしていたのだろう。それがテトラの封印などという、レオンに伝えた目的でなかったのは、わかっている。


 「……やあ、レオン……クリス」


 果たして、その部屋の中央に鎮座坐した大きなベッドに横たわるのは、ルシアンその人だった。そのベッドの横に、医師らしき白衣の男も立っている。


 死んで、なかったのか。


 自分で思うのも、不謹慎に過ぎる感想が先に来る。あの場で、血の海に沈むルシアンは、一端は誰もが死んでいると思ったに違いない。


 生きてたんだ。


 驚くが、それは別に嬉しさからではなかった。かといって、憎しみでもない。
 素直に、この男の目的が今を持ってわからないのが、俺の感情を平たくしていた。確かに、二人目のクリスを壊したのは、この男の仕業だった。
 ただ、だからといってそれを恨むのも、俺からするとかなり複雑な気持ちだった。


 「兄さん。約束通り来たよ」


 「ああ、有り難う。正直、来なくても仕方ないと思ってたところだったんだ。流石に、もうすぐ死ぬ者の願いぐらいは……聞いてくれる気になったってところかな?」


 その言葉に、ハッとする。
 内容のわりには饒舌な言葉を発するその顔は、確かに死相が浮かんでいる。目は濁り、血の気が失せたその顔。
 心の中はともかく、見せる姿は何時も快活だったルシアンの面影は、最早何処にも無かった。


 「……」


 それを受けて、レオンに返す言葉は無かった。
 多分、俺と同様、かなり内心は複雑なのだろう。兄弟であるならば、例えば「死ぬな」の一言でもあってしかるべきなのだろうが、それを言うには、余りにもいろいろな事が起こりすぎていた。


 「来て貰ったのはね。クリス。君に、まあ、こんな事を言う資格は無いんだが、お願いがあってね」


 俺に、この期に及んで、お願いを?


  レオンが、俺を見る。
 それは、心配する目つきだった。結局クリスは、ルシアンに利用されて壊れ、そしてテトラの媒体にされた。不安に思うのは、当然だと言えた。


 「……僕の、記憶を貰って欲しいんだ」


 そんな空気を無視して、か細くルシアンは続けた。必死で笑みを作ってはいるが、その言葉は、切実に俺に届く。


 記憶を。


 ごくりと、唾を飲んだ。
 まさか、その話を今ここで聞くことになるとは思わなかった俺は、唇を噛んで硬直する。


 それは知られたくない、俺の秘密。
 他人の記憶を写し取る。
 それは、ひょっとするとみんな薄々は、わかっていることなのかもしれない。それでも、ここではっきり言われるのは、出来れば避けたかった。
 他人の記憶を転写した結果、そしてどうなるのか。
 それを想像されるのが、怖かったからだ。


 ちらりとレオンを見る。レオンは、ルシアンを複雑な顔で見ていた。
 どうするべきなのだろう。誤魔化すべきなんだろうか。


 「頼むよ」


 悩んでいる俺に、寝たままのルシアンが、片手の手のひらを俺に突き出す。
 そうすることすらも、辛いのだろう。その手が、震えていた。


 レオンをもう一度見る。
 レオンと目が合うが、レオンは何も言わなかった。ルシアンの傍らに立つクリスは、何かを言いたそうにはしていたが、結局は無言だった。


 俺が、決めて良いのか。


 そう判断して、俺は結局迷いながらも、ベッドにソロソロと近づき、そして突き出された手のひらに、自分の手のひらを重ねた。
 青い光が灯る。そして、ルシアンの記憶が、俺に流れ込んできた。










 「……ん」


 長い時間が、経過したように感じる。恐らくは、一瞬だったのだろう。
 俺は目を開けて、ルシアンから手を離した。


 そこにあったのは、理解される事への絶望を宿した、一人の男の半生だった。
 ルシアンの容貌からわかる。確かに第一王子のアーサーや、レオンに比べ、明らかにルシアンの容姿は違っていた。それは、その出自が腹違いであることを示している。


