すわんぷ・ガール!
25話 惑乱の二人
翌日、予定通り俺たちはテラベランを発し、帝都への道のりについた。
といっても、今度は馬車の旅だ。来たときとは、だいぶん違う。黙っていても馬車は進み、特に俺たちが何かをしなければならないこともない。
はっきり言えば、結構暇だった。
こうしたときは、色んな事を考えてしまう。
テラベランまでの道のりは、旅などと、とても優雅なことは言えない、逃避行に近いものだった。
今日食べるものすら保証できず、寝る場所すらも定かではない。
不安に怯え、堪えるだけの日々。
それがたった数日前のことだったなどと、最早信じられない気分だった。
思えばテラベランに着いてから、結構色んな事があったような気がする。
レオンに会って、屋敷に連れて行かれたこと。
きっと普通の者であれば、一生口にすることが無いような食事をしたこと。
屋根の下で寝たこと。
……また奴隷になったこと。
グイブナーグのこと。
街を見物しにいったこと。
考えてみれば、あの日あの時、もしレオンが俺たちを見つけなければ、そんな未来はなかったのだろう。
俺は、幸せというものが一体なんなのかはっきりはわからない。ただ、もしそれが何なのかと問われるならば、きっとあの屋敷で過ごした数日だったと言えるのかも知れない。
それほどまでに、レオンと会ったあの日までの俺は、灰色の世界を歩いていたと思う。
生きるために、生きる。ただそれだけの日々。
明日のことなどわからなくて、今日を必死に駆ける。疲れたなんて言えなくて、でも助けてなどとは口に出せない。
今にして思う。それは本当に辛い毎日だった。
ああ、もうあの日々に、戻りたくはない。
―――本当にそうだっただろうか。
そうした考えの中、心の奥底から、それを否定する何かが泡のように浮かんでくる。
本当に、そうだっただろうか。辛いだけの毎日だっただろうか。
生きることに必死だった毎日は、そんなに嫌だっただろうか。
そんなことは無かった。そうした生き方が好きだった。
何時だって明日のことがわからなくて、今一瞬を、自分のすべてを叩き付けるようにねじ伏せながら刹那に生きる。
それは確かに、痺れるような快感の日々だった。
そうした日々も決して嫌いじゃ無かった。
ただ、今は違う生き方の中にあって、そしてこれも全然悪くない。
だけど離れがたく思うこの生活は、多分俺には向いていない。
今は、悪くなくとも、きっと膿んでしまうだろう。
「……」
思考を止める。
何となく考えていることがかなり支離滅裂だ。大きくため息を付く。
そしてそのまま、クッションまでひかれた馬車の椅子に、ごろりと横になった。
正面の視界に、買った小剣を大事そうに持ってウトウトしているパルミラと、起きてはいるが心ここにあらずといった体で、座ったまま壁に寄りかかるアイラが映る。
昨日のあの事件から、アイラはずっとこんな感じだった。
何かをひたすら考えている。いや、その様子は明らかに何かを悩んでいた。
昨日、昼飯の時、悩みがなさそうでいいななどと思っていたのに、昨日の晩からこの調子だった。晩飯すらも、食べていない。
それは何時ものアイラを思えば、かなりの違和感がある姿だった。あえて言えば、あの奴隷商人に捕まっていた時のそれに近い。
ただその双眸は、あの時見せていた死んだようなそれではなく、何かの強い意思が宿っていた。
それが何なのか、わからない。
もちろん、声をかけた。
彼女の返事は、『もう少し待ってもらえますか』。
話すわけでも無く、拒絶するわけでもない。待ってくれと。何時まで待てという事も無く、待てという。
もし、それが拒絶だったならば、俺はアイラに怒っただろう。あの日アイラとそしてパルミラが俺に言ったように、頼れと言っただろう。
だが、アイラは待てと言った。
ならば、待とう。それもきっと、信頼するという事なのだろうから。
馬車が止まり、扉がノックされる。
誰かはわからないがレオンだろうなとか思いつつ、ハイなどと答えると、扉を開けたのは予想に違わずレオンだった。
「今日はここで野営になります。お疲れ様でした。食事もありますので外へどうぞ」
いつものようににこにこ笑って、丁寧口調で俺たちを外へ誘う。お疲れ様とか、そもそも俺たちよりも疲れていないやつが居るのかと思うが、それを言ってしまうのはレオンのレオンたる所以だろう。
レオンはあの日と同じように騎乗だったが、少なくとも馬車で揺られるよりは疲れているはずだ。レパードがいるとはいえ、この隊の長なわけだし。
ただ、その一方で、間違いなくもっと疲れている者達もいる。当然、兵士達だ。彼らに至っては徒歩だった。しかも全員それなりの装備を持って。
それを思えば、心底申し訳ない気分にはなった。
