L a p i s ~ 世界樹の精霊《スピリット・オブ・マナ》 ~

神の味噌汁

目覚め



 彼の者が目を覚ました時、そこは森林もりだった。
 土の地面に、生い茂る草木。
 日が沈んでから数刻を経た今、彼の者は地に伏していた。
 素肌に触れる砂利の感覚も、刺さる草先の感覚も、凛とした空気を揺らす虫の羽音や虫の声も、自己の存在を証明するかのように、彼の者の意識の断絶を阻む。
 彼の者は朦朧としながらも、ゆるりと脚を引き、掌を地面に付け、上体を起こす。
 座り込んだ姿勢のまま、まだよく見えない両の眼まなこ世界まわりを見た。
 夜の暗がりで奥の見えぬ森林が、全周に広がっている。
 どこだろうか。
 自分はだれだろうか。
 なぜここにいるのだろうか。
 しかし彼の者の中に、その答えを見いだせる知識は無い。
 彼の者は足に力を入れて、ゆっくりと立ち上がった。
 すると彼の者を違和感が襲う。
 答えはなくとも、無意識、あるいは条件反射という形で、それは彼の者に何かを訴えかける。
 視点が低く感じること。体が軽く感じること。衣服がぶかぶかすぎてずり落ちること。そして、五感や第六感とは別の、第七感の存在。
 彼の者は両の掌を見つめ、握りしめた。自分自身の存在を確かめるように。
 そして意識も、視力も、鮮明となった目で前を見た。
 いつまでもこの場にいるわけにはいかない。
 さしあたって、一歩踏み出すにも支障をきたすズボンの着用は諦め、もはやワンピースと遜色ない丈になっているシャツのみを纏うことにした。
 ズボンは、裾の先を縛って袋状にし、ベルトを取っ手代わりに握れば、簡素なカバンへ姿を変える。そこに、大きすぎる上着を丸めて突っ込む。
 彼の者はそのカバンを肩にかけ、森を歩きだした。


 それから一刻ほど歩き続けたが、彼の者に疲労の色は無かった。
 北に歩いたか、南に歩いたか、はたまた西か東か。
 広大な森をさ迷うが、疲労どころか渇きも飢えも無い。そのうえ暗視能力も得ているようだった。
 しかしそのことを不思議に思うこともなく、むしろ思う暇もなく、変わった形の動物や蟲や植物たちが、彼の者の興味を惹き続けた。
 時に立ち止まり、時に逃走し、何もかもが初見のように感じられる新鮮さを味わいながら、そうして歩き続けた先に、急に開けた場所が現れた。
 森の中にぽっかりとあいた広間のような草原だった。
 その中央に、枯れた巨大な樹木が倒れていた。巨木の幹の直径は7メートル、あるいは8メートル程もあろうか。その幹が途中で割れて、倒れ、森の奥へと沈んでいる。先は見えないが、樹木の大きさも相当なものだっただろう。空洞となった幹は、まるで洞窟のようにも見える。
 前方には大木が、後方には来た道が、左には遠方に山脈が、そして右側には――。
 彼の者は思わず身構えた。手にしていたズボンかばんを放り捨てる。
 森の木々の合間から、赤く光る双眸が、彼の者を捉えていた。
 月と星に照らされて、森に潜む巨体が一層深く沈み込むの様が彼の者には見えていた。
 予備動作。
 そして――。
 巨体の後ろ脚が、最大の力を持って地面を踏みつける。同時に、周囲の草木が砕け散った。
 魔物だ。
 脚が六本ある、昆虫と動物の中間のような姿。
 強靭な筋肉を包む、甲冑のような装甲板。二本の前足はサソリのようなハサミで、長い尻尾を持つ。
 尻尾を含めれば全長6メートルはあろうかというそれが、木の葉を舞い散らせながら、彼の者に躍りかかった。
 右腕だけで、彼の者の身長と同等の大きさがある。
 その先に備わったハサミが、瞬時に振りかぶられた。
 彼の者は動けなかった。
 ただ見上げていた。
 上空から、今にたたきつけられようとしているそれを。
 信じがたかった。
 恐ろしかった。
 あと1秒先に、死が待ち受けている。


 次の瞬間。


 突如として、轟音が響きわたる。
 木々が騒めき、空気が打ち震え、地面がえぐれ散った。
 超高速で放たれた『魔力の壁』が、怪物のハサミを破砕させていた。それは同時に巨体を吹き飛ばす。
 醜悪な鳴き声を上げて、巨体が彼の者の後方へ転がり、ずざぁ、と草原を削っていく。
 魔法だった。
 彼の者が放ったのだ。
 彼の者は無意識に、自己防衛のために、魔法を放ったのだった。
 そのことに一番驚いているのは、彼の者自身だった。
「……えっ?」
 か細くハイトーンの声が、小さめの唇から漏れる。
 彼の者は自分の掌を見つめる。
 最初に違和感を覚えたときに、できそうな気はしていた。しかし実際にできるとも思ってはいなかった。
 そう、第七感とは、魔法の感覚だった。
 それは周囲に、自己の中に、感覚として存在するもの。
 彼の者はその力の感覚を、自信に変えて、決意を下す。
 あの魔物を殺す。死を免れるために。きっとできる。
 彼の者は、体ごと後方へ振り向いた。
 苦悶に震えていた怪物が、体勢を立て直す姿が見える。
 千切れて失った右腕から体液を零し、怒りの念に染まった姿。
 その巨大な影に向けて、彼の者は掌をかざす。
 月を背に、山脈を前に。
 ありったけの、魔法の力を、その手に籠めていく。


 再び襲い掛かる巨影――。


 放たれる光芒の軌跡――。


 音の無い世界――。


 光が巨躯を飲み込んだ。


 そして、忘れられた世界が動き出すかのように、魔法の余波が吹き荒れる。


 天変地異かと思うほどの余波は、周囲の森林をなぎ倒し、地面も岩盤もえぐり飛ばし、草花が散り散りに舞い上がり、粒子と化して霧散する。


 終わった後には、戦略兵器のような爪痕が残された。ただ、法外な存在感を持つ巨大な倒木だけが、そのまま元の場所に座している。
 怪物の姿は欠片もなく蒸発し、遠くに見える山の一つが、円形に切り抜かれていた。
「これが、魔法……」
 愉快。快感。優越感。
 それらに勝る、罪悪感、恐怖、戦慄。
 すごい力を得てしまったのではないか、それともこの世界ではこれが平均なのか。
 彼の者には理解しようもなかった。ただただ、手が震えていた。
 むやみに使うべき力ではないことは明白だった。
 しかし……。
 彼の者には、それが夢に見た力であったのかもしれない。
 切望していた幻想だったのかもしれない。
 それが今、自分の手の中にある。
 木、風、火、熱、土、重、金、雷、水、冷、光、聖、命、闇、邪、死。
 そして純粋な無の魔力。
 ネガティブな感情を押して、試してみたいという欲求が、湧き上がる。
 すでに、悲惨たる景色と化した一帯で、色とりどりのエネルギーが迸る。
 彼の者は、あらゆる力をその場で試した。
 試し続けた。
 来る日も来る日も、疲れを知らず、睡眠を知らず、一心不乱に遊び惚けた。
 彼の者はもはや、人という種ではなかったのだろう。
 いつしか、一度荒野と化した一帯に緑が戻り、人とは違う尺度の時間が過ぎていった――。

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