オルフェウスとエウリュディケが機械人形であっても

綾崎真澄

 オルフェは工場地帯の入り口付近の空き地に車を止めると、早速ガイノイドの捜索に乗り出した。アストロメリアの中心付近と比べると、道路がきちんと整備されていない。道の脇には空き缶や紙くずなどが捨てられていて、臭気がかなり酷い。
 この辺りは低賃金労働者の溜まり場だ。職にあぶれた者たちがここで暮らしている。大きな建物や共同住宅が並ぶこの一帯は、工場から出る煙によって酷く汚れていた。
 踏み込めば踏み込むほど、オルフェはこの場所の色に染まっていく。時間帯のせいなのか、人の姿がほとんどない。見かけたとしても、道路の真ん中で大の字で寝ているなど、都市部で普通の生活をしている者にとっては、とても異常な光景に思えるだろう。まるで見捨てられたかのような虚無感。このモノクロな景色に溶け込んで、輪郭を失っていくかのようだ。
 工場や施設に立ち寄って、女の姿を見なかったか聞き込みをしていく。しかし、どこに行っても首を横に振るだけだった。
 こんな調子で聞き込みをおこなったが、情報は何も得られない。聞き込みを始めてからしばらくすると、共同住宅が並ぶ狭い通路の近くに来た。濁った青い目で、狭い通路の先を見つめた。その先は限りない闇にしか見えない。そして、頭の中でサイレンや絶叫が鳴り響いた。
 先を見つめてから、10分ほど経過した。この時、オルフェは普段と様子が異なっていた。自身の記録の中で度々浮かび上がってくるあの写真の女。いや、ガイノイドの映像が浮かび上がる度に、どこか気になるところがあった。でもなぜ気になるのか、理由が分からなかった。まだこの時は……
 オルフェは漠然と決心がついたのか、ゆっくりと暗い闇の中へと入っていった。
 狭い通路を歩いていると、共同住宅の大きさがとてもよく分かる。どれも五階建てで、色は白に統一されている。しかし工場の煙で汚れてしまったせいか、艶が完全に無くなっていた。上の階の窓から度々視線が来るのを感じていたが、オルフェは気にすることなく先を進んでいく。
 しばらくこの辺りを歩いていたが、オルフェは窓から来る視線とは別の存在に気がついた。しかし気づいた素振りは一切見せずに、相手を油断させて誘い込むことにした。
 オルフェが次の角を曲がった瞬間、オルフェの姿が消えた。オルフェの消えたその先は行き止まりだった。オルフェの後をつけていたチンピラ風の若い東洋人の男2人組が、しまったというような顔をした。すると、オルフェは屋根から飛び降りてきて、2人組のうち背の高いスキンヘッドの男のほうに後ろ回し蹴りを頭に決めた。そして慌てて逃げようとするもう1人を捕まえると、首根っこを掴み、凄い力で壁に叩きつけた。
 オルフェにやられた2人組は気絶していた。オルフェは手首と足首にそれぞれ手錠をかけると、チンピラ共の所持品を調べた。持ち物は小銭が少し入っている財布と、サバイバルナイフだけだ。よれよれのTシャツと汚れたジーンズといった格好を見ると、ただの物取りのようだ。オルフェは本部に警官をここまで来させるように連絡を入れると、ガイノイドの捜索へと戻った。
 しばらく同じような路地を行ったり来たりしているうちに、再び尾行させられている気配を感じた。こうも何度も自分に向けられる見えない視線を感じれば、生身の捜査官ならばわずかでも動揺を見せるはずだが、オルフェはそんな様子を全く見せない。そして次の角を曲がった直後、後をつけている相手の首を掴んだ。オルフェの目の前には、弱々しい少年の姿があった。オルフェが首から手を離すと、少年は少し怯えた様子で咳をした。相手が子どもであっても、オルフェは全く表情を変えない。優しい表情を一切見せずに、自分の後をつけていたこの少年を観察した。
 さっきの2人組のチンピラと同じような格好をしている。かなり痩せていて、普段からあまり良いものを食べていないように見える。
 オルフェが黙って見つめていると、少年はにっこりと笑った。しかしオルフェには、なぜ少年が笑ったのか理解できない。物事を判断するのが人工知能のため、人が持つ感情というものが分からないのだ。況して、自分に本当の笑顔を向けてくれる存在が今までいなかったので、オルフェが何だか困惑しているように見える。しかし表情は変わらないまま、少年に話しかける。