どう考えても俺たちの待遇は、ほぼお姫様のそれだったが、俺たちはお姫様のように、それが当然などと考える心を持ち合わせていない。
かといって、歩けと言われても正直困る。今日一日で、この軍隊が常識を越える行軍距離をもっているのがわかった。きっと俺たちはあっという間に置いて行かれるだろう。
馬車から降りるが、なるべく目立たないように素早く降りる。
パルミラも、悩めるアイラもそこは同じ気持ちだったようで、そーっと地面に降り立った。まあ、レオンが従者宜しく横で待っているので、結構台無しではあるのだが。
窓が無い奴隷馬車とは違い、既に夕方なのはわかっていた。
馬車から降りてみると、既に日が川向こうの丘の向こうに沈もうとしていた。間もなく帳も降りるのだろう。
それは、来たときと同じ光景ではあったが、それだけに感慨深かった。
あの川を流れていったんだよなとか思うと、つい吹き出しそうになる。
何やってたんだろうな俺たち。
「ちなみに今日からの食事は、全員同じメニューですので」
食事やら野営準備やらで、全員が忙しそうに走り回る中、いち早く拵えられたたき火と囲む椅子に俺たちを誘いながらレオンは言った。
「外では、格好付けたがりなんだな」
などと軽い皮肉を込めて返すと、『そういうのが好きなんですよ』と素直にはにかみながら答えた。
図らずもドキッとする自分に、言うんじゃ無かったと悶えそうになった。
夕食は質素ではあったが、どれもこれも濃い味付けでかなり腹にたまるようなものばかりだった。軍隊食といえば、まあ、こんなもんだよなと思うが、アイラにはちょっとヘビーだったんじゃ無いかと思う。
食事も終わって、やや砕けた空気が流れてきたところで、俺は席を立ち、一人河原へと向かった。アイラは、先に休むといって馬車に戻り、パルミラは、食事を取った後、既にどこかに消えていた。
それぞれ、今は思うことがあるのだろう。今は、まだ放っておくことにする。
まだ、川は街道からそこまで離れていない。じきには、段々標高も高くなるに従って、離れていくのだろうが。
遠く喧噪を背に、それでも夜の静謐な風を感じながら、河原に出る。
河原から見える川と、そして向こう岸の丘陵の上に、星が瞬いていた。
視界に映る、圧倒的な星の輝き。
このまま川に向かえば、その星の世界へいけるのかもしれない。そう思えるほどに。
その幻想的な光景に、魂を吸い込まれそうになる。
「……ふうっ」
自分らしくもない詩的な感情を、ため息と共に吐き出す。そして河原にあった、少し大きめの石に腰を下ろし、星を見上げる。星は相変わらず瞬き、その光景が俺を清心に誘う。
それを見ながら、俺はその虚空に向かって話し始めた。
「正直、いろんな事がわからないままだ」
むしろ、確かなことなんて何一つない。
「ただ、だからこそ、色々想像してしまう。例えば、俺のこの体は俺のものではなかった。とかかな。女になったんじゃなくて、俺は別の何かになった、とか」
それは、アイラとパルミラに語って聞かせた、俺の直感から来る想像そのものだった。
ただ、そうかといっても、それも結局あやふやでしかない。
そういえば、あの時のアイラはアイラらしい変な感想だったな。
思い出して、ふふっと笑う。
でもあれはあれで、俺が思いつかないような事を言ってくれた。
最近のアイラは、アイラらしくない。
待つと決めたから、待つつもりではあるけど、素直に言えばアイラには早く元のアイラに戻って欲しいと思う。
そうでなければ、俺が、嫌だった。
もちろん我が儘だとは思う。
「それは実は、『クリス』なんじゃないか?……彼女は一体、何者なんだろうな。よく考えたら、彼女の事を知ってるようで、俺は何も知らない」
知ってるようで、知らない。
本当にそうだった。夢を見て、『私』になってさえ、結局のところ彼女が何者だったのか、わからないままだ。
想像は、もちろんいくらでも出来る。
例えば、彼女は少なくとも地位ある立場の子供だった。裕福だったのは間違いない。
あの屋敷や、そして魔法適正を調べられたことを考えれば、それだけは間違いなく言える。
そして彼女は魔法が使える。或いは、魔法の適正があった。それも多分かなりの才能を持って。
彼女はそれを嫌がってはいたが、その魔法が使えるという事実は重要だ。
なぜなら、俺も不確定ながら魔法が使える。
そう考えると、俺が今、彼女の体を乗っ取っているという説がいよいよ現実味を帯びる。
……ただ、それはそれで何かがズレている。
まだ、魔法というものがはっきりわからないが、降魔石を飲み込み、文様を発現させる俺の体は、どう考えても普通じゃない。
あえて言えば……そう、人外に近い。
