すわんぷ・ガール!

ノベルバユーザー361966

73話 消えたもの、生まれたもの

 澱のような沼の中。
 たゆたうそれには、心は無かった。


 元にその中に何かがあったにしても、何度もその中身が入れ替わったにしても、今は何も無い。
 それには積み重なったものが、保管されていた。
 それは思い出、経験、記憶。
 ただ、今や膨大なそれは、心がなくて、例え形を作っていても、動かされることは無い。
 かつて確かにそこにあった心は、より深い深淵の底に落ちて、失われた。
  最早それが、浮かび上がることも無い。
 失われたそれは、戻ったりはしない。


 だがそれを、呼び戻す声が聞こえる。
 水面から浸透して、沼底にまで届く声が。


 心は失われた。失われたそれには、声は届かない。


 ただ記憶が。
 あたらしい記憶が、その身体を纏う。
 幾つもの思い、想い、望み、希望、そして願いが。
 そこに存在する積み重なる記憶へと浸透する。


 そして―――新たな心は生まれた。


 折り重なる波が、波濤へとなるように。
 幾つもの雲が集まって、雷を生むように。
 生まれた心は、積み重なったそれを、呼びかけられる声を、新たな記憶を纏い、そして形を作っていく。
 戻れという声に誘われ、それは完成する。望まれた形へと。


 それを奇蹟と呼ばないとするならば、今何を奇蹟と呼ぼう。










 「……れ」


 目が開いていく。
 ぼんやりとした視界の向こうには、その顔が。
 戻ってこいと言ってくれた、その存在が。
 俺の為に悩み、今や何をも捨てて、ただひたすらに、俺の為だけに戦った男の姿が。


 目の前にあった。


 その全ての記憶が、今、ここにある。
 一つ一つの記憶、経験が、胸の中にある。


 それが、今、再び俺を作り上げた。


 「れ、おん……」


 その名を呼ぶ。自然と涙が溢れた。
 わかっている。或いはわかってしまった。


 最早、俺は、俺では無い。


 あの日、あの迷宮で生まれたそれは、もう居ない。
 そして、今、新たな沼男は生まれた。


 ここに居る俺は、クリスと、以前の俺と、そしてレオンの想いから生まれた、沼少女。


 「クリス……!」


 「ふぁ」


 震える両手で、俺は抱きしめられた。痛いほどに強く。
 それが、一層に自分の中にあるレオンの記憶を浮かび上がらせる。


 「お姉様!」


 「クリス」


 同じように俺に縋る、アイラ、そしてパルミラ。


 二人の記憶も、ここに。


 俺は、その名前で呼ばれてもいいのだろうか。その資格があるのだろうか。抱きしめられる価値があるのだろうか。
 少しだけ、考える。


 ただ、この胸にある気持ちは、悲しみでも、苦しみでも無い。
 新たに生まれることが出来た喜びに、他ならなかった。
 レオン、アイラ、パルミラ。
 そして、レオンの肩越しに見える、ルーパート、バイド、アルク、マドックス。そして、クリス。


 今、それが俺が感じる全て。
 過去などなにもないけれど、今思うならば、少なくともそれだけは確かなものだった。
 身体を纏う暖かさに、俺は目を閉じる。


 罪悪感が、無いわけではなかった。










 館に戻った俺たちを迎えたのは、レパードとあと、親衛隊の全員。それからアイリン、メイド達だった。


 先行で帰ったのは、レオンと、俺。パルミラ。バイド、ルーパート。
 アイラとアルクは、人事不詳なアーリィに付き添って城付きの救護所へ。
 マドックスは、そのうち報酬を貰いに来ると言って、再びどこかへ消えてしまった。
 クリスは、別途用事があると言う。


 昨日の今日であるはずの館は、所々が壊れっぱなしであるものの、少なくとも庭先で発生した戦闘の後始末だけは終わっていて、死体が残っているということは無かった。
 ただ、実際に親衛隊の何人かは戦死したのはわかっている。それにアーリィも居ない。


 それだけに、喜色を持ってレオンを迎えるレパードや親衛隊の姿に対し、レオンの様子は所々どこか物憂げだった。
 それでも迎えた者達に対しては、あの笑顔で対していて、それが俺にはどうにも痛々しく感じてしまう。


