なんとなく怖い話

島倉大大主

ある朝突然に 下

 俺は再び路地裏に戻ると、神社に向かった。
 今から病院に行っても、どうせ混んでいる。気分が悪いわけでもないから、午後からゆっくりと行くことにしよう。それまで、どこか人のいない場所でゆっくりと考えたい。
 さっきの事故現場を通り抜け、石段を登る。ゴツゴツした表面に溜まった水に子供が映っている。やっぱり一緒に移動してきているようだ。
 俺は石段を登り切って鳥居をくぐると、傍らにある休憩所に入った。街を一望できる展望台も兼ねたそこは屋根つきで、ベンチは乾いていた。だが、何処かで雨漏りでもしているのか、細い水の筋が少し低くなったベンチの下に集まって、大きな水溜りを作っていた。

 まあ、丁度いいか。

 俺はベンチに座ると、前屈みになって水溜りを見下ろした。
 子供はしゃがむのを止め、立ったまま俺を見下ろしている。

 生意気な顔だ。

 お前は誰なんだ、と俺は小さく呟いた。神社にまで入ってきたってことは幽霊の類じゃなさそうだ。
 ということは――あれか? この子は、子供の頃の俺ってやつか?
 自分の子供の頃の顔、なんてものは全く覚えていない。一番身近にあったのに、一番興味が無かったからだ。

 俺はこんな顔をしていたのだろうか?

 煙草を取り出すと、子供の表情がきつくなった。
 俺は煙草を咥え、子供を睨み返した。

 子供の頃の俺か……確か、運転手になるとか言ってたような気がする。レースとかそういうちゃんとした競技を見ての憧れじゃなく――そう、思い出してきた――アクション映画の主人公が見事なドリフトで窮地を脱し、片手でハンドルを握りながら車をスピンさせ、マガジンが空になるまで銃を撃ちまくる姿に心底憧れての発言だった……気がする。

 俺は自分のよれよれの服を見た。

 まあ、恰好だけはアクション映画のクライマックスっぽくはあるな。もっとも、やってることは朝から晩までパソコンいじって数字を追いかけるだけだが……。

 俯いたまま煙を吐き出すと、それがゆらゆらと視界を覆った。

 そつなく定年までなんとか過ごしたい。
 冒険や反抗なんて不確かで補償が無いものには絶対に近寄りたくない。
 タバコが美味けりゃそれでいい。

 俺は顔を拭った。

 いやいや、それが普通さ。
 それが大人になるって事さ。
 人様に迷惑をかけず、社会の隅っこで生きていくのに必要なのは、バランスなんだ。中々難しい事なんだよ。大体、漫画やゲーム、映画の主人公だって今はそういう考えを持った奴が多いんだぜ?

 子供はしゃがみ込むと、水面に顔を近づけた。
 じっと俺に注がれる視線は相変わらず刺々しい。

 だから、そんなに睨むなよ。
 俺だって、毎日がつまらなくなっているのには気がついてるんだぜ? でもつまらないのが普通になると、些細な事が面白くなってきやがるんだよ。魚が低い温度の水に慣れていくようなもんさ。今急に水温が高くなったら、俺はきっとショックで死んじまうぜ。

 俺は子供の顔を覗き込んだ。

 怒りの表情が、憐みの表情に変わった――ような気がする。
 言い訳ばかりする俺を憐れんでいるのか。
 俺の頭の中には、その表情に対する反論として、『言い訳』が浮かんだ。『だってしょうがねえだろう云々』……。

 それが憐れだというわけか。
 子供の俺にしちゃあ、中々辛辣じゃないか。

 俺はふうと大きく煙を吐いた。
 じゃあ、具体的にどうしろってんだ? 例えば会社を辞めろって? 年金も保険もぶん投げて冒険ってか? それとも世界の悪にでも挑むって? 夢を追いかけろって言われても今更レーサーってのもあれすぎる。
 じゃあ――

 俺の頭に閃くものがあった。

 先月だったか――大学の時のダチがゲーム会社を立ち上げたとかなんとか。営業とかやってくれって言われたよな。それで、確か――レースゲームを作るとか何とか……。

 俺はすぐに連絡を入れようとし、ポケットを探った。取り出したスマホのディスプレイを必死にタッチして、壊れているのを思い出した。
 ひびに映った無数の俺が苦笑いする。
 雨が止んだ。
 雲間から陽が差し始める。

 これでいいのか?

 俺は足元の水溜りを見た。
 子供は笑っていた。
 俺はゆっくりと紫煙を吐き出すと、晴れていく空を見ながら、ベンチから立ち上がろうとした。

 まったく、俺の癖に随分お節介じゃないか。まあ、そういうのは嫌いじゃな――


 ぐらりとバランスが崩れた。同時に足に違和感。
 はっとして下を見る。 

 水溜りから手が出ていた、子供の手、小さな手、だがそれは異様なほどの力で俺のズボンの裾を絞り上げる。

 な――なんなんだ?