 それ故に、ルシアンは三王子の中では浮いた存在として扱われてきた。国を思う気持ちは同じ。であるにも関わらず、出自のせいで理解されない。
 その思いは肥大化し、そして現実はどうあれ、その兄弟すらもそうだと感じていた。
 それに彼本人は気付いていないが、余りにその考え方が先鋭的過ぎるところもあって、それが如何に正しくあっても、彼の思いは黙殺され続けた。


 だからこそ、彼は理解されることに絶望し、そしてそれをテトラにつけ込まれた。
 結局の所、ルシアンもテトラに踊らされた一人だったということになる。


 「有り難う。嬉しいよクリス。ああ―――やっと僕は、全てを理解された。決めつけられず、誤解もされない。純粋に、僕は理解されたんだ。それが残って、そして逝ける……こんなに嬉しいことはない」


 理解出来る。それだけに、俺は、何も言えなかった。


 それが受け入れられるかどうかは全く別としても、自分を理解されるというのは、嬉しいことに違いない。誰だってそうだと思う。


 俺だってそうだ。本当は、わかって欲しい。
 受け入れられなくてもいい。正しく、きちんと、自分の思いを理解されたい。そうすることによって、自分のありかを確認出来るから。


 ただ、それは難しい。


 本当のところなんて、誰もわからない。正しく伝わったかなんて、結局のところ確認しようもない。
 だから、ルシアンは、俺を呼んだのだろう。記憶を写し、そして理解されるため。
 それを渇望し続けた男は、その半生を終える直前に、それを成し遂げた。
 嬉しくないわけがない。


 「最後に言うよ。すまなかった。レオン、それからクリス。まあ、許されようとは思ってはいない。だけど、言葉は大切だと思う。だからありがとう―――僕はそれを言う勇気も無かった……」


 最後の言葉を発しながら、フウッとルシアンは目を閉じた。慌てて側に立つ主治医が容態を確認する。


 気を失われました。


 主治医の言は、それだった。一瞬身罷ったのかと驚いた俺は、小さくため息を漏らす。


 「出よう」


 レオンが固い言葉で、言った。その顔は、何かを必死に押さえつけているようだった。
 到底許すことは出来ない相手。だけど、今、それが揺れている。
 そういう顔だった。
 部屋を出て、扉を閉める。


 「ご苦労でした。君。もう十分でしょう。彼に約束されていた報酬は、私が払います。金額等は後で伝えて下さい」


 気付いてみると一緒に部屋を出てきていたクリスに、レオンが労いの言葉をかけた。
 クリスは一瞬キョトンとした顔になり、そのままの顔で頭を下げる。


 「いや、くれるって言うんだったら頂きますけどね。でも一応、最後までは居るつもりですよ?」


 その言葉には、レオンも面食らったようだった。


 「……どうして?君にはそこまでする義理も無いでしょう」


 その通りだと思った。
 おおよそ、このクリスの記憶も、今やルシアンの記憶もある俺からしてみても、クリスがそこまでする必要性が浮かんでこない。


 だけど、俺には、クリスがそうする理由が、何となくわかった気がした。


 「なんていうですかね。ほら、ルシアン王子、一人じゃないですか。こんな事言ったら不敬なんでしょうけど、殆ど誰も尋ねてきませんし。もう、幾ばくも無いなんてわかっているのにですよ。まあ、色々あるんでしょうが。だからまあ、一応契約した身でもあるから、烏滸がましいかもしれないけど、俺で良かったら最後まで居てやっても良いか……ってね」


 敬語なんだか素なんだか、よくわからない言葉で、さも当然のようにクリスは言ってのけた。
 横で、レオンが息を飲むのが聞こえた。それに目を向けると、同時にこちらに目を向ける。
 目が合う。何を言いたいのか、わかった。
 うん、なんていうかさ。でも、違うからね?俺と、クリスは。
 フイと目を逸らす。


 「……そうでしたか。感謝します……クリス。兄を宜しくお願いします」


 背けた視線の外から、そんなレオンの声が聞こえた。
 自分で否定したにもかかわらず、それが耳にくすぐったい。そういえば、このクリスをレオンがクリスと呼ぶのは、これが初めてなんじゃ無いだろうか。