「君の名前は?なぜ僕についてきた?」
 少年は声を出そうとする。しかし息を吐きだす音しか聞こえず、オルフェはこの少年が喋れないことが分かった。
「喋れないのか?」
 少年はジェスチャーで書く素振りを見せる。オルフェはメモ紙とペンを渡すと、少年は汚い字でテトと書いた。
「テト、これが名前か?」
 テトはうなずくと、オルフェの右手を掴んだ。テトが無言でついてきてと言うと、オルフェは引っ張られながら、テトが導くある場所まで向かった。
 同じような狭く汚い路地を5分ほど歩き回ると、小さな空き地に辿り着いた。草もほとんど生えていなくて、中央に大きなテントが1つあるだけだ。テトは目の前に見えるあのテントを指差した。
「ここが家なのか?」
 テトはうなずくと、テントの中へと入っていった。オルフェは辺りを警戒しながら、テトに続いてテントの中へと入った。
 テントの中は思ったよりも広かった。生活に必要な調理器具や寝具以外にも、大きな本棚が置かれている。本棚の中には紙の本がたくさんあって、哲学、政治、文学など、ジャンルは多岐に及んだ。テントの天井は高くて、普通に立ったままで移動することができる。
 テトはオルフェの肩をそっと叩いた。オルフェはテトの視線の先に、椅子に座っている老人の姿に気が付いた。真っ白な短髪に髭を薄っすら生やしている白人の男だ。白いシャツの上に緑のセーターを着ている。服装からはこの辺りで暮らしている者には見えない。オルフェがゆっくりと近づくと、老人が声を出した。
「ほぉ~、今日は珍しいな。テト、お客さんかい?」
 テトがうなずくと、老人が茶を出すように言った。テトは笑顔になって、湯を沸かしに外に出た。オルフェはテトの嬉しそうな後ろ姿を見送った後、老人のほうに目を向けた。
「突然で失礼します。ここではテトと2人で暮らしているのですか?」
「そうです。でも驚きました。テトが人を連れてくるなんて。私以外には懐かないので。それでええと……お名前は?」
「オルフェです。」
「私はチェスターと申します。まぁ、そこに座ってください。」
 オルフェは丸いテーブルのそばにある椅子に座ると、再びチェスターに目を向ける。チェスターは優しく微笑むと、大きく咳き込んだ。そして、丁寧な口調で語り始める。
「私は3年ぐらい前からここで暮らしています。その前は火星に住んでいました。元々高校や大学で文学を教えていまして、ここで暮らし始めてからも、学校で満足に勉強できない子どもたちにいろいろと教えています。」
「テトもそのうちの1人というわけですか?」
「そうですね。テトと初めて会ったのは、ここへ初めて来た時のことでした。私が移民船でアストロメリアに来てから道や場所が分からなくて、どこで生活しようか困っていました。いろいろと歩き回った後、たまたま通りかかったこの場所で、1人でぽつんと座っているテトを見かけたのです。それからですね、生活を共にするようになりました。あなたも知っているでしょうが……私が最初に会った時からこの子は喋ることができませんでした……」
「……」
「……この辺りで暮らしている者から聞いた話なのですが、どうやら両親を殺されたようなのです。噂によるものなので確証はないのですが、どうも国家警察の手によるものという話だそうです……」
 今の話の内容で国家警察という言葉が出れば、良心のある警察関係者ならどんなにベテランでも動揺を見せるだろう。しかし、オルフェは一切動揺を見せることなく、真っ直ぐチェスターの話の続きに耳を傾ける。
「まぁ、そんなこともあって、あの子のために出来る限りのことはするつもりです。」
「でも、どうしてここで暮らそうと思ったのですか?あなたなら充分都市部で生活できたはずだ。」
 オルフェの問いに、チェスターは表情を曇らせる。そして、どこか後ろめたげな様子へと変わった。
「テトだけではないのです。私は必要とされる限り、ここで暮らす者たちのためだったら、出来る限りのことをしていくつもりです。どの衛星国家もそうですが、都市部とそれ以外との地域では生活の質がだいぶ違います。このことはあなただって知ってるでしょう?」
 チェスターはこう言うと、オルフェと目を合わせた。オルフェは無言を貫いたまま、チェスターを見つめている。オルフェの感情の揺れを感じさせない真っ直ぐな視線に、チェスターは腹を割って話し始めた。