 「レオン」


 我慢できなくなってレオンに声をかけると、優しい顔で頭を撫でられた。
 何となく、子ども扱いされているような気もする。全くの遠慮が無くなったというか……前も遠慮無いなとは思っていたはずなのだが、今にして、いよいよそれを感じる。
 レオンの中で何か、俺に対する吹っ切れた気持ちがあるのかもしれない。


 ただ、そうやってされればされるほど、自分にその資格があるのだろうかと、どうしても思ってしまう。


 やはり、きちんと話した方がいいのだろう。
 横に並ぶパルミラにも視線を送る。
 不思議そうな、顔をされた。


 「……クリス?」


 同時に、俺の姿を認めたアイリンが、少し怪訝そうな顔で寄ってくる。
 近くまで来た後、頭の上から足の先までしげしげとレオン以上の無遠慮さで眺めてくる。
 レオンとは違い、初っぱなから吹っ切れている彼女のその行動は、俺をかなりドキドキさせた。


 「……なんか雰囲気、変わってる?」


 「……そりゃ、変わってるさ」


 「クリスはここで花嫁修業した。今のクリスはとても女の子」


 答えた俺のそのニュアンスとは、かなり違う補足をパルミラがする。
 鋭い彼女の事だ。ひょっとすると、もしかすると、前の俺では無い事を見破られたかも知れないと内心緊迫していたところに、そんなパルミラの言葉。ある意味、ナイスフォローと言えなくも無いけれど、その言葉の内容に素直に納得出来ない。


 もう、女とか男とか、関係ないのにな。


 自嘲の笑みが、漏れた。


 「そうかー……。ふうん。確かにそんな気もする。言葉遣いは変わってないけど、なんていうか、雰囲気とか振る舞いが、女の子っぽいというか、ちょっと気品があるというか……さっき、私の家ではそこまで感じなかったけど」


 そう言われれば、そもそもアイリンとは、前の俺が壊れる直前に会っている。
 それを今更のように思い出すのは、やはり俺が前と違うからなのだろう。そして、更に言えば、それから4人分、アーリィ、クリス、テトラ、レオンの記憶を取り込んだから。


 だから、アイリンの「さっき」というのが、俺にはかなり前のように感じる。


 他人の記憶を取り込んでしまう。
 今の今までは、殆ど無意識だったり、強制的だったりしながらそうだったが、これからは余程注意したほうが良さそうだった。
 それはある意味では便利なのかもしれないが、フェアでないような気がする。
 多分、アイリンの記憶をもし俺が、ここで取り込んでみせたら、アイリンは間違いなく激怒するだろう。


 「それにしてもなんか腹立つ。男女のくせに、ホント私の勝てる要素が無くなっていくじゃない」


 さすがにそれは、小声で言われた。


 多分、魔法の知識とかももう、アイリンよりも上だと思う。テトラの記憶のある俺は、彼女のもつ魔法全般の知識も継承している。
 それは森羅万象、あらゆるものの見方すらも、変わってしまいそうだった。
 もちろん、そんな事実は、アイリンはおろか、一生口に出さないつもりだった。


 「クリス」


 「あ、うん」


 館に入っていくレオンに呼ばれ、俺は小走りでそれに続く。


 なあレオン。
 俺はクリスでいいのかな?


 こうして、あなたの想いを受けても、私はいいのかな。










 もやもやした気持ちのまま、やがて帰ってきたアイラと、そしてアーリィだけが欠けた何時ものメンバーでご飯を食べ、風呂に入った。
 そしてそのまま、俺の部屋とされる場所に入る。


 実のところ、レオンにどう接して良いか、俺はわからなかった。
 自分が、偽りのそれであるという感覚はある。余程素直なレオンに対して、それを受けて良いのかどうなのかが、どうしても俺には判断できない。


 このまま何の気なしに、クリスでいて良いのだろうか。
 消えた俺はに申し訳ない気がして仕方が無い。レオンとの思い出も、アイラとパルミラの思い出も、全部、俺のものでは無くて。ただ、俺はそれをこうして受け継いでいるだけ。