 でも、良かったじゃないか。ルシアン。
 案外、理解する者は近くにも居る。俺に記憶を残しても、でも、言葉でも、それ以外の何かでも、伝わるときは伝わっていく。


 それを幸運などというなら、そうなのかもしれない。
 ただ、その結果にして、誰か一人でもそこに居るなら、それでいいじゃないかと、俺は思った。










 クリスと別れ、本命のアーリィの病室に着いた。
 扉を開けると、ルシアンの部屋とは比べものにならないほどに、小さな病室に備え付けられたベッドに横たわるアーリィと、そしてその傍らに据えられた椅子に窮屈そうに座るアルクの姿があった。


 「やあ、アルクツール。迷惑をかけるね」


 気さくな声を掛けるレオン。アルクはそれを受けて、椅子から立ち上がる。


 「これはレオン王子。迷惑などとは、勿体ない」


 慇懃にそう言い、頭を垂れるアルク。そして、二人は申し合わせたように、ベッドの上に視線を移した。


 そこでは、あのアーリィが全く無防備な姿で横たわっていた。
 かけられた薄い毛布が僅かに上下しているために、少なくとも生きていることだけはわかる。


 ただ、目覚めないだけで。


 「容態は?」


 「安定していると言えます。身体の方は私の専門外なので、医師が言うには、何も問題ないとのことです。ですが……精神の方は」


 皆まで言わず、そこで言葉を切った。
 ただ、それで十分だった。ここに居る全員が、それがどういうことなのか、等しく理解していたからだ。
 きっと、『クリス』もそうだったのだろう。
 そうした意味では、アルクはこの症状のエキスパートとも言える。ただ、それで何が出来るかといえば、それは別なのだろうけれど。


 「そうか……」


 レオンがほんの僅かに、落胆の顔を見せてアーリィをのぞき込む。
 多分その姿は、10年前『クリス』を見た時と同じだろう。こうして、レオンは二度目のそれを見ている。その気持ちは、いかがばかりなのか―――心が痛む。


 それはアルクにしても或いは同様。
 アルクの方は、アーリィとの面識は無いだろうが、それに対して何も出来ないということは、知りすぎるほど知っている。


 だから俺は、ここに来るまでに決めていた言葉を、口にした。


 「アルク、レオン。アーリィの心を戻そう」


 その声は、自分で発したにもかかわらず、随分と平坦に聞こえた。










 「そんなことは―――」


 アルクが心底に驚愕した顔で、俺に詰め寄った。
 アルクでも、そこまで動揺するんだなと、どこか冷えた感情で俺は思った。
 レオンを見る。レオンも、少し目を見開いて、信じられないという顔で俺を見る。
 それを見て俺は、何とも言えない気分になった。


 これから言うことは、俺が、クリスではないという証明を行うこと。
 でも、きっとはっきりさせなければならないこと。
 その上で、アーリィが救えるというのなら―――いや、今、生きている人たち。レオン、そして館の人々。それらを救えるというなら、そうしよう。


 きっと、どこにも、悪い事なんか無い。


 「……心を失っても、戻すことは出来る――――――ほら、ここに居るじゃない。アルク先生―――兄様」


 身が切れそうになるような想いを押し殺して、俺は―――私は、記憶の中にある懐かしい言葉で二人に告げた。


 「クリ……ス?」


 二人がそれに対して、今度こそ本気の驚愕の表情を見せる。
 それが楽しくて、私は口元に笑みを浮かべる。


 「そうよ。私は戻れたの。だからきっとアーリィも戻れるわ。でも、よく聞いて。兄様、先生」


 ふう、と息をつく。それは演技とも、本気とも。
 落ち着いて、それが当たり前のように。


 「それは、アーリィの心を作り直すってこと。元にあったアーリィの心は壊れて戻らないわ。それは先生も良く知っているでしょう?だから、記憶を使って、新しく、作るの」


 「そ、それは……しかし、記憶は」


 狼狽するアルクの台詞がそこまで来たとき、レオンが息を飲んだ。
 そう。私は記憶を取り込むことができる。だから。


 「大丈夫。アーリィの記憶もここにあるわ。それを転写してアーリィを作り直すの」


 言葉を、あえて選ばない。はっきりと理解して欲しいから。
 アルクは、未だに驚いた顔。レオンは―――表情が無い。感情が読めない。


 「そうやって作るの。私は、それが出来るわ。先生にも手伝って貰うけど。でも良く考えて欲しいの。本当に、それで良いかって事を」


 「それは、しかし、元のアーリィではない、ということでしょう?」


 大丈夫。しっかり理解されてる。言葉を発しないレオンも、きっとわかってる。
 わかっているなら―――


 「そう、だから私も、全てから断絶している新しい私。クリスティーンでもなくて、クリストファーでもない。もちろん、クリスでもないわ。でも、全ての記憶を持っている私はだあれ?こう言ったら、わかるのかしら?―――沼男って」


