すわんぷ・ガール!
51話 貴族の第一歩
  ふわっとした風が、頬を撫でる。
チラチラと目の上に光が当たり、その加減で、だんだんと俺の意識は浮上する。
「ん、……んん」
もう少し、寝ていたい。
だけど、風に混じる微かな甘い香りが、俺を覚醒へと誘う。
パンを焼く臭い。朝食が準備されている。
客分である俺は、そんなには寝ていられない。せめて、ご飯には間に合うように、起きなければ……。
「ふぁ、あ、おはよう。レオン」
ベッドから身を起こして、目をこすりながら、俺はレオンに挨拶をした。
壁のほうに微睡む視線を向ける。
そこに、レオンは居なかった。
「……あれ」
壁際には、昨日俺がアーリィにお願いして置いて貰った椅子が、その主の居ないままぽつんと所帯なさげにあるだけだった。
起きがけから、何とも言えない寂寥感を感じる。
開け放たれた窓から入ってくる風によって、レースのカーテンが揺れて、差し込む朝日がその椅子をちらちらと照らしていた。
動くものはたったそれだけで、朝の清々しさも、柔らかな陽光も、それが当たり前で、そして爽やかであるからこそ、当然そこになければならないものの不在を、浮き彫りにしていた。
「あ……ん……」
少しだけ、喉が詰まったような間隔を覚えて、それを誤魔化すように深くため息を付く。頭を搔いて、頬をぴしゃんと叩いた。
そのまま努めて、そこにある椅子を無視し、ベッドから身を降ろす。大きくのびをしてから、開け放たれている窓を見る。
近づき、揺れるカーテンを無造作に捲った。
屋敷の二階。
そこから見うる光景は、眼下に広がっていく白の街並みだった。日に照らされて、ともすればキラキラと光る。
その向こうには、城壁があって、それが一種異様な存在感を出していた。
ここに着くまでにレオンに、そしてここに着いてからアーリィに、何となく聞いた話を総合すると、この街のあの異様な外壁は、帝国がここに建立される以前から有り、その遺跡のような場所にこの街は作られたのだという。
壁だけじゃ無い。
誰もそれが何なのか、はっきりとはわからないものの、街全体が不思議な力によって守られていて、だからこそ帝国はその力に守られながら、現在の版図を築いたということだった。
素直にふうんと頷いたものの、今、こうしてみれば確かにそれはなんとなくわかる。
あの壁の存在。外から守られた街。
それはまるでこの街の豊かさを保護するようだ。
だが、ともすれば外から中の様子がわからないように、もしかすると中からも外の様子がわからないのかもしれない。
レオンみたいなのはひょっとすると特殊で、積極的に外に出ようとする者は居ないんじゃないだろうかと、俺は想像した。
だとするならば、この街の者達は、ある意味ずっと外にある現実を知らないまま生きて、そしてそのまま死ぬのかも知れない。
それは幸せなのだろうかと、何となく俺は思った。
「あれ?」
微かに聞こえる、風切り音に目線を下げる。
部屋の真下は屋敷の庭だが、そこにパルミラが居た。そして一心不乱に、無言で剣を振っている。
構えを正眼に取り、正面に向かって斬り降ろす。
それは要塞からこちら、夜な夜なバイドに教えられた素振りだった。
実戦形式一辺倒のルーパートとは違い、いみじくも彼自身が正剣と言った通り、バイドの剣は、きちんとした何らかの剣術体系に従ったものだった。教え方も、まず素振りからということになった。
本人の意思とは全く関係なく勝手に師匠が変わった割に、パルミラは素直にそれに従っていた。それとなくその辺りを聞いたが、答えは『ルーパートが任した人だから、多分間違いない』と言い切られた。そのあたりひどく素直なパルミラだった。
そして今もそれに従っている。
バイドに毎日怠らないように的な事を言われたのかも知れない。
とにかく、パルミラは真面目に努力をしていた。剣を買ってから一度もブレることもなく。
それは純粋に凄いことだと、俺は思う。
その様をボンヤリと見つめていると、部屋のドアが二度ほどノックされた。
「はぁい」
何となくレオンじゃないことを確信して、適当に返事をする。