 本当は、この館に居る資格すらもない。
 この部屋も、クリスのものであって、俺の部屋なんかじゃない。


 俺はクリスじゃない。ただの沼男。


 俺には、確かな過去など、何も無い。
 ベッドに倒れ込む。


 ―――いっそ、なにも関係していないどこかへ行ってしまいたい。


 「……ひっ、く……ぐすっ……」


 怖い。
 怖くて怖くて、仕方が無い。
 自分が誰なのかわからない。それが、心の底から不安だった。


 クリスはそれに耐えられなかった。だから、今の俺が居る。


 レオン、レオン。
 ベッドの横にある椅子を見て、そこに居るはずの影を追う。
 教えてくれ。俺は、誰なのかを。
 この想いすらも、偽りなのかを。


 コン、コン


 ベッドの上で丸くなっている俺の耳に、扉から小さくノックの音が聞こえた。
 恐怖と歓喜の混ざった目で、それを見る。


 「は、い?」


 声が震える。まさか、まさか?
 扉が小さく開き、そして明かりが部屋に入ってくる。
 そして続く姿は。


 「お姉様?」


 アイラと、パルミラだった。










 がっかりしたわけじゃない。ただ、拍子抜けしただけだ。
 そう言い聞かせて、俺はベッドに座り直す。それから、ハッと気付いて、目の周りを両手で拭った。


 「ど、どうしたんだよ。二人揃って」


 出来る限り平静を装い、カンテラ片手に部屋に入ってきた二人を迎える。
 二人はそっと部屋を見回して、それから俺を見てから、顔を向け合い頷いた。
 なんか、このシチュエーション、前にもあった気がする。


 「よかった。ひょっとしたらレオン様も居るかなって思って」


 「居ても、いいじゃねーか……」


 一体何の話なんだよ。
 今更、レオンがここに居たところで、二人が遠慮する道理もないと思う。


 「二人居るのが、ベッドの上だったら、さすがに私達も遠慮する」


 「ぶっ!?」


 思いもしなかった話を、パルミラが例によって直言する。


 それは、それはさすがに。


 一瞬でも想像してしまい、顔が火照るのを感じる。両手を頬に当てそうになって、慌てて止めた。我ながら挙動不審だ。


 「い、いえ、ベッドの上じゃなくっても、遠慮しますよ?!」


 アイラが変なフォローで、手を交差させる。カンテラがぶれて、部屋中に光が散乱した。それに気付いてなのか、手に持ったそれをテーブルに置いた。


 そのまま、それぞれ俺を挟んでベッドに腰掛ける。
 正面にある椅子を避けるところを見るに、言った記憶は全く無いものの、それが何のためにあるのか知っているのだろう。


 「で、何なんだよ」


 挟まれた俺は、内心気が気でない。
 例えば、俺が、クリスじゃない事を、言ってくるのじゃないだろうか。
 それはない。きっとそれはない。さすがに、それはないだろう。


 「うん、何か……その、お姉様がちょっと変だったから」


 どくっ。


 心臓の音が一気に大きくなる。指先が震えるのを感じて、拳を握り込んだ。
 腕自体の震えは、片手で押さえる。


 「屋敷に着いてから、なんだか様子がおかしかった」


 唇を噛む。


 ―――いや、これは違う。


 二人は、ただちょっと様子が変だった俺を慮って来ただけだ。
 息を吸う。吐く。
 それだけで、二人から見たらおかしな行動なのだろうが、あえて俺はそうした。
 そうでなければ、跳ね回る心臓が、俺の声をまともになどしてくれないだろうから。


 「……お姉様?」


 「いや、うん。まだなんだかさ。現実味が、無くて。ほら、色々あったからさ……」


 「……そっかぁ」


 微妙な返答で、それでもほっとする顔をするアイラ。
 その一方で、パルミラが反対側でじっと俺を見ているのを感じる。
 パルミラはパルミラだから、いつも通りでもそんな感じではあるが、今はちょっと心臓に悪い。


 「それよりもさ。アーリィはどうだった?アイラ、ついていったんだろ?」


 なるべく自然にと、話題を変える。とはいえ、それは純粋に気になるところではあった。


 あの後、どこかへ運ばれたアーリィに付き添って、アイラはアルクと行ったはずだ。
 そして一応の結論が出たからこそ、帰ってきてここに居るのだろう。
 ただ、聞いたものの、その答えはおおよそ想像は出来ていた。
 案の定、アイラの顔が、暗くなる。


 「メイド長は、心が、無くなっちゃったって……アルク様が……」


 「そうか……」


 それ以外の言葉が、出てこない。
 それ自体は知っている。テトラの憑依を受けた彼女の心は砕けてしまった。その記憶は、ここにある。
 そしてそれを、あの時ルシアンは裏付けた。