 言った。言ってしまった。


 きっと、二人はそういえば理解できるだろう。それが一体何なのか。
 記憶を持っている。だけど、それだけの存在。


 言ってみれば、偽物。


 そう、よく似た、別の何か。それはきっと、冒涜的なもの。
 私は、部屋を歩き、そして奥の窓際に移動した。外を見るように、二人に―――兄様レオンに背中を向ける。


 「アーリィは戻せる。でも出来るのは、私と同じ、沼男。それでも良かったら、戻せるわ。どうする?兄様」


 感情を抑えて、言葉を紡ぎきった。声は、大丈夫。顔はきっと今は見せられない。


 あとは、レオンの言葉を待つだけ。
 それは、受容なのか、それとも拒絶なのか。
 意識して、呼吸を浅く取る。


 「アーリィを、元に戻してやってくれ。クリス」


 それは、受容だった。










 術式は、思ったよりも簡単だった。


 まず、アーリィをうつぶせに寝かせ、首筋から背中にかけて、3つの降魔石を並べる。その後、術式詠唱を行い、降魔石を身体に定着させる。使用される門は、光と闇。


 これは、アルクが『クリス』にしたように、彼女の言葉を借りて言うならば、人間で無くす、ということになる。
 実のところ、この術式はあくまで術を使えるようにする目的のものであって、心を定着させるものではない。


 ただ、少なくともそうした手順が必要なのは、クリスという実例があるだけにわかっている。
 テトラの記憶だけでも、こうした心を戻す術式というのは、存在しない。だから、同じ手順をなぞるしか無かった。


 ここまでの術式は、アルクによって行われる。実に、この人体の降魔化ともいえる術式は、アルクが開発したもので、テトラの記憶の中にも存在しない。そういった意味では、アルクは本物の天才とも言える。


 そして、それが終了すれば、今度は俺の番になる。


 俺の中にある、アーリィの記憶をアーリィの中に転写する。
 記憶の転写の術式は、きちんとテトラの記憶の中にある。両手で背中を突いて、そして記憶を送り込む。


 記憶は、転写であって、移動ではない。


 なので、送って尚、俺の中にアーリィの記憶は残ったままになる。


 俺は、転写する記憶から、アーリィが壊れるまでの一日分を消去した。
 テトラに飲まれる部分までを転写すると、作られた心が再び壊れてしまうかも知れない。


 そう、思ったからだ。










 そうした施術も終わり、俺は一人、部屋を抜け出して、城に備えられたバルコニーに出ていた。まだ日は高い。空は蒼く、秋の雲が流れている。


 アーリィの施術は完成した。
 そこに心が宿るかどうかは、わからない。今は、レオンによって、呼びかけがされていると思う。
 それが功を奏すかどうかは、素直にわからなかった。


 思えば、こころって何だろうって思う。


 俺がそうであるように、或いはクリスがそうであったように、そこにあったのは、元々ただの記憶だった。記憶が、心を作るのだろうか。それとも、心と、記憶は別のものなのだろうか。


 素直に言って、それは全然わからない。


 こうして沼男として生まれ出でて尚、こころが一体何なのか、俺にはさっぱりわからなかった。


 人気の無いバルコニーを歩き、欄干に手をついてみる。
 そして目を瞑った。


 その目に浮かぶのは、あの夜のこと。
 空気を揺さぶる花火が打ち上がる中、レオンに抱き付かれて、そして。


 それが、はっきりと思い出される。


 でも、それは俺の経験ではない。ただの記憶。
 経験から、意思が作られる。記憶は、過去のものでしかない。それでも、今、目を瞑ればそれが自分の中で再現されるほどに、はっきりと感じる。