「失礼します―――おはよう御座います。お嬢様」
ドアを開けて入ってきたのは、アーリィだった。深々と頭を下げ、最後にそう付け加えた。
「お……嬢様?」
誰が?俺か?……俺か。
いやでも、昨日までは普通に『クリス様』だったはず。どういう心境の変化があったというのだろう。
「昨日の晩、御館様におおよその事は承りました。お嬢様が、御館様の大切な方である由、聞き及んでおります。故、クリス様をお嬢様と、以降お呼び致します。改めてよろしくお願い致します」
慇懃ではあったが、そこには嫌も応も無かった。言い切った。完全に確定だった。
……どうしたものか。
まず、気になるのは、アーリィがレオンから何を聞いているかだろうか。
そもそも、これからやろうとしていることは、フリだ。そして、聞いているとしたらどういうフリをするのかということを、アーリィは知っているのだろうか。
「い……一応、確認するけど」
「はい」
「レオンは、その、俺の事を、なんて?」
「ですから、大切な人だと」
それは、さっき聞いた。
聞いたが、改めて言われると、ドキッとするものがある。
いや、そうじゃない。そうではなくて。
「あ、いや、それ以外には?」
「はい。いずれ近いうちに両親へ会わせるつもりなので、礼儀作法を教えてやって欲しい、と承っております」
「な、なるほど……」
なるほど。
上手い事言ってる。嘘は、何一つついていない。
目的は、縁談の回避なので、何れレオンの両親とやらに会わなければならないのだろう。だが、それがフリなのかどうかまでは、多分レオンは、アーリィに何も言ってない。
その上で、大切な人だの、両親に会わせるだの、そんな話を聞けば、誰だって一つの結論しか出さないと思う。
よって、お嬢様、と。
「で、その……レオンは?」
とりあえず、やっぱり直接問い詰める必要がありそうだ。
俺はそう決心して、レオンの居場所を聞く。
だいたい、あいつは何をやってるんだろう。朝も……いないし。
「本日御館様は、遠征の報告を行うため登城致しました。朝早くより、レパード様を伴って既に出立しております。本日、戻られるかどうかは、聞いておりません」
俺たちは、投げっぱなしかよ。
……いやまあ宮仕えな訳だし、俺たちをどうこうするより、そっちを優先するよな普通。
それは理解出来る。理解出来るのだが。
「……そっか」
「取りあえずお召し替えを。朝食も、間もなく仕上がりますので」
「ああ、わかった」
「では」
何となく気分が落ちて生返事しているうちに、アーリィが軽く礼をして俺に近付いてきた。
ぼやっと、何だろうと疑問に思っていると、すっとその細い手が俺の胸元に伸びてきて―――
「って、待って!まって!自分で着替えれるから!というか、少なくとも脱ぐのは出来るから!」
テラベランの屋敷でも同じ事があって、でも脱ぐのだけは死守した俺だ。
本当は、着るのも自分がやるつもりだったが、着方がわからなかったので、そこは諦めたが。
とにかく、何となく服を脱がされるというシチュエーションが、どうにも受け入れられない。
胸元を押さえてアーリィから距離を取る。
すると、アーリィは少しだけ考えた顔になり、そしてキッとした顔を作って俺を見据えた。その目には迫力があり、俺はすこしたじろぐ。
「お嬢様。僭越ながら私は御館様よりお嬢様に、礼儀作法『など』を教示するよう仰せ付かっております。ですので、こうした事にも慣れて頂かなければ困ります」
断固とした口調だった。そして『など』の部分がやたら強調されている。
さっき、『など』とか言ったっけ?そこまで覚えてない……。
「いやでもほら、その辺はあまり関係ないんじゃないか?」
「確かに、そうした部分は外に触れることはないでしょう。ですが、作法というものは文化です。ですので、まずお嬢様には、そうした一連の文化になれて頂き一通りを習熟されてから、その後であれば、必要なものを取捨選択されれば宜しいと考えます」
良いから言うとおりにしとけこのド素人が。
要約すると、つまりそういうことだ。そういうことなんだが、反論しにくい。言っていること自体が、正論だけに。