今のところ、夢の記憶は、彼女が魔法の適正を知るところまで。その後彼女が魔法使いの道へ進んだかどうかはわからない。
だが、そこから、俺が憑依するまでに、何かがあったのだと思う。
それが何かはわからないが、多分重大な何かなのだろう。
それは今はまだ、予想も出来ない。
ただ、それがわかっている人間に、俺は心当たりがある。
「なぁ、クリスはいったい何者なんだろうな?―――レオン」
振り返らずに、俺はそう問うた。
これで振り返って居なかったらかなり恥ずかしいが、俺はその背後の気配がレオンだと、はっきりとした確信があった。理由や理屈はわからない。
「―――クリスは、あなたではないですか」
数秒の沈黙の後、何時もの快活としたそれではない、淡々としたレオンの声が背後から聞こえた。
それは、当たり前すぎる答えだった。
そう、クリスは俺だ。だがまた『クリス』も俺なのだ。
「言葉遊びか?レオン」
「そういうつもりでは、なかったのですけどね」
足音と共に背後の気配が大きくなり、そして俺の横に並ぶ。そのまま、ポンと手を俺の肩に置いた。
その行動に、俺は違和感を覚える。
キレた俺が襲いかかった時を除いて、レオンは自分からは一度も俺に触れたことが無かった。それは如何にも紳士とか、騎士とか、そうしたものに基づいていて、レオンがレオンたる所以のように思っていた。
不思議に思うが、それでもその手を払いのけたりしなかった。乗せられたレオンの手が、僅かに震えているのがわかったからだ。
だからどうしたというわけじゃない。ただ、よほど何かレオンにして思う事があるのだろうと、俺はそれを許すことにする。
ふん、と、鼻を鳴らして宙を見る。レオンもそうしているのだろう。
何故かそれが見なくともわかった。
「……」
無言の時間が過ぎていく。
レオンは時折、何かを言おうと息を吸い込み、そして口を噤むを繰り返していた。
いつにない、レオンのその態度に当然のように訝しむ気持ちがわくものの、俺も何も言わず、ただただ一緒になって星を見上げる。
心のどこかで、そうしていたいという気持ちがあり、そしてその気持ちに従うのが、心地よかった。
「……そろそろ話してくれねぇかな」
抗いがたいその気持ちを振り切って、俺はあえてぶっきらぼうに言った。
その言葉に、我に返ったように、レオンの手が俺の肩から離れる。
「そうですね……」
レオンは頭を軽く振って、何かを考えるそぶりをする。
さっきまでの、何かを恐れるような弱気な態度はなりを潜め、たったそれだけで元のレオンの態度に立ち返った。何となくそれに寂しさを覚えるが、努めて無視してレオンを見上げる。
「教えてもいいのですが、面倒なことになりますよ?」
レオンの口元に、例の笑みが浮かぶ。
どうやら、完全に頭を切り換えたらしい。それはそれで、望むところだ。
「どういう、ことだ」
「私は彼女の事を、『死んでいるが、死んだことになっていない』と言いました。普通、こんなことはあり得ないのですが、あり得るのが私がいる世界です。つまり、貴女がこれ以上知ってしまうのは、そうした世界に片足を踏み入れることになる……そういうことですよ」
よく言う。と思うと同時に、確かに面倒そうだとも思った。
レオンが言うのは、つまりそれは貴族、或いは、国家的な機密事項だということを言いたいのだろう。
確かに世の中には、知るべきでないことがある。知識は、それを知るべき資格がない場合、往々にしてその迂闊な者の首を絞める。
逆に言えば、『クリス』とは、それほどの人物だということだ。
だが、それでも。
「俺には……それを知る権利があるはずだ」
そんなことは、今更すぎる。
確かに、『クリス』は知るべきでないことなのだろう。普通の人にとっては。もし、俺がただの冒険者であったなら、即座に無視すべき話に違いない。
だが、今の俺は、『クリス』だ。
俺が、俺の事を知りたいと思う。それ以上の権利がどこにあるだろう。
「そう、貴女には資格があるかもしれませんね。ですが」
にこにこと笑いながら、楽しそうにレオンは続けた。
「私にその義務がない」
「なんだそれ!」
それは本当に楽しそうで、だからこそ、俺はその姿にカッとなってレオンに詰め寄った。
嬉しそうに、意地悪としか言いようがないその言葉が、無性に俺は許せなくなった。
教えるだけ教え、肝心なところはふざけた理由で口を噤む。
そんなレオンに俺は完全に頭にきて、掴みかかった。レオンの胸元に両腕を伸ばす。
「……すいません」
そんな声がレオンの口から零れた。
それに一瞬気を取られ固まった俺は、次の瞬間、レオンに抱き留められていた。
「な、なにを……」
あまりの事態に、頭の回転が追いつかない。なんだ。俺は、何をされている?