 確かに壊れた心は、元に戻ったりしない。失われたものは還ってこない。
 それは、俺が一番良くわかっていることだった。


 ―――だが、その心を再び宿らせる事は出来る。


 それはテトラの記憶から。
 細かい部分では、アルクの力を借りることになるだろうが、おおよその術式はわかってしまう。
 必要なのは記憶だが、それは確かにここにあるのだ。


 ただ、そこから生まれるのは、俺と同じ、沼男。


 だがクリスがそうだったように、それがそうであるかどうかは、恐らく周囲にも、本人にすらわからないだろう。
 だとすれば、それは救ったことになるのではないだろうか。


 ―――でもそれで、本当に良いんだろうか。


 それは、アーリィではない。沼男なのだ。
 それが良いことなのか、悪い事なのか、全く判断できない。そもそも判断できるならば、俺も悩んだりしてない。


 「アルクは、他にも何か言ってなかったか?その、例えば、治る治らない的な」


 俺を、というか、『クリス』を生み出したアルクであれば、何かの指針を出せるのかも知れない。そう思い、アイラに聞く。


 だが、アイラは力なく頭を振るだけだった。


 素直に言って、色んな人に、聞いてみたい。
 もし、沼男として蘇るならば、それで問題は無いかどうか。


 だが同時に、聞きたくなかった。
 もし、その答えが、その存在を許容しないものだったとしたら。
 もし―――レオンの答えが、否だった場合は。
 考えるのも、恐ろしかった。


 ―――いや。


 いっそ、聞いてしまうのもいいかもしれない。
 アーリィをそのように治す事が出来るとして、もし、それをレオンが拒絶したならば、その時は。


 その時は、俺もここには居られない。
 少なくとも、それではっきりする。
 それとも、今、二人に聞いてしまおうか。
 アイラと、パルミラは、どう思うだろうか。


 「そ、そういえばさ」


 少し、声が震える。


 「二人とも、その、俺を助けに来てくれたんだったよな。なんていうかその―――ごめん。俺が守るって、言ったのによ。情けないな……」


 でも、口を突いて出てきたのは、違う言葉だった。


 謝罪。そう、俺が口にしたのは、二人への謝罪の言葉だった。


 もしかすると、拒絶されてしまうかも知れない自分。確かにその恐ろしさがある。
 ただ、もしそうだとするならば、今、それを言っておかなければならないような気がした。


 ふぅ、とため息を着く。そのまま二人を見ないまま、俺は続ける。


 「―――思えば、色んな事があったよな。奴隷になったりさ。でも、レオンに助けられて……はは。でもまた奴隷になってさ。みんなでテラベランの街を歩いたり……馬車の旅も、今思えば楽しかった気がする。三人で脱走してみたり、竜に襲われたり……思い出すと、結構色んな事巻き込まれたな、俺たち」


 ―――そんな記憶は、仮初めでしかない。
 それは全て、クリスのもの。俺のものではなくて。


 「……それか、ら……れっ、レオンがさ……なんか結婚しようなんて、おかっ、おかしな事、言ってきて、そ、それで、話したら、みんなびっくりして、アイラが、変な事言って、ぱ、パルミラも―――」


 「お姉様!」


 「クリス!」


 急に、二人が俺に抱き付いてきた。


 どうしたんだよ。急に。


 「わかったから。もう、わかったから……」


 抱き付いたパルミラが、意味のわからないことを言う。その身体が、震えていた。
 アイラも、そうだ。


 ―――泣いているのか?


 「お姉様が、なんだっていい。だから、だから、もう絶対に居なくならないで……お願いだから……」


 アイラの言葉に、俺は息を飲む。
 そして、自分こそ泣いている事に、その時気付いた。


 本当は、薄っぺらくて、何もかもが嘘でしかない。それが寂しくて、堪えようもなく哀しい。


 『クリス』でもなく、クリスでもない。
 本当なのは、一体何なのか。自分は、一体なんなのか。それすらもわからなくて、心細くてしかたない。


 でも、そんな俺でも、何だっていいと、アイラは言う。
 それは、本当にわかって言っていることなのか、それとも、違う何かなのか。


 だけど―――多分には、二人とも俺の何かをわかってくれたのだろう。


 「ふっ、ううう、ぐっ、ああ、うあ」


 わけのわからない涙が、次から次に溢れて止まらない。
 きっとそれは、受け入れられた嬉しさ。
 わかってもらえた安堵から。


 記憶を取り込むとか、そうじゃなくて。
 それはきっと、心で伝わったのだと、俺はそう信じたかった。

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