「それでは、失礼します」
考え倦ねていると、再びアーリィの手が伸びてきて、俺の首筋に触れた。
「んう!」
構えていただけに、触れられた瞬間、ビクッとして変な声が出た。心底、恥ずかしい。
「動かないでください。慣れるしかありません」
有無を言わさず、胸元のボタンを外される。
慣れるしか無い、じゃない。さしあたり今は、耐えるしか無い。
着替え、というか着せ替えられて食卓に着く頃には、朝早くにも関わらず、十分過ぎるほど俺は疲れていた。
なにしろ、着替えと称してアーリィが触る。あちこちを。
それはもう、もの凄く自然な感じに、不自然なほど。
自分でも不思議な事を言ってるような気がするが、とにかくそんな感じだった。そういうのはアイラの領域だと思っていたが、もし同じ方向だとすると、アーリィの方が一枚も二枚も上手だと思える。
なにしろ、表情一つ変えずにそうするので、咎めきれない。
当然とばかりにそうするので、今でもひょっとすると、上流階級の着替えはそういうものなのかもしれないと、少しだけ思っているぐらいだ。実際はどうなのか、さっぱりわからない。
「どうぞ、お嬢様」
そんな疑惑のアーリィは、何事も無かったように席を引いて、俺に着席を促した。はぁとため息をついてすとんと座る。
気付いてみると、大きな長いテーブルには、メイドが並んで座っている。5人。
まず、メイドも一緒の食卓なのかという疑問がわいたが、そこは人様の事情なので、とりあえず気にしないことにする。レオンの事だから、そういうものなのかもしれない。
ただ、ふと気付いてみると、5人は変だった。なにしろアーリィがまだ座っていない。昨日アーリィは確かにメイドは自分含めて5人だと言ったはずだ。だが、6人居る。
よく見てみると、末席に座っているメイドは、アイラだった。
当たり前だがお仕着せのメイド服に身を包み、俺以上に疲れた顔を見せていた。
……早くもメイド修行か。
気付かなかったが、自分からレオンに頼んだのだろう。それにしても到着翌日から、そうするとは思わなかったが。
とはいえ、既に隣に座っていたパルミラも朝から頑張っていたし、それはそれでいいのかもしれない。死にそうな顔にはなっているが、俺も頑張っているので、共に頑張って欲しいとは思う。
「それでは食事の前に簡単に説明します。当然私達メイドは普通、こうした食卓に同席することはあり得ませんが、当館では御館様の意向によりこのように同じ食事を頂くことを許されておりますので、誤解無きようお願いします」
向かいの席に座ったアーリィが、きちんと俺の口に出してもいない疑問に答えてくれた。
おおよそ予想通り。
ただ、何となくだが痒いところに手が届きすぎるのも、何故かはわからないが、少しどうかと思った。
「それと序でですので、他5人のメイドを紹介しておきます。順番に、カレン、トワ、ミーシェ、ラクロウ。それから、アイラです」
紹介に会わせて、4人のメイドが一斉に頭を下げる。アイラだけ出遅れた。慌てて合わせている。がんばれ。
「アイラはお嬢様のご友人でいらっしゃいますが、メイドの修行ということであえて同列に扱わせて頂いています。失礼であることはわかっていますが、了承の程、お願いします」
それは是非も無い。本人が了解している以上、俺が言うことは何も無い。むしろ、厳しくいってほしいと思う。
「わかった」
「後、御館様が不在の間、当館の主はお嬢様となります。これに関しては、教育の一環として御館様の了解を得ておりますので、そのような心用意にてお願いします」
……なんか厳しいことを言い始めた。
俺に対しては、そんなに厳しくしないでほしい。
「ええっと、だとすると、パルミラはどの扱いなんだろう」
「パルミラ様は引き続き、客人の扱いとなります」
まあ、そうだよな。
横を見ると、パルミラはちょっと得意げだった。考えてそういう立場になったわけでも無かろうに。
その一方で、端っこの方でアイラがショックな顔になっている。仕方ないだろ……。
「それでは、お嬢様。当主として号令をお願いします」
唐突に、アーリィはそう言った。
……?号令?