「私は今まで都市部の人間でした。でも、一度ここでこんな暮らしをしている人たちを見てしまったら、何だか後ろめたくなってしまって、どうしようもない無情さとそれを作り出しているこの社会、そして自分自身に苛立ち始めました……」
「……」
「私は無知だったのです。自分が暮らしている世界のこと以外、何も分かっていなかった。分かってあげられなかった。そんな気持ちがどっと込み上げてきて、このことが今ここで暮らす理由になっているのだと思います。」
 チェスターはオルフェに自分の心の内を告白することで、しこりが取れたのか明るい表情へと戻った。
「でも今日は久しぶりに、本当に嬉しい気持ちになりました。私以外に打ち解けることのないあのテトが、あなたを客人としてここへ連れてきたのですから。」
「そうですか。それなら良かった……」
「ところで、そもそもテトとはいつごろからの知り合いですか?」
「ついさっきです。工場地帯を歩いていた時に、東洋人の男2人に襲われました。この辺りのチンピラだと思いますが、叩きのめした後その場を離れた後に、誰かから後をつけられていると感じまして、まぁそれがテトだったというわけです。」
「そうですか。今の話を聞いていると、恐らくあなたに襲い掛かった2人は、よくテトをいじめている2人組と同一人物だと思います。テトも気持ちがすっきりしたのでしょう。それであなたに懐いたわけです。まぁ仕方ありません。ここは法や倫理という言葉が全くない場所ですから。」
「そのようですね……」
「……全く表情が変わりませんね。あなたは……」
 チェスターの言葉に、オルフェは無言で返す。
「アンドロイドなのでしょ?あなたを一目見た時に気づきました。」
 チェスターはにっこり笑った。オルフェは自分がアンドロイドだと気づかれたのもあってか、警戒のため様子を窺いながらチェスターの次の言葉を待つ。
「アハハハ!まぁそう警戒しないでください。別に隠してたつもりはありません。ただ、久しぶりですからね。あなたのような存在とこうやってお喋りするのは。え~と、そうだ。あなたがアンドロイドだということは、国家警察の任務としてここを訪れたわけですか?」
 チェスターのこの問いに更に警戒心を強めたのか、オルフェは腰にぶら下げている銃に手で触れた。
「なぜそのことを?アストロメリアにアンドロイドがいることは、国家警察の人間しか知らないはずですが……」
「私はこんな老人ですが、これでも情報網は広いほうでして。まぁ、情報をくれる心優しい方が何人かいるということです。」
 2人の会話が一瞬途切れると、オルフェは情報を整理した。今までの会話の内容から、目の前にいるこの老人が、自身の敵と成り得る可能性が充分考えられる。しかし、ここまで正直に自身の過去を打ち明けた様子から、危害を加えるつもりはなさそうにも見える。オルフェは判断に迷ったのか、チェスターにこう問いかける。
「でも、どうしてこんなことを僕に話すのですか?あなたの言葉からは、国家警察、そして都市部で暮らす一部の上流階級の者たちへの嫌悪が垣間見えます。どうしてです?僕は国家警察の所有物なんですよ。」
「言ったはずです。あなたのような存在と話したかったと……」
 これだけシリアスな話にも拘わらず、両者とも共に落ち着いている。チェスターは優しい表情をしていたが、オルフェの目をしっかりと見つめて先を続けた。オルフェもこの老人から重要な情報が聞き出せるかもしれないと判断して、チェスターの口が開くのを待った。
「なぜ火星からここへと移り住み、このような暮らしをすることになったのか、その経緯についてお話します。」
 チェスターは掠れた声を一度止めて深呼吸した。長話で疲れが出たのか、乱れた呼吸を整えていく。そして咳払いすると、ゆっくりと語り始める。
「私はここに来る前、大学の文学部で講師をしていました。別に教授や助教授などの肩書はありません。しかし歴史や文学など、自分の好きな学問を職にできたことに、とても満足していました。毎日学生に講義をおこない、様々な文献に目を通す生活を続けていました……ゴホッゴホッ!ところがある日、政府関係者から私に仕事の依頼が来ました……」
