雪月風花、ばーちゃるせかいを征く酔狂な青年
月下狼血
暗黒の闇に包まれた宵の淵にある森の中。
一人の男が木々の隙間から見える、煌々と光る満月を見ながら思いに耽っていた。
その男が何を思っているのかは定かではないし、興味もない。
今は自らの空腹を満たすのが先決だった。
仲間たちが男を取り囲むのを待つ。
男は狼の巣に迷い込んだ、哀れな食材だった。
すでに男の周囲は百に近い狼が取り囲んでおり、彼が狼の晩飯になるのは最早確定的だ。
「今宵の月も美しい……」
男がそうつぶやいたのを合図にして、狼たちが飛びかかった。
フォレストウルフ、狼の種族は森の狼だ。
集団で狩りをし、集団で餌を分ける。とりわけ森での活動がとても素早いことから、この名がついた。
これだけの数が居れば、いかに優れた武人とはいえただでは済まないだろう。
男は鎧もつけておらず、意匠に凝った黒衣の布を纏っているだけだ。あれが狼の牙で貫けないはずがない。
「ガァァッ!!」
くぐもった狼の声が、森の中に響く。
狼は思う。やっと餌にありつけた、と。
だが、次の瞬間、狼の眼は現在の状況を理解できず、体は動かなくなってしまった。
――シャ、という鋭い音と共に、飛びかかった同族の身体が真っ二つに両断されてしまったのだ。
「【神速】、【雪月花】」
かろうじて、狼の耳は、同族のくぐもった声がしたときにそう男が呟くのを認識しただけだ。
だが、棒立ちになってしまったのはこの狼だけだ。
ほかの同族たちは束になって男に襲い掛かろうとする。
「まだ居るのか。数は……九十二か」
四匹の狼が男の眼前まで迫ると――
「【零式『夏風』】」
眼前の狼たちの首が冗談のように吹っ飛び、その鮮血で森の土を穢した。
「ふむ」
考え込むようにそう言っていつの間にか『何か』を持っていた男は、右足を引き体を右斜めに向け、その何かを右脇に取り、その何かの先を後ろに下げたような構えを取った。
狼は知らない。その何かを大太刀ということを。そしてその構えを剣道で言う――脇構えというのを。
「グァアアア!!」
今度は狼たちも策を練ったらしい。
正面に三匹、後ろから四匹だ。これなら男も無事では済むまい。
そう、思った矢先の事だった。
男の姿が、消えたのだ。
そして切り裂かれるは狼たちの身体。
戦慄するは狼たちであり、いつの間にか男は狼の目の前に居た。
「月下鮮血――いやはや、なんとも雅なことよ。月光に照らされたる犬畜生の血とはな。鮮やか過ぎて目に余る」
狼は未だ動けずにいた。
目の前の尋常ならざる男の姿はもはや、狼にとって化け物である。
「おぉ、主、恐怖しているのか……。安心せよ、わたしは主を殺すつもりはない。主には殺意がないからな。切ってもつまらんのだ」
そう言いながら、狼は視界の端で見えない何かに斬られ続けている仲間たちの姿を見た。
何故だ――九十以上居たはずの仲間たちが、今や自分だけになっているではないか。
「終わった、か。主、どうする。仲間を守れず立ちすくむしかなかった群れの王よ。名の通り、一匹狼となってしまったわけだが……」
男の問いに答えるすべはない。
だが、ここで終わるつもりも、仲間の亡骸を見捨て、そのまま逃亡するつもりも、狼にはなかった。
感心するは、この男の剣術の腕前か。
「どうしたことか。主、わたしと共に来るつもりなのか?」
無意味なことと知りながら、その男が肩に乗せている白刃煌めく刀を見ながら、狼は静かに頷いた。
狼の掟は、強いものに従う事。
群れの中でこの狼は一番強かった、だから群れの長になったのだ。
だが、目の前の男はきっと狼より強いだろう。
だから、狼は目の前の男の配下になる心構えだった。
死んでも、構わなかった。
強い者には従わなければならないからだ。
「……修羅の道征く狼よ。主の名は――そうさな、阿修羅とでも名乗っておけ」
宵の森に、狼の遠吠えが響いた。
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