号令って、何を号令するんだ。
戸惑って周りを見回すと、全員が俺を見ていた。パルミラでさえも、神妙な顔つきで、俺の言葉を待つ。
わからない。この朝食の席で、俺は一体何を言えば良いのか―――。
「あ……」
突然、俺は気付いた。
朝食の席だ。全員は、俺のその『当たり前の言葉』を待っていた。
ただ、それを号令と言うのであれば、あまりにも傲慢だった。
なぜなら、俺は何もしていない。何も出来ていない。ただ目が覚めて、服を着せ替えられて、そしてここに座っただけだ。
何もしていないのに、恥知らずにも、それを言わなければならないのか。
アーリィを見る。試すかのような視線を俺に向けていた。
「……レオンに感謝を……頂きます」
俺は精一杯、自分の着地点を探して、その言葉を口にした。
「御館様に感謝を。いただきます」
続けて、全員がそれを復唱した。それで、俺の号令は終わりだった。
厳かに、朝食が始まる。俺も、葛藤したまま、パンを手に取った。
これで、良かったのだろうか。
疑念がある。上流、いや、特権階級というものへの疑念だ。
特権というものが普通なのだと思えば、恐らくは俺は普通に、『頂きます』と言えば良かった。何もしていないし、何も出来ない。でも、号する事が出来てしまう。
それが、普通だと思えば。
今は、ささやかなものだ。朝食の号令。でもそれは、俺では無い誰かがそこに準備したものを横から奪うようなものだと思う。
何時か戦場で聞いた、どこかの貴族が号した言葉。
『逃げるなら死ね』
何のことは無い。それは、今俺が言った言葉と、根っこの部分はあまり変わらないじゃないか。
与えないが、奪う。
それが貴族の本質だというならば、俺は貴族になどなりたくはない。
だから、あえてレオンに感謝を、と俺は付け加えた。
少なくとも、レオンは俺たちに与えているのだから。だから与えられている事に感謝するのは普通だろう。
少なくとも、俺がただ、偉そうに号するよりも、その方が正しいに違いない。
「はぁ……」
着替え、朝食を食べる。
たったそれだけのことで、なんだか凄く疲れた。
今日は酷く、長い一日になりそうな気がする。
そして、それはきっと、今日一日で終わるとは思えない。
身の丈に、合わない。
俺は、それがどれだけ辛いことなのか、今の今まで想像すらしていなかった過去の俺を恨んだ。
チラチラと目の上に光が当たり、その加減で、だんだんと俺の意識は浮上する。
「ん、……んん」
もう少し、寝ていたい。
だけど、風に混じる微かな甘い香りが、俺を覚醒へと誘う。
パンを焼く臭い。朝食が準備されている。
客分である俺は、そんなには寝ていられない。せめて、ご飯には間に合うように、起きなければ……。
「ふぁ、あ、おはよう。レオン」
ベッドから身を起こして、目をこすりながら、俺はレオンに挨拶をした。
壁のほうに微睡む視線を向ける。
そこに、レオンは居なかった。
「……あれ」
壁際には、昨日俺がアーリィにお願いして置いて貰った椅子が、その主の居ないままぽつんと所帯なさげにあるだけだった。
起きがけから、何とも言えない寂寥感を感じる。
開け放たれた窓から入ってくる風によって、レースのカーテンが揺れて、差し込む朝日がその椅子をちらちらと照らしていた。
動くものはたったそれだけで、朝の清々しさも、柔らかな陽光も、それが当たり前で、そして爽やかであるからこそ、当然そこになければならないものの不在を、浮き彫りにしていた。
「あ……ん……」
少しだけ、喉が詰まったような間隔を覚えて、それを誤魔化すように深くため息を付く。頭を搔いて、頬をぴしゃんと叩いた。
そのまま努めて、そこにある椅子を無視し、ベッドから身を降ろす。大きくのびをしてから、開け放たれている窓を見る。
近づき、揺れるカーテンを無造作に捲った。
屋敷の二階。
そこから見うる光景は、眼下に広がっていく白の街並みだった。日に照らされて、ともすればキラキラと光る。
その向こうには、城壁があって、それが一種異様な存在感を出していた。
ここに着くまでにレオンに、そしてここに着いてからアーリィに、何となく聞いた話を総合すると、この街のあの異様な外壁は、帝国がここに建立される以前から有り、その遺跡のような場所にこの街は作られたのだという。