 チェスターにとってあまりに思い出したくない出来事なのか、途中で口籠ってしまった。
「仕事の依頼とは?」
「……実は、アンドロイドに講義をやってくれと言われたのです。歴史や文学などのね。火星では今まで、科学や語学、それと人に関する最低限の知識以外のことを身に付けさせることは、今までありませんでした。そう、つまり感性のことです。」
「感性……」
「恐らく、アンドロイド内の人工知能に、人と同じような心、魂といったものが芽生えるのかどうか、実験で確かめたかったのだと思います。過去の文献からも、そういった目論見を示す内容が複数見つかっています。しかし、アンドロイドが本格的に実用化されてから実験をおこなったのは、この時が初めてではないかと思います。私はこの依頼を引き受けて、アンドロイド居住区へと週に2回通うこととなりました……ゴホッ!居住区にあるコミュニティーセンターで歴史や文学、哲学、そして倫理など、教えられる範囲のことは全て教えてきました。アンドロイドは人と違ってサボることをしませんから、担当の地区の住人は全て講義に来てくれました……ここまで真剣に私の講義を聴きに来てくれることは、今まで無かったかもしれません……ですが、彼らに接しすぎたのが災いに繋がったのかもしれません。」
「災い?」
「……彼らに入れ込み過ぎたのです。私は彼らを人と同じように接してきました。質問があればちゃんと答えて、その度に私は笑顔になっていたと思います。彼らのほうも、私に好意を抱いていたようでした。しかしそうやって接していくうちに、彼らはプログラムの命令に従う人形ではなくなっていきました……彼らに人と同じような感情が芽生えたのかどうか、それは分かりません。ですが、次第に元々人工知能に組み込まれているプログラム以外の意思を持つようになりました。えぇ、これは確かです。段々彼らは、自分たちの存在意義に疑問を持つようになりました。実は講義が終わった後、講義を受けていた何人かが私の下へそんな話をしてきました。こんなこともあったのか、一部の者たちが自分たちの生活や権利に、不満を持つようになっていったのです……」
「存在意義……」
「こうして、彼らは秘密結社を作りました。組織名は思い出せませんが、人と対等の権利を求めて、本当の生きていく意味を見つけようと模索し始めました。その1つの方法として、自分たちのことを理解してくれそうな人間を味方につけるため、裏でいろいろと画策していました……次第に組織も大きくなっていき、構成員の中には人間の姿も見かけるようになったと聞きます。しかし、このことが火星の当局に知られてしまい、私はこの原因を作った張本人として、刑務所は免れましたが、職を失い火星を永久追放されることとなりました。」
「でも、彼らに講義をやれと命令したのは政府のほうでしょ。それをあなた1人の責任と押し付けるのは、随分勝手ですね。こうなることだって、予測できたはずだ。それと、この情報は国家警察に届いていない。」
「まぁこのような経緯ですから、隠すのは当然でしょう。私が政府のお偉いさんなら、まずそうします。あなたには分からないかもしれませんが、人は臆病なくせに傲慢なのです。だから、今こういった問題が起きているのです……でも、こんな人間だからこそ、ここまでの科学技術の進歩が実現できたのだと思います。そのおかげで、こうやってあなたと出会えたわけですから……まぁでも、腹が立ちますよ。与えられた役割を果たしてきただけなのに、この仕打ちってのは……でも世の中、何が良くて悪いのか、本当のところ誰にも分らないのだと思います。だから、今だに新しい哲学書が世に出るのです。」
「あなたが今このような暮らしをするようになった、大体の経緯については分かりました。でも今までの話からだと、僕と同じアンドロイドのせいで人生を滅茶苦茶にされたとも言えます。それなのに、どうして僕のような存在と話してみたかったのですか?」
 オルフェがこう問うと、チェスターはオルフェに向けて笑顔を送る。