 今は、素直に言える、レオンに対する好意。
 それが呪縛のように、俺の心の中にある。それが仮初めの記憶から生まれたのだとしても、焦がす想いが、今ここにある。
 それは疑いたくても、疑いようがない、間違いなく俺の、俺自身の意思だった。


 例え俺が偽物だったとしても、それでも今の俺を作ったのは、レオンに他ならない。それを記憶という形ではっきりと見せられて、そして好意を持たないでいられるほうがどうかしてる。


 でも、俺の想いと、レオンの気持ちは合致してない。
 レオンの気持ちは、クリスと共に積み重ねられた記憶の中にあり、でもその記憶は、俺にとっては仮初めでしか無い。
 だから、俺にはレオンの想いを受ける資格が無い。そもそも俺は……人間ですら無い。










 ……でも。レオン。


 好きなんだよ。
 大好きなんだよ。


 記憶とか、経験とか、そんな理屈なんかどうでもよくて。
 今、想う気持ちは、それが全て。


 だから、怖くて仕方が無い。
 レオンはアーリィを受け入れたけれど、でも、それでも不安なんだ。
 不安で不安で―――怖いよ。


 俺は誰だ?
 あれ以来、何度も繰り返した疑問が再び、心に去来する。
 レオンにとっての、私は誰?










 「クリス」


 考え疲れて、欄干に突っ伏した俺の背中から、その声は聞こえた。
 歓喜に、或いは不安に、鼓動が早まるけれど、押さえつけて平静を装う。


 声を出そうとして、そして一度大きく深呼吸をする。
 そして、俺は振り向いた。


 「兄様、アーリィは?」


 あえて、俺は先ほどと同様、『クリス』を装った。
 それに対して、近付くレオンの歩調が一瞬だけ乱れる。その顔は、不思議なほどに無表情で、感情が読めない。


 「ああ、先ほど目を、覚ましてくれた。改めて奇蹟を見たような気分だったよ」


 「それは良かったわ。それでどうだったの?新しい、アーリィは」


 少し挑発的に過ぎただろうか。でも、俺はその反応を見たかった。
 受容したとは言え、実際に目が覚めたアーリィを見て、どう思ったのか。
 同じであっても同じでは無い。
 それがわかっている彼女を見て、どう思ったのか。


 「いや、あれは確かにアーリィだったよ。それで良いんじゃ無いかな」


 その言葉には、一切の迷いが無かった。


 軽いショックを受けて、俺はさっと欄干側に体を向ける。理屈を通り越して、顔に喜色が出そうだったからだ。
 それを見られるのは、如何にも嫌らしく思えた。


 「そ、そう?兄様が良いんだったら、多分良いんじゃ無いかな?」


  何となく、返す言葉が、軽口みたいになる。


 そうじゃない。


 良かったね。レオン。


 とか、そういう言葉を言うべきなのに。


 「クリス」


 思っている間に、その言葉は、殆ど耳元で聞こえた。
 そして身体を、あの時と同じように、後ろから抱きしめられた。


 「ひゃ……!」


 軽い、悲鳴を上げてしまう。


 どうして?なんで?


 それは全く予想していなくて、俺は一気に混乱の極致へと押し上げられた。
 様々な思いが交錯して、消えていく。それらが、意味のあるものを結ばない。
 どう考えたら良いのか、どう想ったら良いのか、全然わからない。


 「違う。本当の君は、本当のクリスは、それじゃないだろう?」


 その言葉を聞いた瞬間、十分に早鐘を打っていた心音が、それ以上に跳ね上がった。


 「ふ、あ、あ」


 ワナワナと震える口が、意味の無い単音節を紡ぎ出す。
 渦巻くような感情が、身体を駆け上ってくる。それが一つの理解に達したとき、感情を抑えきれなくなった俺の目から、止め処なく涙が零れた。


 「あ、ああ、うああ、なんで、なんでだよ、なんで、俺を」


 見つけて、くれたんだ。


 無意識に、『クリス』を装ってたのは、本当の自分を偽るため。
 何時か思ったように、もしかすると、レオンは『クリス』を求めているんじゃないかという不安を、隠すため。
 そうして、自分を見つけてくれることを、願ったから。