壁だけじゃ無い。
誰もそれが何なのか、はっきりとはわからないものの、街全体が不思議な力によって守られていて、だからこそ帝国はその力に守られながら、現在の版図を築いたということだった。
素直にふうんと頷いたものの、今、こうしてみれば確かにそれはなんとなくわかる。
あの壁の存在。外から守られた街。
それはまるでこの街の豊かさを保護するようだ。
だが、ともすれば外から中の様子がわからないように、もしかすると中からも外の様子がわからないのかもしれない。
レオンみたいなのはひょっとすると特殊で、積極的に外に出ようとする者は居ないんじゃないだろうかと、俺は想像した。
だとするならば、この街の者達は、ある意味ずっと外にある現実を知らないまま生きて、そしてそのまま死ぬのかも知れない。
それは幸せなのだろうかと、何となく俺は思った。
「あれ?」
微かに聞こえる、風切り音に目線を下げる。
部屋の真下は屋敷の庭だが、そこにパルミラが居た。そして一心不乱に、無言で剣を振っている。
構えを正眼に取り、正面に向かって斬り降ろす。
それは要塞からこちら、夜な夜なバイドに教えられた素振りだった。
実戦形式一辺倒のルーパートとは違い、いみじくも彼自身が正剣と言った通り、バイドの剣は、きちんとした何らかの剣術体系に従ったものだった。教え方も、まず素振りからということになった。
本人の意思とは全く関係なく勝手に師匠が変わった割に、パルミラは素直にそれに従っていた。それとなくその辺りを聞いたが、答えは『ルーパートが任した人だから、多分間違いない』と言い切られた。そのあたりひどく素直なパルミラだった。
そして今もそれに従っている。
バイドに毎日怠らないように的な事を言われたのかも知れない。
とにかく、パルミラは真面目に努力をしていた。剣を買ってから一度もブレることもなく。
それは純粋に凄いことだと、俺は思う。
その様をボンヤリと見つめていると、部屋のドアが二度ほどノックされた。
「はぁい」
何となくレオンじゃないことを確信して、適当に返事をする。
「失礼します―――おはよう御座います。お嬢様」
ドアを開けて入ってきたのは、アーリィだった。深々と頭を下げ、最後にそう付け加えた。
「お……嬢様?」
誰が?俺か?……俺か。
いやでも、昨日までは普通に『クリス様』だったはず。どういう心境の変化があったというのだろう。
「昨日の晩、御館様におおよその事は承りました。お嬢様が、御館様の大切な方である由、聞き及んでおります。故、クリス様をお嬢様と、以降お呼び致します。改めてよろしくお願い致します」
慇懃ではあったが、そこには嫌も応も無かった。言い切った。完全に確定だった。
……どうしたものか。
まず、気になるのは、アーリィがレオンから何を聞いているかだろうか。
そもそも、これからやろうとしていることは、フリだ。そして、聞いているとしたらどういうフリをするのかということを、アーリィは知っているのだろうか。
「い……一応、確認するけど」
「はい」
「レオンは、その、俺の事を、なんて?」
「ですから、大切な人だと」
それは、さっき聞いた。
聞いたが、改めて言われると、ドキッとするものがある。
いや、そうじゃない。そうではなくて。
「あ、いや、それ以外には?」
「はい。いずれ近いうちに両親へ会わせるつもりなので、礼儀作法を教えてやって欲しい、と承っております」
「な、なるほど……」
なるほど。
上手い事言ってる。嘘は、何一つついていない。
目的は、縁談の回避なので、何れレオンの両親とやらに会わなければならないのだろう。だが、それがフリなのかどうかまでは、多分レオンは、アーリィに何も言ってない。
その上で、大切な人だの、両親に会わせるだの、そんな話を聞けば、誰だって一つの結論しか出さないと思う。
よって、お嬢様、と。
「で、その……レオンは?」
とりあえず、やっぱり直接問い詰める必要がありそうだ。
俺はそう決心して、レオンの居場所を聞く。
だいたい、あいつは何をやってるんだろう。朝も……いないし。
「本日御館様は、遠征の報告を行うため登城致しました。朝早くより、レパード様を伴って既に出立しております。本日、戻られるかどうかは、聞いておりません」