レオンを見上げるが、丁度月を背に、その表情が見えない。
レオンが何をしたいのか、いや、レオンはどうしてしまったのか。その突拍子のない、レオンらしくなさ過ぎる行動に、怒りや恥ずかしさ以上に、戸惑う気持ちが大きくなる。
「ここは、交渉、といきましょう」
感情の抜け落ちた声で、俺を抱き留めたままレオンは言う。
それは、あの時、俺に奴隷になってくれと言った時と同じ言葉だった。レオンはわかって同じ言葉を使ったのだろう。それは俺を突き放す言葉にほかならない。
矛盾だった。レオンはあえてそう、口で俺を突き放し、自分を中立に保とうとしているように感じた。
それほどに、我を忘れそうな自分を守っている。
その予想に俺は初めてレオンを怖いと感じた。
ギリギリにいるだろうレオン。
もし、それがこちら側に倒れた場合、俺はどうなってしまうのだろう。
今すぐ、突き放すべきだと思う。
ただ、何となく……何となく弱々しく感じるレオンを、そうすべきではないと同時に思った。
俺も矛盾している。思い通りにならない感情に、下唇を噛んだ。
「以前もお願いしましたが……代役になってほしいのです」
代役。といわれて、一瞬、悩む。一体何のことかと思う間もなく、それが偽装の結婚の話だということを思い出した。
あれは、話の枕だと思っていたが、そうじゃなかったらしい。
それにしても、代役。あえて代役。
大胆に、あの日、結婚してくださいなどと言ったわりには、今はやけに中途半端なように感じた。
「もし、受けて頂けるのであれば、彼女の事を貴女に教えましょう」
交渉と言うには、その口調はまるで哀願のように聞こえた。言葉はいつものレオンのそれ。ただ、演技しきれない役者のように、その言葉には感情が見え隠れする。
「受けて、頂けませんか?」
最後の声は、ほんの少し、震えさえしていた。
―――っ!
わき上がる感情を抑えつけ、俺は、レオンの腕から逃れようと藻掻いた。
案外その腕は簡単に剥がれ、俺はすぐにレオンから距離を取る。
「~~~~~~!!!!!」
そのまま怒鳴りつけようと口を開いて……俺はその言葉が出てこずに、ワナワナと震えながら口を閉じる。
怒り。それは怒りに間違いなかった。
ただ、一体俺は何に怒っているのかがわからず、俺は地面を蹴る。河原の石が、飛び散ってかしゃんと思いの外大きな音を立てた。
「―――わかったよ!」
自分でも何を言っているのか、わかっていない。
ただ、感情のままに、俺は叫んだ。
「……え?」
「わかったって言ってるんだよ!そのかわり!」
腕を強く振り下ろして、レオンを指さす。大きく息を吸って、吐く。
「代役だからな!」
もっと他に言うことがあったような気がする。
よくわからない貴族の世界から俺を守れ、とか。
その間中、二人を頼む、とか。
いや、もっと重要な事だが、ちゃんと教えろよな、とか。
なのに、俺は、そこを強調した。
既に自分をして、なにがなんだかわからなかった。
「寝る!」
今、レオンの顔なんか見たくなかった。
俺はすぐに踵を返し、レオンを残して河原から上がる。
決して振り返らなかった。
振り返ってどんなレオンの顔を見ても、俺は感情を抑えられなくなるだろうと確信があった。
といっても、今度は馬車の旅だ。来たときとは、だいぶん違う。黙っていても馬車は進み、特に俺たちが何かをしなければならないこともない。
はっきり言えば、結構暇だった。
こうしたときは、色んな事を考えてしまう。
テラベランまでの道のりは、旅などと、とても優雅なことは言えない、逃避行に近いものだった。
今日食べるものすら保証できず、寝る場所すらも定かではない。
不安に怯え、堪えるだけの日々。
それがたった数日前のことだったなどと、最早信じられない気分だった。
思えばテラベランに着いてから、結構色んな事があったような気がする。
レオンに会って、屋敷に連れて行かれたこと。
きっと普通の者であれば、一生口にすることが無いような食事をしたこと。
屋根の下で寝たこと。
……また奴隷になったこと。
グイブナーグのこと。
街を見物しにいったこと。
考えてみれば、あの日あの時、もしレオンが俺たちを見つけなければ、そんな未来はなかったのだろう。
