想色40season's

漆湯講義

追憶の旅(3)

    そして私は、紫色に染まり始めた空の下、少し汗ばんだ額に生温い風を感じながら待ち合わせの場所へと足を進めていく。
    この位置からでも淡い緑色の屋根が少しだけ見える私の住むアパートは、崖の中腹の道沿いに疎らに建つ一軒家の中にひっそりと佇んでいて、道路を挟んだ向こう側は急な崖になっている。私はその境に伸びるガードレールに指を滑らしながら、崖に生い茂る樹々から響く虫の音に耳を傾けて坂道を下った。
    この時の私は、普段気にもしていなかった虫の音さえもずっとずっと綺麗なものに感じていて、町の雰囲気ですらいつもと同じはずなのに何処かきらきらと輝いて見えていた。それは、たぶんこの時の私の心がきらきらと輝いていたからなんだと思う。

    そんな私は坂道を下りきった所で鼻唄を口遊み始め、下駄の乾いた音が一定のリズムを奏でるのを幸せそうに聞きながら、高校へ上がる時に買ってもらったばかりの携帯電話をそっと開いた。因みにこの携帯はしーちゃんとお揃い。敢えてって訳ではなくて、本体価格が無料の機種の中では一番新しいものだったからそれにしただけ、ってお母さんとしーちゃんには言ってある。
    そんな携帯の電話帳にはお母さんとしーちゃんの二人だけしか入っていないけど、私はそんな電話帳が好きだ。
    電話帳を開く度に私としーちゃん、そしてお母さんだけの名前が映し出されると、この広い世界で私達だけの世界がこの小さな端末の中に出来上がっているような気がして、少し照れくさいような嬉しいような、そんな気持ちになるから。
    しーちゃんと私は、お互い携帯を持たせてもらうのは遅かったけど、実を言うと私は携帯なんて必要無いって思っていた。
    だってしーちゃんの家はすぐ近くだし、学校も一緒。連絡を取りたければ家に電話だってある。だから私は今まで携帯電話というものの必要性を感じた事が無かったのだ。

    眩しい光が私の顔を照らすと、しーちゃんから数分前にメールが届いていて、"もう着くよ"という内容だった。
    顔文字も絵文字もついてない無機質なメールだけど、それも機械が苦手なしーちゃんらしくって、それが分かる自分にもちょっぴり嬉しくなって私は目を細めた。

    今となっては携帯を買ってもらって良かったと思う。こうやってしーちゃんの言葉が文字になって送られてくるなんてなんだか素敵だもん。
    それってまるで魔法で飛ばせる手紙をやり取りしているみたいで、昔からしーちゃんと手紙の交換とかしてみたいなぁ、なんて思っていた私にはうってつけだもの。

    口元が緩みそうになるのを抑えつつ私は立ち止まり、携帯のボタンをひとつひとつ確認しながらしーちゃんへの魔法の手紙を書き上げていく。そしてようやく"私ももうすぐ着くよ"と打ち込んだ後、沢山の絵文字が並んだ画面を見つめて指を止めた。
    可愛いけど……まだ早いよね。
    これが女の子の友達へのメールだったらこの可愛いピンク色の絵文字も簡単に使えてたのかな……
    そんな些細な事を気にしてしまうのも、私にとってこの恋は最初で最後だと思っているからで……この新しく生まれた感情をもう少し独り占めしていたいという私のわがままなのかもしれない。

    音符記号を入力して、送信ボタンを押した私の足は自然と早くなる。それは"早く会いたい"とかそういう簡単なものじゃなくて、綺麗な色から濁った色、そんな色んな気持ちが複雑に混ざり合った、今の私には難しくて例えられないようなものだった。
    そしてそれを私の内側から見つめる私は、何度も読み返した恋愛小説のページをめくる瞬間のように心ときめかせ、訪れようとするその場面を何度も頭の中で繰り返しては口元を緩めていた。

    街の明かりが灯り始めた路地の先に、待ち合わせ場所の小さな神社が姿を見せると、私は呼吸を整えつつゆっくりとした足並みへと戻す。そして目線より少し高い神社の境内を玉垣の隙間から横目で覗くと、古びた小さな拝殿前の石段に座っているしーちゃんの姿を見つけた。
    なぁんだ、しーちゃんは私服か。
    何を期待していた訳でもないけどちょっぴりがっかりした私は、そのまま神社の外を回って境内への入り口へと足を進める。
    そしてこの神社で一番大きな御神木の陰に隠れて髪の毛を整えると、"ふぅ"と息を吐いてから浴衣の乱れがないかを確認して木陰から足を踏み出した。

    さらさらと樹々が擦れ合う涼しげな音に私が歩く度に鳴る砂利の乾いた音が重なり合っていく。
    すると私に気付いたしーちゃんがパッと立ち上がって手を振った。
    いつもの笑みが神社の薄暗い蛍光灯に照らされて私に安堵の感情が戻ってくる。
    そして私はしーちゃんへと駆け寄り、ずっと言ってみたかったあのセリフを口にしてみる。

「ごめんっ、待った?」

    そんなよくあるセリフを言ってみたけど、しーちゃんの返事は、やっぱり恋愛小説には出てこないような、しーちゃんらしいものだった。

「十分くらい待ったかなぁ?    待ち合わせの時間くらい守れよなっ」

    "こういう時は女の子は遅れた方が可愛いのに!"って思ったけど、そんな既成の物語みたいに進むなんてつまんないか、ってこの時の私は無理矢理思い込むことにした。

    だけどこの場面を改めて見返すとやっぱりしーちゃんは"全然待ってないよ"って言うべきだったんじゃないの?    なんて思ってしまう。

「しーちゃんだってメールくれた時には待ち合わせの時間過ぎてたじゃん」

「え?    そうだっけ?    まぁいいじゃん」

    しーちゃんはそう言って私の横を通り過ぎると足を止めた。

「てか……浴衣、似合ってんじゃん。最初、モデルとかかと思った」

    この言葉でさっきまでの私の不満が綺麗に消し飛んでしまった。背中を向けたままのしーちゃんの表情は分からないけど、きっと恥ずかしいのに頑張ったんだろうな、って思った。
    そんな、今までと同じようで同じじゃないそんなしーちゃんに、私は今まで以上に惹かれていくのが分かった。

「どうせプラモデルとか言うんでしょっ」

    照れ隠しでそんな事を言った私はちょっと子供だったかな……

「プロモデルだよ」

    思いもしなかったその返しに何も言えなくなって頬を染めた私。"ありがとっ"とでも簡単に言っておけば私の胸がこんなにも甘酸っぱい気持ちで一杯になる事もなかったのかもしれない。

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