俺たちは、投げっぱなしかよ。
……いやまあ宮仕えな訳だし、俺たちをどうこうするより、そっちを優先するよな普通。
それは理解出来る。理解出来るのだが。
「……そっか」
「取りあえずお召し替えを。朝食も、間もなく仕上がりますので」
「ああ、わかった」
「では」
何となく気分が落ちて生返事しているうちに、アーリィが軽く礼をして俺に近付いてきた。
ぼやっと、何だろうと疑問に思っていると、すっとその細い手が俺の胸元に伸びてきて―――
「って、待って!まって!自分で着替えれるから!というか、少なくとも脱ぐのは出来るから!」
テラベランの屋敷でも同じ事があって、でも脱ぐのだけは死守した俺だ。
本当は、着るのも自分がやるつもりだったが、着方がわからなかったので、そこは諦めたが。
とにかく、何となく服を脱がされるというシチュエーションが、どうにも受け入れられない。
胸元を押さえてアーリィから距離を取る。
すると、アーリィは少しだけ考えた顔になり、そしてキッとした顔を作って俺を見据えた。その目には迫力があり、俺はすこしたじろぐ。
「お嬢様。僭越ながら私は御館様よりお嬢様に、礼儀作法『など』を教示するよう仰せ付かっております。ですので、こうした事にも慣れて頂かなければ困ります」
断固とした口調だった。そして『など』の部分がやたら強調されている。
さっき、『など』とか言ったっけ?そこまで覚えてない……。
「いやでもほら、その辺はあまり関係ないんじゃないか?」
「確かに、そうした部分は外に触れることはないでしょう。ですが、作法というものは文化です。ですので、まずお嬢様には、そうした一連の文化になれて頂き一通りを習熟されてから、その後であれば、必要なものを取捨選択されれば宜しいと考えます」
良いから言うとおりにしとけこのド素人が。
要約すると、つまりそういうことだ。そういうことなんだが、反論しにくい。言っていること自体が、正論だけに。
「それでは、失礼します」
考え倦ねていると、再びアーリィの手が伸びてきて、俺の首筋に触れた。
「んう!」
構えていただけに、触れられた瞬間、ビクッとして変な声が出た。心底、恥ずかしい。
「動かないでください。慣れるしかありません」
有無を言わさず、胸元のボタンを外される。
慣れるしか無い、じゃない。さしあたり今は、耐えるしか無い。
着替え、というか着せ替えられて食卓に着く頃には、朝早くにも関わらず、十分過ぎるほど俺は疲れていた。
なにしろ、着替えと称してアーリィが触る。あちこちを。
それはもう、もの凄く自然な感じに、不自然なほど。
自分でも不思議な事を言ってるような気がするが、とにかくそんな感じだった。そういうのはアイラの領域だと思っていたが、もし同じ方向だとすると、アーリィの方が一枚も二枚も上手だと思える。
なにしろ、表情一つ変えずにそうするので、咎めきれない。
当然とばかりにそうするので、今でもひょっとすると、上流階級の着替えはそういうものなのかもしれないと、少しだけ思っているぐらいだ。実際はどうなのか、さっぱりわからない。
「どうぞ、お嬢様」
そんな疑惑のアーリィは、何事も無かったように席を引いて、俺に着席を促した。はぁとため息をついてすとんと座る。
気付いてみると、大きな長いテーブルには、メイドが並んで座っている。5人。
まず、メイドも一緒の食卓なのかという疑問がわいたが、そこは人様の事情なので、とりあえず気にしないことにする。レオンの事だから、そういうものなのかもしれない。
ただ、ふと気付いてみると、5人は変だった。なにしろアーリィがまだ座っていない。昨日アーリィは確かにメイドは自分含めて5人だと言ったはずだ。だが、6人居る。
よく見てみると、末席に座っているメイドは、アイラだった。
当たり前だがお仕着せのメイド服に身を包み、俺以上に疲れた顔を見せていた。
……早くもメイド修行か。
気付かなかったが、自分からレオンに頼んだのだろう。それにしても到着翌日から、そうするとは思わなかったが。
とはいえ、既に隣に座っていたパルミラも朝から頑張っていたし、それはそれでいいのかもしれない。死にそうな顔にはなっているが、俺も頑張っているので、共に頑張って欲しいとは思う。