俺は、幸せというものが一体なんなのかはっきりはわからない。ただ、もしそれが何なのかと問われるならば、きっとあの屋敷で過ごした数日だったと言えるのかも知れない。
それほどまでに、レオンと会ったあの日までの俺は、灰色の世界を歩いていたと思う。
生きるために、生きる。ただそれだけの日々。
明日のことなどわからなくて、今日を必死に駆ける。疲れたなんて言えなくて、でも助けてなどとは口に出せない。
今にして思う。それは本当に辛い毎日だった。
ああ、もうあの日々に、戻りたくはない。
―――本当にそうだっただろうか。
そうした考えの中、心の奥底から、それを否定する何かが泡のように浮かんでくる。
本当に、そうだっただろうか。辛いだけの毎日だっただろうか。
生きることに必死だった毎日は、そんなに嫌だっただろうか。
そんなことは無かった。そうした生き方が好きだった。
何時だって明日のことがわからなくて、今一瞬を、自分のすべてを叩き付けるようにねじ伏せながら刹那に生きる。
それは確かに、痺れるような快感の日々だった。
そうした日々も決して嫌いじゃ無かった。
ただ、今は違う生き方の中にあって、そしてこれも全然悪くない。
だけど離れがたく思うこの生活は、多分俺には向いていない。
今は、悪くなくとも、きっと膿んでしまうだろう。
「……」
思考を止める。
何となく考えていることがかなり支離滅裂だ。大きくため息を付く。
そしてそのまま、クッションまでひかれた馬車の椅子に、ごろりと横になった。
正面の視界に、買った小剣を大事そうに持ってウトウトしているパルミラと、起きてはいるが心ここにあらずといった体で、座ったまま壁に寄りかかるアイラが映る。
昨日のあの事件から、アイラはずっとこんな感じだった。
何かをひたすら考えている。いや、その様子は明らかに何かを悩んでいた。
昨日、昼飯の時、悩みがなさそうでいいななどと思っていたのに、昨日の晩からこの調子だった。晩飯すらも、食べていない。
それは何時ものアイラを思えば、かなりの違和感がある姿だった。あえて言えば、あの奴隷商人に捕まっていた時のそれに近い。
ただその双眸は、あの時見せていた死んだようなそれではなく、何かの強い意思が宿っていた。
それが何なのか、わからない。
もちろん、声をかけた。
彼女の返事は、『もう少し待ってもらえますか』。
話すわけでも無く、拒絶するわけでもない。待ってくれと。何時まで待てという事も無く、待てという。
もし、それが拒絶だったならば、俺はアイラに怒っただろう。あの日アイラとそしてパルミラが俺に言ったように、頼れと言っただろう。
だが、アイラは待てと言った。
ならば、待とう。それもきっと、信頼するという事なのだろうから。
馬車が止まり、扉がノックされる。
誰かはわからないがレオンだろうなとか思いつつ、ハイなどと答えると、扉を開けたのは予想に違わずレオンだった。
「今日はここで野営になります。お疲れ様でした。食事もありますので外へどうぞ」
いつものようににこにこ笑って、丁寧口調で俺たちを外へ誘う。お疲れ様とか、そもそも俺たちよりも疲れていないやつが居るのかと思うが、それを言ってしまうのはレオンのレオンたる所以だろう。
レオンはあの日と同じように騎乗だったが、少なくとも馬車で揺られるよりは疲れているはずだ。レパードがいるとはいえ、この隊の長なわけだし。
ただ、その一方で、間違いなくもっと疲れている者達もいる。当然、兵士達だ。彼らに至っては徒歩だった。しかも全員それなりの装備を持って。
それを思えば、心底申し訳ない気分にはなった。
どう考えても俺たちの待遇は、ほぼお姫様のそれだったが、俺たちはお姫様のように、それが当然などと考える心を持ち合わせていない。
かといって、歩けと言われても正直困る。今日一日で、この軍隊が常識を越える行軍距離をもっているのがわかった。きっと俺たちはあっという間に置いて行かれるだろう。
馬車から降りるが、なるべく目立たないように素早く降りる。
パルミラも、悩めるアイラもそこは同じ気持ちだったようで、そーっと地面に降り立った。まあ、レオンが従者宜しく横で待っているので、結構台無しではあるのだが。
窓が無い奴隷馬車とは違い、既に夕方なのはわかっていた。
馬車から降りてみると、既に日が川向こうの丘の向こうに沈もうとしていた。間もなく帳も降りるのだろう。