 そしてレオンは、俺を直ぐに見つけてくれた。
 『クリス』ではなくて、俺を。


 でも。


 「でも、お、俺は、クリスじゃ―――んむ」


 更にそれを否定しようとした瞬間、いきなりその口をふさがれた。
 突然のそれに、理解が追いつかない。


 「ん、んん……」


 理解出来ないまま、不安が、恐れが、ドロドロと溶けていく。
 頭の中で、何もかもがぐちゃぐちゃになって、どうでも良くなっていく。


 強引、すぎる。
 唯一意味ある事を思えたのは、たったその一言だけで、後は歓喜と、感情の渦に飲まれてまともにものが考えられない。
 ただただ、ずっとこうしていたい。
 遠い記憶が、警鐘を鳴らしているけれど、それも直ぐに圧倒的な快楽の波が押し流していった。


 「んあ」


 唇が離れる。それに気付いて、ようやく自分が戻ってくる。
 一体どれだけそうしていたかも、よくわからない。
 身体に力が入らなくて、欄干に押しつけられながら、殆どレオンに支えて貰っている状態だった。


 「クリス。俺も今日の朝、起きたときに生まれたと言ったら、信じるかい?」


 レオンは、急に何を言い出したのだろう。
 ぼーっとした頭で、その言葉を聞く。


 「昨日眠ったとき、俺は一度壊れて、そして朝にまた同じ記憶を持って生まれた。そうだとしたら?俺は俺じゃ無いのかな?」


 え、え?


 レオンが何を言わんとしているのか、理解が追いつかなくて、必死にその意味を追う。


 「―――そんなの、わからないよ」


 理解できた先、俺はそう答えた。
 そうすると、抱きしめられた腕が、より強くなった。


 「きゅぁ」


 「そう―――わからないんだよ。それは誰にもわからない。俺にもわからないし、みんなにもわからない。結局俺たちの心とは、一体何なのか、誰にもわからない。でもこの瞬間にであれば、何処にあるかははっきりと教えられる」


 そして少しだけ、身体を離して、レオンは真っ直ぐに俺の目を見た。
 クラクラする。


 「俺のこころは、ここに。クリス。君のこころは、そこに」


 強い視線に射貫かれて、俺は素直に頷いた。


 そう、なのだろう。


 きっとそうなのだろう。
 悩んでいたことが、全てその言葉に、流されていく。


 結局、今をもってもわからない。こころという何か。それが一体何なのか、きっと、永遠にわからないに違いない。でも、それが今どこにあるのかと問われれば、確かにここにちゃんとある。


 それだけは、間違いが無かった。


 今思う、この感情。気持ち。
 それが全てを、肯定している。確かにそれはこころに他ならない。
 例え今日に壊れて、明日に生まれても、そこに意思があるならば、それが自分であることだけは、確認できる。
 もし、今日に二つに分かれても、それぞれが自分だと考えるだろう。何者か、ではなくて、それは「自分」だということだけは、きっとはっきりしている。


 そして多分……それで十分なのかも知れない。


 「好きだよ―――クリス」


 「ひぁっ?」


 そう納得しかけたところに、不意打ちのように、レオンに告げられた。


 収まりかけていた気持ちが、いっぺんに砕けてバラバラになっていく。
 頭が一気に沸騰して、再びグルグルと回る。


 「れ、れおん。その、あの、なんていうか、俺で、その、いいの―――むぐ」


 また口を塞がれた。
 卑怯だ。何も考える事なんか出来ない。


 結局のところ、考えても仕方が無いのかもしれない。
 もしかすると、俺が考えるより世の中は余程単純で、わかりやすいものなのかもしれない。


 すくなくとも、今は、そう。
 たったひとつ、ここにある意思に灯る、その気持ち。
 それがきっと、絶対に、正しいものだと、理解出来るから。










 幾層にも積み重なる、記憶。


 たとえそれが、仮初めだったとしても、これからもそれに積み上げて、そしてそれに立ち続けるのだろう。
 だとするならば、きっとそれは、今の自分自身のものだと思う。
 こころが何かと言うならば、これがそうだと自分を見せよう。


 何時か、砕けて無くなるその日まで。




 それを胸に―――先へ進もう。






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