「それでは食事の前に簡単に説明します。当然私達メイドは普通、こうした食卓に同席することはあり得ませんが、当館では御館様の意向によりこのように同じ食事を頂くことを許されておりますので、誤解無きようお願いします」
向かいの席に座ったアーリィが、きちんと俺の口に出してもいない疑問に答えてくれた。
おおよそ予想通り。
ただ、何となくだが痒いところに手が届きすぎるのも、何故かはわからないが、少しどうかと思った。
「それと序でですので、他5人のメイドを紹介しておきます。順番に、カレン、トワ、ミーシェ、ラクロウ。それから、アイラです」
紹介に会わせて、4人のメイドが一斉に頭を下げる。アイラだけ出遅れた。慌てて合わせている。がんばれ。
「アイラはお嬢様のご友人でいらっしゃいますが、メイドの修行ということであえて同列に扱わせて頂いています。失礼であることはわかっていますが、了承の程、お願いします」
それは是非も無い。本人が了解している以上、俺が言うことは何も無い。むしろ、厳しくいってほしいと思う。
「わかった」
「後、御館様が不在の間、当館の主はお嬢様となります。これに関しては、教育の一環として御館様の了解を得ておりますので、そのような心用意にてお願いします」
……なんか厳しいことを言い始めた。
俺に対しては、そんなに厳しくしないでほしい。
「ええっと、だとすると、パルミラはどの扱いなんだろう」
「パルミラ様は引き続き、客人の扱いとなります」
まあ、そうだよな。
横を見ると、パルミラはちょっと得意げだった。考えてそういう立場になったわけでも無かろうに。
その一方で、端っこの方でアイラがショックな顔になっている。仕方ないだろ……。
「それでは、お嬢様。当主として号令をお願いします」
唐突に、アーリィはそう言った。
……?号令?
号令って、何を号令するんだ。
戸惑って周りを見回すと、全員が俺を見ていた。パルミラでさえも、神妙な顔つきで、俺の言葉を待つ。
わからない。この朝食の席で、俺は一体何を言えば良いのか―――。
「あ……」
突然、俺は気付いた。
朝食の席だ。全員は、俺のその『当たり前の言葉』を待っていた。
ただ、それを号令と言うのであれば、あまりにも傲慢だった。
なぜなら、俺は何もしていない。何も出来ていない。ただ目が覚めて、服を着せ替えられて、そしてここに座っただけだ。
何もしていないのに、恥知らずにも、それを言わなければならないのか。
アーリィを見る。試すかのような視線を俺に向けていた。
「……レオンに感謝を……頂きます」
俺は精一杯、自分の着地点を探して、その言葉を口にした。
「御館様に感謝を。いただきます」
続けて、全員がそれを復唱した。それで、俺の号令は終わりだった。
厳かに、朝食が始まる。俺も、葛藤したまま、パンを手に取った。
これで、良かったのだろうか。
疑念がある。上流、いや、特権階級というものへの疑念だ。
特権というものが普通なのだと思えば、恐らくは俺は普通に、『頂きます』と言えば良かった。何もしていないし、何も出来ない。でも、号する事が出来てしまう。
それが、普通だと思えば。
今は、ささやかなものだ。朝食の号令。でもそれは、俺では無い誰かがそこに準備したものを横から奪うようなものだと思う。
何時か戦場で聞いた、どこかの貴族が号した言葉。
『逃げるなら死ね』
何のことは無い。それは、今俺が言った言葉と、根っこの部分はあまり変わらないじゃないか。
与えないが、奪う。
それが貴族の本質だというならば、俺は貴族になどなりたくはない。
だから、あえてレオンに感謝を、と俺は付け加えた。
少なくとも、レオンは俺たちに与えているのだから。だから与えられている事に感謝するのは普通だろう。
少なくとも、俺がただ、偉そうに号するよりも、その方が正しいに違いない。
「はぁ……」
着替え、朝食を食べる。
たったそれだけのことで、なんだか凄く疲れた。
今日は酷く、長い一日になりそうな気がする。
そして、それはきっと、今日一日で終わるとは思えない。
身の丈に、合わない。
俺は、それがどれだけ辛いことなのか、今の今まで想像すらしていなかった過去の俺を恨んだ。
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