それは、来たときと同じ光景ではあったが、それだけに感慨深かった。
あの川を流れていったんだよなとか思うと、つい吹き出しそうになる。
何やってたんだろうな俺たち。
「ちなみに今日からの食事は、全員同じメニューですので」
食事やら野営準備やらで、全員が忙しそうに走り回る中、いち早く拵えられたたき火と囲む椅子に俺たちを誘いながらレオンは言った。
「外では、格好付けたがりなんだな」
などと軽い皮肉を込めて返すと、『そういうのが好きなんですよ』と素直にはにかみながら答えた。
図らずもドキッとする自分に、言うんじゃ無かったと悶えそうになった。
夕食は質素ではあったが、どれもこれも濃い味付けでかなり腹にたまるようなものばかりだった。軍隊食といえば、まあ、こんなもんだよなと思うが、アイラにはちょっとヘビーだったんじゃ無いかと思う。
食事も終わって、やや砕けた空気が流れてきたところで、俺は席を立ち、一人河原へと向かった。アイラは、先に休むといって馬車に戻り、パルミラは、食事を取った後、既にどこかに消えていた。
それぞれ、今は思うことがあるのだろう。今は、まだ放っておくことにする。
まだ、川は街道からそこまで離れていない。じきには、段々標高も高くなるに従って、離れていくのだろうが。
遠く喧噪を背に、それでも夜の静謐な風を感じながら、河原に出る。
河原から見える川と、そして向こう岸の丘陵の上に、星が瞬いていた。
視界に映る、圧倒的な星の輝き。
このまま川に向かえば、その星の世界へいけるのかもしれない。そう思えるほどに。
その幻想的な光景に、魂を吸い込まれそうになる。
「……ふうっ」
自分らしくもない詩的な感情を、ため息と共に吐き出す。そして河原にあった、少し大きめの石に腰を下ろし、星を見上げる。星は相変わらず瞬き、その光景が俺を清心に誘う。
それを見ながら、俺はその虚空に向かって話し始めた。
「正直、いろんな事がわからないままだ」
むしろ、確かなことなんて何一つない。
「ただ、だからこそ、色々想像してしまう。例えば、俺のこの体は俺のものではなかった。とかかな。女になったんじゃなくて、俺は別の何かになった、とか」
それは、アイラとパルミラに語って聞かせた、俺の直感から来る想像そのものだった。
ただ、そうかといっても、それも結局あやふやでしかない。
そういえば、あの時のアイラはアイラらしい変な感想だったな。
思い出して、ふふっと笑う。
でもあれはあれで、俺が思いつかないような事を言ってくれた。
最近のアイラは、アイラらしくない。
待つと決めたから、待つつもりではあるけど、素直に言えばアイラには早く元のアイラに戻って欲しいと思う。
そうでなければ、俺が、嫌だった。
もちろん我が儘だとは思う。
「それは実は、『クリス』なんじゃないか?……彼女は一体、何者なんだろうな。よく考えたら、彼女の事を知ってるようで、俺は何も知らない」
知ってるようで、知らない。
本当にそうだった。夢を見て、『私』になってさえ、結局のところ彼女が何者だったのか、わからないままだ。
想像は、もちろんいくらでも出来る。
例えば、彼女は少なくとも地位ある立場の子供だった。裕福だったのは間違いない。
あの屋敷や、そして魔法適正を調べられたことを考えれば、それだけは間違いなく言える。
そして彼女は魔法が使える。或いは、魔法の適正があった。それも多分かなりの才能を持って。
彼女はそれを嫌がってはいたが、その魔法が使えるという事実は重要だ。
なぜなら、俺も不確定ながら魔法が使える。
そう考えると、俺が今、彼女の体を乗っ取っているという説がいよいよ現実味を帯びる。
……ただ、それはそれで何かがズレている。
まだ、魔法というものがはっきりわからないが、降魔石を飲み込み、文様を発現させる俺の体は、どう考えても普通じゃない。
あえて言えば……そう、人外に近い。
今のところ、夢の記憶は、彼女が魔法の適正を知るところまで。その後彼女が魔法使いの道へ進んだかどうかはわからない。
だが、そこから、俺が憑依するまでに、何かがあったのだと思う。
それが何かはわからないが、多分重大な何かなのだろう。
それは今はまだ、予想も出来ない。
ただ、それがわかっている人間に、俺は心当たりがある。
「なぁ、クリスはいったい何者なんだろうな?―――レオン」