「別にアンドロイドのことが嫌いだとは、一言も言ってませんよ。それと、自分のやってきたことに、後悔はありません。辛いこともたくさんありましたが、良かったことも少なからずあります。今でも時々、アンドロイドのほうから、私の下へと訪ねてくることがあります。私の講義を受けた者の中には、私のことを慕ってくれる者もいるみたいで、あまり詳しくは語ってくれませんが、火星の状況などいろいろ話してくれます。血の通った人間よりも、本当に義理堅いです……う~ん、そうですね。たぶん、あなたと話してみたかったというのは、私が今まで接してきた火星のアンドロイドではなくて、このアストロメリアで暮らしているアンドロイドはどうなのか、興味が出たからです。」
「話してみてどうでした?」
「……まだ出会ったばかりですが、私の思ったとおりでした。あなたはあまり多くのことを語りませんが、それでも確実に自分の意思というものを持っています……」
 会話が止まるのと同時に、テトが戻ってきた。湯呑から出る湯気が舞い踊るにつれて、緑茶の香りがどんどん広がっていく。チェスターはテトに、「今大事な話をしているところだから、お客さんと2人きりにさせてくれないか。」と言った。テトは頷くと、オルフェに向かって微笑んで、そのまま外へと出て行った。
 テトがいなくなると、一瞬深く静まり返る。それはまるで、暗く淀んだ密林の中に迷い込んだような感じだった。しかしチェスターの咳払いにより沈黙が破られ、会話が再開される。
「あなたはどうですか?私と話してみて、どうでしたか?」
 オルフェはすぐに答えられなかった。今までこんなことを言われたことがなかったのもあるが、それとは別に、オルフェは自分の意識の中に存在する、姿の見えない何かを感じていた。オルフェにはそれが一体何なのか分からない。だからなのか、チェスターには、オルフェがどこか困惑しているように見えた。
「別に無理に答える必要はありません。こういったことは、人間でもなかなか上手く答えられないものですから。」
「いえ、普段こんな会話をしたことがないもので……でも、あなたの言う感性、感情っていうものですか、そういったものが自分の内から湧き出てきたのかと言えば、全く感じません。いや、分からないと言ったほうが正しいのかな。ただ、これだけは分かります。」
「何でしょうか?」
「あなたが優しい方だっていうことです。」
 チェスターはこの言葉に微笑んだ。唇が横に広がり、皺がより目立った。チェスターのこの時の表情は、何だか有名な芸術家の創った彫刻のように見えた。
「そう言ってもらえると嬉しいです。ところで、あなたがこの工場地帯に来たのには、何か理由があるんじゃないですか?他に訊きたいことがあれば、どうぞ遠慮なく……」
 チェスターの言葉に、オルフェは首を横に振った。
「それはもういいんです。確かに僕はある目的のためにこの場所を訪れたわけですが、あなたにはいろいろ貴重な話を聞かせてもらいましたから。まぁ、今回の件と関わっているかどうかは分かりませんが……」
 ここで2人の声が途切れると、一瞬お互いの目をしっかりと見つめ合った。そして、オルフェは椅子から立ち上がる。
「ではそろそろ……」
 オルフェはテントから出ようと、外の光が射す方向へと歩き出す。しかし、テントを出る直前で立ち止まり、後ろを振り返らずこう問いかける。
「なぜ、僕に話したのですか?」
「あなたがとても良い人に思えたからですよ。」
「良い人に思えた?そんな、僕は人間じゃない。国が所有するアンドロイドです。もし僕が他の人間にあなたのことを話しでもしたら、どうするんですか?今すぐ逮捕されてもおかしくないのに、どうして?」
 チェスターはオルフェにこう言われると、自信に満ち溢れた笑みを見せた。
「私はね、信じてみたいんですよ。確かに国に裏切られ、汚名を着せられました。しかし、それでも自分のやってきたこと、この人生に後悔はありません。私を慕ってくれる者、必要としてくれる者、そしてこんな私のことを助けてくれる者、そういった人たちが私の傍にいました。どうです?随分幸せな奴じゃないですか!これだけで満足です。私はこの世界が好きです。私がまだ誰かの必要とされている限り、可能な限り必要とされる存在になろうと思っています。これが私の生きる目的であり、生きる原動力になっているのです……それと、もしあなたが国家警察に私のことを報告するような人物であるなら、私に忠告したりしないはずですよ。ただ黙って報告すればいいだけなのですから。先程から言ってる通り、あなたは良い人です。あなたは気づいていないのかもしれませんが、あなたのこの忠告が人のよく言う思いやりというものなのです。それは人と同じ感情があればこそです。あなたは自覚してないだけ、ちゃんと心があるんです。あなたは魂の無い人形ではない。」
