L a p i s ~ 世界樹の精霊《スピリット・オブ・マナ》 ~

神の味噌汁

逃走

 ある日の早朝、とある農村が、今、亜人種たちに襲われていた。
 暴力というものは、いかなる所でも弱者を虐げる。


 ゴブリン、ボガード、オーガ。いずれもただの人間では太刀打ちできない強さがある。
 それらが、徒党を組み、農作物や人自身の肉を狙い、襲い掛かってきたのだ。
 村人たちは逃げまどい、隠れ、なんとか難を逃れようと必死だった。
 しかしすでに村人の半数が蹂躙されていた。
 そんな中、家屋の馬小屋に隠れている旅人が居た。
「どうしよう……」
 馬糞の濃ゆいにおいが漂う空間に、甘く弱弱しい声が、絶望の色で吐き出される。
 その旅人の名を、アリシャ=ハインリス、と言う。
 白いブラウスに革のベストとスカート。膝上までを覆う、革のニーハイには、金属のプレートが各所に配置されている。首には、真鍮のリングを留めたネックレスがかけてあった。
 彼女は今、刺身用の長包丁を両手で強く握りしめ、馬小屋の隅にしゃがみこんでいた。
 旅を始めて1年あまり。魔物や危機の際には、逃げの一手をいつも選択してきた少女だ。
 だが、今回は今まで以上にピンチだった。
 馬小屋の1メートル先を、こん棒を持った亜人が横切っていく。
 行商に来ていた商人の男が、今まさになぶり殺しにされている。
 その姿が壁の隙間から見えているのだ。
 見つかったら間違いなく食い殺されてしまうだろう。
 こんな戦々恐々とした瞬間は今までの経験になかった。
 アリシャの翠玉色の瞳には、涙が滲み、色白の頬に一筋伝っていく。
 旅先では得意の料理をふるまうことで、料理人として金銭を稼いで生きてきた。
 だから、背負ったカバンには調味料や携帯できる調理器具類、宿泊用品しか入っていない。
 魔物に、おいしい料理をふるまいますから助けてください、そんな言葉は通じるだろうか。
 いや、ない。
 馬鹿な考えはよそう、とアリシャは首を振った。アップスタイルで留めている金髪のロングヘアーが、合わせてふわふわと揺れる。
 外は、獲物を探す足音がいくつも往来していた。
 壁1枚向こうを、オーガが通り過ぎていくのを、ただ息を殺して待ち続ける。
 時に立ち止まって、鼻をひくひくさせるのは、亜人たちは鼻が利くからだ。
 そのことをアリシャは知っていた。もしここが馬糞の匂いで充満していなかったら、すぐに見つかっていたに違いない。
 だが……。
火の矢ファイア・アロー!」
 村の家屋に、次々と火が点けられはじめた。
 馬小屋も例外ではなかった。
「魔法使い⁉」
 亜人たちの中にオーガウィザード、あるいは、ゴブリンシャーマンが紛れていたのだろう。
 もはや内も外も安全ではない。しかし、慌てて飛び出せば、亜人たちの思うつぼだろう。
 現に、村のあちこちでさらなる悲鳴が上がっている。
 どうするべきか、何か手はないのか。
 炎上し始めた馬小屋で、周囲をくまなく見まわし、アリシャは考えを巡らせる。
 木造で、藁を大量に格納している小屋の火の回りは恐ろしく早い。
 1匹だけ繋がれていた真っ白な馬が暴れ始めている。
 お馬さんだって死にたくはないよね。
 そう思ったとき、アリシャは閃いた。咄嗟に行動に出る。
 手にしていた包丁をカバンに仕舞い、結ばれていた馬の手綱を外す。
 その馬は行商人の馬だった。農耕用でないため乗馬用の馬具がきっちり備えられている。
「やるしか……!」
 乗馬などしたことがないが、アリシャは鐙に片足を乗せ、見よう見まねで馬にまたがった。
「頑張ったらおいしいご飯つくってあげるから、一緒に逃げて!」
 手綱を引き、鐙で馬の腹をたたく。
 嘶いた馬は、炎上して今にも崩れそうな壁を突き破り、外へと躍り出た。
 砕けた木片が、火の粉とともに舞い、村の街路に蹄が響く。
 どこでもいい、逃げきれれば。
 馬を制御できる力量はない、ただただ、全力で走らせるのみだ。
 亜人たちが状況を理解するよりも早く、アリシャは村の外へと走り抜ける。
 アリシャも馬も必死だった。ただ死にたくなくて、ひたすらに駆けた。






 街道を走り、草原を走り、木々の合間を走り。
 いったいどれほど走っただろうか。
 いつしか馬は疲労困憊でへろへろになっていた。
 一人と一頭は、河を見つけると、吸い寄せられるように近づいて、立ち止まる。
 息切れしている馬からアリシャが飛び降りると、とたんに馬は河の水をがぶがぶと飲みはじめる。立っている力もないのか、座り込んで飲んでいた。
 アリシャも釣られてカバンを畔に放り投げ、河にじゃぶじゃぶと入り、馬と一緒になって水をすくって飲んだ。
 透明度の高い澄んだ水が、疲れた心身に染み渡る。
 火照った体が、冷水によって冷まされていく。
「助かった……、助かったんだ」
 生き延びた実感がアリシャを包み、嬉しさのあまり体ごと仰向けに河の中へ倒れこんだ。
 大きな水の飛沫が周囲に散る。
 煤だらけになった顔も、服も、下着も、水に流されて汚れは溶けていった。
 それと同時に、アリシャの翠玉色の瞳から、涙があふれ始めた。
 安堵したからではない。悔しかったのだ。
 農村で死んでいった村人を、幾人も目撃していた。
 自分が生きるために、アリシャは村人の死を黙認していた。
 戦う力があれば、良かったのだろうか。
 何かできることが、あったのだろうか。
 水面に体を預けながら、暫く少女は泣き続けた。
 小さく、ごめんなさい、と幾度もつぶやきながら。



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