振り返らずに、俺はそう問うた。
これで振り返って居なかったらかなり恥ずかしいが、俺はその背後の気配がレオンだと、はっきりとした確信があった。理由や理屈はわからない。
「―――クリスは、あなたではないですか」
数秒の沈黙の後、何時もの快活としたそれではない、淡々としたレオンの声が背後から聞こえた。
それは、当たり前すぎる答えだった。
そう、クリスは俺だ。だがまた『クリス』も俺なのだ。
「言葉遊びか?レオン」
「そういうつもりでは、なかったのですけどね」
足音と共に背後の気配が大きくなり、そして俺の横に並ぶ。そのまま、ポンと手を俺の肩に置いた。
その行動に、俺は違和感を覚える。
キレた俺が襲いかかった時を除いて、レオンは自分からは一度も俺に触れたことが無かった。それは如何にも紳士とか、騎士とか、そうしたものに基づいていて、レオンがレオンたる所以のように思っていた。
不思議に思うが、それでもその手を払いのけたりしなかった。乗せられたレオンの手が、僅かに震えているのがわかったからだ。
だからどうしたというわけじゃない。ただ、よほど何かレオンにして思う事があるのだろうと、俺はそれを許すことにする。
ふん、と、鼻を鳴らして宙を見る。レオンもそうしているのだろう。
何故かそれが見なくともわかった。
「……」
無言の時間が過ぎていく。
レオンは時折、何かを言おうと息を吸い込み、そして口を噤むを繰り返していた。
いつにない、レオンのその態度に当然のように訝しむ気持ちがわくものの、俺も何も言わず、ただただ一緒になって星を見上げる。
心のどこかで、そうしていたいという気持ちがあり、そしてその気持ちに従うのが、心地よかった。
「……そろそろ話してくれねぇかな」
抗いがたいその気持ちを振り切って、俺はあえてぶっきらぼうに言った。
その言葉に、我に返ったように、レオンの手が俺の肩から離れる。
「そうですね……」
レオンは頭を軽く振って、何かを考えるそぶりをする。
さっきまでの、何かを恐れるような弱気な態度はなりを潜め、たったそれだけで元のレオンの態度に立ち返った。何となくそれに寂しさを覚えるが、努めて無視してレオンを見上げる。
「教えてもいいのですが、面倒なことになりますよ?」
レオンの口元に、例の笑みが浮かぶ。
どうやら、完全に頭を切り換えたらしい。それはそれで、望むところだ。
「どういう、ことだ」
「私は彼女の事を、『死んでいるが、死んだことになっていない』と言いました。普通、こんなことはあり得ないのですが、あり得るのが私がいる世界です。つまり、貴女がこれ以上知ってしまうのは、そうした世界に片足を踏み入れることになる……そういうことですよ」
よく言う。と思うと同時に、確かに面倒そうだとも思った。
レオンが言うのは、つまりそれは貴族、或いは、国家的な機密事項だということを言いたいのだろう。
確かに世の中には、知るべきでないことがある。知識は、それを知るべき資格がない場合、往々にしてその迂闊な者の首を絞める。
逆に言えば、『クリス』とは、それほどの人物だということだ。
だが、それでも。
「俺には……それを知る権利があるはずだ」
そんなことは、今更すぎる。
確かに、『クリス』は知るべきでないことなのだろう。普通の人にとっては。もし、俺がただの冒険者であったなら、即座に無視すべき話に違いない。
だが、今の俺は、『クリス』だ。
俺が、俺の事を知りたいと思う。それ以上の権利がどこにあるだろう。
「そう、貴女には資格があるかもしれませんね。ですが」
にこにこと笑いながら、楽しそうにレオンは続けた。
「私にその義務がない」
「なんだそれ!」
それは本当に楽しそうで、だからこそ、俺はその姿にカッとなってレオンに詰め寄った。
嬉しそうに、意地悪としか言いようがないその言葉が、無性に俺は許せなくなった。
教えるだけ教え、肝心なところはふざけた理由で口を噤む。
そんなレオンに俺は完全に頭にきて、掴みかかった。レオンの胸元に両腕を伸ばす。
「……すいません」
そんな声がレオンの口から零れた。
それに一瞬気を取られ固まった俺は、次の瞬間、レオンに抱き留められていた。
「な、なにを……」
あまりの事態に、頭の回転が追いつかない。なんだ。俺は、何をされている?