 悲鳴が聞こえた。
 境内の影から巫女装束の女性が転がり出てくる。彼女は悲鳴をあげながら立ち上がろうとし、ばったりと倒れた。
 彼女の足元には水溜りがあった。そこにずるずると彼女の足が飲み込まれ――いや、『引き込まれていく』。水面が激しく波立ち、玉砂利を掻き毟りながら、彼女はどんどん水溜りに引き込まれていく。
 遠くから悲鳴が立て続けに聞こえ始めた。車の衝突音、何かが爆発する音もだ。
 振り返ると町のあちこちから煙が上がっていた。
 視線がぐっと下がる。下を見ると、俺の身体も水溜りに引きずり込まれ始めていた。
 子供が水の中から顔を出した。
 耳まで裂けんばかりの笑いを顔に張り付かせ、蛙のような声でげろげろと笑う子供。

 こいつは――子供の頃の俺じゃねえな。それどころか、人間でもねえ。

 太腿、腰、そしてついに腹から胸へと俺は水溜りに飲まれていく。子供の顔がどんどん近づいてくる。雷の前のようなイオン臭さが漂ってくる。

 ああ、そういうことか。俺達人間様を水の向こうへと引きずり込もうと、狙ってたわけか。まったく、ひでー話だな。

 俺は子供に殴りかかった。腰の辺りに力が入らないパンチだったが、頬を打ちぬく。そいつは顔を歪めたが怯みはしなかった。ガキの癖に仕上がってやがる。

 攻撃、侵略、ともかくそういうやつか。
 今朝――なんでもない、ある朝の今朝――突然始まったわけだな?
 OK。俺はその兆候を、偶々目撃することができたのに、自分と向き合うなんてくだらねーことに時間を費やしちまったわけだ。おっと、もしかしたら俺を轢きそうになったあの軽も、そういう兆候を見ちまったのかもしれねえな。

 俺は叫び、力を振り絞った。子供の顔を再び殴りつけ、反撃の平手打ちをビニール傘で防ぐ。
 傘はまたもぐにゃりと柄が曲がった。
 こいつ、水に引き込む力と同じで、腕力もありやがる。
 俺は体をしならせ、水から体を僅かに引き抜く。すぐさま姿勢を返すと石畳に手を這わせ移動を試みる。
 目論見は成功した。だが、水溜りも一緒に移動してきた。
 この水溜りは俺に固定されているってわけか。
 だが――こいつは俺の思考までは読めなかったようだ。
 俺は振り返ると、まだ咥えていた火の点いた煙草を顔面めがけて吹き矢のように発射した。赤い残像を残して、煙草は子供の右の目を焼く。悲鳴が上がり、体の拘束が再び緩くなる。
 俺は石段から身を躍らせた。胸から下を飲み込んだ水溜りも、一緒に宙を舞う。子供は叫び声を上げた。

 怒ったか? 驚いたか? それとも――ともかく、ざまあみやがれ。

 世界がぐるぐると回り、足が自由になった感触がして、俺は叫ぶように笑った。肩が、背中が、太腿に脛が固い物にぶつかり続ける。

 最悪が重なってどん底だと思ったが、世の中広いな。まだまだ底があるとはね。

 口の端を上げた俺の目に、雲間から零れ落ちた陽の光が差し込んだ。
 俺は目を瞑ると、そのまま闇に沈んで行った。




 背中に固い感触を感じた。
 はっとして顔を起すと、俺は朝と同じ場所に尻餅をついた状態でいた。両足の間には同じく水溜り。後頭部に触ると小さな瘤。そして全身が痛く動かせない。
 荒い息を吐きながら顔を巡らすが、しんと静まり返った路地裏には当然のことながら誰もいない。

 ……まさか今までのは――頭をぶつけた時に見ていた夢か何かってオチなのか?
 いや、全身が痛いのは現実だな。石段から転がり落ちたから――
 いや……もしかしたら避けたと思った軽自動車に実は跳ねられていて、今の今まで意識不明で走馬灯みたいな上等なものは見れずに、あんな……。

 俺は何とか腕を動かすと、ポケットを探る。
 やはり指先に違和感。取り出したスマホはディスプレイにひびが入って、電源が入らない。

 一体、今は何時なんだ? 曇っていて、朝なのか昼なのかが判らないじゃないか。

 俺は体びくりと震わした。
 目の端で何かが動いた気がした。足の間の水溜りの奥で何かが……。
 俺は足の間の水溜りをじっと見た。どんよりと濁ったそれは、何も映っていない。

 あの子供か?
 それとも――もっと最悪な何かか?

 俺は頬を伝う生暖かいものを拭った。

 もしあれが全て現実なら、あの水溜りの中はどうなっていたんだ? 
 それに襲われた他の人達はどうなっちまったんだ?
 くそっ頭がいてえ――どうして何も音が聞こえねえんだ? 事故の所為で耳がやられたか? いや、頭の傷が酷くてヤバい状態なのか――その傷は石段の所為か、軽に跳ねられた所為か――俺以外の皆が水の中に引きずり込まれてしまったとしたら――いや、もしかしたら俺だけが水溜りの中に引きこまれて、実はここは水溜りの中の世界で――

 ぐるぐると回る思考と視界の中、俺は水溜りに笑いかけた。
 水面が波だったような気がする。

 人生ってのは何があるか判らない。
 だから、今朝、突然世界がおかしくなっちまったのも、まあ、よくある事なんだろう。 

 俺は煙草に火を点け、水溜りに手を伸ばした。

 十五センチ。
 十センチ。
 水溜りは波立たない。
 あと一センチ。
 辺りは静かだ。
 悲鳴も鳴き声も笑い声も風も雨も、何も聞こえない。
 あと五ミリ。
 俺の頬を生暖かい液体が再び、つうと伝った。

 あと髪の毛――一本分。 
 了

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