「心?」
 チェスターは本音を語れたことで、とても満足していた。今までで一番優しい表情を見せて、刻まれた皺がより一層美しく輝いていた。それとは反対に、オルフェのほうは表情が全く変わらないが、全体的な雰囲気が落ち着かないように見える。感情的なものが、自身の内から湧き上がってきたようには感じない。しかし、自分には心があるのだろうかという漠然とした疑問だけが、自分の胸の辺りでざわついている。オルフェは、このように感じていた。
 チェスターはこの時、オルフェの顔をしっかりと捉えた。小さな茜色の灯りによって、オルフェの瞳は暗い夜空に映る星のように輝き、哀愁に満ちていた。チェスターにはこれが、離れ離れとなった恋人たちの嘆きのように思えた。
「本当に長話になりましたね。」
「えぇ。」
「もうここを離れるのですか?」
「はい。」
「これが最初で最後だとは思いませんが、あなたとこうやって話せたのは、とても貴重でした……実はあなたと同じような話をしたのは、これが二度目です。あなたと会う半日前のことですが……」
「……」
「若い女性がここを訪ねてきました。私の講義を受けたことがあるそうで、私の姿を見るなり話しかけてきました。ここへと来たわけを詳しくは訊かなかったのですが、こんな場所ですから、それなりの理由があるんだと思います。だからこそ、訳を訊けませんでした。鋭い印象を与える、とてもきれいな女性です。何となく、雰囲気があなたと似ている気がします。そうそう!移民街へと行くって言ってましたね。とても良い女性ですよ。」
「そうですか。では、この辺で失礼します。」
「お茶を飲まないのですか?」
「いいえ、もう行きますので。」
 オルフェは後ろを振り返った。ほんの一瞬だったが、チェスターにはオルフェが優しく微笑んでいるように見えた。まるでモナ・リザの微笑みのように、誰が見ても永遠のものとなるだろう。オルフェは会釈するとテントを出た。
 オルフェはテントを出ると、空地の隅っこのドラム缶の上に座っているテトの姿が目に入る。テトもオルフェの姿に気づいたので、細い足でスキップしながら近づいてきた。オルフェは「もう行かないと。仕事だから。」と言うと、テトは笑顔になった。オルフェはそんなテトを見て、何か心の中に引っかかるものを感じた。そう、まるで今まで忘れてしまっていた、遠い過去の記憶のように。
 手振りでテトに別れを告げると、暗く淀んだ路地を進みながら車のあるところへと戻り、移民街を後にした。工場地帯と隣接しているため10分ほどで着くはずだったが、この10分がとても長いものだった。
 オルフェは運転中に夢を見た。いや、正確には夢かどうか分からない。しかし、眠っている時に見る夢と同じような体験をしていること、それだけは確かに感じている。
 オルフェの意識は草原の中にあった。辺りには緑一色の地面と青々とした空以外、何もない。風の流れに身を任せながら竪琴を弾いていると、何かが足りないような気がした。そう、いつも一緒に歌ってくれる誰かが……
 こう思った瞬間、周りが黒紫に淀んだ。そして、光の無い闇へと連れていかれる。この時オルフェは、以前にもこの場所に来たことがあると思った。かけがえのないものを失った場所。そんな気がしてならない。出口もない。大切なものが1つもない場所。サイレンと多くの悲鳴が蠢いて、オルフェの自我が今にも引き裂けそうだった。空間がねじ曲がり、自分の存在が無くなってしまうのではないかと思うほどだ。オルフェはこの時なぜか、「消えてなくなるのなら、それでもいい……」と口に出した。独り言なんて、本当に生まれて初めてだ。もう消えてしまう。そう思った瞬間、どこからかオルフェの名を呼ぶ声が聞こえてきた。そう、「オルフェ……」と微かに聞こえる声で……
 意識が戻ると、オルフェは周囲を確認した。意識が遠くへと行っていたのにも拘わらず、事故を起こさなかったようだ。前を見ると、もう移民街のそばへと来ていた。

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