レオンを見上げるが、丁度月を背に、その表情が見えない。
レオンが何をしたいのか、いや、レオンはどうしてしまったのか。その突拍子のない、レオンらしくなさ過ぎる行動に、怒りや恥ずかしさ以上に、戸惑う気持ちが大きくなる。
「ここは、交渉、といきましょう」
感情の抜け落ちた声で、俺を抱き留めたままレオンは言う。
それは、あの時、俺に奴隷になってくれと言った時と同じ言葉だった。レオンはわかって同じ言葉を使ったのだろう。それは俺を突き放す言葉にほかならない。
矛盾だった。レオンはあえてそう、口で俺を突き放し、自分を中立に保とうとしているように感じた。
それほどに、我を忘れそうな自分を守っている。
その予想に俺は初めてレオンを怖いと感じた。
ギリギリにいるだろうレオン。
もし、それがこちら側に倒れた場合、俺はどうなってしまうのだろう。
今すぐ、突き放すべきだと思う。
ただ、何となく……何となく弱々しく感じるレオンを、そうすべきではないと同時に思った。
俺も矛盾している。思い通りにならない感情に、下唇を噛んだ。
「以前もお願いしましたが……代役になってほしいのです」
代役。といわれて、一瞬、悩む。一体何のことかと思う間もなく、それが偽装の結婚の話だということを思い出した。
あれは、話の枕だと思っていたが、そうじゃなかったらしい。
それにしても、代役。あえて代役。
大胆に、あの日、結婚してくださいなどと言ったわりには、今はやけに中途半端なように感じた。
「もし、受けて頂けるのであれば、彼女の事を貴女に教えましょう」
交渉と言うには、その口調はまるで哀願のように聞こえた。言葉はいつものレオンのそれ。ただ、演技しきれない役者のように、その言葉には感情が見え隠れする。
「受けて、頂けませんか?」
最後の声は、ほんの少し、震えさえしていた。
―――っ!
わき上がる感情を抑えつけ、俺は、レオンの腕から逃れようと藻掻いた。
案外その腕は簡単に剥がれ、俺はすぐにレオンから距離を取る。
「~~~~~~!!!!!」
そのまま怒鳴りつけようと口を開いて……俺はその言葉が出てこずに、ワナワナと震えながら口を閉じる。
怒り。それは怒りに間違いなかった。
ただ、一体俺は何に怒っているのかがわからず、俺は地面を蹴る。河原の石が、飛び散ってかしゃんと思いの外大きな音を立てた。
「―――わかったよ!」
自分でも何を言っているのか、わかっていない。
ただ、感情のままに、俺は叫んだ。
「……え?」
「わかったって言ってるんだよ!そのかわり!」
腕を強く振り下ろして、レオンを指さす。大きく息を吸って、吐く。
「代役だからな!」
もっと他に言うことがあったような気がする。
よくわからない貴族の世界から俺を守れ、とか。
その間中、二人を頼む、とか。
いや、もっと重要な事だが、ちゃんと教えろよな、とか。
なのに、俺は、そこを強調した。
既に自分をして、なにがなんだかわからなかった。
「寝る!」
今、レオンの顔なんか見たくなかった。
俺はすぐに踵を返し、レオンを残して河原から上がる。
決して振り返らなかった。
振り返ってどんなレオンの顔を見ても、俺は感情を抑えられなくなるだろうと確信があった。
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